本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−1)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−1)−2(232−254頁)

 

「二 人間の用意」(その4−1)−2
 総括的に言えば、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的なキリスト教会(その全成員)に無意識の共同性として存在している自然神学の「鍵となる立場」は、イエス・キリストにあっての「啓示の中での神の認識可能性」に対して、その先行する啓示、神の用意に対して、二元論的に独立させた人間の用意、人間の本質と行為も前提した、それゆえに人間自身教会自身が、恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化した「存在者レベルでの神への信仰」を「鍵」とする立場、その神(偶像)の名と呼びかけによる救いと平和の企てを「鍵」とする立場である。言い換えれば、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(具体的には聖書的啓示証言)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識あるいは啓示認識・啓示信仰、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を、キリスト教信仰・神学・教会の宣教の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教える(それを媒介・反復する)という仕方に対して、その先行する啓示、神の用意に対して、二元論的に独立させた人間の用意、人間の本質と行為も前提した、それゆえに百人百様の学者、牧師、著述家、知識人たちが、恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化した「存在者レベルでの神への信仰」、その神(偶像)の名と呼びかけによる救いと平和の企てを「鍵」とする立場である。したがって、教会史的に、そのようなキリスト教会に無意識の共同性として内在している自然神学の「鍵となる立場」は、<非>自然神学の<段階>におけるキリスト教信仰・神学・教会の宣教を志向し目指すバルトを含めた私たちの次のような立場とは全く違っているのである――@(≪私たちは、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、~の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派、教派、思想傾向、時流や時勢、社会的あるいは政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、A「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか 思想の基準をめぐって』)。キリスト教信仰・神学・教会の宣教の中に無意識の共同性として存在している自然神学の「鍵となる立場」は、自然神学についての問題を明確に提起し自分の立場で自然神学の<段階>を包括し止揚し克服していくというベクトルを持っていないから、必然的に、ある教派、ある学派、ある主義主張等々、人間自身教会自身の恣意性独善性嗜好性によって百人百様であり得る立場、党派的立場、党派的多元主義の立場を志向し目指す立場である。したがって、この無意識の共同性として存在している自然神学の「鍵となる立場」は、「どれほど真剣に自然神学に対して(≪根本的包括的な原理的な≫)異議申し立て」を行ったとしても、すなわち自然神学についての問題を明確に提起したとしても、それは、「教会の場の中で」、「キリスト教的自然神学という形態の中でこそ」、「無気味なほど深く強固」な立場として存続しているのである。客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、かみのその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識あるいは啓示認識・啓示信仰、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言をキリスト信仰・神学・教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方における神の認識可能性あるいは啓示認識の可能性、すなわち「啓示の中での神の認識可能性」とは「別な種類の認識可能性の考え」を主張する自然神学、換言すれば二元論的に神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという、「理性」と「啓示」、「哲学」と「神学」、の混淆・混合・協働を志向し目指す自然神学は、キリスト教信仰・神学・教会の宣教の中に無意識の深層として存在しているから、すなわち「全く深く強固な仕方で基礎づけられている」から、そのような二元論的な「別な種類の認識可能性の考え」に対して、「どこから……決定的」な実際的に「有効的確」な「攻撃」ができるのかを「見極め」ることを困難にしているのである(中世的思考に退行した佐藤司郎の、「聖霊論的出発が、人間的なるものと、人間がなしうることの新しい強調を可能とする」・「聖霊論的出発」は、「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」という思惟と語り、また中世的思考に退行した小泉健の、「聖霊論的説教論」は、「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得るもの」という思惟と語りは、まさしく自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す思惟と語りそのものなのである)。生まれ持った人間の「理性や力」を自覚した直接的無媒介的な「人間の現実と可能性」における「神の恵みに対して開いている姿」は、換言すれば神の用意に包摂された人間の用意を、すなわち「啓示の中での神の認識可能性に対する用意」を揚棄し後景へと退けた「神の恵みに対して開いている姿」は、自然神学の「神学的な表現以外の何ものでもない」のである。「自然神学は全く」、この可視的な「使者および弁護人である」。なぜならば、「理性的思惟の絶対化」、すなわち「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」というブルンナーの「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された「近代的精神」、人間的理性・思惟は、神だけでなく人間もという新たな神との「共働者」関係の構築を目指すそれ(『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』)であるが、いずれにしてもそのように生まれ持った人間の「理性や力」を自覚した直接的無媒介的な人間の「この可能性と現実からは」、「必然的に」、どうしても神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教が登場せざるを得ないし、どうしても二元論的な「別な種類」の「神の認識可能性」を問うことになるからである(実際的にブルンナーもそうであった、半分は神の用意に心を開きながら、半分は閉ざしているのである、すなわち半分は自分の自主性・自己主張・自己義認の欲求を残すのである。換言すれば神だけでなく人間も、単一性・神性・永遠性を本質とする<神>の第二の存在の仕方である<イエス・キリスト>、<神の言葉>だけでなく、政治的近代国家も、政治的近代国家の法的制度的政策的言語、社会的あるいは政治的言説と運動も、と言うのである。そして、擬制民主主義でしかかない議会制民主主義における政治的近代国家の中で、反体制を標榜しながら体制に加担しているのである)。
 さて、先行する「神の用意」を後景へと退けて、換言すればあの神の言葉自身の出来事の自己運動の下で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)をキリスト教信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方を後景へと退けて、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すところの、「神の啓示の光の中に移された」人間の「自分自身を保持し主張しようとする彼の試み」は、すなわち神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという彼(神学者、牧師、著述家たち)の「自己表現」は、「神の恵みなしにも、神の恵みに常に先行しつつ、神の恵みを常に先取りしつつ」、それゆえに先行する「神の用意」なしにも神を「認識することができるという主張でもって終わるしかない」のである。言い換えれば、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという彼ら(神学者、牧師、著述家たち)は、神は「神自身から、神自身を通して、認識する以外にも認識することができるという主張でもって終わるしかない」のである。この彼らの「試み」は、「ただ単にそのような主張で終わっているだけでなく、実は、基本的にはまさにそのような主張でもってはじまっているのである」。なぜならば、人間の「そのような試みは、人間の自己満足の、したがって神に似た姿の、不遜さ、保持、主張」によって「成り立っている」からである。したがって、この「試み」の最後的形態は、神と人間との無限の質的差異を揚棄し後景へと退けた、人間の神化、神の人間化としてのヘーゲルの哲学原理である。この「試み」においては、フォイエルバッハが指摘しているように、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生じた」、それゆえに「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」のである。また、マルクが指摘しているように、「反宗教的批判の基礎は、(≪フォイエルバッハが述べているように≫)人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間を造るのではない、ということである。しかも宗教は、……人間の自己意識であり自己感情なのである」・しかし、「人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない」、自己意識・理性・思惟だけの存在ではない・「人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家は、この社会的結合が倒錯した世界であるゆえに、倒錯した世界認識である宗教を生み出すのである」・「キリスト教ではなく、キリスト教の人間的基礎」が、民主的「国家の基礎である。ここでも共同宗教は、その国家の成員たちの観念的な非現世的な意識として存続する。というのは、共同宗教は、その国家において実現される人間的発展段階の観念的な形態だからである」、観念的な共同的形態だからである、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す世俗化された共同宗教としてのキリスト教の最後的形態は擬制民主主義としての議会制民主主義に基づく政治的近代国家である、「政治的国家の成員が宗教的であるのは、個人的生活と類的生活」とが、すなわち具体的に私人として「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争い、利害共同性との対立・争いのある現実的な「市民社会の生活」(現世)とあたかもそうした対立・争いのない観念的法的政治的共同的観念によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活(天国)とが、「二元的であるため」であり、換言すれば人間が社会的現実的な生活と観念的政治的な生活との二重の生活を強いられるからであり、しかもその場合、観念的法的政治的な共同的観念を本質とする国家に第一義性・価値が移行し、天国、「宗教が市民社会の精神」となり、宗教は、「人間(≪「現実的な市民社会の生活」≫)と人間(≪観念的な天国の生活≫)との分離の表現」だからであり、それゆえに公民としての生活(擬制化された観念的な天国)が「自分の真の生活であるかのように」、第一義化・価値化され強いられるからである。したがって、キリスト教会(その全成員)が、「すべての自然神学の根本思想」を、すなわち「それの核心をなす」「(神の真理に相対しての独立性の中で)自ら真理である」という「命題」を「否定したいと思うならば」、先ず以て「自分自身を否定しなければならない」のである。自然神学についての問題を明確に提起しなければならないのである。しかし、この自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すことが、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の信仰・神学・宣教における「必然性」、不可避性であるとするならば、無意識の共同性であるとするならば、人間的な教会(その全成員)は、「どうして……そのことをすることができようか」。したがって、これらのことを認識し自覚していないところの、すなわち「自然神学の根本思想」を明確に提起することをしないままに、無意識の共同性として自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す彼ら(神学者、牧師、著述家たち)一人一人の「直接認識すると主張し、そのものに……直接結ばれていると主張している神」は、彼ら一人一人の「映像」、「その中で……罪、死、悪魔に、……また教会の説教と聖礼典に、神の言葉そのものに、出会い、反抗してゆく術を知っている」「自己意識」の「実体化」、彼ら一人一人によって恣意的独善的嗜好的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」(偶像)以外の何ものでもないのである。このような訳で、自然神学についての問題を明確に提起したバルトの、次のような信仰・神学・教会の宣教におけるその原理およびその認識方法と概念構成は、自然神学の<段階>を根本的包括的に原理的に揚棄し克服して、<非>自然神学の<段階>へと移行した位相にあるものなのである――自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教を揚棄し克服するということは、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的な宗教としてのあるいは共同宗教としてのキリスト教批判を、自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理およびその認識方法と概念構成それ自体によって根本的包括的に原理的に揚棄し克服するということである。言い換えれば、<非>自然神学の<段階>のキリスト教信仰・神学・教会の宣教への移行は、神と人間との無限の質的差異の下で、人間の<外から>、<彼岸から>、<~の側から>、<~の側の真実から>のみ、やって来るということである。なぜならば、もしもそうでないとするならば、そのキリスト教信仰・神学・教会の宣教は、徹頭徹尾、何らかの形で、現実性と妥当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものに過ぎないものとして存在することになってしまうからである、すぐに自然神学の<段階>の陥穽に陥ってしまうからである。もしも人が、<後期>バルトは、<前期>バルトの『ローマ書』における神と人間との無限の質的差異の概念を後景へと退けたと出鱈目極まりない知ったかぶりの発言するならば、その論者たち自身は、常に自分が自然神学の<段階>で思惟し語っているだけであるということを自己暴露するだけなのである(なぜならば、実際的には、バルトは、前期においても後期においても、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の概念を、後期の、『教会教義学』においても、『神の人間性』においても堅持しているからである。完全に後期のバルトの著作『神の人間性』で、バルトは、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は」、換言すれば「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を認識し自覚していないような人は、「今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」・「<神の神性において>」、換言すれば「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下で、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べている。世界的に一流の神学者や牧師を全く見出せない中で、世界的に一流の神学であり牧師であると認め得るバルトは、二、三流の神学者、牧師、バルト論者たちの出鱈目極まりない知ったかぶりの発言やバルト論やバカ話によって、自然時空に死語化させられたり、沈没させられてしまうことはないのである、バルト自身の言葉は未来に生きる言葉として残るのである。ちょうど、佐藤優が池上彰とマルクスの『資本論』をネタに対談して人々にマルクスを誤解させ・マルクスに迷惑をかけた時、マルクス自身が、すなわち『資本論』「第一版の序文」の重要な立場を表明したマルクス自身の言葉が、その誤解と迷惑をはねのけたようにである)。したがって、自然神学の陥穽に陥らないために、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教における問題を明確に提起したバルトは、聖書的啓示証言に基づいて、次のような<非>自然神学の<段階>における明確な立場に立脚しているのである――@「私が『方式』なるものをもてっているとすれば、……(≪神の人間化、人間の神化、無限と有限との統一としての「究極的同一性」へのベクトルを持っているヘーゲルの哲学原理とは全く違って、≫)時間(≪人間≫)と永遠(≪神≫)との「無限の質的差別」……、 をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『ローマ書』)、したがって、バルトを前期と後期に形而上学的一面的固定的に抽象して二元論的に分断し、後期バルトは神と人間との無限の質的差異の立場を後景へと退けたという出鱈目極まりないことを知ったかぶりして主張するバルト読みのバルト知らずのバルト論たちは、<非>自然神学の<段階>へと移行したバルト自身とは全く逆向きの、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返して「遊ぶ」者たちなのである、A「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」(『福音と律法』)、B「聖霊は、(≪人間に内在する≫)人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、それゆえに聖霊によって更新された人間理性も聖霊ではない(『教義学要綱』)、C生まれ持った人間の直接的無媒介的な「理性や力」によっては、それゆえに第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教によっては、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神を把握することはできない(神の不把握性と終末論的限界)。したがって、第一に、人間が人間的に所有する人間の、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(具体的には聖書的啓示証言におけるそれ)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる、第二に、教会と世に対して<客観的に><必然性として>与えられているところの、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、イエス・キリスト(キリスト教信仰・神学・教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」、客観的な「啓示の実在」そのもの)、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言(イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」)は、第三の形態に属する全く人間的なキリスト教会(その全成員)の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である、それゆえにキリスト教会(その全成員)は、それを原理・規準・法廷として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していくことが命じられている、要求・要請されている、このような仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくことが命じられている、要求・要請されている、第三に、このような訳で、人間自身教会自身の思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではない、それゆえに人間自身教会自身の思惟と語りが「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか」は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対して神が応じて下さるということに基づいて成立」している(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、第四に、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわちキリスト教信仰・神学・教会の宣教も理性的な知的営為ではあるが、そしてその場合に聖霊によって更新された人間理性(この場合、この理性も聖霊ではなく、あくまでも人間理性であり続ける)を必要とするのであるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)、それゆえに「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、それゆえに二元論的な「理性」と「啓示」、「哲学」と「神学」の混淆・混合・協働を志向し目指す場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、このような自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教における「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」のであり、それゆえに「この対象に即してもまた、神学の秘密は人間学以外の何物でもない!」のである(『キリスト教の本質』)。この意味において、第三の形態に属する全く人間的な教会のその全成員は、キリスト教の神学者や牧師や著述家たちの思惟と語りを鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。言い換えれば、大学の場を構成している学者・「教授でないものも、牧師でないものも、(≪著述家でないものも、≫)彼らの教授や牧師(≪や著述家≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」のである(『啓示・教会・神学』)、聖書的啓示証言の「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存」してしまうことをしない方がいいのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。
 歴史<主義>の無味乾燥さ。「ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない ……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります」(吉本隆明『信の構造 2 ―全キリスト教論集成』)、「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます(吉本隆明『敗北の構造 南島論』)、「<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編 吉本×末次 滝沢克己をめぐって』)。歴史主義は、神と人間との無限の質的差異を止揚し後景へと退け、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」から、それゆえに「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書的啓示証言の人間的側面しか見ないから、すなわち聖書の人間的側面をのみ形而上学的一面的固定的に抽象して人間精神が生み出したものを問題とするから、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(起源的な第一の形態の神の言葉)であるイエス・キリストにあっての神の「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする、しかしキリストにあっての神の「啓示の証言としての聖書の理解」と、人間の生み出した「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある」、それゆえに聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」、なぜならばキリストにあっての神の自己啓示は、人間の類の時間である「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである、聖書の歴史は「一般的な歴史性」を含んでいるはいるが「史実史」(Historie)ではない<出来事史>(Geschichte)、「歴史物語」、古潭として受け取るべきものである、それゆえに「確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すれば(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、業と行為、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものである≫)イエス・キリストの名(≪ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」≫)からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪なぜならば、経済社会構成を農耕に置いていた人類史のアジア的段階の日本において、天皇を含めて非農耕民は神人と呼ばれていたから≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」、と言うべきなのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)に基づいた文学の世界を生きた太宰治は、『正義と微笑』で、「こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」、と述べていることを考えれば、「間違うことはあり得ないものとして振る舞う」歴史<主義>の対象に対する扱い方がいかに形而上学的一面的固定的な無味乾燥なそれであるかが分かるのである。バルトは、バーゼルの刑務所でイエス・キリストの復活の出来事について、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事について説教をし、それが「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……<私はあなたがたと同じように、その理由を知らない>。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験普遍に依拠して考えれば、それゆえにその現にあるがままの現実な人間存在を生きるキリスト者も素直に正直に考えれば≫)<人が信じないようなことだ>と言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」、それゆえに「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである。したがって、キリストの復活が、神と人間との無限の質的差異の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける出来事であり、~の側の真実としてのみある出来事であるならば、そしてその出来事が、あの神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で啓示認識・啓示信仰として与えられるならば、バルトのように説教する以外にはないと言うことができる。歴史<主義>とは違って信仰<主義>の問題について言えば、バルト共に「『自分の理性や力によっては』全く信じることができないことを知っており、それを告白する」(『福音主義神学入門』)私たちキリスト者は、『キリスト者の自由』における、「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として理解したルターの次のような言葉には救いと平和を全く見出すことはできない――律法と福音を対立させ、「律法と福音」の順序で、まずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」・しかし、それだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である・「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」・「さらばキリストを信じなさい」・「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」。このルターの言葉に対して、「『自分の理性や力によっては』全く信じることができないことを知っており、それを告白する」私たちは、バルト共に、「イエス・キリストの信仰」の属格を主格的属格として理解して、次のように告白する――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』 という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。
 さて、「人は、さらに次のことによく注意せよ」。自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教は、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的なキリスト教会の中に無意識の共同性として存在しているから、人は、そのことに規定されて、必然的不可避的に、その最初から「ほかの神学(≪啓示神学≫)の中にではなく、自然神学の中に入って行く」、ということに「よく注意せよ」(バルト自身は、全キリスト教信仰・神学・教会の宣教を、A・E・マクグラスの『キリスト教神学入門』のように<総花的>にでは全くなく、<総括的>に、自然神学の<段階>におけるそれか、<非>自然神学の<段階>におけるそれか、という区別の仕方をしている。したがって、自然神学という概念に対して<ほかの神学>という場合、その<ほかの神学>は、断続性と連続性の構造としてある<段階>論的に、自然神学の<段階>を包括し止揚し克服した<超>自然神学の<段階>の神学あるいは<非>自然神学<段階>の神学を想定し、そのように命名せざるを得ないのである。このことは、自然神学に対して<ほかのすべての神学>という場合も、バルトの<非>自然神学<段階>の立場は変わらない、なぜならばもしも変わるとするならば、バルトは概念的矛盾に陥ってしまうことになるからである)。いずれにしても、現実の事実として、このことは日本に限ったことではないが、それが日本基督教団立のそれであれ、自然神学についての問題を明確に提起し得ていない大学の神学部や神学校に入学するということは、自然神学の<段階>の神学の中に入って行くということなのである。したがって、そこでキリスト教信仰・神学・教会の宣教に関する言葉を聞くということは、自然神学についての問題を明確に提起し得ていない自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す神学者たちのその言葉を聞くということなのである。教義学(神学)は教会の一つの機能であるから、このことを教会に敷衍すれば、教会へ行って、キリスト者になって、自然神学についての問題を明確に提起し得ていない説教者の説教(言葉)を聞くということは、自然神学の<段階>の説教(言葉)を聞くということなのである。言い換えれば、自然神学についての問題を明確に提起し得ていない人間自身がその恣意性独善性嗜好性において対象化した「存在者レベルでの神への信仰」の言葉を聞くということなのである。このことは、自然神学についての問題を明確に提起し得ていない教団レベルでも言えることである、国家論、すなわち革命の究極像は国家の無化を伴う社会的現実的な個体的自己としての全人間の究極的総体的永続的な解放にあるから革命論の過渡的究極的課題も持たずに、擬制民主主義に過ぎない議会制民主主義の下での政治的近代国家の法的制度的政策的言語を介して行った、一昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」は、自然神学の<段階>における自己満足の言葉でしかないと言うことができるのである。このように、無意識の深層として存在している自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教は、根強いのである。バルトは、第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」・「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した・「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」、と述べている(『バルト自伝』)。
 「われわれはここで」、神の言葉の三形態に属する全く人間的な「教会の中での人間」、「一方で罪、死、悪魔、他方において説教、聖礼典、神の言葉によって、強力に挟み撃ちにされている人間について語っている」のであるから、「何かある一つの自然神学と取り組んでいるのではなく」、「まさにキリスト教的自然神学と取り組んでいる」のである。言い換えれば、「われわれはここで」、「巧妙な名人芸」によって、一方で、外見的に「見たところ、至極要求がましくなく、謙遜な態度で登場」し、「断言的に語らず仮説的に語り」、「啓示、恵みをただ単に承認するだけでなく、啓示、恵みに対して内容的にも形式的にも優先権を与えている」、「いや、無条件的にさらに大きな重要性と正しさを認めている」ところの、しかし他方では、神だけでなく人間も、直接的無媒介的な人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという志向性を手放さない「自然神学と、……取り組んでいるのである」。しかし、人間の自由な自己意識の類的活動、自然の一部である個体的自己としての全人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、他者身体、外界としての自然――天然自然と人間化された自然としての人間的自然)との相互規定的な対象的活動を通した人間の類的な活動や生活、その時間累積、このことを念頭に置いた「副次的可能性」としてある人間を基盤とした「自然神学」と、キリストにあっての神を基盤とした「啓示」、「啓示の神学」との併存は、聖書的啓示証言によれば、神と人間との無限の質的差異の下で、「全く別な次元」の「光」、すなわち啓示自身によって限界づけられ克服されているのである。自然神学は、一方で、「啓示あるいは啓示の神学に対して特別な場所を空けておくこと」によって、「啓示」および「啓示の神学」の「優位性を認めることによって」、それは、他方で、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求から、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性から独立した仕方で、「啓示に対しても手をつけ」、「啓示をも自由に処理」しようとするのである、すなわち「巧妙な名人芸」を駆使して、「恵みに逆らう抗争」を為すのである。「啓示」から独立した「自然と並んでその傍らに存在する恵み(人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化した「存在者レベルでの神への信仰」における恵み)」は、「(たとえその場合恵みが自然に対してどれほど優越した仕方で位置づけられていようと)明らかにもはや恵みではなく」、それは、「人間自身によって人間に与えられた恵み」なのである。言い換えれば、あの客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動による神認識ではないところの直接的無媒介的な「人間自身に固有な神認識」は、人間自身が対象化し客体化した「存在者レベルでの神ヘの信仰」(偶像崇拝、人間崇拝)の恵みでしかない恵みである。このように、生まれ持った人間の直接的無媒介的な「理性や力」による「人間自身に固有な神認識と並んで存在する啓示は、……明らかにもはや神の啓示ではなく」、その人間自身の自己表現でしかない啓示(の内容)、すなわち神と人間との無限の質的差異における「神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」啓示(の内容)である。このような訳で、聖書註解において前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマン(まさに自然神学者としてのブルトマンの神学)は、ハイデッガーから「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と揶揄・批判されてしまったのである。仕方がないる啓示の内容でしかないのである。「人間によって承認され考慮に入れられ、人間によって世のほかのもろもろの現象の傍らに並べて置かれた」ところの、「霊感を受けた聖書の奇跡あるいは絶対無謬性をもって語る教会の奇跡」は、「明らかにもはや神の奇跡ではなく、むしろ人間的な世界観および自己理解の驚くべき要因」であり、そのような「超自然主義も、それが、結局、人間によって選ばれたものとしては、最後的にはただ、より高度な、仮面をつけた自然主義でしかない」のである。言い換えれば、キリスト教的自然神学は、「あたかも啓示」が、「選ぶ可能性ではなく、選ばれるべき可能性であるかのように」、「(≪信仰の認識としての神認識の、啓示認識・啓示信仰の≫)唯一の可能性ではなく、一つの可能性であるかのように」、「啓示と関わることによって、そのすべてのおそれおののきと謙虚さにもかかわらず」、「啓示を、キリスト教的自然神学自身の技術の新しい形成物に造りかえてしまう」のである。この場合、「既に発端において啓示を啓示でないものにしてしまう」のである。しかし、神と人間との無限の質的差異の下で、~の側の真実としてのみある客観的に存在している「神の現実の啓示は、人間が選ぶこと」はできないのである。それが、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにあっての神の自己啓示である限り、~の側からやって来るのである。終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰は、~の側の真実としてのみある、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、三位一体の唯一の啓示の類比である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性である、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事(具体的には聖書的啓示証言)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて与えられるのである。「本当に神が語り給うたのであろうか……。自然神学の神は、そのことに対して何も反論すべきものを持っていない」のである。
 自然神学の<段階>の人間学的神学・哲学的神学と、あくまでも聖書的啓示証言に信頼し固執する自分の立場でそのような自然神学を包括し止揚し克服した<非>自然神学の<段階>の啓示神学との差異性を典型化すれば、その典型は、次のような言説あるいは教説として提示することができる。
@自然神学の<段階>の人間学的神学・哲学的神学――「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神(≪おそらくは人類史のアジア的段階において世界普遍性を持ち得た自然を内面の原理する天台本覚論や禅仏教等におけるような神概念≫)において永遠に決定されていることなのだ」(『滝沢克己著作集第二巻 カール・バルト研究』)。
A<非>自然神学の<段階>の啓示神学――「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態≫)は、イエス・キリスト(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、啓示・和解、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的実在、永遠的実在としてある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)と呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが(≪第二の形態であるその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」である≫)聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが(≪その第三の形態の全く人間的な≫)教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」(カール・バルト『教義学要綱』)。