本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−2)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−2)−1(137−154頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1で行っていますので、参照してください(2017年4月24日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「一 神の用意」(その5−2)−1
 先ず以て「自由」・「主権」は「神ご自身においてのみ実在であり真理である」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。自在であって他在あるいは他在であって自在、対自的であって対他的、全き自由の神の「存在と本質」は 単一性・神性・永遠性にあるから、その単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)である「父なる名の内三位一体的特殊性」――すなわち、内的な、内在的な、自己還帰的な、父(神の起源的な第一の存在の仕方)は子(神の第二の存在の仕方)として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源(神の起源的な第一の存在の仕方)であり、その区別された子(神の第二の存在の仕方)は父(神の起源的な第一の存在の仕方)が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊(神の第三の存在の仕方)は父(神の起源的な第一の存在の仕方)と子(神の第二の存在の仕方)が根源である。この、聖書的啓示証言の中でイエス・キリストにおいて自己啓示された三位一体の神ということを、「われわれ」は、神のその都度の自由な恵の決断により、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(内的な、内在的な、自己還帰的な、神の<第二の存在の仕方>の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」)における客観的な啓示の出来事と、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言におけるイエス・キリストにおける客観的な啓示の出来事と、その出来事の中での主観的側面である聖霊(単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方)の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて、終末論的限界の下で、「徹頭徹尾まさにそのような方であり給う」という信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を与えられるのである。言い換えれば、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」という信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を与えられるのである、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性という信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を与えられるのである、それゆえにその信仰の認識としての神認識は、「われわれ」の啓示認識・啓示信仰における終末論的限界を認識させ自覚させるのである。また、その第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)のその信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということ」は、徹頭徹尾、「神ご自身の決定事項」であるということを認識させ自覚させるのである、それゆえに「われわれ」の思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」ということを認識させ自覚させるのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、「『自分の理性(≪自己意識・思惟≫)や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』――全く信じることができない」ということを認識させ自覚させるのであるのである(『福音主義神学入門』)。このような訳で、「われわれが神の存在と本質全体が神の適意〔み心に適うこと〕の中で総括され、秩序づけられている」というように「理解することは、ただ単に正しいだけでなく」、「必然的」なことなのである。このような仕方で、「神はわれわれに対して身を向け給うたのである」。したがって、「われわれ」は、その「神的な適意の恵とあわれみの傍らを通り過ぎ」、それを後景へと退けるならば、「われわれ」の「神の認識可能性」と「神認識の確実性」を「確かめる……道」を断ち切ることになり、「確かめるいかなる道」をも持つことができなくなるのである。したがって、その道は、次のような仕方でしか持つことはできないのである。すなわち、それは、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)が、神の言葉の起源的な第一の形態――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、~の子、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には神の言葉の第二の形態――すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、その宣教、その神学、その信仰における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それを媒介・反復することを通して、それに聞き教えられることを通して、純粋な、キリストにあっての神を、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要請・要求)、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」(『福音と律法』)、すなわちすべての人々が<キリストの福音>を現実的に所有することができるために、聖書が義務づけている教えられることを通して教える教会の宣教の務め、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していくという仕方でしか持つことはできないのである、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)における、それぞれの時代、それぞれの世代の、そういう実践の中で、すなわちそれぞれの時代、それぞれの世代の、キリスト教に固有な類の時間累積の中で、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくという仕方でしか持つことはできないのである。したがって、1987年の「プロテスタント、カトリック共同翻訳の聖書」――すなわち「新共同訳聖書」は、その「序文」で「一九七八年に出版した、『新約聖書 共同訳』に対し、全く新しい翻訳といえるほどに大幅改訂の加えられたものになった」「プロテスタント、カトリック両教会の共同事業」と述べられているが、ただ単なる「共同事業」であって、ここで述べられている意味での「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指したものでは全くないのである。なぜならば、第一に、「共同訳聖書実行委員会」は、@神と人間との無限の質的差異を後景へと退けて為される自然や人間を対象とする学問研究の場である「大学社会」の神学から対象的になって距離をとれていない、それゆえに「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)から対象的になって距離をとれていない、A総括的に言えば、カトリックにはもともとあるところの、またプロテスタントにもあるところの、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教のその根本的包括的な原理的な問題を認識し自覚し明確に提起していない、B「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性についての認識と自覚がない、からである。この自然神学の<段階>で憩うことは、近代以降においてヘーゲル哲学(~の人間化あるいは人間の神化を原理とする)の登場と共に自然必然性・不可避性となった。それだけでなく、もともと自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すカトリックの主張が介在すれば、また近代主義的プロテスタント主義的主張が介在すれば、その<共同>翻訳聖書は、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教にある根本的包括的な原理的な問題を認識し自覚し明確に提起することはできないから、その問題を根本的包括的に原理的に止揚し克服していくという課題を真剣に引き受けることはできないのであって、それゆえに結局は人類史におけるアジア的日本的な特質としてある曖昧性の中に雲散霧消させてしまうしかないのである。個体的自己としての全人間の、全世界の、全人類の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」ところの、それゆえ第三の形態の全く人間的な教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せるところの、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける~の自己啓示の場所に対して他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それゆえに聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけである」(マルクス『経済学批判 序言』)から、先ず以て「問題を明確に提起する」(『ユダヤ人問題に寄せて』)ことが、換言すればキリスト教信仰・神学・教会の宣教においては、総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教の根本的包括的な原理的な問題を明確に提起して、その問題を根本的包括的に原理的に止揚し克服する方途を明確に提起していくことが肝要なことなのである。したがって、プロテスタントとカトリックの共同翻訳作業に課題があるわけではないのである、また教理史的には、大学社会の教養神学におけるように、キリスト教にはさまざまな教派があり、さまざまな思想傾向があり、さまざまな主義主張があるというように、「単なる知識」として、総花的に細分化することに課題があるわけではないのである。このような訳であるから、不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した歴史的現存性のただ中において、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)が、聖書的啓示証言に基づいて現在から未来に生きる言葉を発するためには、換言すれば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学の<段階>へと移行することができるためには、バルトと同様に、<~の側の真実>としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、客観的な永遠的実在としてある、<不信>を包括し止揚し克服した<信>の<段階>へと移行することができるところの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和であるところの、「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等」の「イエス・キリストの信仰」を、啓示認識・啓示信仰として、それは「明らかに主格的属格として理解されるべきものである」と言い切ることが肝要なことなのである、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、 現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)と言い切ることが肝要なことなのである。論述を元に戻せば、前述したように、「もしもわれわれの神認識の基礎にある神の用意が神的適意の秘義として理解されないならば、もしもわれわれがただの一瞬間たりとも、神の真理がわれわれに啓示されることによって、神があのように尊厳に満ちた仕方でわれわれに働きかけてくださったことに対して当然神に捧げるべき感謝を捧げないとするならば、その時、神の用意は全く理解されないことになるであろう」。
 「われわれ」は、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して、「『主』および『主権』についてのわれわれの表象を、ただ無限に、絶対的なものへと延長しさえすれば」認識可能となるような、すなわちそういう仕方で「主としての神の本質と存在がわれわれにとって」認識可能となるような「類比を持ってはいない」のである。なぜならば、神と人間との間には「無限の質的差異」があり、あり続けるからである。もしもそうでないとするならば、その神は、聖書的啓示証言における神ではないのである、ハイデッガーやフォイエルバッハやマルクスが根本的包括的に原理的に揶揄・批判したように、結局は、人間自身教会自身が対象化した・客体化した「存在者レベルでの神」(偶像)でしかないのである、人間の自由な自己意識の類的活動が対象化した類的本質としての神でしかないのである、最後的には政治的近代国家へと馳せ下る世俗化した<共同宗教>としてのキリスト教における神でしかないのである。したがって、「まさに決定的な点で役に立たない神の類比、換言すれば、そこで名目上神に類比的なものに内容と存続を与えるために神ご自身を必要としているような類比は、明らかに神の類比として有効な力をもって働くことはできない」のである。「われわれが主としての神とその主権を知るならば、その時、それは、われわれがそのほかにもある主および主権について知っていることに基づいてではなく」、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に基づいてではなく、「全くただ神の啓示に基づいてのことである」、「神的恵とあわれみの適意を通して、すなわち神の自由な主導権に基づくと同時に神の秘義の中」においてである、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で与えられる信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識においてである。したがって、この啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、終末論的限界の下で、被造物的世界における「主および主権」についての自己認識・自己理解・自己規定を与えられるのである。このバルトの思惟と語りは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』においては、次のように述べられている――「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、それゆえに神の類比とすることはできないので、それは、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解されなければならない。すなわち、この「神の内三位一体的父の名」についての啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、終末論的限界の下で、「内被造世界での、……父という呼び名」についての自己認識・自己理解・自己規定を与えられるのである。
 さて、私たちは、バルトの全著作に、処女作『ローマ書』から『教会教義学 和解論』に至るまで貫徹され続けている、神と人間との無限の質的差異ということを念頭に置いた論理的一貫性を垣間見ることができる。バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論T/ 1 和解論の対象と問題』で、神と人間との無限の質的差異ということを念頭に置いて、「神の霊と人間の精神の全面的な区別」が強調されなければならない・そして、その「啓示の主体的現実」化(人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰の授与)を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解」しなければならない、と述べている(この思惟と語りは、『教義学要綱』で、神と人間との無限の質的差異ということを念頭に置いて述べられている、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」という思惟と語りと同じなのである)。言い換えれば、この思惟と語りは、前期から後期に至るまで一貫した、バルトの根本的包括的な原理的な立場なのである。したがって、バルトの著作の一部分を拡大鏡にかけ全体化して、前期バルトと後期バルトを二元論的に分断するバルト論者は、全くの、根本的包括的な原理的な誤謬に陥っているのである。そのように二元論的に前期バルトと後期バルトを分断し絶対化して、これが通説だ、というような通俗性や知識や情報は、決してそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのであって、先ず以てそういう通俗的な通説や知識や情報から対象的なって距離を取り、それらには根本的包括的な原理的な誤謬がないかどうかを確認する作業をした方がいいのである。なぜならば、根本的包括的な原理的な誤謬を知ったかぶりして公表した場合、それを公表した当人が恥をかくのはその人の勝手であり自由であるが、それを鵜呑みにし模倣した自分まで恥をかかなければならなくなるからである。このことは、確信を持って言うことができる――すなわち、ローマ・カトリックやプロテスタントにおける自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に抗することができるところの、それゆえにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判に抗することができるところの、「聖書の主題」である~と人間との無限の質的差異は、明確に処女作『ローマ書』から認識され自覚されたバルトの根本的包括的な原理的な立場であって、後期バルトにおいても貫徹され続けている、と言うことができる。したがって、前期バルト(例えば処女作と呼べる『ローマ書』)と後期バルト(例えば『教会教義学』や『神の人間性』)とを二元論的に分断し、後期バルトは神と人間との無限の質的差異の立場に立脚していないというような根本的包括的な原理的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて」知ったかぶりして出鱈目極まりないバルト論を堂々と展開している頑ななバルト論者たちに対しては、神と人間との無限の質的差異についての認識と自覚を、後期の『教会教義学 神の言葉』や『教会教義学 神論』等々においても貫徹しているバルトの次のような言葉をもう一つ置くだけで十分であるだろう――「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」、事実理解していない(後期著作『神の人間性』)。したがって、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における最善最良のバルト自身の信仰・神学・教会の宣教を人々に誤解させてしまうあのような出鱈目極まりない知ったかぶりの論述に対しては、断固として、バルト自身の著作に即して論破しなければならないのである。バルトは、二、三流の神学者ではなく、世界的に一流の神学者でありその帯域の思想家であって、次のような前期『ローマ書』にある言葉は、後期に至るまで貫徹され続けたバルトの根本的包括的な原理的な立場なのである――「私が<『方式』>なるものをもてっているとすれば、……<時間と永遠との『無限の質的差別』>……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が<聖書の主題>であり、同時に<哲学の要旨>である」。「個人の生涯の思想が、処女作に向かって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろうもの」であり、「生涯これをこえることはなかった」(吉本隆明『カール・マルクス』)とすれば、バルトにおける処女作である『ローマ書』にある~と人間との無限の質的差異という「聖書の主題」は、後期に至るまで貫徹され続けたのである、現実の事実として貫徹され続けたのである。また、前期と後期との間にある『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』においても、「ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の(≪総括的に言えば、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すことを志向し目指す信仰・神学・教会の宣教という≫)危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係(神と人間との無限の質的差異という「聖書の主題」)があらゆる点で、原理的に<転倒不可能な関係>だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハ(≪人間の自由な自己意識の類的活動における類的本質としての神、宗教としてのキリスト教、批判≫)を有効に防御するためには確信を持っていなければならない」・「(≪ヘーゲルのように神と人間との無限の質的差異を止揚した≫)神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、(≪そのフォイエルバッハのキリスト教批判は、根本的包括的に原理的に現実性と妥当性があるから、≫)フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない(≪フォイエルバッハを根本的包括的に原理的に批判することは決してできない≫)」、と述べている。また、その後の『福音と律法』においても、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、「われわれ人間」のために「われわれ人間」に代わって、「われわれ人間」の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである「刑罰(死)」を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)――このインマヌエルの出来事は、「われわれ人間」からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「<神であることを廃めず>」に、「何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも<混淆されぬように>、(≪徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異の下で≫)統一し給うた」ということを内容としている、と述べている。このようなバルトの信仰・神学・教会の宣教の総体的構造が理解できなくては、バルトを根本的包括的に原理的に論じられる訳がないのである、換言すればバルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化した、それゆえに根本的包括的な原理的な誤謬を内包させた形而上学的一面的皮相的固定的抽象的なバルト論しか展開することはできないのである。「歴史とは個々の世代(≪個体的自己としての全人間の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪および言語、性・夫婦・家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)。ハイデッガー自身は、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠しただけのブルトマンとは全く違って、その存在、その現前性、その被制作性、その被企投性、その言語、そのシンボル体系、その不可避な類・歴史性の第一次性を自覚することで<転回>して、人間的現実存在(思索者・詩作者)の自由なその思考、その現存性、その時間化(差異化)と存在了解、その企投性の<限界性>を認識し自覚するのである、すなわち類・歴史性と個・現存性とが出会う出来事・「存在の生起の出来事」を自覚するのである。言い換えれば、個体的自己としての全人間は、類・歴史性と個・現存性の関係と構造の総体を生きることを自覚するのである。したがって、ハイデッガーの転回は、後期ハイデッガーが前期ハイデッガーを捨象し分断したということではなくて、後期ハイデッガーが前期ハイデッガーを包摂してその概念構成を重層化させ高度化させ深化させた・その現存性を豊富化させたということである。神学者ブルトマンは、このことを認識し自覚することができなかった。したがって、バルト自身も、ブルトマンはハイデッガー自身によってその足をすくわれてしまった、と述べたのである。この神学における現実の事実を見る時、一方で近代主義者として現存する「人間の経験の尊重」を主張するルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健が、他方で恣意的独善的なボーレンが対象化したに過ぎない「聖霊論的出発」という概念に依拠し中世的思考に移行して人間学に対する「神学の優位性」を主張するその主張の仕方は、全く以て自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」に過ぎないということを、実感的に知ることができるのである。論述を元に戻せば、「~の主権の決定的な特徴は、言うまでもなく、(≪神と人間との無限の質的差異の下で、≫)~が万物の上にいます主で、とりわけわれわれ自身の上にいます主であり給い、しかもわれわれのからだとわれわれの精神の主、生と死を支配する方で現にあり給うということである」。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』において、次のように述べている――@「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りに対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、~と人間との無限の質的差異の下で、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない・それは、ただ単なる人間の自由な自己意識の類的活動における人間自身の自己認識、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかない・また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」でしかない、と根本的包括的な原理的な批判を加えた、A客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、その「客観的な啓示の出来事の中での主観的側面」としてのキリストの霊である聖霊の証しの力に信頼し固執したバルトは、「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書(聖書的啓示証言)に依拠した教会の宣教およびその神学は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」、終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と述べた、B聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」、「一人の同一なる神」である、すなわち「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、「三位一体の神」である、それゆえに「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と述べた、Cアウグスティヌスは、自然神学の<段階>における言葉で、「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように思惟し語り、バルトは、その自然神学の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し紙一重で克服して、<非>自然神学の<段階>における言葉で、「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように思惟し語った。また、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』においては、バルトは、次のように述べている――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした・それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった・このことは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウ」としたアンセルムスにとってもそうであった、しかし「教義学的な合理主義を明確に否定」したアンセルムスは、アウグスティヌスとは違って、@徹頭徹尾、「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった、したがって、Aアンセルムスの「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、客観的な啓示から得られた認識、すなわち客観的な啓示の「概念の実在」を、「啓示、恵み、信仰(≪神の自由な恵の決断による、客観的な啓示の出来事とその主観的側面としての信仰の出来事に基づくそれ≫)」を、前提条件としていた。

 

 前述したように、「われわれは、創造者としての~の本質と存在」について認識可能となるような「われわれ」人間の側からする「いかなる類比も持っていない」。「創造」とは、~と人間との無限の質的差異の下で、「われわれの存在」が、「無および非存在と対置されていることを意味している」。なぜならば、創造とは「無カラノ創造」のことだからである。したがって、「創造者とは、無カラノ創造者のことである」。このような訳で、単一性・神性・永遠性を本質とする「父なる名の三位一体的特殊性」における「創造者」とは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方、「ただ全くひとりで存在し給う方のことを意味しており、またすべてのそのほかの存在するものをその方の意志と言葉の業(≪~の起源的な第一の存在の仕方≫)として受け取ることを意味している」。このことを『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、@この単一性・神性・永遠性を本質とする神は、子において「創造主として、われわれの父」として自己啓示するから、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であるのと同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである、A単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが父として啓示する神は、自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪のただ中を生きる「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う神」である・したがって、「われわれ」人間を永遠の生命に導くために、「ゴルゴダにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられた」のである・したがってまた、「われわれ」人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにある「復活の力」のみなのである。聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」(存在と本質)を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。近代<主義>に、ヘーゲル<主義>に、近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教に、総括的には自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教に抗することができ、それらを包括し止揚し克服してそこから超え出ることのできるところの、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)の教義は、客観的な「キリストの神性についての教義」・信仰告白である。しかし、自由な自己意識・理性・思惟の類的活動を為すことができる「われわれ」人間は、どちらの道にも行くことができる、それゆえに神と人間との無限の質的差異という「聖書の主題」を後景へと退けて、それゆえに聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性を後景へと退けて、それゆえに終末論的限界を後景へと退けて、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教の道に行くこともできる、またそれに抗して<非>自然神学の<段階>へと移行したキリスト教信仰・神学・教会の宣教の道に行くこともできる。例えば、「われわれ」は、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すブルトマンの道を歩むこともできれば、その<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学の<段階>へと移行したバルトと同じ道を歩むこともできる。すなわち、「われわれ」は、ブルトマンのように、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)を志向し目指して、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式(≪「聖書の中で物語られているもろもろの歴史」を、ブルトマンは「神話」として把握するのであるが、それに対してバルトは「一般的な歴史性」を含んでいるが史実史ではない「歴史物語」・「古潭」・「原歴史」・「史実以前の歴史」として把握する≫)のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」と思惟し語ることができる。その思惟と語りに抗する形で、「われわれ」は、バルトのように、神と人間との無限の質的差異を念頭に置いて、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」―― 否である。「われわれ」は、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける「われわれの実存という場所」において、「われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれのために生きて、われわれを支配」し、「われわれを愛し給う」イエス・キリストを、「認識し(≪啓示認識・啓示信仰し≫)、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」(『ルドルフ・ブルトマン』)と思惟し語ることができる。論述を元に戻せば、前述した「無カラノ創造」ということこそが、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して見た場合、「われわれにとって可能な表象の領域から見た場合」、「ただ馬鹿げたこととしか見えないのである」。自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すルター主義者の倉松功は、『ルターとバルト』において、「ルターによれば文明の建設と発展は理性・知能の課題であり、全人類の課題であり、特定の宗教の特権ではない(≪経済社会構成の高度化拡大、科学技術の進歩発達、その知識の増大高度化、生活の利便性の向上等文明史は自然史の一部としての人類史の自然史的過程のことであるから、特定の宗教の特権ではないことは自明なことであって、このような自明的なことを何か意味ありげに語ること自体が、神学者としてお粗末なのである。こういうことを語るならば、ほんとうは、バルトが『ヘーゲル』で述べていたのように、もっと現在的課題・現在を止揚する課題に引き寄せた形で、本質的に、「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない、と思惟し語るべきなのである≫)。ルターの二つの統治の区別は、かれの文明論の恒常的基礎である。その区別が人間の責任と活動の分野を自由にしている。(中略)被造物的・生物的現実……の中にわれわれに直接出逢う当為の要求が自然に存在する。その要求こそ心に記された理性の基本的規範であるルターによれば、文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との共働の行為(≪神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという、ルターの名に依拠して恣意的独善的に人間自身教会自身の欲望を前面化させる自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教が貌を出している≫)は自発的に形成されるからである」と述べている。それに対して、自然神学の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学の<段階>へと移行したバルトは、『神の人間性』において、人間自身の「素晴らしさ」を語るのであるが、人間の理性、意志、感情、構想、企て等を含めてその究極的な限界性も語るのである。また、「神の人間性」という概念と、その「神の人間性」から与えられた「人間の人間性」との無限の質的差異についても語るのである。すなわち、人間における労働、性・夫婦・家族、言語が対象化した社会構成、支配構成、文明的文化的構成の人間的自然(人間の人間性)は、「神の人間性」ではないということを語るのである。「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた」(『バルト自伝』)。このような訳で、「もしもわれわれが創造者なる~について知っているとするならば」、「神の啓示を通して、われわれに与えられることに基づいてのことである」、「恵とあわれみを通して、神の自由な主導権に基づき、神の秘義の中でのことである」、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる終末論的限界の下での信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識においてことである。したがって、「われわれは、われわれの神認識と直面して、ただ神が神でいまし、われわれに対し神として隠れたままであり給わないということに対して」、それゆえに単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて顕現化、外化、外在化、対象化、客体化された「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」ということに対して、「感謝することができるだけである」。

 

 創造者としての神の本質と存在の場合と同じように、「われわれは、和解者としての神の本質と存在」について認識可能となるような「われわれ」人間の側からする「いかなる類比も持っていない」。このように述べるバルトにとって、平和の概念は~の側の真実としてのみある包括的な救済概念と同じである。その救済概念は、「この世の神との和解」、「人間相互間の和解を直接その内に包含している和解」である。「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において」、すでに完了・成就され、「死人からの復活においてすでに啓示されているような、和解」である。したがって、私たち人間によって初めて完了・成就しなければならないような「和解」ではなく、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的な永遠的実在としてある「神ご自身によって確立された和解」である。したがって、「イエス・キリストにおいては、神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的」なのであり、「敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にある」(寺園喜基訳『平和に関するバルトの書簡』)のである、個と共同性は逆立し対立するのではなく、成立し平和なのである。近代市民社会における「私利」・「私意」の精神に基づく利己主義的な私的他者との対立・争い、利害共同性との対立・争い、「個々人と共同性の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおけるものではない≫)」(『バルトとの対話』)のである。そのイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」 「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者(教)、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)。この~の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける救済・平和は、「神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった(≪客観的≫)現実性」である。「この贈り物はただ、われわれがこれを受けとることを待っている」。したがって、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)を含めて「われわれ」人間が、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨」なのである。そうした中で、私たちは「平和は戦争より善いものであるということを」繰り返し「断言せねば」ならないが、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさない」ことは「明白」である。なぜならば、世界は経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いているからである、自国の利害を守るために一部国家支配上層の意思によって(それゆえに、擬制民主主義としての議会制民主主義において国民の側が戦争反対と平和主義を掲げていても、戦争は、対内的には一部国家支配上層の側から、対外的には他国の側から、不可避的にやって来ることがある)動かすことができる軍事部門を持つ民族国家が存在しているからである。したがって、世界が必要としている革命的認識は、「世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ことに信頼し固執 して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしない」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)ところにある、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性における「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式である律法、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していくところにある。「われわれが和解者なる~を知っているならば」、「神がご自身を和解者として啓示し給い、……そのほかの(≪世や自然神学の<段階>で停滞し循環する信仰・神学・教会の宣教において人間自身教会自身が構想し企てた≫)和解を徹底的に問題化しつつご自身を啓示し給い」、「世が持」つことができると考えている」が「実際は持」つことができない「救済」・「平和」を、人間自身教会自身が構想し企てた社会的あるいは政治的な言説と運動による「救済」・「平和」を、国家的、政治的、道徳的、倫理的な「救済」・「平和を裁きつつ」、そのような「救済」・「平和」を「終わ」らせ、「実際の和解の初めとして」、「神がご自身を和解者として啓示し給」うたということに基づいてのことである、その「神の啓示を通して、われわれに与えられていることに基づいてのことである」。すなわち、「われわれが和解者としての神を知る時」、創造主としての神を知る時と同じように、「そのことは、神の適意を通して、……ただ神ご自身の主導権に基づき、神の秘義の中でだけ」、すなわち神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で起こることができるのである。その時、「神がこの神であり給い、そのようにしてわれわれの間での、われわれのための、神であり給うことに対する感謝がわれわれにとって残された唯一のこと」である。

 

 最後に、創造者としての、和解者としての、神の本質と存在の場合と同じように、「われわれは、救済者としての神の本質と存在」について認識可能となるような「われわれ」人間の側からする「いかなる類比も持っていない」。現在は時代状況がゆるさないとしても、かつて人は、西洋近代を頂点とする進歩史観を構成し得た。「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」を為す大学社会の場において、「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念によって、「終末論」と「歴史」とを結び付けようとし、「終末論的なものが、このような仕方で歴史的になることによって、歴史的なものが終末論的になる」と主張したモルトマンは、神学的な三段階的進歩史観を空想した。モルトマンに傾倒し、メルロ・ポンティの身体性の概念に依拠した喜田川信は、「神の自己犠牲の愛の霊が十字架に基づけられた教会によって担われ、それによって歴史が進展し、この世が変革され、神の国を目指す」という神学的な進歩史観を空想した(『歴史を導く神――バルトとモルトマン』)。このようなモルトマンに評価されることを評価の基準として考えている牧師もいた。これら神学的な進歩史観は、「救済と何の関わりも持って」はいない、「また救済者としての神と何の関わりも持って」いないのである。「われわれは、われわれの前にある時間の空虚な形式としての、未来を知っている……すべての生成の基礎にあると共にそれに先行する完成という理念を知っている。しかし、それらすべては、救済と何の関わりを持っているであろうか。また救済者としての神と何の関わりを持っているであろうか」。このような空想的に思惟し語る神学者や牧師やキリスト教的著述家たちとは違って、ヘーゲル的マルクス的な西洋近代を頂点としたリニアな進歩史観は全く成立できなくなっているただ中で、西欧思想の危機と帝国主義の終焉について、フランス人のミシェル・フーコーは次のように述べている――@西欧に生きる「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……」。「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」。そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」、A「西欧とは、世界のある特定の地域であり、世界史上のある特定の時期にあるものです」。その西欧は、近代以降において、世界普遍性を獲得した地域、「普遍性誕生の場」である、この意味で、「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機なのです」、B「たとえばマルクシズムは、(中略)一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構となりました。(中略)マルクシズムは現在、明白な危機のうちにあります。それは西欧思想の危機であり、革命という西欧概念の危機、人間、社会という西欧概念の危機なのです。それはまた全世界にかかわる危機……です」(『フーコーと禅』)。また、この日本にある資質を持って生きある職業を持って生活し感情し思惟し思想し意志し喜怒哀楽した吉本隆明は、アジア的な日本的特殊性の自覚に基づいて日本の状況について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえば(人類史における)アジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」、すなわちこの日本においては、西欧的危機の課題とアジア的な日本的特殊性の課題とを構造として扱う必要がある、と述べている(『世界認識の方法』)。論述を元に戻せば、「ちょうど創造者なる~がわれわれ(≪人間≫)の世界像の始まりのところにあるXでないように、~は救済者としてわれわれ(≪人間≫)の世界像の終わりのところにあるXではない」のである。『教会教義学 ~の言葉T/1・2』でバルトが述べているように、「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」――総括的に言えば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教におけるこれらの事態は、大学が自然や人間を対象とした学問研究の場である以上、必然的帰結なのである。また、時流や時勢に乗った、その極限に天然自然主義を想定できるエコロジー神学、フェミニズム神学、マルクス主義神学、民族主義神学等も、<党派主義>的神学として全くよくない、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す神学なのである。それに対して、これら神学や大学の場を構成している<学問>・<知識>から対象的になって距離をとった神学者であり神学における思想家であるバルトは、「方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」・「われわれが哲学的用語を使うという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」(『バルトとの対話』)と述べたのである、総括的に言えば<非>自然神学の<段階>へと移行したキリスト教信仰・神学・教会の宣教を志向し目指したのである――「≪「われわれ」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、~の子、~の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、客観的な「啓示の実在」そのもの、~と人間との無限の質的差異の下でその神性そのものの受肉ではなくてあくまでもその言葉の受肉であるところのナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエス・キリストの名」、インマヌエル、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪ある教派、ある学派、ある思想傾向、ある文化的傾向、ある時流や時勢、ある社会的あるいは政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。同じように、大学の場を構成している<学>・<知>から対象的になって距離をとった文芸批評家であり思想家である吉本隆明は、「(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない ……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります」(『信の構造2――全キリスト教論集成』)、と述べたのである。神に敵対し神に服従しない「われわれ人間」は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないから(「『自分の理性や力』、意志力、感情力、自然を内面の原理とする身体的修行等によっては、「全く信じることができない」から)、神の言葉は、隠蔽と顕現において、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で、「われわれのところに来る」のである、それゆえに神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、信仰の出来事(啓示認識・啓示信仰の授与、信仰の認識としての神認識の授与、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、徹頭徹尾、「人間自身の業」ではなく、「神の言葉自身」、すなわち客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である「聖霊の注出」・「聖霊の注ぎ」においてのみ可能となるのである、すなわち「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」なのである。したがって、聖書的啓示証言の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(その死と復活)、インマヌエル、そのキリストの福音の宣べ伝えを志向し目指すことのない「単なる知識」としての形而上学的な信仰、形而上学的な教会の宣教、形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、その信仰、その教会の宣教、その教義学は、キリストの福音の宣教とはならないだろうし、それゆえに教義学としても「非学問的」なのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。「救済」とは、「世界が何らかの方向に向かって発展して行くとか世界の中でわれわれが何らかの方向に向かって進化して行くことを意味しない」、人間自身教会自身が構想し企てるリニアな進歩史観を全く意味しない。「救済」とは、~の側の真実としてのみある復活した「イエス・キリストが、再び来たり給う」ということである、再臨し給うことである。「救済」とは、~の側の真実としてのみある「肉の甦えりのことであり、永遠の死からの救いとしての永遠の生命を意味する」。したがって、それは、その最初から、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、「われわれ」人間にとって「可能な希望」や構想や企ての類比の対象とはなり得ないものである。したがってまた、それは、キリストの復活の出来事と同じように神の言葉に対する他律的服従と自律的服従との同在性において、ただ次のような素直な告白や証しや宣べ伝えとしかなり得ないものなのである――バルトは、バーゼルの刑務所でイエス・キリストの復活の出来事について、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事について説教をして、復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に即して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」・「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである・したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけなのである・今日でも、「ロシアにおいて、キリスト者は、お互いに、『イエス・キリストは甦られた!』と挨拶し、それに対して相手は、『まことに彼は甦られた!』と答える」・このことは、説明ではなく、「告白」・「証し」・「宣べ伝え」である(『主を見た時 ヨハネ』)と述べ、福音は「魂と体、天と地、内的と外的いのちのため」にある、われわれは、身体的存在と理性的存在という全体的人間を考えなければならない、救贖・完成(復活したキリストの再臨)は全的人間のそれであるから、身体的復活である(『バルトとの対話』)と述べた。このような訳で、「もしも本当の希望があるならば、内容と確かな存続を持つ希望があるならば、その時この未来は(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である≫)救済者なる~の未来である」。「もしもわれわれが実際に救済者なる~を知るようになるとするならば」、「われわれ」人間にとって「可能な希望」や構想等「そのほかの救済について知っていること」から類比的に知ることはできないのであって、あくまでも「救済者なる~の未来の啓示を通して、したがってそのことをよしとされる~の適意を通して、~の自由な主導権に基づき、~の秘義の中で」、すなわち神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で起こることができるのである。したがって、「われわれ」は、「感謝する可能性のほかには……ないような仕方で、そのことは起こる」のである。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである・ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的な完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、「主よ、汝の王国の来たらんことを」(ドストエフスキー『罪と罰』、マルメラードフの終末論的信仰)。