カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「聖霊とキリスト教生活」――(3)救済者としての聖霊

「聖霊とキリスト教生活」――(3)救済者としての聖霊
再推敲・再整理版です。

 

(3)救済者としての聖霊
 「聖霊の神聖」は、「第三に、……『聖霊が神の啓示において、人間の霊(≪人間精神≫)に対し終末論的なものとして以外には存在しない』ということに存する」。「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における「(≪起源的な第一の存在の仕方としての≫)創造者・(≪第二の存在の仕方としての≫)和解者なる神の御霊という意味においても、(≪愛に基づく、父――言葉の語り手・啓示者と子――語り手の言葉・啓示の交わりである第三の存在の仕方としての≫)聖霊は、かく終末論的に存する」。「まさにこの点に注目することによって、われわれは、……第三の意味……救済者なる神の御霊として、聖霊を理解する」、すなわち救済者としての聖霊を理解する。この「神の御霊が、われわれの霊(≪人間精神≫)の中に、『終末論的に』現在するとは何を意味するのか」。「神とわれわれとの間にある限界(≪相違性、無限の質的差異≫)、しかも同時に、(≪神の側の方からやってくる≫)神とわれわれとの間にある関係は、常に明白に、『(≪「三位相互内在」における内在的な三位一体の≫)神が(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において、換言すれば神の愛の行為の出来事としての神の存在において≫)われわれと共にあろうとされる本来的な意志である一つの究極的な・未来的なものを、その啓示において、神がわれわれに約束しておられる』ということに置かれている」。したがって、われわれは、「最も究極的で根本的に未来的なものを、……語らなくてはならない」。何故ならば、「死の彼方から来る究極性、未来性は、神がわれわれと共にあり給うとする意志に固有なものであり、われわれの救済・復活・永遠の生命に固有なものである。神はわれわれに、救済を約束することによって、われわれに現在し給う。ちょうど、神の御言葉が約束の御言葉であるように、聖霊もまた、われわれが救いの日に向かって証印される『約束の聖霊』である(エペソ一・一三−一四、四・三〇)。われわれは、(≪ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である≫)『創造者なる御霊(≪父なる神の愛の霊≫)、また恵みの御霊としての聖霊(≪第二の存在の仕方である子なる神の愛の霊≫)の現臨は、同時に約束の御霊(≪第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊≫)としての現臨という特徴を十分そなえている』ということを考察してきた」。このような意味で、「聖霊は、あらゆる点において、救済者の御霊なのである」。

 

 前述したような訳で、「われわれは、カトリック的な見解の古典的な代表者であるアウグスティヌスと対決しなければならなかった。しかも、この見解(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における見解≫)は、あらわにせよ、隠れた形にせよ、プロテスタントの中にも勢力を持っている考え方で、(≪「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たないが故に、すなわちその認識と自覚を持たないが故に、それ故に人間の側から恣意的独断的に神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象してしまって、その存在の類比において≫)神と人との連続性を人間から続いているものと考え、それは、常に、人間を自分の創造主、和解主とするのである」、換言すれば人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性に依拠した人間の神化あるいは神の人間化を原理としようとするのである。「すべてのアウグスティヌス主義」を首肯することができない理由は、「そこでは、あまりに明白に、聖なる御霊が、(≪終末論的な≫)約束の霊としてではなく、成就の霊として語られている」という点にある。すなわち、それは、「そこでは、あまりに明白に、(≪神の側の真実としてある≫)聖霊において現在するすべての究極にあるもの・根本的に未来的なものそのものが、(≪このことの人間の側における成就は、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」を待たなければならないにも拘らず、≫)誤って理解され、死のこちら側で人間の到達できるものに転釈されている」という点にある、それは、「そこでは、あまりに明白に、人間の霊(≪人間精神≫)に許されていない越権行為をさせている」という点にある。確かに、「われわれも、アウグスティヌス主義と同じく、『神の啓示の出来事における聖霊の現在』(≪何故ならば聖霊は、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的側面として現在するから≫)という命題を固守しはする」。しかし、アウグスティヌス主義とは違って、「この命題が真の神学的命題(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を止揚し克服するという神学における思想の問題としての命題≫)であるためには、それが、全く特殊な形での聖なる御霊の現在たることを主張しなければならない」のである。このような訳で、「創造主の御霊と被造物の霊(≪人間精神、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性≫)との相違」(無限の質的差異)、「恵みの霊と罪の霊(≪人間精神≫)との対立を廃棄することはできない」のである、「それ故に、この現在は、終末論的であり、約束の現在として理解しなければならない」。「この約束の内容そのものは、われわれがこの過ぎ行く被造性から解き放たれ、『罪人にして同時に義人』という矛盾から解放されて、永遠に神のものとなるという点に存する」。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、次のように言うことができる――聖書によれば、聖霊は、われわれ人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊は、ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としているから、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書 の「イエスは主であるという証言」は、「神性」を存在の本質とするイエスを、「事実の承認」として、「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」、「子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰」、「神との出会いであるイエスとの出会い」、「信仰の出来事」は、神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎによるのである。この信仰の出来事は、新約聖書において、客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰のことである。この「信仰の中で救済を持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。したがって、われわれは、この終末論的信仰において、終末、救贖、復活されたキリストの再臨、「完成」を待たなければならない、待ち望まなければならない。したがってまた、「『アーメン、主イエスよ、来たりませ』といくら祈っても、祈り足ることはない。まさに、このような祈りのあるところには、もう一つのことが、すでに成就されているのである、すなわち『見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである』、と」。キリスト復活から復活されたキリスト再臨までの聖霊の時代における「聖霊の働きの本質的なもの」、その「直接性」は、 第一に、「一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるがゆえにそのように告白することを要求する」、第二に、われわれ人間の「中に」も「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」、第三に、われわれ人間の「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」、第四に、われわれ人間の「究極的限界性」、「終末論的限界を告白することを要求する」という点にある。神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「神がわれわれを同時に神の子と呼び、神の子となし給い、かくてわれわれの救済者となるのでなければ、神がわれわれの創造者・和解者であることもはっきりして来ない。神が啓示される時、われわれは神によって救済されたものである。われわれの現在の中に、御言葉によって、(≪神の側の真実としてある≫)われわれの神的未来が、神の欲し給う究極に現実が現在する。したがって、『洗礼は、全く一遍に人間を清め、救う』ということは本当である」。何故ならば、「キリスト御自身が『信じてバプテスマを受けるものは、救われる』とおっしゃっているからである」。したがって、「これらの概念を、(≪聖霊自身の業である客観的に「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書的連関から全く離れて、(≪人間学的な≫)キリスト教的心理学の対象とし」、「人間の間の状態のごとく理解するならば、全く意味を失い、空疎なセンチメンタリズムか、誇大なはったりになる」のである。

 

 「『良心』」は、「〔ギリシャ語……ラテン語では〕」「(いずれも『共に知る』の意から来る)……何がよいか、何が悪いかについて」、すなわち善悪の判断について、常に先行する「神と共に知ること」であるから、「御言葉によって、繰り返し新生する神の子以外に」、換言すれば具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(ここで隣人愛は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求である)という連関を生きることで「繰り返し新生する神の子以外に」、「一体、……誰がこのような意味の良心を持つことができようか」。この意味における「神の子」には、「あの(≪人間の自由な内面の無限性に依拠して自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指す≫)シュライエルマッハーの『人間の自覚の中にある神の意識』という大きな忌まわしい命題すらも、もはや嫌悪すべきことではなく、完全な真理でさえある」。何故ならば、前述したような意味での「神の子」は、シュライエルマッハーのように、常に先行する神だけでなく人間もという仕方で「人間の精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、「自分自身の歴史と現在の解釈を表現しようする」「自己表現としての宣教を企てる」ことはせず、換言すれば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教は目指さず、「現在を超え、『常に罪人にして、常に義人』という弁証法を超えて、来るべき父の御国を望み見る」からである、「このような神の子は、常に待望(≪復活されたキリストの再臨、「完成」、終末、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和の待望≫)の中にあり、常に急ぎ進むであろう」からである。前述したような意味での「神の子」は、「たとい、息せききって進むとしても、一つの正しい生活をして行き」、ある社会構成――支配構成のただ中で、ある生、ある資質、ある職業、ある生活、ある思想、ある意志をもって、様々な喜怒哀楽を生きていくのであるが、「神の子は、自分がその中に生きている教会や国家の戦術や構想によって、あるいは人間的な運動や催しの固有な法則によって、沈黙させられることもあり得ない」、またそのような意味での「神の子」は、「語るさいに(≪大衆啓蒙、大衆迎合、大衆的人気取り等≫)聴衆を気にかけたり、結果を気にしたり、何かそこから生れて来るものを問題にしたりはしない」。何故ならば、「神の子」は、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神語り給う故に神語り給うことを、「語らねばならぬゆえに語る」からである。それでは、「誰がこのような神の子であるのか、誰がこのような真実な、正しい良心を持っているのか」、「人か、それともあの人か?」、もしも「人、あの人」と「言ったとしたならば、全く(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学教会の宣教の段階にある≫)アウグスティヌスのごとく教えたことになり、約束の約束たることを否定したことになる……」。「われわれは、自分自身が、このような神の子であるとは認めない」。何故ならば、「神の子たることは、厳密な意味で、われわれにとって……(≪神の側の真実としてある≫)神から来る未来の現実である」からである。したがって、「もし、誰かが自分の良心に依り頼んでいるというなら、それは、必ず嘘であり、センチメンタリズムであり、俗悪である」。したがってまた、われわれは、「約束の聖霊において……神の子であり、良心を持っているとだけ言わなければならない」。「聖霊」が、「教会をみ言葉の奉仕へと向かわせる」のである。また、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として」、われわれは、「神の子供」、「世つぎ」、「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるのである。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たち」は、受領者と授与者との無限の質的差異の下で、「神の子供」なのである。神と人間との「混淆」・「混合」・「混同」はあり得ないのである。

 

 さて、「神の喜び給う真実の服従の総計」として、「聖霊において、感謝が存在する」。「創造の領域において、われわれは僕であり」、「和解の領域において、われわれは屈伏させられた敵である」が、「救済の領域においては、……われわれは神の子らである」。「真に感謝している者は、自分に与えられたものを返礼しなければならないとは考えない」。何故ならば、ここで「感謝とは、解放された服従のことである」からである。したがって、「感謝とは、神の怒りを気づかうことから、言わば人間がよくしようとするあせりから(≪、換言すれば常に先行する神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間からする神との「共働」・「協働」も、「神人協力」もというあせりから≫)解放されていることである」、「まさに、究極的な意味で束縛されているがゆえに、解放されており、それが喜んでする服従であるがゆえに、解放されているのである」。「彼は、自由にそのことを表現する、神の子らは感謝している、だから自由なのである」。しかし、バルトは、それでは、「誰が神に感謝しているのか」、「誰が自由な神の子なのか」、「私は、そのような人がいるとは言っていない」、「キリスト者なのだから感謝しているとか、神の子の自由を持っていると言わなかった」と述べている。何故ならば、「もし、そう言ったとしたら、たとい形式的には大変プロテスタント的であったにせよ、再び(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にある≫)アウグスティヌスの教理となるであろう」からである。ここでも、「神の子と自由、それは、真に、われわれにとっては、究極の、未来の現実である」、「自然がそれをするのではない、アブラハムのすえであるキリストが祝福して、恵みと聖霊によって、かかる人を造るのである」。したがって、その神の側の真実としてある「神から来る未来」、「神的未来」の実現は、復活されたキリストの再臨、終末、「完成」を待たなければならないのである、待ち望まなければならないのである。

 

 さて、「次に、聖霊において祈りがなされる」のであるが、この「祈りについてもまた、それはただ終末論からのみ理解されると言わなければならない」。したがって、「祈りが人間を主体として考えられる場合、人間は全く主体『である』のではなく、約束においてのみ主体なのである」。神語り給う故に神語り給うことを聞くという中で「彼は神と語る際に、自分が語っている現実」、すなわち「聞かれていることを考慮するばかりでなく、自分のことが聞き入れられることを期待する」。「そこで、人間は疑いもなく」、「ギリシャ語」の「『神の中に』という意より来る」「霊感を受けたもの」、「神に所属する者として行動する」。「そこでは、人は、神だけが自分を理解して下さるような仕方で、自分自身を理解する」、「彼は、受洗に際して、自分に語られた声、(≪聖霊自身の業である客観的に「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書を真剣に考える、(中略)いくら熱心に深く集中しても、何にもならず、とどのつまり、嘆息以外の何ものでもないような時にこそ、いよいよ真実に、熱心に祈るのである」――「このような嘆息を、パウロは、『言葉にあらわせない切なるうめき』と呼んでいる」、「神御自身も、それ以外は何も聞かれず、それは他の一切の騒音をかき消してしまうほどである」。それは、「なぜであろうか」、その「うめきが」、全く考え深い、力強い、熱烈な祈る人間のうめきであるからであろうか」、否である。「その場合……恩寵がそうさせたというように、よくある条件をつけたとしても、それは、(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学教会の宣教の段階にある≫)アウグスティヌスの教理」となるのである。したがって、「正しい祈りの能力を注入された恵みということとは何か違った別のこと」である「祈祷の奇蹟」は、「祈る者に対して、聖霊が侵入することである」。それは、「御霊のうめき(ローマ八・二六)である」、聖霊なる神の存在としての神の愛の行為の出来事である、「確かにわれわれの口から出るのであるが、御霊のうめきである」。「その時、神が、このうめきと、それと共に、この人間の重荷を、御自身の上に負うことをよしとし給うたがゆえに、人間は、全く弱く、悪に満ちていても、宗教的な深い体験どころか、あの宗教的には全く無意味なうめきの中にありながらも、神の子として生まれるのである。この危急の時、それが約束の御霊の現臨である」、神の愛の行為の出来事としての聖霊なる神の存在の現臨である。
 わたしは祈る。しかし、わたしは、常に瞬間瞬間キリストにあっての神から遠ざかり・遠ざかり続けていることを実感する、自分にある不信を実感する、自分にある罪と汚れを実感する、自分にある保身を実感する、自分にある不純さを実感する、自分にある欺瞞を実感する……。その時、わたしは祈りの言葉が出なくなる。「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である。「そこにはただ、(≪「赦す神」としての「永遠のまことの神性」を本質とする≫)神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」(カール・バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』川名勇訳、新教出版社)。この時、わたしは、祈ることがゆるされていることを認識する、そしてわたしは祈ることができる。