カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その2−2)

『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その2−2)
再推敲・再整理版です。

 

 「一体神は棄てられた人間に関して」、「何を欲し給うのか」・「何を定め給うたのか」? この場合、ユダのしたことは、それ以外の使徒においても可能性としてあったし・あるという点が肝要なことである。何故ならば、ユダの罪は、その思惟と語りと行動におけるマリアとの比較において明らかにされたわけであるが、その付随記事でマタイではマリアに憤慨したのは「弟子たち」になっており、マルコでは「そこにいた何人か」となっているからである。ユダだけでなくすべての使徒は、「イエスの要求」=「全面的献身(≪ルカ10・41:マルタ、……あなたは心を乱している。……必要なことはただ一つだけ(≪神の側の真実としてある救いと平和そのものであるイエス・キリストに対する全面献身――マリアはよい方を選んだのである≫)に対して、自分なりの計画と判断(≪人間の恣意性独断性による救いや平和の計画や方法≫)にもとづいて造り上げられた、使徒としての追従という敬虔な意図のもとに隠れて、詐欺や盗人のように身を引くこと」の可能性の内にあるのである。バルトは、このことから、イエスの洗足を理解することができる、と述べている。

 

 バルトは、すべての使徒たちに対するイエスによる洗足を、次のように述べている――ユダは、「使徒たち全体の汚れた足」の比喩表現である。また「汚れた足」の具象性である。すなわちユダは、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張もという「反抗的な、失われたイスラエルと共に、従ってこの世と共に共有していた」「起源」としての「教会」の比喩表現であり、現実化、具象化である。「ユダと違って頭と手がきよいほかの」使徒たちも、「足はユダに劣らず汚れていたから」、すなわち「ユダと共に、咎をもち」、客観的に「きよめられることを必要」としていたから、イエスは、すべての使徒たちに、使徒たち「そのものに」、「最後まで」・「最高度の完全さ」で、洗足(「洗浄」)の奉仕を行わなければならなかった。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15・5)。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(ヨハネ15・3)。この洗足は、「上からの面では」、イエスの「死の接近」と、その死に「相応する父なる神への帰還」が、「下からの面では、ユダのサタン的可能性の現実化」、具体化の開始が、「イエス御自身の内部においては」、「徹底的な力の充満の意識」と、その力によるすべての使徒に対する「最後まで」「最高度の完全さ」で「余すところなく包む愛」の行為の出来事が、「危機的瞬間」において行われている。
 この洗足の仕方は、聖餐の仕方と同じように、使徒たちと教会に対して、「イエスの死によって仲介され、贈られるものを予想している」。「わたしのしていることは、今あなたにはわからないが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13・7)。それは、イエスの「死において力強くなり、……復活において啓示され展開される」「最後まで」「最高度の完全さ」で「余すところなく包む」「愛の完成である」、すなわちそれは、その死と復活の出来事における全き自由の子なる神の存在としての神の全き自由の愛の行為の完成である。イエスは、「聖晩餐において予想され、あらかじめ示されたように、彼らが食べるために彼の体を与え、彼らが飲むために彼の血を与える」。すなわち、「自分自身を贈る」。この時、そのことによって、「イエス自身が彼らのうちに生き、彼らはイエス自身によって生きる」のである。このことは、『福音と律法』に即して言えば、次のように言うことができる――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。
 イエスは、聖晩餐においては「そのパンと葡萄酒を分ける家の主人」であるが、洗足においては「御自分を彼らの奴隷とする」。この洗足において、イエスは、「僕のかたちをとり……、おのれをむなしうした」(ピリピ2・7以下、新共同訳フィリピ)。このイエスは、「ベタニヤのマリヤの原型として示されている」。そして、「理解しがたいほどの謙卑のうちに行われる」この僕・奴隷としての奉仕は、「主」としての「永遠のまことの神性」を本質とするイエス・キリストのみが「なしうる奉仕であり」、すべての使徒が「最高度に必要としている奉仕」である。何故ならば、「赦す神」は、その人がたとえ「まことの人間」であってもその人間性に内在することは決してないのであって、ただ「まことの神」としてのその「永遠のまことの神性」にあるからである。すなわち、このイエスによる洗足は、「すでに頭や手がきよめられている者」も、「選ばれ、召された使徒ペテロも」、「選ばれ、召された使徒ユダと全く同じように」、その復活に包括された「イエスの死を必要」としていることを意味している。したがって、すべての使徒は、この場所でしか、「何一つできない」(ヨハネ15・5)。「新約聖書の証人たち」は、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのであり、彼らは「甦えりの証人」 であり、彼らは復活された「既に来た方」、すなわちイエス・キリストは「またこれから来たり給う方」、すなわち終末に再臨される方であることを語るのである。「しかし、このイエスの奉仕と同時に、ユダはイエスを「引き渡しに導いていく」道に向かって歩みを進める。すなわち、すべての使徒は、「イエスの語られた言葉によってきよめられ」、「イエスの業であっても」、またイエスによって「『この世にある』頭や手をすでに洗っていただいたとしても」、「イスラエルの本質とイスラエルの行った棄却に密接に関与」して存在するし・存在し続けるのである。この「イスラエルの本質」と「イスラエルの行った棄却」とは、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神から独立し先行させた人間が「自分の足で立とうという傾向」、無神性・不信仰・真実の罪のことであって、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すということであって、ペテロの場合も「少しもユダに劣っていなかった」。第三の形態の神の言葉に属する教会論的なキリスト教的人間であれ、実際的現実的には全く以てそうであるであろう。ペテロにとっても、ユダと同じようにマリアのイエスに対する「全面的献身」は、「見馴れぬこと、異様なこと」に思えることだった。このことは、「使徒団全体(≪イスラエル、教会、この世≫)が持っている根本的欠陥」である。この「根本的欠陥」・「罪」・「咎」・「汚れ」は、徹頭徹尾全面的に、決して自分では「改善できず」、ただ「浄化・聖化・更新」の根拠である「永遠のまことの神性」を本質とするまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「死と復活」によってのみ、「赦される以外にはない」、「罪そのもの」である。したがって、「選ばれた者」とは、「棄てられた者」であり、また「棄てられた者として選ばれた者」のことである。この「選ばれた者」とは、「棄てられた者」であり、また「棄てられた者として選ばれた者」という認識は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられるそれであって、われわれは、その啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比を通して、「イエス・ キリストの復活」において「神の選び」を認識し、「イエス・キリストの十字架」において「神の放棄」を認識するということであって、その「復活」における「神の選び」に包括されたその「十字架」における「放棄」というその全体性・総体性におけるそれ(「棄てられた者として選ばれた者」)であるということである。

 

 ユダのイエスの「引き渡し」の行為は、ユダだけでなく他のすべての使徒にも誰にでもある、その基層における「隠されていたもの」の現実化、具象化である。イエスの「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」(ルカ23・34)という「きわみまでの愛」、「最後まで」の「最高度の完全さ」の愛、「完全な愛」は、ユダの「罪」・「咎」・「汚れ」を包括し止揚し克服し、それに「勝利」しているのである。そうであるならば、「彼らのうち、誰も滅びず、ただ滅びの子だけが残りました」というユダに対する「最後的証言」は、イエスの死のこちら側、「福音と律法の真理性」における死のこちら側で終わっている事柄として、「イスラエルによって破られた、古い契約の領域のしるしのもとに」置かれた事柄であると言うことができる。したがって、イエスは、ユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われた(ヨハネ13・27)。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる(≪人間の非本来的な、失われた、否定的判決を受けた≫)古い世」・時間は、復活へと向かっている(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、一方で、イエスは、その「対向」性において、「ユダのために存在し、彼のために御自分を全く投げ出され、彼の足を洗い、御自分の引き裂かれた体、流された血を彼に差し出し、御自分を彼のものとし」、「疑いもなく実にユダのために、立っている」。他方、ユダは、その「対立」性において、そうしたイエスに対して、なお依然として「疑いもなく……逆らって立って」いる。イエス・キリストの恵みは、「ユダに対しても何の制限」も設けられてはいない。その恵みは、完全に開かれている。すなわち、「聖晩餐や洗足においてユダにも分け与えられる神の愛」、「神の選び」は、「完全な、無制限な約束」である。われわれは、この「棄てられた者に向けられる」神の愛に対して、「自分がその愛に価しないものであることを証しできるだけである」。この「対向と対立」は、宣教状況を指し示している。したがって、この意味において、ペテロも、教会と教会の一人一人の成員も、「ユダの人格と行為」において明らかにされている「棄てられた者」というこの「神的な規定」、この「対向と対立」に自覚的である必要がある。使徒職が「イエス・キリストの選びと恵みによる宣教のための職」である限り、第二の形態の神の言葉(聖書)である「使徒職と、使徒職の上に築かれた(≪聖書によって宣教を義務づけられている第三の形態の神の言葉である≫)教会」が、ユダの人格と行為のために「『救われるべき全イスラエル』(ローマ書11・26)であることを止めてしまうということにはなりえない」。

 

 さて、「イエスの死と復活後」、「受け取られた罪の赦しにふさわしい形体」は、「ベニヤミン人サウロ」である。旧約聖書のベニヤミン人サウルがダビデを迫害したように、新約聖書のベニヤミン人サウロは「『神の教会』を迫害する」(ガラテヤ1・13、Tコリント15・9)。そのサウロの「行動の真最中」にイエスの方からサウロと出会い、「サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの言葉によってサウロは「特別な使徒職を委託される」。「サウロとしてのパウロは、(中略)成立し始めてきた教会に対して、ちょうどイエスに対するユダによって具体化されたイスラエルの、悪しき目を具体化するものであった」が、「今や」、パウロの目は、悪しき目の盲目状態を経て、啓示の「真理に対する正しい目として」「開かれる」。すなわち、パウロは、神の恵みにより「ユダの再生」としてのパウロ・「ユダの後継ぎとしてのパウロ」として更新されたのである。この更新によりパウロは、旧約聖書における「異邦人、この世に対する光」として「イスラエルの規定」性をみたす「新しい、従順なイスラエルの具体化となった」。何故ならば、パウロの「特別な使徒職」は、「イスラエルのメシヤ」を、「異邦人」、「この世」に「連れてくること」にあったからである、換言すればパウロのそれは、「イエスを異邦人に引き渡す仕事を完成する」ことにあったからである、すなわち第二の形態の神の言葉におけるパウロのそれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)の告白・証し・宣べ伝えの完成にあったからである。ただ、ユダとの根本的で究極的な差異性は、パウロの場合は、ユダとは違って、「イスラエルの召命と派遣」に対する「不真実のうちに」ではなく、「真実さのうちに」、「イエスを殺すためではなく、この殺されたりはしたが甦られ給うたイエスの主権を全世界に打ちためるために」のみ、イエスを「引き渡す」(第三の形態の神の言葉である教会の宣教に対して、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉を、すなわち最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」を「引き渡す」)という使徒職を全うした点にある。言い換えれば、第二の形態の神の言葉に属するパウロは、すなわちそのキリスト教に固有な類を、その類の時間性としての、すなわちその類の時間累積としてのキリスト教に固有な歴史性として、第三の形態の神の言葉に属する後続する世代(類)に時間累積させるという使徒職を全うした点にある。何故ならば、この時にのみ、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すことができるからである。

 

 さて、ユダの使徒職の補充は、「法的には」「マッテヤ」によってなされたが、「事実上は」パウロによって「補充された」。何故ならば、イエスの死の前において、「パウロの場所を占めていたのは、まさにユダにほかならなかった」からである。「ユダが棄てられることは」、「使徒全体、イスラエル全体が棄てられることの啓示としてのみ理解されうる」。何故ならば、その死においても、使徒全体の中で「ユダだけがイエスに相対して、イエスと並んで立っているからである」。ただ、ユダの死は、「贖いの死」では全くなく、「罪の支払う報酬としての死」、「全く希望のない」・「非生産的な死」、「従順な者の死ではなく、死においても不従順な者の死」、「死においてさえ自分を、自分自身に対する裁き手として主張する者の死」である。このユダとパウロの関係において、「棄てられた者」を規定する場合、われわれは、「選ばれた者は誰でも」、「棄てられた者であった」ということであり、それ故に「選ばれた者の業」は、徹頭徹尾全面的に、その死と復活の出来事におけるイエス・キリストの「復活の力」による「棄てられた者」の「浄化・聖化・更新」、「転換」でしかなかったのである。言い換えれば、先にも述べたように、われわれは、「イエス・ キリストの復活」において「神の選び」を認識し、「イエス・キリストの十字架」において「神の放棄」を認識するのであるが、イエス・キリストの「復活の力」による「棄てられた者」の「浄化・聖化・更新」、「転換」とは、その「復活」における「神の選び」に包括されたその「十字架」における「放棄」というその全体性・総体性における「棄てられた者として選ばれた者」であるということである。ユダにおけるイエスの「引き渡し」は、「イエス・キリストの選びに基づく」「全面的献身」をなしたベタニアのマリアとは異なった、ユダのその「悪しき行為において事実上遂行された」、「きよくない部分」、換言すれば神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も実現させようとする「協力作業」にある。それは、イエスに選ばれ召された使徒団、すなわちイエス・キリストの教会の「真唯中から」惹き起こされたユダの「罪」・「咎」・「汚れ」である、イエスの自由を敵に売る「移し渡」し、イエスを「見捨て」・「敵に渡し」・敵の恣意的独断的な「敵対的判断」に任せる裏切り行為についての新約聖書の根本概念は、「『引き渡し』という概念」にある(バルトは、この概念の本来的意味を、マタイ5・25および18・34、マルコ1・14、マタイ4・12、マタイ24・10等で例示している)。新約聖書においてユダは、この「系列の最初の人物」として登場している。何故ならば、イエスに選ばれ召された使徒職、「教会の使徒職の前提」は、「イエスを人間の力の下に置くためでなく、人間をイエスの力の下に置くためであり、イエスを罪人に引き渡すためではなく、罪人をイエスに引き渡し、『すべての理性をとりこにしてキリストに服従させる』(Uコリント10・5)ためであり、従ってイエス・キリストの自由をこの世に確証し、輝かせ、神の国の宣教に開かれた道を備えるためであるからである」。したがって、ユダの「引き渡し」の行為の意味・内容は、第一には、「この世のすべての権威と栄華」を「引き渡されている」(ルカ4・6)悪魔の主権の「巨大な虚偽に仕える『引き渡し』」にある。ユダのそれは、第二には、イエスに選ばれ召された使徒職の使徒的奉仕の明確化にある。それは、前段で述べたように、「イエスに関する知識、彼の言葉や行い、彼の死や復活に関する告知、教会の実存と秩序に関するイエスのうちに明らかにされた神の御意等を、これらすべて等を原初的に受け取った最初の人間の手から、忠実に、完全に、また変更せず、縮小もせず、第二の手に、それを原初的に受け取らなかったほかの人々に、後代の人々の手に移し与えていく」(「引き渡し」ていく、そしてそういう仕方で教会が建てられていくという)点にある。この意味で、この「引き渡し」は、「主の受け入れ」である(ヨハネ1・11)。この「主の受け入れ」とは、「わたし自身、主から受けたもの」を、「あなたがたに伝える」ことである(Tコリント11・23)・「わたしがあなたがたに伝えたのは」、「わたしも受けたもの」である(Tコリント15・3)。したがって、第三の形態に属する次の様々な世代(類)の教会における「主の受け入れ」も、第二の形態の神の言葉(使徒たち)である「わたしたちから受けた教え」を「受け入れること」にある(Uテサロニケ3・6)。このバルトの思惟と語りは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すことをしようとしないところの、先行させた人間の側からする神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」、先行させた人間学と神学との「混合神学」等を目指す自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「人間のいましめを教えとして教え」(イザヤ29・13)・「神のいましめをさしおいて人間の言い伝えを守るために、……神のいましめを捨て」(マルコ7・8−9)・「自分たちが受けついだ言い伝えによって神の言葉を無にしている」(マルコ7・13)という聖書の言葉における思惟と語りに基づいているのである。このことをバルトは、『教会教義学 神の言葉』においては、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時」、「正しい内容を持っている」、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」(第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な教義学的成果、その成果としての教義)は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であると述べている。パウロは、本来的な使徒職の在り方を指し示した。「彼が本来受けた知らせを、彼の手から、彼ら読者の手へ、さらに引き渡していく」という「引き渡し」と「受け入れ」、「受け入れ」と「引き渡し」という在り方を指し示した。言い換えれば、パウロは、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を指し示したのである――キリストと教会の関係(Tコリント11・2以下)・聖晩餐(Tコリント11・23以下)・イエス・キリストの復活の証言(Tコリント15・3)の聖書記事から。第二形態の神の言葉(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)である使徒としての「わたしがあなたがたに伝えた(≪引き渡した≫)ことは、主(≪「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト≫)から受けたことなのである。すなわち主イエスは、渡される(≪引き渡される≫)夜、パンをとり、感謝してこれをさき……」(Tコリント11・23以下)――この「二つの『引き渡し』」は、すなわち、「パウロがユダの影のうちに置かれ、ユダがパウロの光に置かれる」というこの「正反対の性格」の「引き渡し」の意味・内容は、「ユダとユダヤ人」が犯した「神の言葉と戒めを棄て、除き、無効」にする「罪」・「咎」・「汚れ」(使徒の棄却)としての「引き渡し」を背後に持っていない「使徒の『言い伝え』」はあり得ないということであり、しかしそれは、そのユダとユダヤ人が犯した「引き渡し」における「不従順、不真実な行為」は、先ず以て「イエスの死と十字架に基づいて」、第三の形態の神の言葉である「教会を全世界に生み出す、(≪第二の形態の神の言葉である≫)使徒たちの『引き渡し、言い伝え』によって、新しく取り上げられ」ていく以外にはないということである。その時間性はそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)である。

 

 パウロも「神の恵みによる言い伝えの行為において今あるところの者であるという事実こそが、ユダを義とするものである」、「棄てられた者の選びが、その棄てられたことを上回る勝利である」、「神の恵みを捨てたイスラエル、不従順なイスラエル全体を義とするものである」、「教会のうちに義しい成就を見いだす、選ばれた神の民という形を持ちまた保つものである」、「一方でイスラエルの断罪を確認しながら、イスラエルを義とする」ものである。また、それは、「イエス・キリストご自身と共に、教会が生まれ出てきた根であり、また根であり続ける」、終末論的な「イエス・キリストとその教会における、きたるべき現実」の、終末論的限界の下における「影であり、また影であり続ける」。言い換えれば、それは、ユダの「回心……を抜きにしても」、「その全否定性においても」、「ユダにも開かれた……宣教であり、彼にも語りかけられる招き、勧め、願いである」。神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示ないし和解の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間である「永遠のまことの神性」を本質とする「赦す神」)においては、ユダも、「単に否定的な姿で終焉する」のではなく、「積極的な姿に転換させられる」ということである。

 

 バルトは、ユダの「引き渡し」と使徒的「言い伝え」の原型は、「神的引き渡し」であると述べている。その「神的引き渡し」に従って、神は、われわれ人間の生来的な自然的な「正しからぬ理性」に「渡し」、「その支配のうちに任せ」た(ローマ書1・18以下)。神は「天において引き渡し」、「使徒は地において引き渡す」。その「引き渡し」の対象は、「特定の人間」である。それは、偶像礼拝に向かった「イスラエルの先祖たち」であり、「自力的な知恵」に基づく「際限のない不道徳」の破れである。ここでは、そうした「引き渡し」そのものが「刑罰」である。すなわち、その「刑罰」は、人間が神に「棄却」された者・「棄てられた者」となることである。したがって、そのように「救いのない深み」に「引き渡され」・「棄却」され・「棄てられた者」に残された道は、ただ一つだけである。すなわち、「棄てられた者の最後の言葉」は、神の側の真実としてある、「和解と救済」の「神の言葉」であり、「和解と救済」の「神の業であり続けるように」という「乞い求め」である。その「棄てられた者の最後の言葉」は、神の側の真実としてある、十字架上の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのですというイエスの言葉」と、「イエスの死と復活」を必要とするのである。このイエス・キリストにおける啓示ないし和解は、「主の日」・「信仰の終末論的可能性を目ざしている」。すなわち、「神的引き渡し」の積極的意味は、この「終末論的可能性」にあるのである。救済を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰の中で持つことは、「約束として持つこと」である。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、「神の恵みの賜物である聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、 義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、すなわちわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。その「完成」は、終末を、救贖、復活されたキリストの再臨を待たなければならないのである。
 イエスの人間への「引き渡し」の形態・意味・内容には、一方で「罪」・「咎」・「汚れ」に満ちたユダによるイエスの「引き渡し」・「イエスのはずかしめ」にあるのだが、他方で「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)における「使徒的奉仕」、「言い伝え」、反復(媒介)を通して、その時間累積を通して「イエスに栄光が帰されること」にある、換言すれば啓示自身は「啓示に固有な証明能力」を持っているから、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のであり、「解釈するとは、別の言葉で同一のことを言うこと」であり、それ故に第三の形態の神の言葉である教会は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動の原理・規準・法廷・審判者・支配者として「使徒的奉仕」、「言い伝え」、反復(媒介)を通して、その時間累積を通して「イエスに栄光が帰されること」にある。
 さて、神は、われわれ人間の生来的な自然的な「正しからぬ理性」に「渡し」、「その支配のうちに任せ」たという「引き渡し」とは徹頭徹尾全く違うところの「引き渡し」は、神の「言葉が肉体となった(≪それは、その存在の仕方である「言葉」の受肉であって、その存在の本質である「神性」の受肉ではないという意味で、神の言葉が、「人間の歴史」となり、「ナザレのイエスという歴史的形態」――「イエス・キリストの名」となり、「ほかの人間たちの間で一人の人間の歴史」を持とうされた≫)という出来事」を「本来的」・「根源的」な「引き渡し」としており、「神ご自身がイエスを引き渡す」というその出来事のことであり、「永遠のまことの神性」を本質とする「神の子そのものとしてのイエスが、ご自分を引き渡した」という出来事のことである、それ故に子なる神の存在としての神の愛の行為の出来事のことである。そして、この後者の「引き渡し」が、「すべての引き渡しの必然性と力と意味」である。すなわち、この後者の「引き渡し」は、「わたしたちのため」・「わたしのため」のインマヌエルの出来事であり、その「死と復活」の出来事におけるイエス・キリストによる、人間の「罪過」の除去、浄化・聖化・更新である。何故ならば、人間の罪過は、神の側の真実として「神によってのみ赦されるものでなければならない」からである、徹頭徹尾「永遠のまことの神性」を本質とするまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「赦す神」によってのみ赦されるものだからである。この神の側の真実は、「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれ人間のための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方において「神がただ単に人間にだけ真実を示した」ことを意味しているだけではなく、ご自身の中での「神が神ご自身に対しても真実であり続けたこと」を意味している。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、イエスが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主としての霊」と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」、「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ一四・二六)であり、「上から」の「よき賜物」、神の恵みの賜物である、この先行する神のその都度の自由な恵みの決断に基づいて「聖霊の注ぎ」により「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への方向転換に置かれること」である。この二つの方向転換 において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している、この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることである、この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕へと向かわせる」のである、また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、われわれは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる、そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異の下において、「神の子供」なのである。このようにして、神の子としての「権利、自由、希望に対する前提」と、「教会がこの世と永遠にわたって神に栄光を帰すことの許可」が成立するのである。この人間の「高挙」は、徹頭徹尾「復活におけるキリストの高挙に負うている」――「永遠のまことの神性」を本質とする「イエスの引き渡しは、この世の、神との和解にとって欠くことの出来ない、罪からのきよめである。それは罪が決定的に追放されること、罪の赦しであり、またそれと共に神の国に門が開かれることである」。この賜物を前にしてなすべき「正しいこと」は、この出来事を、「わたしたちのため」・「わたしのため」(「あの棄てられたユダヤ人や異邦人たち、偶像礼拝に向かって放棄されたイスラエル、心の情欲に向かって放棄された異邦人、コリントの近親相姦者、ヒメナオとアレキサンデルと自分たちも連帯的であると考え……信じ、告白する場合のわたしたち」)に起こったこととして承認し受け入れることである。神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」におけるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し「固着」することである。「わたしたちの生の所有者、および主として、また教会の頭として承認し受け入れることである」。

 

 このような訳で、使徒的「言い伝え」は、「本来的」・「根源的」な「神的引き渡し」の事実を「原型」・「範例」として持っている。何故ならば、使徒は「主の僕」であり、第一の形態の神の言葉であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である使徒(最初の直接的な第一の啓示・和解の「概念の実在」)が「宣べ伝えるものは、彼が発明したものではなく、神によって造られ、置かれたものである」からである。したがって、使徒の「言い伝え」・「引き渡し」は、「原型」・「範例」としての「神的引き渡し」の「模倣」・「反復」である。また、使徒の「言い伝え」・「引き渡し」の「内容と力」は、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」におけるイエス・キリスト、「ただイエス・キリストの名だけ」である。

 

 さて、ユダの行為は、「神の御意と御業の一要素」であり、「ユダは自分が望み、なしとげたことによって、実は神がなしとげようと望まれたことをした」に過ぎなかったし、ユダ的「人間の断罪」、「ほかのすべての人間に下される断罪の意義」、「サタンの国」としての「人間の世界」、「間違って使われた」恣意的独断的な「被造者的自由の国」、「創造者の意志に逆らう敵意の国」、「創造者の業に反抗する国」であることを確証したと言うことができる。ユダのこのイエスの「引き渡し」は、「神的引き渡し」をその内容と対象としている「使徒的引き渡し」とは違って、「神的引き渡し」と「人間的引き渡」が同在しているそれである。すなわち、「人間的引き渡し」(人間の恣意的独断的な「自覚的」・「自発的罪」)が起こるや否や「神的引き渡し」も起こっている。いわば、「神的神引き渡し」は、この「人間的引き渡し」を用いて、「全面的」に、「徹底的」に、その「人間的引き渡し」を包括し止揚し克服している「引き渡し」である。したがって、「旧約の予言の成就」としてのユダの「イエスの引き渡し」の行為は、「イエス・キリストが、棄てられたイスラエルのためにも死なれたことを明らかにする」のである。ユダは、「イエスから彼に分与される優越、光輝、規制のもとでしかうごきまわったり、体をのばしたりすることは出来ないのである」、すなわち「その悪しき行為も、いつもイエスの救いにみちた行為と関係させられている」のである。『教会教義学 神の言葉』では、次のように述べられている――起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストが、われわれ人間に対して、第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する」、それ故にわれわれは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」、それ故にまた「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」、と。

 

 「棄てられた人間」・「選ばれなかった人間」に対して神が「望み意図していること」は、彼ら・彼、「神の御前に、棄てられた者として独立した存在を持っているのではない」から、すなわち、誰であれ「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗しても、われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給う」イエス・キリストとの連続性の中において存在させられているのであるから、彼ら・彼が「福音を聞き、そのことによって彼の選びの約束をも聞くことを望んでおられる」のである。したがって、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)――「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請――すなわち、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関において、彼ら・彼に「この福音が宣べ伝えられることを望んでおられる」のである。キリストにあっての「神は、棄てられた者が信ずること、また信仰者(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が授与された信仰者≫)として、選ばれている『棄てられた者』となることを望んでおられる」のである。