カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「礼典論」

「礼典論」
再推敲・再整理版です。

 

『カール・バルト著作集 1』「礼典論」蓮見和男訳、新教出版社に基づく

 

 この「礼典論」は、著作集の「解説」によれば、1929年の『時の間に』誌第7巻に公表され、同年のエムデンとベルンで行われた講演である。「礼典論」は、具体的には三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書が、第三の形態の神の言葉である教会に義務づけている宣教(説教および聖礼典)における洗礼と聖餐としての聖礼典を対象としている。バルトは、「礼典」(洗礼と聖餐)について、次のように論じている。
 神の側の真実としてある、その「死と復活」の出来事における「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「彼(≪人間≫)が神を知る前に、神が彼(≪人間≫)を知り給うている」、「人はただ恵みによってのみ恵みを受け」、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比を通して、「神によってのみ神に属するものと知ることができる」、そのように「言葉を与える主」は同時に「信仰を与える主」であるから、「それ自身が語るもの」として、それ自身から授与されるものとして、「洗礼」は、「一回的」な「繰り返すことができない出来事」である。また、そういうものとして、「それ自身が語るもの」として、それ自身から授与されるものとして、聖餐は、「繰り返し行われる出来事」である。したがって、説教も、そういうものとして、「それ自身が語る」ことを、それ自身から授与されることを、「彼(≪人間≫)に語るべきである」。このことは、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教は、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えのことである)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すべきであるということである。そのようにして、「人は教会の肢として、自らをキリストにおいて死んで生きる者、正しい信仰と服従において立ち、歩む者として認識する」。ここで、啓示認識・啓示信仰は、「単なる知識」ではなく、「主なる神の認識(≪信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)であり、心からなる信頼であり、確信を持つと共に、服従の真面目さを持ちうることを意味する」――例えば、ちょうど神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」と認識し自覚しそこに生きる決断と態度を持ち得るように。何故ならば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員のわれわれ人間が語る言葉は、「神ご自身の言葉ではない」からである。

 

 さて、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする教会の宣教における説教とサクラメント(聖礼典)の「聴者」・聴従者(二重の自己理解、二重の生活が授与された者)は、光・「キリストの中に」ある「恵まれた」・義とされた「盲人」・「罪人の交わり」としての「教会」である。また、われわれ人間の「感覚と理解の世界」が、「神を見る目」・「神に聞く耳」となるということは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が、すなわち人間的主観に実現された神の恵みの出来事が与えられるということである。言い換えれば、それは、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異が貫徹されたところで、それ故に「神が神であることをやめることなく、しかも私が、失われた盲人であることをやめることなく、あの〔神との〕交わりを基礎づけるような一つの出来事(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」により信仰の出来事、信仰の認識としての神認識の出来事、啓示認識・啓示信仰の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)が、この私の世界の中に起こった」ということである。この「神の言葉の啓示」は、「神の徴設定を意味する」。すなわち、そのことは、聖霊によって更新された理性を必要とするのであるが、その「聖霊の注ぎ」により神の言葉はわれわれ人間が「聞き取ることができるような言葉として、形造られる」ということを意味する。何故ならば、神と人間の間には無限の質的差異があるから、またキリストにあっての三位一体の神は聖性・秘義性・隠蔽性において存在するから(それ故に、われわれは、神の不把握性の下に置かれている。それ故にまた、われわれの人間の側から直接性に神を把握することはできない)、またわれわれ人間の生来的な自然的な理性や意志によっては神を全く信じることはできないから、また「神に敵対し神に服従しない私たち人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」から、このようにまさに神と人間の間に「何ら直接的な告知がありえない」から、である。

 

 「サクラメント」(洗礼と聖餐)――この言葉は、「秘義と名づけられ」ていて、一般的真理ではなく、「恵みの真理」「それ自身」から「語りかけ」てくる啓示の「真理」である。「唯一」無比な「キリスト教の秘義」であるサクラメントは、「イエス・キリストにおける御言葉の受肉(≪われわれのための神としての外的・外在的なその存在の仕方における「言葉の受肉」であって、ご自身の中での神としての内的・内在的なその存在の本質である「神性の受肉」ではない≫)である」。また、「甦え」り・復活に包括された「十字架」・死という全体性におけるイエス・キリストにおいては、一方通行的一面的な「十字架ノ神学者」や「栄光ノ神学者」という在り方は、その一面・部分を全体とする誤解・誤謬に基づいた考え方なのである。また、人間の話し言葉や書き言葉で行う第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教も、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身の、それ故に具体的にはその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それを反復させた(媒介させた)神の言葉の「徴」である(「(中略)わたしたちの知識は一部分、預言も一部分……」、「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。(中略)「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」Tコリント13・9、10、12、)。このことは、終末論的限界を意味している。もしもそうでないならば、ヘーゲルの人間に内在する神的本質の言葉としてその人間の言葉は、神の言葉と混淆、同一化されてしまう。したがって、人間の自由を原理とする「精神」を、それ故に人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性を神化する近代以降の人間中心主義的な人間学的神学に対する「防壁」は、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の堅持はもちろんのことであるが、キリストのその存在の本質である「永遠のまことの神性の告白」にあるのである。それだけでなく、それは、サクラメントの「自然的な面」に、すなわち感覚的・可視的・客観的対象としてある「キリストの十字架」を「想起させる物質的徴」にあるのである。しかし、「私たちのまわりにあるすべての見えるもの」、すなわち感覚的・可視的・客観的対象を、「造られた自然の無限の世界」(全自然)を、「見えない神の見える徴そのものであると理解」する「信仰的現実主義」、「汎サクラメンタリズム」は、サクラメントを、その一面である「物質面に向かって」(その一面としての物資的側面を拡大鏡にかけて全体化して)「世俗化してしまうもの」として誤解と誤謬の下にあるものである。バルトは、『神の人間性』において、「神の人間性」という概念と、その「神の人間性」から与えられた「人間の人間性」との無限の質的差異についても語るし、人間における労働や性や言語が対象化し客体化した文明や文化等の人間的自然(人間の人間性)の一切は、「神の人間性」ではないということも語るのである。しかし、ルター主義者の倉松功は、次のように思惟し語るのである――「『ルターの二つの統治の(中略)区別は、かれの文明論の恒常的基礎である。その区別が人間の責任と活動の分野を自由にしている。(中略)被造物的・生物的現実……の中にわれわれに直接出逢う当為の要求が自然に存在する。その要求こそ心に記された理性の基本的規範である。ルターによれば、こうした文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との共働の行為は自発的に形成されるからである』」、と。先ず以て、バルトは、『バルト自伝』で、「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった」、と述べている。また、バルトは、ルターの信仰論と受肉説と聖餐論の根本的包括的な原理的な問題点について、次のように述べている――「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持しないで、神とは独立に先行させた人間の側からする神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」を目指す信仰・神学・教会の宣教における人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神」(その人間自身の物語世界、意味的世界)は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは、≫)人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を(≪人間の側からする神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象するという仕方での≫)「神は人となり、人は神となる」という定式で簡明に表現し(≪したが、それは≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提 とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。(≪何故ならば、そこにおいては≫)……、神性(≪「まことの神」イエス・キリスト≫)を天上に求めず地上に求め人間(≪「まことの人間」イエス・キリスト≫)の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパン(≪「キリストの十字架」を「想起させる物質的」「徴」≫)は(≪復活され≫)高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に ?倒不可能な関係だということ――そのこと(≪「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の堅持≫)について、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」(『カール・バルト著作集 4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」井上良雄訳、新教出版社)。
 三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における、その一つの機能としての神学における「人間の考え、人間の言葉」は、「神の御言葉に奉仕」することにおいて、すなわち具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示ないし和解の「概念の実在」)を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方において、神の言葉の「徴」となるのである。「洗礼の水に沈められることは、私たちがキリストと共に死に、甦ることの徴となり、聖餐のパンと葡萄酒を食らい、飲むことは、キリストの献身と御父への昇天によって私たちを支える徴となる。それは自然(≪感覚的・可視的・客観的対象としての水、パン、葡萄酒≫)における神の言葉であって、それ以外の何物でもない(≪それ故に、それは、神の言葉そのものではないのである≫)」。「サクラメントの唯一性は神の唯一性に対応し、御言葉の受肉、御霊の注ぎの唯一性に対応する」。何故ならば、イエス・キリストは、内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解そのもの(この啓示は、この啓示自身に固有な証明能力を持っている、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を持っている)、起源的な第一の形態の神の言葉(この神の言葉は、この神言葉自身の出来事の自己運動を持っている、すなわち言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間であるからである。

 

 さて、サクラメントは、「徴」であり、「さらにそれ以上に有効な力」である。神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して語られる説教の言葉が、イエス・キリストにおける「啓示と和解」、イエス・キリストの「死と復活」の出来事、その内容の「インマヌエル」を意味する「象徴能力」・「徴」であるように、洗礼は水(客観的な対象物としての天然自然水あるいは人間化された人間的自然としての水道水)の注ぎよって「人間がキリストと共に死に、甦ること」を意味する「象徴能力」・「徴」であり、聖餐式はパンと葡萄酒(客観的な対象物としての人間化された自然としての人間的自然)によって「キリストの義と聖にあずかること」を意味する「象徴能力」・「徴」である。したがって、この「徴」・「象徴能力そのもの」は、決して「神の力」そのものではないのである。いわば、このことは、例えば説教が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ということと同じである。したがって、「徴」・「象徴能力」という媒介概念なしに直接的に、「被造物的現実に神の真理の対応を認める」(例えば、「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠して、「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語り為す)アウグスティヌスの自然神学的な存在の類比の思惟と語りは、「神礼拝と共に、偶像礼拝を招くものである」。したがってまた、「あらゆる種類の祭儀的食事(≪大嘗祭も、神と天皇との共食祭儀である≫)は、……(≪「他宗教の中にもある」≫)宗教現象の世界で常に在庫品」であるという意味ではキリスト教のそれも相対的な位置を占めているというように歴史主義的に「キリスト教的サクラメントの宗教史的起源を問う問い」に対して、その「徴」・「象徴能力」の概念は、根本的包括的な原理的な答え(止揚、解決)となるものである。このバルトのように、神学における思想の問題を明確に提起することはその問題の解決である。

 

 さて、「徴」・「象徴能力そのもの」は決して「神の力」そのものでないとすれば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における説教の言葉が、神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」により、起源的な第一の形態の神の言葉である「キリストへ(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それを反復・媒介するという仕方で≫)服従して語られることによって」、「神の言葉となる」ように、洗礼式や聖餐式のそれ(客観的対象物である自然あるいは人間的自然を介した出来事、「自然的出来事」、「物質的出来事」)は、「キリストへの服従によってなされる時」、また「神ノ制定ニヨリ」・「その設定の力によって」・「神の言葉と命令」によってなされる時、「神の言葉の徴」・「象徴能力」となるのである。このような意味でのサクラメントは、「見える言葉」(人間の歴史的形態、「イエス・キリストの名」としての見える言葉)、サクラメント(顕現性と隠蔽性の全体性、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間)であるイエス・キリストは、「受肉された言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉、まさに顕わされたその存在の仕方である言葉の受肉であって、隠されたその存在の本質である「神性」の受肉ではない)として、「説教の言葉」(「徴」)と「サクラメント(「徴」としての洗礼と聖餐)」との「両方の原型」である。弟子たちに、ただ説教だけでなく、洗礼を命じ給うたキリスト、それ故にサクラメントを「制定されたキリスト」が、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちにおけるキリストである。したがって、イエス・キリストは、歴史主義的な立場から聖書的啓示証言における史的な一面だけを抽象された、史的な一面だけを拡大鏡にかけて全体化された「歴史的イエス」(史的イエス)ではないのである。バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、次のように述べている――(ア)「確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)(≪何故ならば、≫)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである(≪からである≫)。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における日本において、停滞と循環を基本としていた農耕以外の職業に携わる進歩と発達の契機として存在していた宗教者、鍛冶屋、芸能者、竹細工師、ハンセン病者等の非農耕民は「神人」と呼ばれていたように、天皇も、非農耕民として「神人」と呼ばれていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。たまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」、(イ)「歴史主義」は人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で「人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問う」。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、「相互排除の関係」にある。したがって、聖書記事を「歴史物語」とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、歴史主義の立場から聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。何故ならば、イエス・キリストの「啓示」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「時間の主の時間」、「神的自由の行為」としての「救済」史は、われわれ人間の類の時間、われわれ人間の「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。「神的自由の行為」としてのイエス・キリストにおける「啓示は、歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」からである。「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「神的自由の行為」としての「救済」史、永遠は、常に、われわれ人間の類の時間、われわれ人間の「歴史」、有限の、<彼岸・外>にある・あり続ける。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストを起源とする第二の形態の神の言葉としてイエス・キリストから「人間的な側面」と共に「神的な側面」を賦与され装備された聖書記事は、「一般的な歴史性」を含んではいるが単なる「史実史ではない」「歴史物語」、「古潭」、「原歴史」、「史実史以前の歴史」として受けとる必要があるのである。詩人であり文芸批評家であり思想家でもある吉本隆明も、次のように述べている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(『敗北の構造』「南島論」弓立社)、「ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない ……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります」、と(『信の構造2――全キリスト教論集成』春秋社)。また、自然的物質的出来事であるサクラメントが、「力ある徴」とされるのは、「聖書の朗読」によるのではなく、「聖別された言葉」である「聖書」の証言・証しを責任をもって受け入れ宣べ伝える教会、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストの福音を宣べ伝える教会の行うそのサクラメントに、「福音ノ生ケル御声」(神の側の真実としてある神のその都度の自由な恵みの決断による起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動)が伴うところにあるのであって、その場合、そのサクラメントは、「単なる教会式典とは異なる」、「聖別された、力あるサクラメント」・「力ある徴」となるのである。したがって、このことは、「御言葉に奉仕する者の信仰と服従」が「サクラメントの効力」を生み出すわけではないこと、また「不信仰と不服従」がそれを破壊するわけでもないことを意味する。何故ならば、「神の力」は、神の側の真実としてある「神の自由な賜物」であるからである。したがって、「説教において」は、説教者(人間)の自由事項・決定事項においてではなく、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」により、「聖霊が語り、聖霊が聞くのである」(神語り給う故に、神語り給うことを聴衆が聞くのである)・「サクラメントにおいても、聖霊が与え、聖霊が受けられるのである。聖霊こそが、その執行と受領において、その実現を効力あらしめる」のである。ここに、「真のサクラメント」がある。そして、この「聖霊の証言」は、個々人を「信仰と服従へと呼びさます」と共に、「左に〔裁きの座に〕人を置くこともでき」、「人を頑にすることもできる」。

 

 カルヴァンは、「永遠のまことの神性」を本質とするキリストは、われわれ人間が人間的に所有するわれわれ人間の信仰の中に解消されてしまうことはあり得ないと考えた。したがって、われわれ人間は、信ずる者として、「愛する主よ、われ信ず、信仰なきわれを助け給え」と叫ばなければならないことを、よく知っていた。すなわち、キリスト教信仰は、「一つの純粋な受領であって、決して所有ではない」以上、「神の声を聞くことであって、自分自身の声を聞くことではない」。もし、フォイエルバッハが根本的包括的に原理的に批判したところの近代主義的な「自分自身の声を聞く」ことを信仰とするならば、それは、まさしくハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判したところの「存在者レベルでの神への信仰」に過ぎない信仰でしかないだろう。自然あるいは人間化された自然としての水による「洗礼は、信仰における、恵みの完全な隠蔽性において、信仰のための恵みの徴である。また、(≪人間化された自然としてのパンと葡萄酒による≫)聖餐は、信仰のための恵みとして、この徴を通して特に自ら語りつつ、指示する信仰における恵みの徴」である。

 

 さて、ルターの礼典論は、「結果において、次の点においてカトリックの教理と同じになっている」。「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>を一貫性をもって堅持していないルターにとって、「聖餐の中の『約束ノ徴』は、『パント葡萄酒ノ中ノ』キリストご自身である。洗礼の水は、『恵みに満ちた水』であり、『神の水』であり、『神の天的な、聖なる祝福された水』なのである。そこで『信仰は水によっている』」。このルターの思惟と語りに対して、バルトは次のように述べている――「私たちは、徴の力の源泉を、徴自体、徴そのものの中に移すことをしない。(中略)信仰自体の中にあるのでもない」、「聖霊典の恵みは、信仰自体にも、しるし自体にも帰せられない」、カルヴァンにとっては、聖霊典の恵みの源は、信仰自体にも・しるし自体にもなく、「神御自身」、その全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断、「恵みの自由」、自由な恵みの賜物にある、その神の恵みの賜物が、「しるし」に授与され、「信仰」に授与される、ここに、礼典論についての、「よりよい」「全教会的解決」がある、と。

 

 「キリストのサクラメンタルな現臨とは、象徴的現臨のことである」。それは、「真理の一つの形式」・「徴の形式」である。この形式を「根本的に拒否しようとする者は、サクラメントと共に、説教も否認し、しいては、啓示の概念全般を否定せざるをえないであろう」。「キリストのサクラメンタルな現臨」とは、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の現臨にほかならない」。それは、神の側の真実として、「あらゆる物理的、心理的現臨とは違って、神から来る、自由な恵みの現臨である」。すなわち、その「真理と象徴」との架橋は、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」によるのである。神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」において、「水でもってするごとく、同時に聖霊によって洗礼され、パンと葡萄酒で養われるごとく、同時にキリストの肉と血によって養われることが起こる」、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が起こる。