本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−2)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−2)−1(254−281頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1で行っていますので、参照してください(2017年4月24日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「二 人間の用意」(その4−2)−1
 教会史的現象としてある無意識の共同性として存在している自然神学の「巧妙な名人芸」は、そのキリスト教信仰・神学・教会の宣教を、一方で、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その聖職者等)の「起源的な力と独占的な立場」を「決して放棄」することなく、それゆえに神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという立場を「決して放棄」することなく、他方では、自分がキリスト教的領域で思惟し語る者であるという都合上から一応<皮相的>には「啓示神学」を「意識的に自分よりも優位の立場」に置きながらも、<実質的>には起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)を、自分のあるいは自分たちの思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者としないために、「啓示神学」を「根本において……自然神学以外の何ものでもない」「形成物に造りかえてしまう」という点にある、換言すれば啓示を、さまざまな余りに人間的な教派自身・学派自身・主義自身あるいは百人百様の神学者自身・牧師自身・著述家自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したにものに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝、人間崇拝)における啓示に、「自然神学以外の何ものでもない」人間学的啓示に、「造りかえてしまう」という点にある。ここにおいては、まさしく「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……」ものに過ぎないのである、それゆえに「この対象に即してもまた」、自然「『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」のである。したがって、私たちが、もしもその自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す彼らの信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることは決してしないということを決断したならば、私たちは、ハイデッガーと共に、その彼らの思惟と語りに聞くよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』と言わざるを得ないのである、またそのような彼らの薄っぺらな思惟と語りに聞くよりは、むしろ純粋な人間学的領域に属する吉本隆明やドストエフスキーやミシェル・フーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスや太宰治や宮沢賢治等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいと言わざるを得ないのである。なぜならば、第三の形態に属する全く人間的な教会の中にごまんとある神学者や牧師や著述家たちのそのような思惟や語りに聞くよりも、実際的に、確実に、<純粋>な人間学的領域に属する彼らの思惟や語りに聞いた方が、人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるからである。したがって、バルト自身、今回論じている箇所で、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す彼らの思惟や語りよりも、「公然たる不信仰の方がまだどれだけ前途有望なものに見える」ことであろうかと述べている。
 教会史的現象としてある無意識の共同性として存在している啓示に対する人間的教会的な「吸収および飼いならしとして述べられた教会の領域内での自然神学の勝利」は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の側からする恣意的独善的嗜好的な、@啓示、キリストの「福音のブルジョワ化の過程」のことである。啓示、キリストの福音の<人間化>、<人間学化>の過程である。その最後的形態は、ヘーゲルの、神と人間との無限の質的差異を止揚した、神の人間化あるいは人間の神化、人間の対自的で対他的、他在であって自在、自由な自己意識・理性・思惟の無限性に対する信頼における「自信自恃の哲学」(『ヘーゲル』)である。人間自身が対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」化、<人間崇拝>化の過程である、A教会における思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者である起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)の後景化の過程である、それゆえに啓示神学の後景化の過程である。したがって、もしもこれらのことを認識し自覚していないならば、福音を「自由に処理することができる」ところの第三の形態に属する全く人間的な教会における<制度>としての牧師、神父、神学者、聖職者等は、自己増殖過程を持つ「自然神学以外の何ものでもない」ところの、すなわち彼らの恣意性独善性嗜好性によって<人間化>された啓示、キリストの福音、<人間学化>された啓示神学の<所有者>なのである、まさしく彼らは<制度>としての「ブルジョワ」なのである。このような訳で、「われわれ」は、「福音が宣べ伝えられるところ、伝道において、また既に成り立っている教会の内部で、教会が発生するに際して、……既に」、この「福音のブルジョワ化」の「危険の中に立」たされているということを、この福音の「ブルジョワ化の……困窮のただ中に立」たされているということを、「確言しておくことにする」。したがって、当然にも、教会内部でだけでなく、自然や人間を学問研究の対象とする大学の内部、ミッション系の学校の内部、神学校の内部――それらが「発生するに際して、……既に」、「福音のブルジョワ化」が行われているのである。「なぜと言って、(≪「われわれ」の≫)目が届く限り、常に」、この「福音のブルジョワ化」が、「起こっているからである」、高度情報社会下で裸形化しているからである。この人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求からする啓示、啓示神学の<人間化>、<人間学化>という啓示、キリストの「福音のブルジョワ化」を志向し目指す「ブルジョワ的人間」は、一方で「恵みの宣べ伝えを拒まないでむしろ肯定」し、「恵みの宣べ伝えと然るべく折り合いをつけ」ると同時に、他方では「恵みの宣べ伝えに対して自分を保留する」人間、換言すれば神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も保留する人間、それゆえに啓示、キリストの福音を恣意的独善的嗜好的に「所有」し・「自由に処理する」人間のことである、換言すれば「無理やり捏造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけ(≪人間の側からする、神と人間との無限の質的差異を「わがまま勝手に」後景へと退けた、<神>だけでなく<人間>の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという、弁証法の見せかけ≫)がとくに肥大している」(ハイデッガー)人間のことである。三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を「必然性」・不可避性として認識し自覚していない場合は、それゆえにそれに信頼し固執しない場合は、「そのように(≪前述したように≫)、人は、(≪起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリストの≫)福音を(≪「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に≫)取り扱うことができる」のである、「また事実、人はそのように福音を取り扱うのである」。教会の牧師であれ、神学者であれ、聖職者であれ、誰であれ、「目が届く限り……ここで何人もあえて自分を例外と見なすべきではないであろう……」。この、教会の中に無意識の共同性として存在している「福音のブルジョワ化」が、「教会そのものの領域の中」で、「自然神学の鍵となる立場」と「破砕することのできない力と独占的立場を形造っているのである」、それゆえにそれは「多くの異端の中の一つの異端ではなく、むしろ一つの自然必然的な異端」である。このような訳で、総花的にキリスト教を分類することは学業的知識的には意味はあるとしても、神学における思想の問題としては全く意味はないのである。神学における思想の問題においてキリスト教信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に総括すれば、キリスト教は、自然神学の<段階>の信仰・神学・教会の宣教と<非>自然神学の<段階>の信仰・神学・教会の宣教、という二つの系譜しかないのである。したがって、「われわれ」は、神学における思想の問題として、先ず以て、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教の問題を明確に提起することが必要なのである。もしもその自然神学の問題を明確に提起することができないならば、「誰」もあるいは「何」も、「自然神学に対して、換言すれば全く単純」に、自然的な「人間の……事柄を実行しているだけである神学」(と宣教)に対して、それゆえに「恵みに逆らう抗争のために福音を利用する」だけの神学(と宣教)に対して、それゆえに「福音のブルジョワ化」という人間が生まれつき持っているその「自然性の中にこそ」由来している神学(と宣教)に対して、それゆえに「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」ところの神学(と宣教)に対して、それゆえに「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ところの神学(と宣教)に対して、それゆえに「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ところの神学(と宣教)に対して、「抵抗することができ」ないのである、それゆえに現実の事実として、「抵抗することができ」得ていないのである。
 このような訳で、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教に対するバルトの根本的包括的な原理的な批判の仕方は、明確である――@「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の貫徹である(『ローマ書』、前期バルト)、「神の神性(≪換言すれば、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とす神の不把握性≫)において」、「また(≪その神の第二の存在の仕方、業と行為において≫)神の神性と共に、ただちにまた神の人間性も われわれに出会う」・「神が神である(≪神と人間との無限の質的差異≫)ということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」(『神の人間性』、後期バルト)、キリスト教信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りが「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、人間自身教会自身の決定事項ではない、それゆえにその思惟と語りは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、Aギリシャ語原典の「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』ピスティス イエスー クリストゥーは、明らかに(≪~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性、客観的実在、永遠的実在としてある、「イエス・キリストが信じる信仰」≫)主格的属格として理解されるべきものである」(『福音と律法』)――この~の側の真実としてのみある、不信を包括し止揚し克服した信、信と不信を架橋した信、「律法の成就」・完了、主格的属格理解の貫徹である、「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の≪生まれ持った自然的な≫理性や力(≪悟性、想像、意志、良心、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、B「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・それゆえに聖霊によって更新された理性も、常に、人間的な理性であり続ける(『教義学綱要』)――この聖霊理解の貫徹である、C終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)――とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて生起する(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)――この啓示認識・啓示信仰理解の貫徹である。
 さて、ここで「われわれ」は、神の用意に包括された「人間の用意として理解されるべき神の認識可能性を問う問いに戻ることにする」。「われわれ」は、神の用意に包括された人間の用意を、神の「恵みに対し、人間が必要としている姿、認識、進んで受入れようとしている態度として記述した」。また、神の用意に対して心を開いた人間を、具体的には神の言葉の第二の形態の聖書的啓示証言を自分の思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるところの、第三の形態に属する全く人間的な「教会の中にいる人間として、神の言葉によって裁きの下に、しかしまた恵みの下に置かれた人間として理解した」。しかし、「われわれ」は、教会史的現象の分析において、「この人間も、まさにこの」教会論的なキリスト教的「人間こそ」が、「神の恵みに対して、……神の認識可能性に対して、心を開いている人間」ではないということを見たのである。すなわち、「われわれ」は、その現にあるがままの現実的な人間存在における「教会の中にいる人間」の「現実そのものの中では」、換言すればその「恵みに逆らう抗争」と「自己保持と自己主張の試み」を為す人間の「現実そのものの中では、(われわれが問うているところの)」神の用意に包括された人間の用意を「見出」すことはできなかったのである、換言すれば「われわれ」は、そのような「教会の中にいる人間」の「現実そのものの中では」、ただ「教会の中での自然神学の現実存在と生命力」を見出し認識することができただけだったのである。そのような「教会の中にいる人間」、「教会の中での自然神学の現実存在と生命力」に基づいて思惟し語る人間たちは、聖書的啓示証言における~の側の真実にのみ感謝をもって信頼し固執した次のような思惟と語りはできないであろう――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)」、すなわちギリシャ語原典の「神の子の信じる信仰」の属格は~の側の真実としてのみあるところの主格的属格として理解されるべきものであって、「<神の子が信じる信仰>に由って生きるのだ」ということである」、それゆえに「自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 ~の側の真実としてのみあるという観点からすれば、「もしも神が人間に対して恵み深くあり給うならば」、換言すれば「神がご自身からして人間に向かって用意してい給うならば」、すなわち「神がご自身からして人間に向かって」、人間の用意に先行する次のような神の用意を、すなわち客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性という~の用意を「してい給うならば」、「その時そのことの中に、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いて≫)人間もまた神に向かって用意しているということが含まれていなければならない」。単一性・神性・永遠性を本質とする~は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質としているから、それゆえに神は人間にとって不把握性として存在しているから、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の「主(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~≫)、創造主(≪その~の起源的な第一の存在の仕方、父なる~≫)、和解主(≪その~の第二の存在の仕方、子なる~≫)、救済主(≪その~の第三の存在の仕方、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊なる神≫)であるまことの(≪三位一体の≫)神」の「恵みの中で、神の恵みを通してだけ、認識可能」なのである、換言すればその神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事――その神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(具体的にはその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)――とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいてだけ「認識可能」なのである。もしもそうでないとするならば、その時その認識された神は、神と人間との無限の質的差異の下での神ではないであろう、「神は神である」ところの<まことの神>ではないであろう。したがって、皮相的に啓示や啓示神学を優位に置いた仮面をかぶった謙虚さの中で半減された自然的な人間の理性や人間学的神学、人間の「自然的な本質と動き」、人間の自然的な自己運動は、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の可能性を全く持ってはいないのである。このような訳で、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の思惟と語りが、キリスト教的思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、決して、人間自身教会自身(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の決定事項ではない、と述べたのである。「そうでないとしたら、恵みは恵みではないであろう」。一方において表層的に啓示神学を優位に置きつつ、他方では常に「神の恵みとは違った神の認識可能性に、換言すればただその恵みの中でだけ認識できる神以外の(≪人間学的哲学的な≫)神の認識可能性」を志向し目指す「自然神学」は、その「神の啓示の内容」からして「神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神」の認識可能性を志向し目指しているのであり、それゆえに「この対象に即しても」、自然「『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ところの人間学的領域にある<人間学>的神学なのである。この自然神学としての人間学的神学は、その最初から、純粋な人間学に対して「優位性を確保」できるわけがないのであって、それゆえに常に人間学の「後追い知識」に過ぎないものなのである。この典型がブルトマンである。このことは、現実の事実である。したがって、自然神学の<段階>に停滞し中世的思考に<退行>してしまった東北学院大の佐藤司郎や東京神学大学の小泉健の「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」とか、「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得る」とかという思惟と語りは、全くの「空想」でしかないのである。このような自然神学の<段階>における「空想」でしかない「遊び」ができるのは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」思弁の場所においてのみなのである。総括的に言えば、現存するキリスト教信仰・神学・教会の宣教を正直に素直に凝視する時、「われわれは、(≪自然神学の近代的形態である≫)シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも」、すなわち第三の形態の属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の至る所で、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けてしまった、神の人間化あるいは人間の神化を志向し目指すところの自然神学の最後的形態である「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」のである(『ヘーゲル』)。
 「われわれは、この状況と直面して」、その三つの存在の仕方(性質、業と行為)において先行する単一性・神性・永遠性を本質とする「神の認識可能性」と「神の用意」に包括された後続する「人間の用意」に対する「積極的な答え」を、「人間論的な要請をもってきて」、換言すれば生まれ持った人間の自然的な「本質と動き」をもってきて、生まれ持った人間の理性や悟性や想像や意志や良心等をもってきて、「無理やり捏造された敬虔さと結びつい」た人間の自由な自己運動をもってきて、「探求を続けることはできない」のである。ここで、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教と、その<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服したバルト自身の<非>自然神学の<段階>のキリスト教信仰・神学・教会の宣教とのさまざまな状況に対する対応の仕方の差異性について例示してみる――前者の典型は、直近では@一昨年の、一方では「無理やり捏造された敬虔さと結びつい」た、すなわち聖書の言葉もちりばめられたところの、他方では国家論(国家の無化をその究極像として持ち、過渡的・究極的課題を構想する革命論)も明確に提起せず、現実的な社会よりもそこにおける諸利害の対立や矛盾を主導的な経済社会構成を中心に観念的法的部分的に解決(調停、調整)する観念の共同的形態である国家を第一義・価値とする<国家主義>的国家の、換言すれば擬制民主主義でしかない議会制民主主義下での自由主義国家、民主主義国家、政治的近代国家、民族国家の、法的制度的政策的な言語を介して為した日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」である、またA阪神・淡路大震災の時、一方では説教で福音の言葉を語っているであろう牧師が、他方では社会的あるいは政治的実践として「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本隆明にわざわざ電話をかけた事態である・その行為に対して吉本は、その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」・「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」と全面的に否定している、この牧師の行為である。後者の典型は、バルト自身の次のような言説である、すなわちキリスト教信仰・神学・教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」のは、@「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革、社会的あるいは政治的実践、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところにある。また宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等におくところにある(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、A「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとするところにある。すなわち、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」することをしないところにある、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」ことをしないところにある(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、総括的に言えば、キリスト教信仰・神学・教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」のは、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)が、無意識の共同性として存在している自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に憑依されてしまうところにある。このような訳で、人間論的な自然的な人間も、教会論的なキリスト教的人間も、先行する「神の用意」に包括された後続する「人間の用意」に対する「積極的な答え」を尋ね求める「われわれを助けて先に進ませてはくれない」のである。なぜならば、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)それ自体は、常にその現にあるがままの現実的な人間存在における人間であり続けるからである。「人間は、神の言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」≫)と霊(≪神の言葉の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)を通して生まれかわって、確かに彼が自分自身ではないところの者となる。すなわち、神の従順な子ども、神の恵みに対する従順な子どもとなるということ」は「正しい断言」であり「事実」であるとしても、その出来事は、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断によるそれであるから、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の「決定事項」ではないのである。第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)は、それ自体としては、「決して、世を克服したところのものではない」、それゆえに「もしもそのようなことを空想するとすれば」、教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)は、「まさしくもって世と共に滅んでしまうであろう」。このような訳で、総括的に言えば、その三つの存在の仕方(性質、業と行為)において先行する単一性・神性・永遠性を本質とする「神の認識可能性」と「神の用意」に包括された後続する「人間の用意」に対する「積極的な答え」は、「人間論の地盤」や「教会論の地盤」からは得ることはできないのである、「人間論の地盤」や「教会論の地盤」からは「何の成果も」得られないのである。
 さて、人間は「神の裁きと恵みを通して」、すなわち「人間は、神の言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」≫)と霊(≪神の言葉の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)を通して生まれかわって、確かに彼が自分自身ではないところの者となる。すなわち、神の従順な子ども、神の恵みに対する従順な子どもとなるという」命題、「キリスト教的――人間論的」な「要請」は、「正しい断言」であり「事実」であるが、しかし人間自身の自然的な「本質と動き」は、その生まれ持った人間自身の自然的な理性や悟性や想像や意志や良心等は、その人間自身の自己運動は、神の恵みに対して開かれた「姿」、開かれた「態度」の可能性を持ってはいないのである。第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)においてであろうと、それは、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を後景へと退けてしまうおうとするのであり――このことの証左は、ドストエフスキーが神と人間との無限の質的差異の認識と自覚・「神は神である」ということを「中心的認識」としていたのに対して、Web上で「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」を書いていた現役の牧師が、バルトを出鱈目極まりない仕方で曲解して、「わがまま勝手に」、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を後景へと退けてしまい、「たとえ人間が」「神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つ」という自然神学的な神学と宣教における思惟と語りに見ることができる――、また「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、その信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者としようとはしないのであり、それゆえに恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神ヘの信仰」(偶像崇拝、人間崇拝)における自然神学的な~、啓示を造り出してしまうのである。詳しく言えば、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)における自然神学的な神学と宣教は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その信仰・神学・教会の宣教における客観的な原理・基準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、そのような開かれた姿と開かれた態度で、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、換言すればすべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指さないからである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さないのである、というよりも自然神学の問題を明確に提起することができていないがゆえに、その最初からそうすることができないのである。したがって、「この事情を正確に念頭に置いておくこと」は、「ただ単に教義学においてばかりでなく、また説教にとっても、教会の教育と牧会的配慮にとっても、すすめられるべきことであると言ってよい」。「人は、人間(人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間)それ自身に対して、神の用意に対応する」人間の「用意を帰することはできない」・「人は、神の用意の中に、人間それ自身の用意が……どの程度まで含まれているかということを示すことはできない」。このような訳で、「神の認識可能性は、人間それ自身の賓辞として……理解」することはできない。したがって、バルトは、<非>自然神学の<段階>において、次のように述べたのである――「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性(それゆえに人間は、キリストの復活とキリストの再臨までの聖霊の時代においては、常に終末論的限界の下に立たされている)、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づく信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の思惟と語りがキリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではないのであり、それゆえに全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の思惟と語りは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」、と述べたのである。第三の形態に属するまったく人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)に無意識の共同性として存在している自然神学的な神学と宣教は、自然神学の問題を明確に提起することができ得ていないがゆえにあるいはその問題を明確に提起することをしないがゆえに、それゆえにその問題を明確に認識し自覚していないがゆえに、「神の言葉の裁きと恵み」の中で、「教会と世に対して」、「毎年のように」、恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない多種多様な「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝、人間崇拝)を生みだし、その神の名と呼びかけによる多種多様な救いと平和の企てを行っている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪人間・大審問官自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない神の名と呼びかけによる救いの計画と救いの方法≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。「人は、恵みの敵である人間を恵みの友」として曲解することはできない。しかし、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)における自然的な神学と宣教は、「キリスト教的な人間の形姿の中で、結局」は自然的な「人間それ自身が……神に向かって用意のできている人間となる」ことができということを、あるいは「そのような人間」でもあるということを「<保証>するために」、ただそのためにのみ、皮相的に「神の言葉の裁きと恵み」を取り上げるのである。なぜならば、現存する第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)は、教会史的現象としてある、無意識の共同性として存在している自然的な神学と宣教の問題を明確に提起することができていないからである。そのようなことが、現存する第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)において、その「見渡すことができないほどの莫大な量の神学的な反省と宣教の情熱」において、結局は人間崇拝を志向し目指す自然神学の「巧妙な名人芸」を、「神の言葉の裁きと恵み」(「キリスト教的な基礎づけ」、「キリスト教的な手段」)の下に「押し隠し」ながら、「毎年のように……教会(≪聴衆≫)と世に対して」行われているのである。そのような教会における自然的な神学と宣教は、「キリスト教的な基礎づけなしにするよりも、キリスト教的な基礎づけをもって、自分の事柄(≪自然的な神学と宣教≫)を為し遂げてゆく方が、……よりよくことを為す」ことができるということをよく心得ているのである、それゆえにキリスト教的領域における「自然的人間」は、その教会論的な形態のキリスト教的人間は、「常に、キリスト教的基礎づけをもってする可能性の方を選ぶ」のである。したがって、聴衆の側は「欺かれて」しまうのである。それに対して、そのようなキリスト教会の自然的な神学や宣教から対象的になって距離を取り得たこの世の「自然的人間」は、キリスト教会に無意識の共同性として存在している教会史的現象としてある自然的な「神学と宣教が信じるに値しないものであることを、嗅ぎつけ」るのである。そのようなキリスト教会の自然的な神学や宣教における神や啓示は、「真実でない事柄」、「幻想でしかない主張」、「虚構の作り話」でしかないということを見抜いたのが、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーだったのである。彼らは、「彼自身の無神性と……教会の場の内部にいる者たちの敬虔性および道徳(≪この敬虔性および道徳自体が、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求が対象化し客体化したものであるということ、換言すれば人間の不信仰・無神性・真実の罪によるものであるということ≫)の間に、……ある種の類似性が成り立っていることを主張」し、「彼は……しばしば『……われわれ……の方が、結局よい人間である』と勝ち誇った叫び声をあげるべき契機を持つ」っていたのである。実際、自然的な神学と宣教の<段階>においては、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)ということが言えるのである。それだけでなく、<非>自然神学の<段階>においてバルトが論じたあの客観的な起源的な第一の形態である神の言葉自身の出来事の自己運動に根拠づけられたところの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」とは全く異なるところの、第三の形態に属する全く人間的な教会の自然的な神学と宣教における二元論的な、言葉だけでなく行為も、説教だけでなく社会的あるは政治的実践もという人間の側からする救いと平和の企てにおける自己愛の外化としての「隣人愛」は、実際的に、人類史におけるアフリカ的・縄文的段階における人間愛よりも劣っていることは明らかなことなのである(イザベラ・バード『日本奥地紀行』金坂清則訳、平凡社を参照)。前述したことからも明らかなように、自然的な神学と宣教の<段階>においては、「その時まだ」、「キリストの十字架は……全く宣べ伝えられていないのである」、「キリストの十字架の躓きが問題になって」いないのである、「キリストの十字架の中で啓示される救いが、問題」となっていないのである、<非>自然神学の<段階>においてバルトが論じたあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」が問題となっていないのである。これら自然的な神学と宣教における「~の言葉の裁きと恵み」の下での「遊び」は、ハイデッガーが「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と「揶揄」したように、「罪であり、災いであるであろう遊び」なのである。なぜならば、「この人間自身は、神の恵みに対して、事実、然りを語っておらず」、むしろ人間的理性や人間的欲求を、「彼の現実存在のすべての要請と現実」を貫徹することで、「それとして(≪神の恵みに対して≫)否を語っている」からである。この時、私たちは、バルトの次のような言葉の必要性を、実感的によく理解することができるのである――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門)、A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)、B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には(≪それが神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいている時には≫)、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである、それゆえに「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」のである、それゆえに教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである。この認識と自覚は重要である。なぜならば、教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」のは、聖書の「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決」に、また「間違うことはありえないものとして 振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにあるからである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。このような訳で、「人は、(≪自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に≫)欺かれてはならない」。自然的な神学と宣教を志向し目指す「彼らは、実際には保証されていないのである(≪なぜならば、彼らの保証は、~の側の真実としてのみある神のその都度の自由な恵みの決断によりやって来る保証ではなく、自然神学的な人間自身教会自身が恣意的独善的に対象化し客体化したに過ぎない保証でしかないからである≫)」。
 さて、「われわれは、……神に向かっての用意のできている<人間>を知っている」。先行する神の用意に包括された後続する人間の用意を生きたまことの<人間>を知っている、すなわちそれは、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、まことの神にして<まことの人間>イエス・キリストである。しかし、「われわれ」が、このことから、「わがまま勝手に」恣意的独善的に「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退けてしまって、自然的な「それとしての人間自身に関する結論」、すなわち先行する神の用意に包括された後続する人間の用意を自然的人間も持っているあるいは生きることができるという結論を引き出すことをするならば、「われわれは間違」いを犯すことになるのである。ここで、私たちは、バルトが、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で述べていたことを引き寄せてみることが必要である。なぜならば、バルトが述べていたように、近代主義的プロテスタント主義における自然的な神学や宣教は、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」ことによって、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、<まことの神>にして<まことの人間>イエス・キリストを、形而上学一面的固定的に抽象して「人間」としてしまったことによって、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が自然神学的な思弁でしかないということを自己暴露したからである、このような認識の仕方においては、イエス・キリストは、「下からの半神」、「超人」、本来的な人間存在の在り方を語り続けた「ただの人間」、人間の「最深の本質」・「最高の理想」、キリスト教的実存の範型等というような単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまうからである。いずれにしても、近代主義的プロテスタント主義における自然的な神学や宣教は、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」ことによって、近代主義および自然的な神学や宣教に対する神学における思想的「武器」を喪失させてしまったのである。先行する神の用意に包括された後続する人間の用意を生きた<まことの人間>は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、<まことの神>にして<まことの人間>イエス・キリストである。この「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。この、先行する~の用意に包括された後続する人間の用意のできている人間、すなわち「神に向かって用意のできている人間」は、「真理であり、生命である」。したがって、「その方」は、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の子、神の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、客観的な「啓示の実在」そのもの、<まことの神>にして<まことの人間>イエス・キリストは、「(≪神と人間との無限の質的差異の下で≫)それとしての」人間論的な自然的人間あるいは教会論的なキリスト教的人間としての私たち「人間自身と同一ではない」のである。聖書的啓示証言は、先行する~の用意に包括された後続する人間の用意のできている人間、「神に向かって用意のできている人間」において、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の「キリスト教的人間自身の彼岸」にある、すなわち「キリスト教的人間自身に超越している、まことに生命のある仕方で神に向かって用意のできている人間のことを言おうとしている」のである、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である<まことの神>にして<まことの人間>イエス・キリストのことを言おうとしている。したがって、「もしもその方が啓示され給うとすれば、もしもその方がキリスト教的人間の領域の中で主であり給うならば、その時には、キリスト教的人間もその方によって彼の疑わしい曖昧さから解放され、その内在性の中で選ばれ、分かたれ、義とされ、栄光あるものとされるであろう(ローマ八・二九以下)」。単一性・神性・永遠性を本質とする~のその都度の自由な恵の決断により、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストが教会の主・頭として教会に先行し、その先行するイエス・キリストにのみ教会が感謝をもって信頼し固執し後続するならば、換言すれば第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)が、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)をその思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、~の命令・要請・要求、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指す時、換言すれば「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す時、その時には、「キリスト教的人間もその方によって彼の疑わしい曖昧さから解放され、その内在性の中で選ばれ、分かたれ、義とされ、栄光あるものとされるであろう(ローマ八・二九以下)」。前述したような仕方において、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である<まことの神>にして<まことの人間>イエス・キリスト――「この方からして見、この方との関連の中で語られる時、……それはまた真実で、生命あるものであることができる」。したがって、「キリスト教的神学と宣教」は、それが、あの「神への愛」と「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の下で、「神に向かって用意ができている人間について語る時」には、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である<まことの神>にして<まことの人間>イエス・キリストについて語る時には、「作り話を考え出」すことをしてはいないのである、「作り話を述べようとはしていないのである」。このような訳で、バルトは、『ルドルフ・ブルトマン』において、次のように述べたのである――「聖書註解者」は、「だれに対して」「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか?「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」、ある思想傾向や時勢や時流や社会的あるいは政治的な言説や運動に対してか?・「そこから形成された理解の規準に対してか?」―― 否である、「われわれ」は、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける「われわれ」の「実存という場所」において、「われわれ」の「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれ」のために「生きて、われわれを支配」し、「われわれ」を「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」徹頭徹尾「聖霊」であるから、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」、神のその都度の自由な恵の決断による聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)における人間の実存に依拠したのである。それに対して、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学に見出したブルトマンは、その聖書釈義において、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠した彼自身の自己意識・思惟が対象化した意味的世界を第一次化し、それゆえに新約聖書の使信、使徒たちの証言から起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものを「取り去」り、さらにその新約聖書の使信、使徒たちの証言を第二次的なもの――すなわち「あの第一次的なものに従事することにおいてのみ真であり重要なものに形式変換し転釈」したのである、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」、現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」、と語ったのである。ここで、神学における思想の問題として重要なことは、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーによる宗教としてのあるいは共同宗教としてのキリスト教批判や揶揄の対象となるのは、自然的な神学や宣教の<段階>に停滞するブルトマン(その学派)の方である、ということである。