本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−2)−2

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−2)−2(137−154頁)

 

「一 ~の用意」(その5−2)−2
 「この脈絡全体の中で」、「われわれは、われわれに真理が啓示されるところの真理を<神の適意>と同一視したことによって」、「ローマ・カトリック教会の基本的な神学の中にその古典的な、最も鋭い表現を見出」す「神の認識可能性についての教説」――すなわち「ヴァチカン公会議のカトリック信仰についての教義憲章、第二章啓示について(一八七〇年四月二四日)の中で言われている、同ジ聖ニシテ母ナル教会(≪~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会≫)ハ、<スベテノ物ノ始メデアリ終局デアル神>ヲ、<人間ノ自然的理性ノ光>ニヨッテ、<被造物>ヲ通シテ、<確実ニ認識スルコトガデキル>ト確信シ、教エル、に対して真っ向から反対した」のである、総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教に対して「真っ向から反対した」のである。言い換えれば、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教の立場とは全く逆に、「われわれはまさに、その同じ会議で正式に決定された文書の中で断罪されている……立場」――すなわち「<創造者>デアリ、<ワレワレノ主>デアル唯一ノ真ノ神ハ、<人間理性ノ自然的ナ光>ニヨッテ<被造物>ノ中カラ<確実ニコレヲ認識スルコトガデキナイ>ト言ウ者ハ排斥サレル」という立場に立脚することを述べたのである、総括的言えば<非>自然神学の<段階>へと移行した信仰・神学・教会の宣教の立場に立脚することを述べたのである。すなわち、「われわれ」は、「神はただ神を通してだけ、換言すればその自己啓示の神的介入の出来事の中でだけ」、神のその都度の自由な恵の決断、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、に基づいてのみ、終末論的限界の下で信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は可能となる、ということを述べたのである。したがって、~の言葉の第三の形態である全く人間的な教会(その全成員)のその信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りが、キリスト教的思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、人間自身教会自身の決定事項ではないということを述べたのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。結局は近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教もそうなのだが、そのローマ・カトリック教会の信仰・神学・教会の宣教の立場は、必然的に、最後的には、ヘーゲル主義へと、神と人間との無限の質的差異の止揚へと、それゆえに神の自己運動と人間の自己運動との混淆・混合へと、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」自由・主権を人間のそれと取り違えるという事態へと、神の人間化あるいは人間の神化へと、あるいは神学の人間学化あるいは人間学の神学化へと至る立場なのである、総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教へと至る立場なのである。現実の事実として、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」(『ヘーゲル』)のである。このような根本的包括的な原理的な問題(総括的に言えば、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教問題)を後景へと退けてしまって、その問題を自らの立場において包括し止揚し克服しようとしないで、「プロテスタント、カトリック共同翻訳の聖書を、愛する同胞にお届けする」と、1987年9月に「共同訳聖書実行委員会」が「序文」で書いていたのを見た時、この共同訳聖書実行委員会委員にあるところの、人類史におけるアジア的日本的な特質としてある曖昧性の中に雲散霧消させてしまう在り方を垣間見たのである。ヘーゲルは『歴史哲学講義』(長谷川宏訳、岩波書店)で、次のように述べている――「中国では君主が家長として人々の上にたちます。国家の掟は法律的な条項だけでなく、道徳的条項をもふくんでいて、だから、主観が自分の意思の内容を知るといった内面的な事柄までが、外面的な法令として強制される。(中略)それは、道徳律が国家法のようにあつかわれ、法律が道徳をさだめるものとうけとられているからです」。すなわち、人類史におけるアジア的段階にある中国の原理は自然原理としての「天」であり、それは「道」であり、未分化のままの政治制度(共同性)と道徳(個体性)との混在であることを教えている・その自然原理の体現者は、徳あるものとして天命を授けられた専制君主(親・父)で、そのもとに臣民(子)がいて相互に徳を実践することによって、「修身斉家治国平天下」が成立する・家父長制において、個や家族や社会や国家は地続きに国家に包摂され、被支配は支配の暴政や抑圧や暴挙に対しても、天然自然の災害を受け入れるように受け入れていく。このように、アジア的な特質として問題が曖昧性の中に雲散霧消されてしまうのである。自らの戦争体験を自省することによって得られた知識人の敗北の在り方を、「国家の政策を、(≪トータルな世界認識の方法と往還思想を持たない≫)知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配(政治的権力)に直通していく大衆の存在様式を把握できなかった点においた吉本隆明は、知識人の知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにし模倣した一般大衆が、敗戦時に自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力の暴政や抑圧や暴挙(支配の側の法、制度、政策に起因する人災)を天然自然の災害(天災)と同じように受け入れていく在り方に、大衆の敗北の在り方を見たのである。東日本大震災は天災であったが、福島原発事故はまさに支配の側の政策に起因する人災であったにもかかわらず、その人災の面の責任や問題について徹底的に究明されず、また原発が科学的技術的領域に属しており自然史の一部である人類史における自然史的過程の進歩発展段階の一つであるから、それゆえに想定される最大最悪の災害や事故に対する技術的な解決策と安全確保と安全管理が可能であれば存立は可能であるし、そのことが不可能であれば存立は不可能であるという問題についても徹底的に論議されることなく、曖昧性の中に雲散霧消されてしまった。私も震度6弱の地域に住んでいたのだが(震度が6を超えると強烈な揺れで全く身動きがとれない、2階にいた私はただ机にしがみつくしかなかった、70歳になんなんとする人生を生きて初めての体験であった)、福島原発事故を伴った東日本大震災直後から、電力会社を含めた大手企業やNHKも会員であるACジャパンから――震災・原発事故当時、東京電力常務取締役の西澤俊夫がACジャパンの理事であったという(調べてみた限り、現在は会員としても見当たらないが)、また東京電力社長の清水正孝は日本広報学会の会長であったという――、支配の側に属する政策や対応等に対する国民の不信や不安や不満や非難の鉾先を逸らすために、被災地域との共感性を前面に押し出したテレビコマーシャルが日本的な情緒性に訴える形で、毎日何度も何度も繰り返し、金子みすゞの「こだまでしょうか」と共に流され続けていた。
 「われわれ」は、「神の認識可能性の問題の要点を述べるに当たって……、はじめからはっきりとキリスト教的な(≪三位一体の神という≫)神観を考慮に入れた」。「われわれははじめから、その啓示の中で認識可能な業と行為(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の三つの存在の仕方≫)の中にいます三位一体のまことの神について語ったのである」。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける~の自己啓示、「顕サレタ神こそがまさに隠サレタ神である」という「この神について、この神の真理について、われわれは、……ただ神ご自身の恵とあわれみを通してだけ」、すなわち神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてだけ、終末論的限界の下で「認識可能であるということを語った」のである。「われわれは『神』ということで……スベテノ物ノ始メオヨビ終局も、また創造者も、ただ単にそれだけでなく、同時にまた和解者なる神をも、また救済者なる~をも、理解した」のである、三位一体の神を理解したのである。すなわち「われわれは(≪「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方である父、子、聖霊なる≫)神の(≪その存在と本質の「失われない」≫)単一性(≪・神性・永遠性、聖性・秘義性・隠蔽性、神の不把握性≫)をまことに真剣に受け取ったのである」。「ひとりの、全き神を念頭に置いてわれわれはその認識可能性の問いに対して答え、まさにそれ故にこそわれわれは、実際に今為されたように(≪前述したように≫)答えなければならなかった」のである。「われわれが語った個々のことは、すべて、この(≪三位一体の神として≫)総括しつつ見ることによって条件づけられていたのである」。「われわれは、例えば神の主権について語った時、それが罪人の世にあっての聖なる方の支配であることを念頭に置いた」。言い換えれば、神の言葉の起源的な第一の形態――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、「われわれ」人間に対して、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言をその宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教える第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教を通して、「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、換言すれば神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識)を与えられるところにおいては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認するのである、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認するのである、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであること」を承認し確認するのである。「それ故にこそわれわれは、神の主権が、われわれ(≪人間自身・教会自身≫)によって持ち出されるすべての類比から身を引いていることを確かめたのである」。すなわち、神の主権は、「われわれ(≪人間自身・教会自身≫)によって持ち出されるすべての類比」によっては認識不可能であることを確かめたのである。「われわれは、創造者なる神について語った時、その方が(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の三つの存在の仕方の起源的な第一の存在の仕方である方として≫)救済者なる~(≪神の第三の存在の仕方≫)として死人を甦えらせる神と同じ方であり給うということを念頭に置いた」のである。「それ故にこそわれわれは、神の創造も、われわれ(≪人間自身・教会自身≫)によって持ち出されるすべての類比から身を引いていることを確かめたのである」。したがって、同時に、「われわれは、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)和解者なる~、および救済者なる~について語」る時、「その同じ方がまた(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)主であり、創造者であり給うということ」を想起しなければならないのである。「神のこの単一性(≪単一性・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」≫)を念頭に置いて、われわれは、神の認識可能性の問題に関して、われわれが与えた答えにまで到達したのである」。このような訳で、あのローマ・カトリックの「創造者デアリ、ワレワレノ主デアル唯一ノ真ノ神」という思惟と語りのように、一面的固定的「抽象的ニ」「主および創造者なる神だけを考える時、人はひとりの、まことの神について」、「実在の主および創造者について、本当に語」ることはできないのである。なぜならば、聖書的啓示証言によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする~は、イエス・キリストの父(起源的な第一の存在の仕方)、子としてのイエス・キリスト自身(第二の存在の仕方)、父と子の霊である聖霊(第三の存在の仕方)であり、このような三位一体の神として自己啓示したからである。イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、「失われない」単一性・神性・永遠性をその存在と本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊という神の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神なのである。したがってまた、単一性・単一性・永遠性を本質とする神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊という三つの存在の仕方の完全さ・自由さなのである。このように総括的に考えなければならないのである。したがって、『神学者カール・バルト』の訳者がその「訳者あとがき」で、時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」と述べたとき、ローマ・カトリックと同じような根本的包括的な原理的な誤解と誤謬を犯しているのである。論理的一貫性を貫徹させているバルトの三位一体論においては、訳者の言う「父の霊」への「排他」性は本質的に成立し得ないのである。訳者の言うバルトの「キリスト自身の霊的臨在」の強調は、和解論が単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに関わる事柄だからであり、その場合バルトは、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの第二の存在の仕方に重点を置いて論じているだけなのである。バルトは、前期『ローマ書』で神と人間との無限の質的差異は「聖書の主題」であると論じた。そのバルトが、後期に『神の人間性』を論じた。このことについてバルトは、次のように述べている――『神の人間性』における「第二の方向転換」としての「神の人間性」の「主文章」化は、『ローマ書』における「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある時代状況に規定された言表なのである。したがって、「神の人間性」は、ただ「神の神性において」というその単一性・神性・永遠性を本質とする「神の人間性」が主文章化されたということであって、その背後に「神の神性」が保存されている構造となっているのである。その訳者は、このような構造を認識し理解することができないのである。バルトも不可避的なある歴史的現存性のただ中に生誕し、ある時代状況のただ中で生き生活し仕事し思惟し思想し信仰し神学し教会の宣教をし喜怒哀楽したのであるから、ある時はその一方が「中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」と退いたりするだけなのである。その証拠に、バルトは、まさにその『神の人間性』において、明確に、「神が神であるということ(≪神と人間との無限の質的差異≫)がいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べているのである、「<神の神性において>、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」。論述を元に戻せば、人は、あのローマ・カトリックのように、形而上学的一面的固定的「抽象的ニ」「ただ神のひとつの面だけを念頭に置いて、神の認識可能性について語ること」はできないのである。「聖書の中で証しされている神の言葉」は、「主なる~、創造主なる~について語っている場合でも、アブラハム、イサク、ヤコブの神について、イスラエルの歴史のヤハウェについて、罪を赦しその民の救いであり給う神について、それであるから……和解者および救済者なる神について、語っている」のである。総括的に語っているのである。「聖書の中で証しされている神の言葉は、……イエス・キリストの中でその三位一体的な本質と三位一体的なひとつの名を啓示されたひとりの神……について語っている」。したがって、ローマ・カトリックの「分割」された一面的固定的抽象的な「教説が述べている主オヨビ創造者なる~は、結局、最後的には、(≪~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な≫)教会の根拠と存在」、教会の主・頭、すなわち(≪~の言葉の起源的な第一の形態――≫)イエス・キリストによって、(≪~の言葉の第二の形態――≫)預言者と使徒たちによって、(≪すなわちその第一の形態を、具体的には第二の形態を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに≫)拘束されているのではない」ところの、「ただ(≪~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な≫)自分自身に信頼している人間的思惟が考え出した形成物」、偶像としての「存在者レベルでの神」(ハイデッガー)、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」(フォイエルバッハ)ところのキリスト教の神、最後的には政治的近代国家へと馳せ下る共同宗教としてのキリスト教の神(マルクス)、でしかないであろう。聖書的啓示証言における「神の啓示を通しては」、そのように「分割を為す」「ローマ・カトリックの教説は、要求されておらず、またそのようなことを為す力も与えられてはいない」のである。「イエス・キリストが、(≪具体的には≫)預言者と使徒たちによって証しされたイエス・キリストが、教会の根拠および存在であり給う時、そのようなほかのところから得られた知識は、キリスト教的教説の中では異質な夾雑物であり」、それゆえに「あの分割は、教会の中で不可能な取り扱い方」なのである。
 前述した「第一の対立は、第二の、さらに重要な対立へとわれわれを導く」。「われわれが、~の認識可能性を問う問いに答えるに当たって、念頭に置いた~の単一性は、神の業と行為(≪神の三つの存在の仕方≫)の単一性であった」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の三つの存在の仕方であった。すなわち、「われわれ」は、「主、創造者、和解者、救済者として、神がわれわれの間で、われわれに対して、現にいます裁きと恵の歴史の主体(≪「福音の歴史の正しい考察」は、神の時間・「啓示は(≪人間の時間・≫)歴史の賓辞ではない」、人間の時間・「歴史が(≪神の時間・≫)啓示の賓辞である」という点にある。すなわち神と人間との無限の質的差異の下で、啓示の時間は人間の歴史の外・彼岸にあるという点にある≫)として」、そのように総括的に「われわれは神を理解した」のである。『教会教義学 ~の言葉T/1・2』に引き寄せて言えば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」・すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)への(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である≫)キリストの十字架でもって終わる<古い世>」は、復活へと向かっている・この(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である≫)キリストの復活(完了・「成就された時間」)は、「新しい世」のはじまりである、というように言うことができる。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の完全さ・自由さは、父、子、聖霊という神の三つの存在の仕方の完全さ・自由さだからである。このようにして、単一性・神性・永遠性を本質とする「昔いまし、今いまし、将来もいますであろう方として、したがって最高にリアルに存在する方として、……われわれのためにこの業と行為(≪その存在の仕方≫)の中で存在(単一性・神性・永遠性を本質として存在)する方として」、すなわち「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」として、「理解した」のである。「この存在する方の認識可能性を、この歴史の主体のリアルな存在の真理を、われわれは問うた」のである。「そしてこの問いに対して、われわれは、神の認識可能性は、神の適意である、という答えを与えた」のである。すなわち、それは、人間自身教会自身の決定事項ではなくて、あくまでも神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で起こることができる、という答えを与えたのである。なぜならば、それは、神の啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の自己運動が惹き起こす出来事だからである。「神の認識可能性は、神的な介入の行為の中での出来事(≪「単なる知識」の授与ではなく、啓示認識・啓示信仰の授与、信仰の認識としての神認識の授与の出来事≫)であり、それ以外の何ものでもない」のである。~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な「ローマ・カトリックの教説は、いずれにしても、この問いを問うてはいないのである」。したがって、そのローマ・カトリックの教説、すなわち「神の啓示なしにも認識できる神の認識可能性についてのその命題は、それゆえに「先ず抽象的ニ創造者なる神の認識可能性」を問う命題は、「この問いに対する答えではないのである」。ローマ・カトリックの教説の「先ず(≪一面的に分割し≫)抽象的ニ創造者なる神の認識可能性」を問う命題においては、「その業と行為(≪その存在の仕方≫)の中での神の存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の存在≫)が問題ではなく、ただそれとして(≪創造者なる神として一面的に分割し形而上学的≫)抽象的ニ見られた神の存在が問題」なのである。言い換えれば、そのローマ・カトリックの教説は、神の認識可能性を、「人間ノ自然的理性ノ光」、「人間理性ノ自然的ナ光」に根拠づけたいのである。すなわち、ローマ・カトリックの教説は、「教義学的な合理主義」を志向し目指しているのである。総括的に言えば、それは、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教を志向し目指しているのである。このような訳で、ローマ・カトリックの教説は、三位一体の神を一面的に分割し「スベテノ物ノ始メト終局、創造者なる~、はいます」ということを念頭に置いて、「~は認識可能であり、神の啓示なしにも認識可能である、と決定を下」したのである。すなわち、「啓示なしにも認識できる」という三位一体の神を一面的に分割し「抽象的ニ理解された神の存在」に対して、「全く別な平面の上で」、「人間ノ自然的理性ノ光」・「人間理性ノ自然的ナ光」を持った人間の「存在が帰せられ」たのである。総括的に言えば、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教を承認したのである。すなわち、「存在するものの類比、存在ノ類比」、「存在に対する神と人間の関係」は、「それぞれ全く違ったものであり、神と人間は存在に対して全く違った仕方で参与するのであるが」、「神と人間がいずれにしても一緒に把握される存在理念を承認」したものなのである。その場合、神の認識可能性は、「神とわれわれを包括する存在者の類比から成り立つ」ことになる。まさにその場合、そこで認識された神は、その神への信仰は、ハイデッガーが揶揄・批判したように、「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝)としかならないのであるから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい避難を受け入れた方がよい』」ところの神(偶像)でしかないものなのである。もしもそうであるならば、そのような神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な聖職者や説教者や神学者やキリスト教的著述家の言葉に耳を傾けるよりは、実際的に、確実に、人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるところの、純粋に人間的な領域で思惟と語りを為す吉本やフーコやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスや太宰や賢治やドストエフスキー等の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである。
 「神はただその啓示からだけ」、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力によってだけ、「認識可能であるという神の認識可能性についてのわれわれの命題に対するローマ・カトリックの答え」は、「存在ノ類比についての(≪神の認識可能性は、「神とわれわれを包括する存在者の類比から成り立つ」という≫)解釈に還元」することができるかどうかということについては、ローマ・カトリックの「ゴットリープ・ゼーンゲン」の論文に関しては、「まだ決着がつけられていない」。なぜならば、ゼーンゲンは、「一九三七年の……『信仰ノ類比』という二論文の中で」、「神の存在の認識は神の行為の認識に、したがって存在ノ類比は信仰ノ類比に、……従属させられるべきである」と述べているからである。「存在は活動に従う」・「存在の認識は活動の認識に従う」。「信仰ノ類比は存在ノ類比を贖イ、高メルトコロノモノである――換言すれば、イエス・キリストを通して取リ上ゲラレルコトを必要としている」。「人間的ナ性質ヲトル~ノ言葉ハ、存在ノ類比ヲ取リ上ゲルワレワレノ『信仰ノ類比』デアル」。「それであるから、信仰ノ参与は徹頭徹尾、存在ノ参与と対立している訳ではない。むしろ信仰ノ参与こそが存在ノ参与デアル」。「~の言葉が、信仰のすべての生きた運動の中での主権的な主体」であり続けるために、「『言葉ト信仰ノ活動』の関心事が、『言葉ト信仰ノ実体』の関心事」と結びつけられなければならない」というこのゼーンゲンの立場が、「ローマ・カトリックの存在ノ類比論であるとするならば、その時わたしは確かに、存在ノ類比を『反キリストの発明』だとみなすという以前述べた命題を撤回しなければならないであろう」。なぜならば、「神の恵みの中に、したがって信仰の中に基礎づけられた存在参与に関する、そして実体と活動に関する警告は、当然のことながら正しい」からである。言い換えれば、聖書的啓示証言の本来的テーマは、 三位一体の第二の存在の仕方(業と行為)である「子なる神、キリストの神性」・単一性・永遠性を問う問いの中に、すなわちキリストの存在と本質を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されているからである。単一性・神性・永遠性を本質とする神の存在が、イエス・キリストにおいて、インマヌエル、「神われらと共にいます」という神の第二の存在の仕方(業と行為)で、顕現・自己啓示したということは、単一性・神性・永遠性をその存在と本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」において、「自己を覆い隠す」・隠蔽性・秘義性・「聖性」を、単一性・神性・永遠性をその存在と本質とする神の起源的な第一の存在の仕方(業と行為)である父が子として「自分を自分から区別」したことを意味するからである。したがって、この自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」、神の第二の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において、その存在と本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示だからである。このことは、「神ご自身が、われわれ人間に対して自己啓示されないならば」、すなわち「神ご自身」が、神と「われわれ」人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた「われわれ」人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を持つことはできないということを意味している。言い換えれば、終末論的限界の下で与えられ持つ信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ可能なのである。この時、「われわれ」は、「存在ノ類比についての(≪神の認識可能性は、「神とわれわれを包括する存在者の類比から成り立つ」という≫)解釈」に依拠して、「内被造世界での、……父」から、単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方である父を類比することはできないのであって、逆に、「内被造世界での、……父」についての人間の自己認識・自己理解・自己規定を、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして、単一性・神性・永遠性を本質とする父なる~のその起源的な第一の存在の仕方(業と行為)から、すなわち神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられるその啓示認識・啓示信仰から、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して得ることができるのである。この時また、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であるという人間の自己認識・自己理解・自己規定を得ることができるのである。この立場に立脚するならば、「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれ」は、「甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」という啓示認識・啓示信仰の授与において、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」(『福音と律法』)という人間の自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。論述を元に戻せば、「われわれは結局」は、ゼーンゲンの立場がローマ・カトリックの立場ではなく、「われわれの命題に反対して述べている」ヴァチカン公式文書の立場、「フォイリングおよびフェール」の存在ノ類比の立場が「ローマ・カトリックの立場と見なさなければならないであろう」。まさに、そのヴァチカン公式文書の立場においては、@「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識」であり、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものであり、それゆえに「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものなのである(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)、A「神とはまさに、人間の(≪自由な自己意識の類的活動≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)ものなのである。神と人間との無限の質的差異の下で、「神の創造者としての存在とわれわれの被造物としての存在、神の聖なる存在とわれわれの罪人としての存在、神の永遠的存在とわれわれの時間的存在の間に比較可能性と共通性」は全くないのである。「われわれにとって可能」な神認識の「類比」は全くないのである。したがって、「もしも神と人間の間に……こことあそこでの存在者の類比であり、それの中で、それと共に、事実神の認識可能性が与えられるであろう類比があるとするならば、それは、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神ご自身の業と行動(≪存在の仕方≫)を通して措定され、造り出され、……ただ神からだけ、したがって……ただ信仰の中でだけ、実在である存在者の類比以外の何もの」でもないのである。言い換えれば、それは、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識における、三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、インマヌエル、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の子、~の言葉そのもの、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、および第二の形態――イエス・キリストによって直接的に唯一回的に特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての直接的な最初の第一の「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言(聖書)、客観的な啓示の「概念の実在」、ならびに第三の形態――起源的な第一の形態を、具体的には第二の形態をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的服従と自律的服従との同在性において、それを媒介・反復することを通して聞き教えるところの、それに聞き教えられることを通して教えるところの、換言すればそういう仕方で純粋なキリストにあっての神(純粋なキリストの福音、純粋な教え)を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実に所有することができるためにキリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えるところの、そういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの、全く人間的な教会の客観的な信仰告白・教義、のことである。「人はここで、別の類比……を主張できるだろうか」。もしもできると主張するならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その第二の存在の仕方・活動(業と行為)において単一性・神性・永遠性としてのその神の存在と本質の認識と信仰を要求する啓示であるから、「存在ハ活動ニ従ウ」ということを、「『形而上学的な』活動ハ存在ニ従ウに変えてしまう転倒」の誤謬を犯すことになるのである。「この転倒は、あのキリスト教的神観の分割が非教会的であるのとまさに同じように、非教会的」なのである。なぜならば、聖書的啓示証言の中には、「人間に対する神の業と行動(≪三つの存在の仕方≫)の主体としての神の存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の存在≫)、(またイエス・キリストの神であり、また肉となった言葉であり、また聖霊である……)イスラエルの神の存在、以外の存在」はないからである。したがって、「活動(≪三つの存在の仕方≫)ハ存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする存在≫)ニ従ウ」は、単一性・神性・永遠性を本質とする内的な、内在的な、自己還帰的な「父なる名の内三位一体的特殊性」において、「あくまでも神ご自身のものであり続け、決してわれわれの認識秩序とはなり得ない」ものなのである。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その存在の仕方・活動(業と行為)において単一性・神性・永遠性としてのその神の存在と本質の認識と信仰を要求する啓示であるから、「教会の中では、そしてまた教会の学問の中では、その行為(≪その存在の仕方≫)の中での神の存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の存在≫)が、実践的に、したがって神の認識可能性に関して、真剣に受け取られなければならないのである」。
 「われわれはここで、(≪ヴァチカン公式文書におけるあの≫)神の認識可能性についての(「決定的」に「危険」な)ローマ・カトリックの教説(≪ローマ・カトリックの神学≫)に対して、……反対の立場をとる」。「われわれが(中略)どうしても耐えられないこと、……大目に見るわけにはゆかないこと」は、次の点にある――それは、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的なローマ・カトリックの「二重の恣意の行為」、すなわち第一に、三位一体の神を「抽象的ニ」分割し一面化する神観である、第二には、「それと結びついた……(~がわれわれおよびすべての存在者と共通に持っている)一般的な存在を主張するために、(≪~の存在を≫)~の現実の業と行為(≪存在の仕方≫)から切り離してみる抽象」である。このようなローマ・カトリックの恣意的独善的な神観は、「人間ノ自然的理性の光」あるいは「人間理性ノ自然的な光」によって、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動によって、人間の側から、「世から~が認識し得るという~の認識可能性」の主張を必然的に帰結させるものなのである。総括的に言えば、それは、その最初から自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返しそこに憩うことを志向し目指すものなのである。したがって、「われわれは、(≪この≫)神の認識可能性についてのローマ・カトリックの教説に対して、……反対の立場をとる」。「人間に対する神の業と行為(≪三つの存在の仕方≫)の主体としての~の存在(≪単一性・神性・永遠性を、聖性・秘義性・隠蔽性を、本質とする~の存在≫)……以外の存在」はないのである。イエス・キリストにおいて自己啓示された~は、その第二の存在の仕方において、その神の存在と本質の認識と信仰を要求するのである。したがって、この信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)として神認識は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいてのみ終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間のそれとして与えられるものである。この啓示認識・啓示信仰には、聖霊によって更新された理性を必要とするとしても事情はそうなのである(当然のことながら、聖霊によって更新された理性であっても、それは、決して聖霊となることはないのであって、それは、人間理性であり続けるのである)。いずれにしても、ローマ・カトリックのあの「二重の恣意の行為は、疎遠な神を教会の領域に導入することを意味している」から、「われわれは、……反対の立場をとる」のである。ローマ・カトリックのあの「二重の恣意の行為」は、あの「神の特別な関与なしにも、被造物カラシテ人間理性ノ自然的ナ光ニヨッテ認識できる」ことを意味しているから、「われわれは、……反対の立場をとる」のである。この時、啓示は、ヘーゲル哲学におけるように、「意識に対して存在するものすべてのものが、意識にとって一つの対象となる時のような仕方において」現われ、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」ことを意味しているから、すなわち「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の止揚を意味しているから、「われわれは、……反対の立場をとる」のである。この時、「キリスト教のもろもろの根本原理」は、ヘーゲル哲学と「本質的に……一致する」(『ヘーゲル』)から、「われわれは、……反対の立場をとる」のである。「神の認識可能性についてのローマ・カトリックの教説」(近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教を含めて総括的に言えば、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教)においては、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を後景へと退けてしまって、「人間は自分自身の全権と力とによって」、「神の領域」にまで「わがまま勝手に」「自由に出入り」することができるのである。この時、「人間は、全く(≪あの≫)恵と奇跡なしに、全く『自然的に』世の存在を念頭に置きつつ」、「より高度な、神的な存在(≪~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会が恣意的独善的に対象化した「存在者レベルでの神」、「偶像」≫)を自分自身とほかの者に向かって説得する能力を持」つのである。「実にこの能力から、すべての偶像(≪「存在者レベルでの神」≫)は発生したのである」。このようにして、「教会の主を、あの偶像と等置したということが、ローマ・カトリックの教説(≪総括的に言えば、近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教を含めて自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教≫)」の「本来的に悪い、また拒否されるべき点」なのである。「われわれはヴァチカンの『自然神学』そのものにたいしてだけ抗弁しているのではない。われわれがそのことをするのは、ただ先ずヴァチカンの神概念に対して、それは、明らかに、ヤハウェとバアルを、聖書の三位一体の神とアリストテレスおよびストア哲学の存在概念を、結びつけようとするこころみ(≪自然神学の<段階>における、~と人間、聖書的~概念と哲学的存在概念、神学と人間学との混淆・混合化)による形成物だと反対することから、当然出てくる結論である」。「造られたものから理性を通して神を知ること(≪人間理性を通して、造られたものとしての被造物、世界から、神を認識すること≫)ができるという神の認識可能性についての命題」は、「神概念の……異教的な構成要素」である。したがって、「われわれ」は、造られたものとしての被造物を、世界を、「三位一体の神」から認識し「説明せんと欲する」。