カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトについてのノート:12.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述12)
(8)
 われわれは、「アンセルムスにとって必然的」であった「神学と祈りの関連性に注意する時」、先に述べてきたような「intelligere知解スルことの……それの側として、すべてのそのほかの条件を条件づけ・相対化している条件に、……触れることになる」――ここで「祈り」は、全き自由の神のその都度の全き自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示認識)を願い求める「祈り」である。言い換えれば、「アンセルムスにとって必然的」であった「神学と祈りの関連性に注意する時」、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての啓示は、啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を持っており、その「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)がわれわれの前に客観的可視的に置かれているが故に、その「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身)、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉(最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言)を、われわれ第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教およびその一つの機能としての神学の思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」(バルトはこのような多様な言い方をしている)として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神と<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と・そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立していないから、律法は、キリストの福音を内容とする福音の形式である、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、<教会>が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であり、<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)を志向し目指していくという条件に、換言すればそういう仕方でイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくという条件に、触れることになる。何故ならば、『教会教義学 神の言葉T/1・2』および『教会教義学 神論T/1』に即して言えば、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の宣教およびその一つの機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」からである、それ故に教会の宣教およびその一つの機能としての神学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」からである、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいてのみ、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」からである――このような訳で、「最後に名ざされた……信ジルコトの真正性も、まさにそれこそが、条件づけられ、相対化される。アンセルムスは、一度祈りつつ、神の明るく照らし出す恵みに感謝しつつ、(そのことが看過される時には、この箇所はただ誤解されることができるだけである)、……今や自分はそれほどまでに明らかに理解したので、たとえ信じようと欲しなくても、(≪全き自由の神の全き自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰――このように認識し自覚するところの認識と自覚における≫)この理解は自分にとって残るであろうという主張をあえてなした。『善キ主ヨ、アナタニ感謝シマス。以前アナタノ恩寵ニヨリ信ジテイタコト、今アナタノ光ニヨッテ理解シ、ソノタメニ、タトエ私ガアナタノ存在スルコトヲ信ジルコトヲ望マナクテモ、存在スルコトヲ理解シナイコトガ私ニハ不可能デアルコトヲ、アナタニ感謝シマス』」。

 

 アンセルムスの思惟と語りの態度は、「『プロスロギオン』の中で明らかになってくる」。「アンセルムスのおそらく学問的に最も完全な書物、『神ハナゼ人間トナラレタカ』こそが、この態度を繰り返し看破させているのである」――「『そのような箇所の魅惑する言葉を、人は、啓蒙主義がヘンデル、古典主義、ロマン主義によって克服されて以来確かに聞くことができる。……また今日でも、人は、(≪アンセルムスの思惟と語りの生きた総体性を後景に退け、二元論的に分断して、≫)それらのものを心の純粋に主観的な実行として受け取り、……その後に続く論理的なことを、悟性の、純粋に客観的な実行として受け取っており、そのように打ち込まれた楔によって、初めから、両者に対する生きた理解に対して自分を閉ざしてしまっているのである』」――この「W・シュタイネンの……苦情は、あまりにも正当なものである」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを「人は合理主義だと批判」した、しかしアンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」、すなわちアンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、「啓示から得られた認識」、先行するイエス・キリストから、先行する「啓示の実在」そのもの(客観的可視的な起源的な第一の形態の神の言葉)から、それ故に具体的にはその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」(客観的可視的に現存する第二の形態の神の言葉、聖書的啓示証言)から啓示認識の可能性について考えたのである。アンセルムスは、「神ガオソレ多クモ私ニ教示サレルコト、というように説明しようとする」――「神ノオ援ケト貴君(≪「会話相手」≫)タチノ祈リニヨリ、……ソモソモ、貴君タチガコノコトヲ要望シ、私ガコノタメニ祈ルヨウニ願ッタ時、貴君タチハ繰リ返シソレヲ約束シテクレタ」。アンセルムスは「その会話相手に対して」、「その質問と共にそれを引き受けた教師のための執り成しの祈りの義務のことを思い出させる」。「論証を実行しつつあるその特別な高所において、ボゾ自身は、祈り求める『神ハホムベキカナ』で、論述を中断する」――「……スデニ私タチノ求メテイルモノニ関シテ、アル偉大ナコトヲ見イダシマシタ。ドウゾ、始メラレタトキノヨウニ、ソノママ続ケテクダサイ。神ノゴ援助ヲ希望シマス」。何故ならば、「真理の道において導くことは、実際には、ただ神の事柄でだけあり得るであろう」からである――「貴君ヲ導イテイルノハ私デハナイ。ムシロ、私タチガソノ方ニツイテ今語リ、ソノ方ナシデハ何事モ私タチニハ出来ナイ方コソ、真理ノ道トシテ私タチガ信ジテイルスベテニ私タチヲ導イテクダサルノデアル」。このことに「著作の結論の言葉が対応している」――「シカシ、私タチガ理性ニヨッテ発見シタト推察スルコトガ、(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、それ故に具体的には最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、この啓示の≫)真理ノ証言ニヨッテ確認サレルナラバ、ソレヲ私タチハ自分タチニダケデナク、永遠ニ祝別サレル神ニ帰スベキデアル」、「ソノウチデ疑問ニ対シテ満足ノイク回答ヲ与エ得タナラ、ソレハ私ノシタ業デハナク、神ノ恩寵ガ(≪全き神のその都度の全き自由な恵みの決断による「啓示の出来事」と、「聖霊の注ぎ」により人間的主観に実現された神の恵みの出来事・信仰の出来事、すなわち信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与えられた≫)私ト共ニシタコトデ、私ニ帰セラレルベキデハナイ」。「正しい知解」は、「アンセルムスによれば、それに先行し、共に働く神の恵みを通して条件づけられているということを指し示す一般的な指示でもって、それ自体正しい指示でもって言い尽くしてはいない」とされる――第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会、その一つの機能としての神学における「知解は、教会の主(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト自身≫)が教会の中(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の中で≫)で分与することをやめ給わない恩寵の賜物に属している。『宣教モ恩寵デアル、マタ聞クコトモ恩寵、聞クコトカラ理解スルコトモ恩寵、意志ノ正直モ恩寵デアル』」。「この一般的なものでもって、そしてこの恵みがその都度祈られなければならないということでもって」、「信仰の知解への最後の、決定的な能力は、人間的な理性の自発的な活動とそのまま一致せず、そのような能力は人間的な理性の自発的活動に対して」、先に述べたように「知解スルことが意志的行為であることが確かである限り」、「ただその都度、(≪全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断により≫)贈り与えられることができるだけであるということが言われている」――「ソコデ、信仰ニ理解ヲ与エル主ヨ、……私ガ理解スルヨウニ計ラッテクダサイ」・「アナタノミモトニ私ヲ引キ上ゲテクダサイ!」。この全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断により「贈り与えられた能力」は、すなわち聖霊によって更新された理性の能力(それ故に、この更新された人間理性は、聖霊と同一では決してない、聖霊の一形姿では決してない――『教義学要綱』)は、「知解が行われるために必要な論理的な作業の遂行が正しく為されることから成り立っているということも正しい」。「恵ミノ賜物、換言すればアンセルムス的祈りの対象は、この側面から見て、人間的な思惟の、(≪「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、それ故に具体的にはその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、第二の形態の神の言葉としてのキリスト教に固有な類、その時間性に連帯しようと≫)願望されそこで起こる最高業績と同一である」――「アナタヲ凝視スルタメニ、私ノ精神ノ眼ヲ浄化シ、イヤシ、鋭クシ、『照ラ』シテクダサイ」。しかし、このことは、「事柄の一つの側面でしかない」。ここで、「決定的なテキスト、『プロスロギオン』への導入の祈りを注意深く読むならば、アンセルムスは、彼の祈りの対象として常に二重のことを念頭に置いていたことが示されるのである」――それは、「一つには、確かに、神が彼の心に、『ドコデ、ドノヨウニシテ、アナタヲ求メタラヨイノカ』教えて下さるように、神が彼の目を照らし出し、神を見ることができるように、神が生まれながらにして地にのたうち回っているものの身を起こしてくださるようにということである」、人はこのことの中で、「事柄のあの一つの側面」、「人間に対してもともと起源的に創造と共に与えられている認識能力を実現させることとしての恵みを再認識(≪何故ならば、人間の自己意識・理性・思惟は、聖霊の注ぎにより更新されなければ、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を得ることはできないからである、換言すればそれを得るためには、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を必要としているからである≫)しなければならないであろう」。「しかし、知解の出来事」は、それ故に「祈り求められた恵みは、明らかにもう一つの客観的な側面を持っている」。「アンセルムスは、あの願いと共に第二の願いを置いている」。「このテキストの基本的な調子と直面して、その第二の願いを、第一の願いの単なる修辞的な繰り返しとして受け取ることは、排除されている……」。アンセルムスの「第二の願いは、こうである」――「神が彼の心に、『ドコデ、ドノヨウニシテ、アナタヲ見イダシタラヨイノカ教えて下さるように。神が彼に対して、そのご容顔を、ご自身を、顕わして下さるように』」、「私タチニアナタゴ自身ヲ顕ワシテクダサイ」、「神がご自身を彼に対してもう一度贈り与えて下さるように」(バルトに即して言えば、それは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉であるから、「単なる知識」ではなく、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を、絶えず繰り返し求める願いである)。アンセルムスは、「人間が神を認識できないという(≪人間論的な自然的人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間・「信仰者も圧迫されている」≫)人間的な非認識の困窮状態」を、「信仰者も原罪を持った人間性が、神から遠ざかっている(≪このことは、「客観的に、神ご自身が遠くにいますということである」・「神は不在」ということである≫)……ということから説明する」――「アナタハ私ヲ創造サレ、マタ再創造シ、私ノスベテノ善ハアナタガ私ニ付与サレマシタ。シカシ、私ハアナタヲマダ仰ギ見タコトハナイノデス」、「神ヨリ遠ザケラレタエバノ子孫ノ一人デアル私ハ不運デアル!」。聖書的啓示証言にある「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにのみ感謝を持って信頼し固執し固着して生き死んでいきたい信仰者としての自分を対象化して正直に告白するならば、私も、次のようにしか告白することはできない、すなわち「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪感情力、意志力、自然を内面の原理とした修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『カール・バルト著作集10』「福音主義神学入門」)、「神に敵対し神に服従しない」われわれ人間は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間(信仰者)であれ、誰であれ、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、それ故に「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)(≪換言すれば、あくまでも神の側の真実としてある、「成就と執行」・「永遠的実在」としてある、ローマ3・22やガラテヤ2・16等にある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」――すなわち「イエス・キリスト信じる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」、「律法の成就」・完了、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和にのみ感謝を持って信頼し固執し固着して生きるのだということである。したがって、第三の形態に属する全く人間的なイエス・キリストをのみ主・頭とする教会の宣教にとっては、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求める」ことが先ず以て第一義的な問題なのではなく、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関において<純粋>なキリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えることが先ず以て第一義的な問題なのである≫)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)、と。キリストにあっての神に祝福された信仰者であるためには、先行する神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」の生起という「祈り求められた恵み」、聖霊によって自然的生来的な人間理性が更新されるという「祈り求められた恵み」、<純粋>なキリストにあっての神・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」という「祈り求められた恵み」を必要とするのである。

 

 「神をあこがれ求める人間は何をすべきであろうか」。「アナタヲ仰ギ見ルコトヲヒタスラ願イマスガ、アナタノゴ容顔ハアマリニモ遠ク離レテオリマス。アナタニ近ヅクコトヲ望ミマスガ、アナタノ住マイハ近ヅキガタイノデス。……シカモ、『主ヨ、イツマデ』私タチヲ『主ヨ、イツマデ忘レラレルノデスカ』。私タチカラ『イツマデソノゴ容顔ヲソムケラレルノデスカ』。私タチヲ主ハイツ顧ミ、私タチノ言葉ヲ聞カレルノデスカ。……イツ『アナタノゴ容顔』を私タチニオ示シニナラレルノデスカ」。「アナタガオ教エクダサラナケレバ、アナタヲ求メルコトハ出来ズ、アナタガ顕ワシテクダサラナケレバ、アナタヲ見イダスコトハ出来マセン」。この二重性が「まさに力を奮う」。バルトに即して言えば、常に先行する神とそれに後続する人間の側の他律的な服従――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に対する他律的な服従、および自律的な決断と態度――すなわちその他律的な服従においてあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関を志向し目指す意志的な決断と態度が力を奮う。ここでは、「ただ単に、(≪人間の側からする≫)神を正しく尋ね求めることが問題であるだけでなく、同時にそれと共に、(そしてそれが初めてキリスト教認識の全き恵みであるのであるが)、(≪先行する≫)神の現臨」が、人間の側からする「われわれが神を尋ね求めることを通しては、たとえそれがどんなに純粋なものであろうとそれ自身ではつくり出すことができない(もっとも純粋な心をもって神を尋ね求める者の身にのみ起こるのであるが)、(≪先行する神の側からやって来る、全き自由の神のその都度の全き自由な決断による≫)神との出会い」が「問題である」。また、ここでは、「資格づけられたintelligere知解スルこと」が問題である。バルトに即して言えば、そこでは、「単なる知識」(人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「人間の現実存在の内部」にあるある理念・ある概念の実体化、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」)ではなく、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰が問題である。『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起され、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となるということが問題である、何故ならばその時、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執し固着する「認識」、啓示認識・啓示信仰であるからである、すなわちその時初めて、神の言葉は、その人にとって「実在」となり、その人はそれを「実在として理解」することができるからである。したがって、そこでは、「人間は、神のご容顔のいくらかを見るようになる資格づけられたintelligere知解スルことこそが、祈り求められなければならない。なぜならば、すべての正しい尋ね求めることも(それもまた恵みなのであるが)、もしも(≪ご自身の中での神として、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神が、われわれのための神としてその「失われない差異性」における三つの存在の仕方・働き・業・行為・行動において≫)神がご自身を『示され』ないならば、もしも神との出会い」が、先行する全き神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「神からして現実となり、まさにそのことでもって見出すこと・資格づけられたintelligere知解スルことが出来事となって起こらないならば、何の役にも立たないからである」。「そのところからして、『プロスロギオン』の中で明らかになってくるアンセルムスの態度が初めてよく理解できるものとなる」。そのアンセルムスの「態度」は、「それがよく為されるように自分の行為を神の行為に奉仕させる『敬虔な』思想家の態度であるだけ」でなく、「それは、そのことを超えて、(≪「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」・学問ではいないところの≫)彼の学問的な即事性の特定の……決定的な表現である」――「私ノ願イヲ増シ、私ガ望ムモノヲオ与エ下サイ。ナゼト言ッテ、仮ニアナタガ、造ラレタモノスベテヲ私ニ下サッテモ、モシモアナタゴ自身ヲオ与エ下サラナケレバ、アナタノ僕ハ満足シナイカラデス。デスカラ、アナタゴ自身ヲ私ニ与エ下サイ、ワガ神ヨ、アナタヲ私ニ下サイ」、「造ラレタモノスベテヲ」ではなく、「単なる知識」をではなく、聖霊の注ぎによる(それ故に、聖霊により更新された理性による)人間的主観に実現された神の恵みの出来事を、信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を下さい。そのアンセルムスの「態度」は、「ただ単に彼に対して、神が、神について正しく考えるよう恵みを与え給うということによってもってかかっているだけでなく」、「神ご自身がこの思惟の対象として舞台に登場され、ご自身を思想家に対し『示し』、それと共に『正しい』と考えることを実在トシテ存在スルコトヲ知解スルことへと資格づけ給うということによってもってかかっている」。このことと共に、「初めて(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」および常に先行する神とそれに後続する人間の側の他律的な服従および自律的な決断と態度の下で与えられる≫)キリスト教認識の恵みが完全となる」。『プロスロギオン』の著者」は、「この完全な恵みを無理に奪い取る」ことの中でではなく、「この完全な恵みが欠けてはならないことを知る知識の中で」、「彼がはじめた神への語りかけの中に」、「神に相対して立っている者……の態度の中に」、「あくまでも堅くとどまるのである」、何故ならば彼は、「彼のintelligere知解スルこと」が、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返している「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」・学問(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)におけるような「空しい泡沫ではなく」、「彼自身が結局、愚か者であるべきではないとしたら、(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての≫神が彼に相対して立たなければならないということを知っている」からである、そのことを認識し自覚しているからである、「単なる知識」が問題であるのではなく、あの信仰の認識としての神認識が、啓示認識・啓示信仰が問題であることを認識し自覚しているからである。このような「態度の中で」・「知識の中で」、「『プロスロギオン』二−四章の証明はなされる。そのことは、その理解とその解釈にとってどうでもよいものではあり得ないのである」――「確実な本能をもってキルケゴール」は(何故ならば、キルケゴールは、ヘーゲルが人間中心主義において人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見した近代<主義>的プロテスタント主義的キリスト教・教会の宣教・その一つの機能としての神学の否定的側面がバルトにおいて認識され自覚された現代・現在をではなく、そのことが認識され自覚されていない近代<主義>的キリスト教および教会の宣教ならびにその一つの機能としての神学のただ中を生きたのであるから、その否定的側面を「確実な本能」をもって感じ取る以外にはなく、「確実な本能」をもって感じ取ったのである。そして彼の自己意識・理性・思惟によって対象化されたその「確実な本能」は、フォイエルバッハの根本的包括的な原理的なキリスト教に対する批判を包括し止揚し克服することができる<神と人間との無限の質的差異>という概念だったのである、それは教会の宣教、その一つの機能としての神学にとって、近代における思想的な武器なのである――下記の【注】を参照)、「このところで、アンセルムスの神証明に関し、彼にとって興味あるものを見出したのである。『それにしても、これは、証明する独自な仕方である。アンセルムスは言う、私は神の存在を証明しよう。この目的のために、私は神に、私を力づけ、助けて下さるようにと祈る、と。しかし、そのことは、神の存在証明するはるかによりよい証明である。それはすなわち、人が、神の存在を証明するためには、神の助けを得なければならないとあのように強く確信していることである。もしも人が、神の助けなしに神の存在を証明することができるとしたらならば、神が存在することは、それほど確かではなくなることになるであろう』(W・ルッテンベック『セーレン・キルケゴール』)」。

 

【注】
 人間中心主義的な人間の神化あるいは神の人間化の原理、またバルトが『福音と律法』で論じた神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神と人間との二元論的な混淆・混合・共働・協働の原理、混合宣教・混合神学の原理も、最後的には次のような根本的包括的な原理的な批判の対象に過ぎないものなのである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」・神と人間との無限の質的差異の認識と自覚を持たないところの、人間中心主義的な人間の神化あるいは神の人間化の原理(この変形である神と人間との混淆・混合・共働・協働、混合宣教・混合神学)において「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。(≪何故ならば、科学<主義>が近代の<宗教>的形態の一つであり、エコロジーが現代の<宗教>的形態の一つであり、共同<宗教>としてのキリスト教の最後的形態が政治的近代国家であるのであるが、<宗教>としての宗教における≫)理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演下」)、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、その学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、(≪キリストにあっての神への信仰ではなく、人間中心主義的な神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間の自己意識・理性・思惟が対象化したに過ぎない<宗教>としての≫)それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ(≪キリストにあっての≫)神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)。したがって、前回論じた「カール・バルトの主要著作に即して考量した、福嶋揚『カール・バルト 未来学としての神学』の水準について」における大学神学者・福嶋の「未来学としての神学」も、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的な宗教批判の対象そのものでしかないものなのである。

 

 最後に、「確かめたことを総括する」――(1)「アンセルムスにとって問題であるところの学問、知解は、信仰ノ知解である」、(2)「信仰ノ知解は、ただ信仰の規範(下記の【注】を参照)を積極的に思索することから成り立つことができるだけである……」、(3)したがって、「信仰ノ知解は、信仰の規範をそれとして基礎づけはしない……」、「まさにそれを、その理解を絶した不把握性の中で知解しなければならない……」、(4)「信仰ノ知解は、信仰の規範に相対して」、その「反映」、その「比喩の平面の上を動かなければならない……」、(5)「したがって、信仰ノ知解は、その結果として」、「信仰の確実さではなく」、「ただ……学問的な確実さだけを主張することができる」、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、ちょうど神の言葉は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、「われわれのところに来る」のであるが、それ故に神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、信仰の出来事は、徹頭徹尾われわれ「人間自身の業」ではなく、徹頭徹尾「神の言葉自身」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動における「聖霊の注出」においてのみ可能となるのであり、そのように「言葉を与える主」は同時に「信仰を与える主」であるから、それ故に聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストにおける啓示の宣べ伝えを目指すことのない自然神学的な「単なる知識」としての「形而上学的な教義学」(神学)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、その教義学(神学)は「教義学としては非学問的」であると言わなければならないように、またちょうど第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の釈義神学による聖書的教えの認識・概念も、キリスト教的なキリストにあっての神についての「語りの規準」であるイエス・キリスト自身(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)と同一ではないから、教会の一つの機能としての教義学(神学)は、「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではなく(何故ならば、「使徒や預言者たちが語ったこと」は、すなわち第二の形態の神の言葉は、起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示の実在」そのものではないから、もしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、彼らによって言語を介して対象化された彼らの思惟と語り、「存在者レベルでの神」が語ったことを問うことになってしまうからである)、第二の形態の神の言葉である「『使徒と預言者たちに基づいて』・媒介して・反復して何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならないし(何故ならば、<純粋>なキリストにあっての神・<純粋>なキリストの福音を、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関の中で尋ね求めなければならないからである)、その時だけ、「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され命じられていること」を知るのであり、この認識と自覚に基いた教義学(神学)そのもの、また神についての教会の語りは、「信仰のない人間」の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、教義学(神学)そのものが、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリストの中で(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのものを、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする中で、それ故に具体的にはその最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、第二の形態の神の言葉、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする中で)受けとる限り、教義学(≪神学≫)は真理の認識として可能」となり、その場合教義学(神学)は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語ることができる」と言わなければならないように、(6)したがって「信仰ノ知解」は、「これらのその結果の原則的な完全性を否定しはしはしないであろう」、(7)このような訳で、「信仰ノ知解は、啓示された信仰の規範の基本的なテキストとしての聖書(≪第二の形態の神の言葉、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言≫)と、いかなる場合にも決してはっきりとした矛盾の中に自分を置くことはできない……」、(8)「信仰ノ知解は、もしもそれが服従の信仰の知でないならば、それは、現にあるところのものでないし、現に為すところのことを為していない……」、(9)「信仰ノ知解が目標にまで来るということは、最後に、人間的な運動に関しても、それからまた目標が与えられることに関しても、恵みである」、したがって、「信仰ノ知解」は、「最後的には祈りおよび祈りの聞き届けの問題である」――『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、教会の宣教における思惟と語りが、またその一つの機能としての教義学(神学)における思惟と語りが、「それがキリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」が故に、教会の宣教およびその一つの機能としての教義学(神学)は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである。

 

【注】
 第二の形態の神の言葉である聖書また第三の形態の神の言葉である教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として――すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(啓示者・言葉の語り手・創造主)、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(啓示・語り手の言葉・和解主)、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(啓示されてあること・あの「神の言葉の三形態」の関係と構造、秩序性・救済主)として自己啓示する。したがって、このキリストにあっての啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、キリスト教的「神論の決定的に重要な構成要素」であり、キリストにあっての「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を教会の宣教における(その一つの機能としての神学における)啓示認識・啓示信仰の原理としない場合、すぐに自然神学に属する神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的プロテスタント主義的キリスト教等の陥穽に陥っていく以外にはないからである。三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会(<客観的>な信仰告白および教義を持った教会)は、「規範」としての「先ず第一義的に優位に立つ原理」である起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの)に服従しなければならないのである、それ故に具体的にはイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」に、すなわち「規範」に服従しなければならないのである、換言すれば起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身と共に、教会の宣教における・その一つの機能としての神学における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、すなわち「規範」としての第二の形態の神の言葉(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)に服従しなければならないのである、何故ならばその「聖書こそ」が、「教会に宣教を義務づけている」からである。