来日したローマ教皇、カール・バルト、吉本隆明――「平和」の実現等についてのその思惟と語りと行動の差異性をめぐって
来日したローマ教皇、カール・バルト、吉本隆明――「平和」の実現等についてのその思惟と語りと行動の差異性をめぐって
この問題等についても、私は、様々な学者や評論家を含めた知識人の知識やメディア的情報をそのまま鵜呑みしたり模倣したりすることをしないで、たとえ拙くとも自分の感覚と知識を内容とした経験に依拠して自分なりに考えるとすれば、次のような思惟と語りと行動となる。
(1)JIJI.COM2019年11月26日の記事について
「フランシスコ・ローマ教皇の来日は、核兵器に関する考え方をめぐる日本とバチカン(≪独立国家としてのバチカン市国≫)の溝を浮き彫りにした。両国は核廃絶という究極的な目標は共有しているが、核抑止力も許すべきではないと訴えた教皇に対し、日本政府は抑止は当面必要との立場を変えなかった」。
◎「フランシスコ・ローマ教皇の来日は、核兵器に関する考え方をめぐる日本とバチカンの溝を浮き彫りにした。両国は核廃絶という究極的な目標は共有している」――この「究極的な目標」を実現するためには、戦争の元凶である、すなわち一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な軍事部門を持つ民族国家を止揚し無化しなければならないのである。したがって、「両国」の指導者には、このことに対する認識と自覚が欠如しているのである。すなわち、「両国」の指導者は、そのような民族国家の現存と永続を前提としているのである。
◎「核抑止力も許すべきではないと訴えた教皇に対し、日本政府は抑止は当面必要との立場を変えなかった」――先ず以て自国の利害を第一義的に最優先する民族国家としては、核兵器が最終的な戦略兵器であれ、安保理議案の拒否権を持つ国連安保理常任理事国5か国等が実際に核兵器を保有している限り、自国として核兵器を保有をしていない民族国家としての「日本政府」は、自国の利害を守るためには、地勢的にアメリカの核の傘に入らざるを得ないということ、アメリカの核による「抑止は当面必要」と主張するということ、そう主張することは、支配層としては当然のことであるだろう、それ故にわれわれの側としては、あくまでも過渡的相対的な意味においてそのように認識しつつも、究極的には民族国家を止揚し無化するという仕方で(民族国家の問題を明確に提起するという仕方で)、どのような戦争であれ戦争の廃絶と平和を切望し目指さなければならないであろう。何故ならば、現存する現実の世界は、格差のある経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いているからである。
(2)NHK NEWS WEB2019年11月26日の記事について
「フランシスコ教皇は、24日夜、長崎に続いて広島の平和公園でスピーチを行う」、「『戦争のために原子力を使うことは犯罪以外の何ものでもない』と述べて核兵器の使用は倫理に反すると強調した」。このことは、原子力の軍事的応用、すなわち核兵器の使用はもちろんのこと、核兵器の保持も倫理に反しているということであるだろう
◎このことは原子力の電力への技術的応用においても言えることであるが、その安全性や安全管理への不備や危険性があったとしても、そして現時点ではその脆弱性に対する技術的な解決が不可能だとしても、AIを含めた原子力のさらなる破壊力を伴った軍事技術への応用は、現存する世界が格差のある経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている以上、それが良きものであれ悪しきものであれ、そしてそれが悪しきものであれ、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての科学・技術の進歩・発達におけるそれである以上(それが悪しきものであれ自然史的必然としての自然史的成果である以上)、それを、法・制度・政策によって政治的に遅延させることはできたとしても、停滞させたり逆行させたりすることはできないし、科学者や技術者や官僚や政治家それぞれ諸個人の倫理性によって歯止めをかけたりすることはできないのである、換言すれば科学者や技術者や官僚や政治家等の諸個人の道徳性や倫理性の問題ではないのである――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない(≪個体としての人間の・諸個人の道徳性や倫理性の問題としようとするものではない≫)。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(マルクス『資本論』「第1版の序文」)。したがって、それが最後的には人類の滅亡をもたらすものであるとしても、人類は、その自然史的過程を突き進んでいく以外にはない存在である。ニュースに登場する卑近な例に引き寄せて言っても、われわれ人間は、それが学者であれ・官僚であれ・政治家であれ・聖職者であれ・教師であれ・公務員であれ・誰であれ、軽・重を含めて犯罪的な一回の卑俗な事件等の出来事で、自分が築いてきた人生を棒に振ってしまうようなことをしてしまう存在である。
(3)PRESIDENT Online2019年11月28日の記事――コミュニケーションやコミュニティの研究をするコミュニケーション・ストラテジスト岡本純子「ローマ教皇が『ゾンビの国・日本』に送った言葉」について
岡本によれば、ここで、「核兵器廃絶など平和メッセージ」を展開したローマ教皇の言う「ゾンビ化」とは、「世界中で社会問題化している孤独」、「弱者を思いやる視点」を欠いた「現代人の『心の貧困』」ということであるし、また「日本は『国は貧しい人々の面倒を見るべき』と考える人、ボランティアや寄付をする人、人助けをする人の比率が、他国に比べて極端に少ない」と言う。
◎しかし、そのようになったことの根拠を示すことが問題であるにも拘らず、この記事を読んだ限りでは、そのようになったことの根拠が示されていない。日本も戦後過程の1970年代には、中流意識を持つ人の割合が9割前後になった時があったし、資本制を経済的基盤とした人類史の西欧的段階を成熟させたその年代には経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階における良き成果であった相互扶助意識を企業も年功序列型賃金体系・終身雇用制という形で適用していたのである(ボランティアも、経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階における相互扶助意識の近代的形態であると言うことができる)。しかし、そのような良き成果を「発展させ変形する」(マルクス『資本主義的生産に先行する諸形態』)という仕方で保持しようとすることをしないで、そのような良き成果を、生活自助の原則が貫徹されているアメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義、すなわちあくまでも国家を第一義性(価値性)とする経済的自由至上主義・至上市場主義経済化を目指した小泉純一郎や竹中平蔵たちは衰退させ・「破壊」させる方向へと導いていった(ある政治集団・組織の大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙による下からの構造改革も駄目であるが、この場合は支配の側・上からの構造改革である)。それに伴って、9割前後の国民が中流意識を持て、それ故に生活的に自分の将来を見通せる安定した社会も衰退させられ・「破壊」させられていった。
「日本では『孤独はかっこいい』『人は一人で耐えるもの』『孤独は自己責任』といった論調が非常に根強く、結果的に、引きこもりや高齢者の孤立、社会的に孤立者による犯罪、孤独死など、『孤独』に起因する多くの社会事象の解決に手が付けられていない状況だ」。
◎岡本は、孤独は悪しきものというように均質化して論じているが、しかし、資質的に孤独が好きな人もいるし、文学は本質的に孤独な作業を必要とするし、何時だったかは覚えていないが、NHKで人間関係が好きな人と孤独が好きな人の棲み分けが整備されたドイツの老人施設が紹介されていた。そのようなドイツ的対応こそ、諸個人の資質や個性に優しい人間的な対応の仕方であるだろう。
また先ず以て、「孤独はかっこいい」と考えて孤独であるのではなく、人間は、個――対――共同性という三つの存在様式を持っているのであるから、もともと対自的で対他的な構造を持つ個体性(様々な資質、感情、職業、生活、信条、意志、思想、判断力、構想を持った個別的な諸個人の現存)を生きていると言った方がよい。したがって、「孤独はかっこいい」と考えているというよりも、むしろ個体の対自性に内向していると言った方がよい。個体性としての個人の資質がそうさせているだけでなく、現存する社会構成がそうさせていると言った方がよい。
「集団主義のくびきからの逃避願望が強く、一人がかっこいい、他人のことなど構っていられないという極端な個人主義の傾向が強まる中、人とのつながり、人への思いやり、優しさの価値を説くことなどダサい、ととらえる向きもあるように感じる」、「『自分を見つめろ』『自分らしく』といった大号令とともに、人はどんどんと内向きになっている。その先にあるのは一億総コミュ障化と孤独化、というわけだ」。
◎「集団主義のくびきからの逃避願望」と言うけれども、経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階における良き成果である相互扶助意識は、わが日本でもボランティアという近代的形態で存続されていることを、マス・メディアを通して耳目に触れている。
◎岡本は、「一人がかっこいい、他人のことなど構っていられないという極端な個人主義」というように述べているが、その事態は「私利・私意」を精神とする近代市民社会における他者を現実的に侵害する利己主義と言うべきである。何故ならば、個人主義は他者を現実的に侵害しないということを原則としているからである。
◎岡本は、内向の先にあるのは「一億総コミュ障化と孤独化」であると述べているのであるが、もともと人間は他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出性)を持っているのである。現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出性)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出性)の構造としてある。この自己意識における対自的意識と対他的意識、すなわち言語の自己表出性と指示表出性の構造である現実的意識の外化である言語表現は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」。このようにして人間は、自己を対象化・客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入る。このとき<表現>され外化された言語は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。表現され外化されたその実践的意識(対他的意識、言語の指示表出性)は確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識」という意味で、コミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である。他方で人間には、他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出性)があることも確かなことである。このことは、「心・精神」の働きである意識と無意識の関係から根拠づけることができる。人間の「心・精神」の世界は、「意識領域」と「無意識領域」との構造としてある。またその無意識領域は、「核」、意識領域との境界にある「表層面」、核と表面層の間にある「中間層」との構造としてある。無意識領域が「現実世界」と接しているという場合、それは、無意識領域の「表層面」を指している。特に無意識領域の核の出自は、胎児期と生まれてから一年間の乳児期における母親との関係の在り方によって形成される。このような構造的把握は、個体の問題や家族を扱う上で重要なものである。何故ならば、家族問題を扱う場合、そのことに自覚的でない場合、家族問題を無意識の「表層面」の問題として錯誤したり、「表層面」と「核」を混同して論じてしまう錯誤に陥るからである。言い換えれば、病的な異常さを呈した個体的自己、個体における自己の問題あるいは家族的自己、家族における自己の問題の究極的総体的永続的な救済は、当事者の「心・精神」における無意識の「核」にある傷を治癒することにあるから、その「核」に傷を負った当事者の個体史を乳児期から胎児期にまで時間を溯って究明していくところにある。しかし、コミュニケーション論のほとんどは、実践的意識(対他的意識、言語の指示表出性)と「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識の外化」としての<表現>された言語に偏向しており、部分を全体とする錯誤と誤謬のもとにある(吉本『心とは何か 心的現象論入門』等)。
さて、岡本が述べているような関係意識の衰退・解体をもたらしたのは、戦後過程における資本主義制度の発達・高次化と自由主義国家の成熟がもたらした私的利害の優先意識と恣意的自由の優先意識である(その尖端性はアメリカ社会であるから、現存する先進資本主義国の日本の行き着く先は、アジア的な日本的特殊性を残存させたアメリカ社会である)。何故ならば、これらの優先意識は価値観(価値意識)の多様化をもたらし、それ故に関係意識も衰退・解体させていくからである。したがって、マス・メディアを通して日々流され・流され続けている感謝・絆・恩返し・おもてなし・元気づける・愛・コミュニケーション等の言葉は、その裏返された表現である。
もっと言えば、情報科学や情報技術の高度化、高度消費資本主義社会は、人間の感覚を研ぎ澄まし、現実的な衣食住の日常を第一義・価値としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、身体的な肺病等に代わって「正常と異常との境界を行き来する精神の病」を生み落している。この「正常と異常との境界を行き来する精神の病」は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的な人間であれ、それぞれの領域において人々に正しいことを教えるべき学者・知識人、評論家、宗教者、聖職者、牧師、小・中・高教師や校長であれ、人の生命を重んずるべき医者であれ、法の支配の下での法に依る行政に基づく国民全体の奉仕者としての政治的国家の職能団体である国家官僚や政治家であれ、住民全体の奉仕者としての地方公務員や議員であれ、法に基づいて正義を貫徹すべき裁判官、検察官、弁護士、警察であれ、人々に対して道徳・倫理を説く道徳家・倫理家であれ、誰であれ、老いも若きも、男も女も、すべての人々を覆っている社会的な病である。もともと市民的観点・市民的常識というものは自己欺瞞に満ちているもであるから、それをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることは私はしないのであるが、かつての経験則(現在私は72歳であるが、その私の経験則)が全く通用しなくなったわれわれは、そのことを、ヤフーニュースやテレビや新聞によって流される、日常化した様々な事件等々の出来事によって知らされるのである。例えば、作家の中村うさぎが、すでに2006年9月22日の「朝日新聞」夕刊で、次のように述べている――「一九九二年新宿伊勢丹のシャネル(≪イメージ価値≫)で『衝動買い』したときから、『眠っていた欲望』が暴走し始めた。その後、六〇万円の革のコートを購入する」のだが、その代金を「カードで支払った時、すさまじい快感に襲われ」た、「以来、海外ブランド物(≪イメージ価値≫)を買いあさる」、「一度に買い込む金額は、一〇〇万円、二〇〇万円とエスカレートしていき」、「印税が底をつき、カードが使用停止」になった、「自宅の水道やガス、電話が料金未納で止められたこと」もあった、「買物依存症がおさまったとき、今度は美容整形(≪イメージ価値≫)に走り」、現在「顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけ」となった、「以前なら年をとれば容貌が劣化し、静にあきらめていけた。現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている」、それでもなお、「私は(≪身体を消費の対象とすることを含めて≫)消費社会の漂泊者でいたい」。この中村にある無意識世界の欲望は、自然史の一部である人類史の自然史的過程(「人類の歴史の無意識」)における自然史的必然として自己運動・自己増殖する資本主義の「システムの意志」・「システム的価値」がそうさせていると言うことができる。このことを韓国社会における美容整形の領域に引き寄せて言えば、韓国社会は、病気や怪我に基づかないところでの消費の対象と化した身体(目、口、鼻等)に対する表向きだけ・外形だけを重んじる整形社会である。何故ならば、実際的には美人でも美男でもないのであるから、またそのことを本人は認識し自覚しているのであるから、その本人の心中・内面は本当は空しいであろうからである。すなわち、その整形された身体は、「実体から遠く隔てられ、判断の表象を喪失している」から、その度合いに応じて「白けはてた空虚にぶつかる度合いが決定される」、いずれにしても自分の子供が生まれれば、自分が望んでいなかった美人でも美男でもない元の自分を知らされることになる。このような訳で、われわれは、マス・メディアを通して流され・流され続けている感謝・絆・恩返し・おもてなし・元気づける・愛・コミュニケーション等の言葉のその背後で繰り広げられている、現存する近代市民社会の中に蔓延する「私利・私意」に基づく利己主義的な、現実的な他者侵害、傷害、殺害、淫行等々の出来事を、日常的にマス・メディアを通して見聞きしている。言い換えれば、われわれは、何らかの争いごととか愛憎問題とか金銭的問題とか利害対立とか戦争等の現実的な契機さえあれば、誰もがそのようなことをしてしまうことがあり得るということ、そのような意味で、誰もが(それ故に、主観的に、自分は決してそうはならない・そうはしないと思ったり・強調している人も)「正常と異常との境界を行き来する精神の病」の中で簡単に一線を越えてしまって異常の世界へと移行してしまうことがあり得るということを、日常的に耳目に触れている。したがって、誰もが、現実的な契機さえあれば簡単に「正常と異常との境界」を超え出てしまい得るという危うい均衡の状態の中に置かれており、それ故に老いも若きも一見ごく普通そうに見える人であれ、誰もが(それ故に、主観的に、自分は決してそうはならない・そうはしないと思ったり・強調している人も)、何らかの現実的な契機さえあれば、そういう危うい均衡の状態が崩れて異常の世界の方へと簡単に移行してしまう危険性を持っているのである。例えばヨハネ8・1以下にある人間にある内面の罪の普遍性に引き寄せてみれば、現在、現存する社会構成の時代水準が、その人間にある内面の罪を、マス・メディアを通して日々流されている日常化した様々な事件等々の出来事において、裸形化させていると言うことができる。
一般的な思惟と語りに依拠して民族国家の支配上層の倫理性に訴えるローマ教皇の思惟と語りに対して、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストをのみ主・頭とする思惟と語りと行動、換言すれば具体的には三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すればキリスト教に固有な類、それの時間性としてのキリスト教に固有な歴史性)の関係と構造(秩序性)におけるその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのものの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯したカール・バルトの思惟と語りと行動およびトータルな世界認識に依拠した吉本隆明の思惟と語りと行動は、次のようなものである――
(4)カール・バルトにおける平和をめぐっての思惟と語りと行動について
バルトの「平和に関するバルトの書簡」(寺園喜基訳)によれば、バルトの平和に関する思惟と語りと行動は、次のようなものである――バルトの「平和概念は包括的な救済概念と同じ」である。その救済概念は、「この世の神との和解」、「人間相互間の和解を直接その内に包含している和解」である、換言すればあくまでも神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性としてある、「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストのその死と復活の出来事において成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)である。「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成(≪成就・完了≫)され、死人からの復活においてすでに啓示されているような、和解」である。したがって、われわれ人間によって初めて「完成(≪成就・完了≫)されねばならないような和解」ではなくて、神の側の真実としてある「神ご自身によって確立された和解」である。このような訳で、「イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的」なのであり、「敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にある」のである、イエス・キリストにおいて平和は、神の側の真実としてある「神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性」である。「この贈り物はただ、われわれがこれを受けとること(≪聞き教えられることを通して教えること≫)を待っている」。したがって、われわれが、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨」なのである。そうした中で、われわれは、「平和は戦争より善いものであるということを」絶えず繰り返し「断言せねば」ならないが、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさないことは明白」である。何故ならば、現存する世界は、格差のある経済の世界性と自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な軍事部門を持つ民族国家の一国性を単位として動いているからである。したがって、世界が必要としているキリスト教的な革命的認識は、「世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ことに感謝を持って信頼し固執し固着して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待する」点にある・「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」点にある(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」、「国家は支配であり、文化は支配」である、それ故に「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)という点にある、また「教会の宣教をより危険なもの」にしてしまわないために、換言すれば教会が「教会の自己疎外の増大」や「神についての教会の語りの堕落と荒廃」に陥らないためには、イエス・キリストをのみ主・頭とする教会が、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し連帯して「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」を為さないままに、「礼拝改革」とか、「キリスト教教育」とか、「教会と国家および社会との関係」とか、社会的政治的実践とか、「国際間の教会的な相互理解というような領域」で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考え」ない点にある、また教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」、「哲学、道徳、政治」、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等に置かない点にある、また「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おう」としない点にある(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。バルトの主調音はこちら側にあることは明らかである。
このバルトが、その一方で、格差のある経済の世界性と自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な軍事部門を持つ民族国家の一国性を単位として動いている現存する世界に生きる中で、『バルトとの対話』において、次のように述べている――「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な軍事部門を持つ民族国家が存在する限りは、≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」。このように述べているバルトは、確信をもって、国家の過渡的課題においてナチス国家よりも相対的に評価できる自由および直接民主制と武装永世中立の「スイスをナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛する」ために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」と思惟し語り、そして実践しているのである。
(5)吉本隆明の思惟と語りと行動について
マルクスの『経済学哲学草稿』および『資本論』によれば、自然の一部としての人間は、身体(肉体)と精神(意識)を介した、普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた外界としての自然)との相互規定的な対象的活動を行う。ここに、肉体的身体的および精神的意識的な、人間の類的な活動や生活がある。それは、人間諸個人(個体的自己としての全人間)による全自然の対象化であり、非有機的身体化であり、人間化であり、そのことによってまた人間も、有機的自然(人間化された自然)となる(このような訳、その極限は、自然史的必然としての天然自然の喪失を意味している)。それは、人間の歴史的行為である、その人間の類(世代)の時間性が、歴史、人類史である。自然史の一部としての人類史の自然史的過程における経済社会構成の拡大・高次化、科学や技術の進歩・発達、その知識の増大、生活の利便性の向上等の自然史的成果は、それが自然史的必然としてのそれである以上、それが良きものであれ悪しきものであれ、法・制度・政策で遅延させることはできても停滞させたり逆行させたりすることはできないものである――「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。したがって、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」天然自然を絶対化する宗教である。
吉本の『マルクス――読みかえの方法』および『母型論』によれば、資本主義が制度的必然として原理的に悪や欠陥を持っていることは自明なことであるが、資本主義は「人類の歴史の無意識(≪自然史の一部としての人類史の自然史的過程≫)の生んだ……最高の出来栄えの作品」である、したがって「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品」(≪自然史の一部としての人類史の自然史的過程が産みだした最高の作品≫)である。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」、搾取・貧困・格差があるから資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪」で「欠陥」があると資本主義を批判しその文化や文明を批判しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」。すなわち、その根拠を揺るがし資本主義を超えるためには、資本主義とその資本主義が生み出した文明や文化や商品を包括し止揚する以外にはないのである。言い換えれば、(ア)還相的な究極的永続的課題としては、根本的に資本主義を包括し止揚するためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成しなければ不可能なのである。その可能性は、世界普遍性としてある人類史の原型・母型であるアフリカ的段階(日本においては縄文的段階)における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にある。すなわち、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での「技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制」の構成、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある。(イ)往相的な過渡的緊急的課題としては、資本制的な優れた商品は優れた商品として評価すべきであるから、創造的な批判は、それを包括し止揚してそれを超えた商品を創造する以外にはない。したがって、自然史的過程における公害や地球温暖化の問題は、技術的解決の方途の問題であり、政府や企業のその予算化の問題である。
吉本は、『共同幻想論』等で、科学・技術や生産様式の発達は、遅延させることはできても停滞させたり逆行させたりすることはできない、この意味でエコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないものである、と同時に人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分」にすぎず、近代における科学を絶対化する宗教としての科学主義における「科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方」の錯誤は、部分でしかない科学を全体として論じる点にある、換言すれば「社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達」に対して、情念や非感覚的部分や喜怒哀楽の感情は、それに伴って発達するわけではない、と述べている。またマルクスは、『経済学批判序言』で、人類の歴史において、経済的範疇(下部構造)は「第一次的に重要なもの」である、「そしてその他のもの(≪上部構造≫)はそれに影響される」と述べた時、その「幻想領域の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提」に立脚して述べているのである。すなわち、マルクスは、経済決定論者ではないし、観念の自体的展開・自己増殖過程を否定したわけではないのである。そのことをマルクスは、『経済学批判序説』で、ギリシャ古典芸術の「永遠の魅力」に言及しながら、「困難は、(≪個体の自己意識・自己幻想を本質とするその類としての≫)ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお(≪個体の自己意識・自己幻想を本質とする≫)芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない規範(≪人類史の古典・古代の段階における人類史的成果、その時間性としての歴史性における規範≫)としての意義をもっているということを理解する点にある」と述べている。その認識と自覚の下で、人類は、経済的社会構成と観念諸形態において、歴史的段階に対応した様々な文明と文化の諸形態を持つ、と述べたのである。そして人類は、吉本の『思想の基準をめぐって』によれば、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかないもの」である。したがって、歴史的現存性とは、全自然の人間化され非有機的身体化された人間的自然を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである。したがってまた、個体としての人間(諸個人)は、自分の資質・生活・職業・感情・信条・思想・判断力・意志・構想をもって、それが良きものであれ悪しきものであれ歴史的現存性として現存するそうした「人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないもの」である。したがってまた、個体としての人間(諸個人)の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、「いったんそうした現実に衝突してからは」、人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存性を刻んでいく。すなわち、人間の類の歴史(人類史)は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、(≪個体性としての人間諸個人が≫)そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである。したがって、それが悪しきものであれ歴史的現存性として現存する、戦争の元凶である民族国家を包括し止揚し無化しない限りは平和の実現はあり得ないのであって、個体性としての人間諸個人の倫理性によって平和を実現できるという考え方は、前述したような人間存在の総体性、人間の総体的な存在様式に対する認識不足と無自覚によるものなのである。
ここまで論じてきて、徹頭徹尾バルト主義者ではないところの徹頭徹尾バルト者としてのキリスト者の私自身は、たとえ拙くとも私の感覚と知識を内容とする経験からして、次のように判断する者である――すなわち、私は、平和の実現のためには(換言すれば戦争廃絶のためには)、前述したような一般的な思惟と語りに依拠して民族国家の支配上層の倫理性に訴える、個体性としての人間諸個人の倫理性に訴えるローマ教皇の思惟と語りと行動よりも、また波風のない無風地帯で為された日本基督教団の「戦争責任の告白」および「戦後70年にあたって平和を求める祈り」における思惟と語りと行動や日本カトリック教会の「抗議声明」の思惟と語りと行動よりも、明らかに、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストをのみ主・頭とする、換言すれば具体的には三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すればキリスト教に固有な類、それの時間性としてのキリスト教に固有な歴史性)におけるその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのものの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯した「平和のためのバルトの書簡」や「バルトとの対話」におけるカール・バルトの思惟と語りと行動およびトータルな世界認識に依拠した吉本隆明の思惟と語りと行動の方に、徹頭徹尾全面的に正当性と妥当性があると判断する者である。