カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「聖霊とキリスト教生活」――(1)創造者としての聖霊

「聖霊とキリスト教生活」――(1)創造者としての聖霊
再推敲・再整理版です。

 

『カール・バルト著作集 1』「聖霊とキリスト教生活」蓮見和男訳、新教出版社に基づく

 

 この「聖霊とキリスト教生活」は、著作集「解説」によれば、1930年『時の間に』誌別冊に収録された論文である。
 先ず以て、バルトの(1)創造者としての聖霊、(2)和解者としての聖霊、(3)救済者としての聖霊という論述内容を理解するためには、大学神学者は必然的にそうならざるを得ないし、またその他の多くの人々もそれを目指しているのであるが、神と人間との「混淆」・「混合」、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、思想傾向、文化的傾向等との「混淆」・「混合」を目指す「混淆神学」・「混合神学」、総括的に言えば自然神学ではなく、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(啓示ないし和解の実在)そのもの」を、それ故に具体的にはその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<非>自然神学を目指すバルトの三位一体論の理解を必要とする。
 バルトの三位一体論は、次のように要約することができる――
 「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」(「区別」性)における「三つの存在の仕方」、すなわち「起源的な第一の存在の仕方」であるイエス・キリストの父――この父は、その起源的な第一の存在の仕方において、子として自分を自分から区別するし、自己啓示・自己顕現する神として自分自身が根源である――、父が子として自分を自分から区別した「第二の存在の仕方」である子としてのイエス・キリスト自身――起源的な第一の存在の仕方である父から区別された第二の存在の仕方である子は、父が根源である――、愛に基づく父と子の交わり(「完全に共存的な関係」)としての「第三の存在の仕方」である「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――「父ト子ヨリ出ズル御霊」としてのこの聖霊は、父と子が根源である――、である内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である。簡潔に言えば、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、先ず以て、ご自身の中での神(「自己自身である神」)として、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である。それからまた、この神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外的な・外在的なその「失われない差異性」(「区別」性)における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動。父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体)において、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち啓示者・言葉の語り手・創造主なる神の存在、また第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)・和解主なる神の存在、また第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」としての聖霊――すなわち啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在、としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体である。このような訳で、このわれわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全性、自存性および独立性(自由性)は、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」の完全性、自存性および独立性(自由性)を根拠としている。

 

(1)創造者としての聖霊の「要旨」
 ここで「創造者としての聖霊」は、「人間に対して存在の出来事となる聖霊」であって、換言すれば「創造者としての聖霊」は、人間に対して、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)である聖霊であって、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「聖霊の注ぎ」において、「人が神の似姿を持っていることの唯一の現実である」。したがって、このことは、神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」においてということであって、人間精神が聖霊と同一であるということでは決してない。「聖霊は、人間精神と同一ではない」、神のその都度の自由な恵みの決断により「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、それ故に聖霊によって更新された理性も聖霊ではない――『教義学要綱』)。したがって、この「創造者としての聖霊」は、先行する神の側の真実としてある「創造者の被造物に対する自由な御業であって、ただ恵みとしてだけ理解できるもの、人間の側からは、決して理解されないものである」。ここで「キリスト教生活とは、聖霊により、神の御言葉にむかってうち開かれた人間生活である。したがって、聖霊とは、その(≪ご自身の中での神としての「神性」を本質とする≫)存在において、またその(≪われわれのための神としてのその存在の仕方における≫)働きにおいて、啓示の出来事の主体的な側面を意味している」。「創造者が人間に何を求めておられるか(「創造の秩序」)について、聖書と経験を通して与えられる人間の知識は、人間の所有となっている」のではなくて、「(御言葉によって与えられ)聖霊において、その時、その時に、人間のものとされるのである」、ちょうど神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)が与えられ、その啓示認識・啓示信仰に依拠して、その啓示の類比、信仰の類比、関係の類比を通して自分自身についての、人間についての、人間の世についての自己認識・自己理解・自己規定が可能となるように。すなわち、例えば、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものである客観的なその死と復活の出来事におけるイエス・キリストの「啓示ないし和解」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられるその啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比を通して、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを、またわれわれ人間は生来的な自然的な「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」ということを、またわれわれ人間は「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を全く持ってはいない」ということを、われわれ人間に自己認識・自己理解・自己規定させるようにである。総括的に言えば、その死と復活の出来事におけるイエス・キリストにおける「啓示ないし和解」の場所は、その個と現存性――その類と歴史性の結節点を生きるわれわれ人間の生誕から死までのすべてを見渡せ、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であるだけでなく、自然神学的な教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。  

 

(2)和解者としての聖霊の「要旨」
 ここで「和解者としての聖霊」は、「恵みの霊であって、恵に逆らうもの、あるいは人間の行いによる義に反対する」。「人間の本来的な、唯一の罪に対して反対する」、すなわち、先行する神だけでなく人間も、先行させた人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間の無神性・不信仰・真実の罪に対して反対する。ここで「キリスト教生活とは、聖霊において現実となる生活、すなわち御言葉により、キリストのゆえに義と認められた」「悔改め・信頼としての、信仰によって義と認められた人間の生活である」。この「義認」は、「現実の人間の義認であるから、それはその聖化と一致している」。「ただ、この聖化の事実には、聖霊における人間自身の服従が対応する。しかも、それはただ、聖霊においてのみ行われる」。このような訳で、ここで「キリスト教生活」とは、神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の導きにより、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリストにのみ依り頼み切った「悔い改め」とイエス・キリストにのみ感謝をもって「信頼」し「固執」し「固着」する信仰に生きることである。このことは、『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』に即して言えば、「世界の救いを何かある国家的(≪国家の言語としての法的政策的言語≫)、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待する」決断と態度のことである。

 

(3)救済者としての聖霊の「要旨」
 ここで「救済者としての聖霊」は、「人間に対して、神の啓示のうちに約束の御霊として現在する」。人間は、この「聖霊において、……人間存在の根源的な彼岸の究極的な、未来形において、……新しい被造物、神の子なのである」(何故ならば、「聖霊はみ子の霊であり、それ故に、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは神のその都度の自由な恵みの決断により「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として」、われわれは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ8・15、ガラテヤ4・5)」ことができるからである)。また、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、次のように言うことができる――われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して「救済」を「信仰(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。このように、「キリスト教生活とは、聖霊によって証された、希望の中にある新しい生活である」。「聖霊は、その全き神性において、全き尊厳さ(≪ご自身の中での神として、その「神性」を本質とする存在としてのそれ≫)と低さ(≪われわれのための神として、「外に向かって」のその存在の仕方としてのそれ≫)において、神の全く隠れた姿(≪ご自身の中での神としてのそれ≫)と啓示された姿(≪「外に向かって」のわれわれのための神としてのそれ≫)において、主なる神にいます」。

 

 総括的に言えば、キリスト教に固有な類と歴史性(換言すれば、「神の言葉の三形態」)の関係と構造(秩序性)における、まさにその時間性(歴史性)の途上にある現存する第三の形態の神の言葉に属する教会の成員としてのキリスト者の「キリスト教生活」とは、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である「聖霊の注出」(「聖霊の注ぎ」)による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠した者の生活のことである、その啓示の類比、信仰の類比、関係の類比を通した者の生活のことである、と言うことができる。

 

(1)創造者としての聖霊
 さて、アウグスティヌスは、自然神学的な「後の理想主義的神学者」とは違って、また「聖霊は「『個人の直接的、宗教的創造力』と同一視」したトレルチとも違って、一方で、<非>自然神学的な立場において、「神の生」がその被造物であるわれわれ人間の「精神生活または霊的生活と同じものではないということを知っていた」。しかし、アウグスティヌスは、他方で、自然神学の立場において、すなわちその「存在の類比」において、「造られざる〔神の〕霊(Geist)を、造られた〔人間の〕霊の連続性の中に求めていた」。すなわち、アウグスティヌスにおいては、神は、一方で、「霊魂(Seele)ではない」、「霊魂を超え、霊魂以上のものであるある」のであるが、しかし他方で、神は、ヘーゲル的に言えば人間に内在する神的本質として、「根源的には霊魂の中に」、人間精神の中に内在しているものなのである――アウグスティヌスにおいては、神は「本来、知られていたが、ただ忘れられており、恩寵の助けによって非常にはっきりと思い起こされるべき霊魂の源」である。このように、アウグスティヌスのベクトルは、自然神学の方に傾斜しているのである。言い換えれば、この時、アウグスティヌスは、「言葉を与える主」は「信仰を与える主である」という「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」立場に、すなわち自然神学の立場に立脚しているのである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、バルトは、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念(≪最高善としての神≫)の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カール・バルト著作集12』「カント」)と述べたのである。このアウグスティヌスは、「神の認識は恩寵によって呼び起こされ、導かれるとは言え、やはり自己の内なる努力、言わば絶えず上昇して行く『超越化』の長い階段の……最後の一歩である」と述べている。ここで、アウグスティヌスは、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性に神の認識を求めているのである。したがって、バルトは、この「ペラギウスと戦った……偉大な闘志は、そのような神概念の中に行いによる義そのものが潜んでいるとは感じていなかった」と述べている。この場合、キリスト教の神は、「主なる神(≪支配する者≫)と人間(≪支配される者≫)との非連続性」が止揚され捨象されてしまうのである、換言すれば「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異が、「支配する者と支配されるものという侵すことができない一線」が止揚され捨象されてしまうのである。この場合は、次のようなフォイエルバッハやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判や揶揄は、客観的な正当性と妥当性を持っているのである――「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」、それ故に「この対象に即してもまた、『神学の秘密』は人間学以外の何物でもない!」(『キリスト教の本質』)、「『今日まさにこのマールブルク(≪前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマンやその学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間が恣意的独断的に対象化したに過ぎない≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)。バルト自身は、次のように述べている――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」(『教義学要綱』)。したがって、「創造者なる御霊の神性が真剣に考えられるべきならば」、「厳密な意味で、常に新しく、私たちのもとに『来たるべき』ものとして」、すなわち「神の恵みとは、いつも、あらゆる点から見て、神の(≪われわれのための神としての「外に向かって」の存在の仕方における≫)、神の行為にほかならないから」、「(私たちには、徹底的に、その時、その時の)啓示の出来事、創造者の御霊の私たちに対する存在の出来事において、私たちのもとに来るべきものとして理解しなければならない」のである、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は与えられると理解しなければならない。したがって、「創造者としての聖霊」は、実体として理解すべきではなく、それ故に「与えられたものとしてではなく、与えられるべきものとして、成就としてではなく、約束として理解すべきものである」。

 

 前述した「聖霊」概念に基づいた「キリスト教的に生きる」「キリスト教生活」とは何を意味するのか? われわれは、この問いに対して、「歴史的」・「心理学的」・「社会学的」にではなく、「神学的に答えなければならない」。その神学的答えは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「われわれを清め給う神の指」・「慰め主、そばに立って弁護する者(ヨハネ一四・一六)」である「聖霊の注出」(「聖霊の注ぎ」)による信仰の出来事に基づいて「神が人間に向かって、御言葉を語られる時」には、「すなわちキリストが……人間のためにこそ、十字架にかかり、甦られたものとして現在する時」には、換言すれば「単なる知識」ではない啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)が授与された時には、「キリスト教的に生きる」「キリスト教生活が行われるのである」という点にある。したがって、この出来事は、「人間の自力の業」ではない。何故ならば、「実に、それは、(≪先行する神の側の真実としてある≫)御霊なる神の特別なみ業(≪ご自身の中での神としての三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方の特別な業と働き≫)、聖霊を注ぎ給う愛の奇蹟(≪聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事≫)について語っている」からである。したがって、「われわれがこの出来事にあずかるために、何か自分自身で心を開き、用意をし、備えをするということは考えられない」のである。何故ならば、神の側の真実として先行する全き自由の神の側からやってくる事柄だからである。したがってまた、このような「啓示と信仰の出来事にあずかること」は、「神の行為たるこの出来事そのものの中にふくまれているのである」。すなわち、その啓示にはその啓示自身に固有な証明能力を、その聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を持っているのである。このことが、「キリスト教生活に対する聖霊の根本的な意味である」。
 このような訳で、「キリスト教生活」はまた、「いかなる場合であれ、造られたものの生活」であり、「キリスト者は、神の御言葉と御霊の業(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」≫)によってキリスト者とされたので、初めから神の子であるのでも、また初めから義と認められた罪人なのでもない」のである。「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な三位一体の神――この「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「子の中で創造主として、われわれの(≪起源的な第一の存在の仕方である≫)父として自己啓示する」、それ故にその時、「父だけが創造主なのではなく、子と霊(≪第三の存在の仕方≫)も創造主」であり、「父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。このイエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う」神であるから、それ故にわれわれ人間を「永遠の生命に導くために、ゴルゴダにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられた」のである。起源的な第一の存在の仕方としての啓示者である父(言葉の語り手)なる神の(≪第二の存在の仕方である≫)子としての啓示(語り手の言葉)における「神の言葉は、創造主の御言葉でもあるが故に、それは、常に人間として造られた姿の中にあるキリスト者に関係しているのと同様に、(≪愛に基づく父と子の交わりの中での「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」である業、働き、行為としての第三の存在の仕方である≫)聖霊、助け主」は、「聖霊」と「造られた〔人間の〕霊」・人間精神との無限の質的差異の下で、「創造主の御霊であるが故に、聖霊の備えは、常に、キリスト者の人間として造られた姿そのものにも関係があるのである」。この「神の御霊のキリスト教生活に対する意味」は、現存する「人間として造られた存在において、人間そのものが、神により(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)、神に向かって打ち開かれ、用意され、備えられているということに存するのである」、「『御霊により、御言葉に向かって』ということが、『により、神に向かって』ということを意味している」。われわれは、「今この時において、に服従する生活とは何か、に造られた生活にふさわしい生活とは何かについて知っていない」し、「一定の秩序」としての「これこれの民族の一員」、「個人」、「言語」、「労働」、「男もしくは女」、「結婚・家族」、「年寄りや若い者」といったものが、「たった今、この私に、神の秩序としてどのような意味を持っているのかを知らない」。神がその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「わたしに対し権威をもって示し給う命令として義務づける限り」、啓示者である「創造主の御言葉」は、「神の啓示(≪啓示者である父なる神の子として啓示、起源的な第一の形態の神の言葉≫)について聖書(≪預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」≫)が宣べ伝えている、唯一の分つべからざる御言葉である」。「創造主の御言葉」は、われわれ人間における労働、性・家族、言語を介した「無際限に多くの生活の可能性の下で、……服従して生きる生活」が、「今この時、私にとって、このことを意味するが、あのことを意味しないということを私に教えてくれる」、われわれの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者である。したがって、「神が、一度限り、(≪第二の形態の神の言葉である≫)預言者と使徒の口を通して語られたことを、その時その時に、私たちに向かって語ることによって」、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身――この「啓示についての聖書の教え(≪第二の形態の神の言葉≫)がその時その時に、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)生きた神の声とならねばならないのである」。したがってまた、「神学的倫理学」は、「決して勝手にこしらえた創造の原理なるものを引き合いに出したり、あれこれの聖書の言葉を引き合いに出したりして、直接に神の戒命とはこれであると言おうとしてはならないのである」。すなわち「神学的倫理学」は、「すべての神学と同様、神の御言葉に奉仕するものでなければならない」、「神の御言葉を先取りしてはならない」、「神の御言葉」(具体的には、教会に宣教を義務づけている聖書)を恣意的独断的に支配してはならないのである――第三の形態の神の言葉である教会の宣教は、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としなければならないのである、「人間の律法(≪国家の言語である法的政策的言語を含めて≫)を立てて、御言葉の邪魔をしてはならない」のである、換言すれば起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を――この「神の言葉を文字通り、神の言葉たらしめなければいけない」のである。また、「その相対的必然性がどの程度まで、神の言葉であるかということを規定すべきではない」。何故ならば、「そのことは、ただ神の御言葉そのもののみがすることだからである」。このことを、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――第三の形態の神の言葉である教会の宣教、その一つの機能である神学、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、と。したがって、自然神学の段階において、「神の創造の戒律というものを認めたり、打ち建てたりできると考える倫理学は、自らを神の座において、その源泉を塞ぎ、それに毒を注いでいるのである」。このような訳で、われわれは、<非>自然神学の段階において、「人間の生活をキリスト教生活たらしめる神の創造の御言葉への聴従も、人間の業ではなく、神の業、すなわち聖霊の業であるということ」を述べて来たのである。われわれの「霊」、人間精神、人間理性は、「神の言葉を作り出すこともできないし、同様にまた、それを受け入れることもできないのである」。「自己自身の上に築かれた人間の霊」(生来的な自然的な人間精神、人間理性)は、「キリスト者の場合にこそ、最も危険な姿を呈する。それは狂信者の霊、極めて真面目で、敬虔で、善意に満ちてはいるが狂信者の霊(≪人間精神、人間理性≫)である」。このような「霊」は、「忠実なルター派ないし改革派の、また聖書的なキリスト者、神学者の胸の中にもある」。彼らは「全く無駄に、聖書と経験をもって身をよろい、遂には、自分自身の可能性の限界の中で、あたかも檻の中の飢えたハイエナのように、あてどもなく、あちこち暴れまわって」、「何か自己の原理と言ったものに陶酔して」いる。「そのような霊は、すべての『道徳的世界観』が『人間の空しさによって味つけられており、神の真理(≪啓示の真理≫)によって味がつけられていない』ということを理解できない」のである。「その生活が、真にキリスト教的生活であり、御言葉に聞き従う生活であるならば」、「自己の実存の奇蹟の上にさらにもう一つの奇蹟」、すなわち「聖霊のみ業」(働き)において、「人間は信ずる」、「そして神の啓示についての聖書の教えが彼を捕え、彼に被造物としての歩みを教える」、「そこでただ奉仕し得るにすぎないすべての倫理的意識を超えて」「神の御言葉を聞く」という「第二の奇蹟が起こらなければならない」。しかし、「御言葉に聞き従うよう自分を呼び覚ましたり、教育したりすることはできない、また、そのような状態に自分を保持していくこともできない」、このような「人間の不確かさのただ中で」、「神の確かさにおいて、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)ただ実際に聞くことができるのみである」。「われわれは、ただ祈りつつ聞くことができるのみである」、「わたしはこの地にあって寄留者です。あなたの戒めをわたしに隠さないでください」(詩篇一一九・一九)――このことは、「ただ聖霊の奇蹟(≪聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事≫)においてだけ、われわれから隠されることがないのである」。