カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「聖霊とキリスト教生活」――(2)和解者としての聖霊

「聖霊とキリスト教生活」――(2)和解者としての聖霊
再推敲・再整理版です。

 

(2)和解者としての聖霊
 「聖霊の神聖」は、「造られた霊」(人間精神)との「相違」(無限の質的差異)という点からだけでは、「聖霊の神聖はまだ十分に言い尽くされてはいない」。ここで「神聖」は、「造られた霊」(人間精神)の「深刻な、しかも徹底した反逆と罪とに対立している神聖である」。人間は、「神の恵み」に、「すなわち自分を創ったお方の御言葉と御霊に反抗し、背を向けることも可能である」だけでなく、「事実、人間はそれをやっている」存在である。この「罪の秘義」は、『福音と律法』および『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという無神性・不信仰・真実の罪のこと、換言すれば「罪人なるが故に」「われわれが……行う」神の「御言葉と御霊の業に従わない」「悪」ということ、すなわち第三の形態の神の言葉に属する教会(その成員)が、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を、それ故に具体的にはその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すことをしないということである、イエス・キリストをのみ信ずることをしないということである、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着することをしないということである。ここで、「聖霊の神聖」と「造られた霊」(人間精神)との「相違」(無限の質的差異)は、同時に、われわれの「王として(≪「われわれ被造物」は神の「御口より出ずる御言葉によって生き、神はただ御自身によってのみ啓示されるから」、「神自らが御自身をわれわれに啓示される」「神の国」の王として≫)、真理と正義によって、われわれを扱い給うお方」と「その王国の反逆者たるわれわれ」との間の「相違」(無限の質的差異)のことでもある。「神の国」とは、神の「恵みのことである」。そして、われわれ人間の「自製の神概念」や「宗教・道徳的世界観への愛着」等われわれの「神に対する反逆」、「われわれが行う悪」とは、「この恵みに対する反逆のことである」。このことは、「ルターをして言わしむれば、『われわれが偶像(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)を捨て去ることのできないという』『神性への欲情』(≪近代主義的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における神の人間化あるいは人間の神化への欲情≫)である」。「律法に逆らって、罪が犯され」、「律法に照らして、罪とは『不法』(Tヨハネ3・4)であることが分かり」、「生ける神御自身の啓示すなわち恵みが理解された時、初めて、罪も真剣に考えられる」、ちょうどあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比を通して、われわれ人間の罪を真剣に自己認識・自己理解・自己規定することができるように。この時、われわれの「罪を超えて働く和解の恵みが、さらにその恵みに逆らう反逆に打ち勝つ恵みとして理解されるのである」、「言わば、聖霊として、和解者なる神の御霊(≪「和解し給う御霊の働き」、和解し給う聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事≫)として理解されるのである」。したがって、この「聖霊」、「聖なる御霊」は、自然神学の段階における人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性が対象化した「真・善・美といった類のものではない」、すなわちそれは、「人間に本来的な真の罪(≪「恵みに逆らう罪」≫)に対して、恵みがかく戦い、かく勝利し給うという、いよいよもって計りがたい聖なる御霊のことである」。「ギリシャの古代の教会に見られ、また後には神との関係の転回点として人間の自由意志を認めるペラギウスの説教の中で行なわれ」ような「何らかの口実を設け、また何らかの形をとって、人間自身の働き(≪常に先行する神だけでなく、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間自身の働き、換言すれば人間の側からする神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」における人間自身の働き≫)が神の交わりの条件とされるならば、その時には、聖霊が忘れられ、罪を克服するために、また罪が造られて行く」ことになるのである。ここにおいても、「ペラギウス主義者や半ペラギウス主義者と戦って、意志と行為、恵みの受領と保持、キリスト教生活の基礎とその持続などを聖霊による自由な無償の御業に帰した」、「また、信仰による義認を教え、信仰を明確に神の賜物と表現し、行いや行いによる功績を神の値なしの贈り物と考えた」アウグスティヌスは、そのような「堕落に終止符を打った」のである、「しかし、同時に、根本的にはもっと大きな危険をはらんだ概念導入してしまった」――すなわち、「義認を、直接見られる新しい服従の事実の中に求め」、「聖化を義認と一致させたばかりでなく、義認を聖化の中に融合」させてしまった。そして、「恵みを『良き意志と業の息吹』と理解した」、また「信仰」を「本来的な人間的な力を律法の命ずるままに意志させ行わしめる伝達手段」と考えた。しかし、アウグスティヌスは、「罪なる人間が神と交わりを持つ条件は、恵みによって高められ、次第に罪なき者に変えられて行くという」「その教理の根本内容を変えるまでには至らなかったが」、「神の恵みによって可能とされた行いによる義の、終末論的限界をも忘れなかった」。

 

 さて、アウグスティヌスにあった自然神学的な側面の「甘い毒」を対象的に自覚的に扱えなかった分だけ、その「甘い毒」は、「プロテスタントの神学や教説の中に再び侵入し、見分けがつかぬほどに、改革者自身の他の一切の萌芽を痛めることも可能であった」し、「近代プロテスタントの恩寵論は、そのほとんどすべてが、このアウグスティヌスの論旨の変形でしかないのである。すなわち、神と人との和解は、(≪常に先行する神の側の真実としてのみあるというのではなく、≫)『人の意志と神の憐れみとの双方から成る』(≪神人協力による≫)と言うのである。近代的に表現すれば、和解とは『神の所与と人間の創造的行為との協力である』」と言うのである、根本的包括的な原理的な問題から言えば、「神の憐れみ」と人間の側からする目的格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」、すなわちイエス・キリストを信じる信仰による神の義との協力によると言うのである。ドイツ的に「義認を聖化の中に融合(≪止揚≫)させてしまうこと」は、「何故、……すべていけないのか」、「恩寵論という点で教会に毒と腐敗をもたらす」「アウグスティヌス主義」は、「何故、……すべていけないのか」――「それは、『神人協力説』を高め、いよいよその本来の力(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教へと向かう力≫)を発揮させるからである」、それは、「ペラギウス主義やギリシャ的な自由論よりも、はるかに洗練された、危険な形で」、「道徳、神秘主義など、ありとあらゆる人間の清めや功徳による精進といったもの一切を含めた内的、外的な行いによる義」という「人間自身の働き」を、「予定とか恩寵とか徹底した謙虚さといった言葉のかげに隠しており」、それ故に「同時に、罪をきれいごとのように語り、恩寵の尊厳を破壊してしまうからである」、それ故にそれは、「不従順」、「虚偽」となる「罪に勝利を収めさせる」「神に対する熱心さの無知」は、『福音と律法』に即して言えば、「偶像崇拝、神冒?を生じさせる」からである、「神の要求」(神の「命令」・「要求」・「誡め」)を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求に変えて」、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げるからである、ある者を「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜させ」、ある者を「盲目的に仕事へと没頭」させ、ある者を「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心な博愛的配慮……教育的配慮に邁進」させ、ある者を「大規模な世界改良の偉大な計画に邁進」させ、ある者を「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進」させるからである。神の側の真実としてある次のようなことを、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて啓示認識・啓示信仰させられた時には、これらのことは、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」と言わざるを得ないのである――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」(≪ギリシャ語原典ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」(ここで肝要なことは、神の側の真実としてある、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのもの、それ故にまた平和そのものである「ただイエス・キリストの名だけ」である)――このことが「福音と律法の真理性」における福音の内容である、また「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪神の側の真実としてある≫)神の子が信じ給うこと(≪主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」――このイエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和そのもの≫)に由って生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』のみ」である)――このことが、「福音と律法の現実性」における勝利の福音の内容である。したがって、このキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち神の「誡め」、神の「命令」・「要求」・「要請」は、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教(すべての成員)が、先ず以て神の側の真実としてのみある「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」との全体性におけるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着するということであり、また具体的にはあの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(これが、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖なる、公同ノ教会」を目指していくということである――これらのことが、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」。

 

 このような訳で、「公式のカトリックの教理の中で、アウグスティヌスを遅ればせながら正しく解釈して、聖霊は人間に」、「魂に内在する神的性質を賦与する」、換言すれば聖霊は、人間精神、人間理性を更新させる(しかし、そのような人間精神、人間理性も、聖霊と同一では決してない――『教義学要綱』)という思惟と語りは首肯することができるとしても、「かくて、人間は次第に、罪人でなくなっていくのである」と言い、「そのような意味で、またそのような点で、聖なる霊が和解者なる神の霊であるというのは全く正しくない」のである。言い換えれば、「そのような霊は、むしろ明白に、恵みに敵する霊、悪しき霊である。それは、恵みによって」、それ故に「聖霊によってまさに克服されねばならない霊である」。そこでは、「いかほど神の栄光を讃え、自分を謙虚に言い表わしたとしても、神の恵みと人間の業が単に一つ事の両面と考えられ、『聖霊』というかわりに、同じような調子で、〔自己の〕確信、宗教的情熱、道徳的真面目さやあらわに『人間の創造的行為』が語られ」、「神人協力」が語られるのである。したがって、「『よき意志の息吹』によって、根本的に克服され、……次第に取り除かれるというような罪は、真剣に考えられた罪ではない」。すなわち、「そのようなことによって、ある種の傷は癒されるかもしれない」が、「一人の死人が甦らされることはしないのである」。「事実、アウグスティヌスが罪と呼んでいたもの」は、「トリエント会議で言う……『より悪しきことへの移り行き』、シュライエルマッハーの……『まだ神の自覚への傾向がわれわれの中に現れていない時の力と行為』、アルベルト・シュヴァイツェル」の……『自然のままの姿における沈下状態』、リッチュルの……『下位にあるものを追い求める自己追及』」のような「一つの傷」、「単なる『善の欠如』」に過ぎないものであった。あの無神性・不信仰・真実の罪ではなかった。彼らの「すべての定義が誤っているのは、それがただ、(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した、その信仰の類比を通したそれではなく、存在の類比を通したそれ――すなわち≫)人間の被造性の構造の内部における欠陥をのみ明確に示しているから」だけではなく、それらの定義には、「神に対する違反が示されていないからである」。近代におけるアウグスティヌスの「追従者たちは、その安易な見解という点において大同小異である」――「すなわち、『悪は倫理的精神の自由性と発展性から来る』、そして、それは、神の計画の中に予知されていたのである、と」。「このようなことが行われれば行われるほど、ますますそれは、自分の本性を隠すために、『恩寵』という言葉の背後に身を隠し、ますます声高に、『注入された超自然』とか『神的現実』とかについて語ったり、あるいはいよいよ徹底した真面目さでもって、『われわれを変化させる、神の交わりの意志』について語るのである」。「真・善・美の霊、あるいは愛の霊、あるいは聖化と結びついた善意の霊」――「これらの霊が、聖霊と考えられるのであるならば」、「それは悪しき霊である」。そのような「霊によって罪を克服して行くのは、言わば猫に鰹節の番をさせるようなものである。そのような霊と相違して、否、対立して(≪そのような霊との無限の質的差異の下において≫)、われわれを真に神と和解させる霊は(≪人間精神、人間理性、あるいは聖霊によって更新された人間精神、人間理性とは無限の質的差異の下にある≫)聖霊(≪聖なる御霊≫)なのである」。「われわれは、死人を癒すことができないと同じように、罪を取り除くことはできない。また、罪を取り去られたものと考えることもできなければ、事実取り去ることもできない。(≪常に先行する神の側の真実において、≫)死人は、ただ甦らされることができるだけである。また、真の罪は、ただ赦されることができるだけである」。

 

 ここで、「神の指としての聖霊」――すなわち「キリスト教生活」に対する客観的な啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊」(神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」)の意味は何か? それは、「三位相互内在性」における内的・内在的な三位一体の「神が、(≪われわれのための神として「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である≫)創造主であることを超えて、さらに(≪その第二の存在の仕方である和解主として≫)われわれ罪人と交わりを持ち給うということである」(その第二の存在の仕方における「和解ないし啓示」は、起源的な第一の存在の仕方における「創造の継続」や「創造の完成」ではない)。言い換えれば、それは、起源的な第一の存在の仕方としての啓示者である父なる神の子(第二の存在の仕方)としての「啓示ないし和解」――すなわち「神の御言葉によって、われわれが与えられることを許される神の愛の奇蹟」(全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事)であるということである。「恵みと罪との対立の光の中にあるキリスト教生活にとって聖霊の意味」は、それが、その復活に包括された「われわれのために肉となって(≪その外的・外在的な第二の存在の仕方における言葉の受肉であって、その内在的な存在の本質における神性の受肉ではない≫)十字架にかかり給う神の子」(「啓示ないし和解」、第二の存在の仕方における働き・業・行為、起源的な第一の形態の神の言葉、「第二の神的行為」)である和解主としての「イエス・キリストの霊」であり、「あるいは(同じことであるが)われわれに向かって語られた」(何故ならば、啓示は、啓示者・言葉の語り手である父なる神の子としての啓示・語り手の言葉であるから)創造主としての「父の御言葉の霊」でもあるという点にある(聖霊は、愛に基づく父と子の交わりとしての「父ト子ヨリ出ズル御霊」である)。「宗教改革者たちは、神によって与えられる義を、力強く、しかも無条件に、『別な、外的な――すなわち外からわれわれに来る――義』と名づけた(そして、彼らは、われわれの聖化の現実や、われわれの服従の問題に関してもまた、聖霊の『賜物』関しても、否、それらすべてのことについても、同じ態度を取っていた)」――「神はわれわれの側には何もないような仕方で働き給うのである」、と(「カルヴァン『創世記一五・六』についての説教」、『キリスト教綱要』――「われわれはわれわれ自身の中にではなくキリストにおいて、義人とみなされる」。ルター『ガラテヤ書注解』――「キリスト教的義が論ぜられる時には、人間の人格は全く度外視されるべきである。なんとなれば、人格に固着しているか、あるいは義が人格から出て来るというならば、いやが応でも、行いの律法に服することになるからである」)。このような「キリスト教生活を聖霊からのみ構成」する宗教改革者の理解の仕方を総括すれば、「『人間はキリストのゆえに、ただ信仰のみによって義とされるという命題につきる』」と言うことができる。因みに、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする自らの立場において、すべての自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行していくという課題を自らに課したバルトと、換言すれば近代における神学の思想の問題を明確に提起するという課題を自らに課したバルトと、一方で自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指すローマ・カトリックにおける神学における思想の問題にプロテストはしたが、他方で自らにあるそれを見過ごしてしまったルターとの根本的包括的な原理的な決定的差異性は次の点にある――ルターは、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」の属格を、目的格的属格として理解し、それ故に「イエス・キリストを信じる信仰」により「信じる者すべてに与えられる神の義」と理解することによって、神の側の真実だけでなく、それとは独立させた人間の側からする神との「共働」・「協働」、「神人協力」、神の側の救済(平和)と人間によって考え出された恣意的独断的な「救いの計画と救いの方法」・「平和の計画と平和の方法」の「混合」の道の可能性を残したのである、換言すれば人間自身の恣意性独断性を可能とする自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の道を残したのである。しかし、バルトは、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの(『福音と律法』)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、それ故に成就・完了された(「完成」ではない、「完成」は、終末、救贖、復活されたキリストの再臨まで待たなければならない、それ故に「完成」までは「すでに」と「いまだ」の終末論的信仰を生かされ・生きなければならない)個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念の総括されたそれである)そのものであるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着する立場において、人間自身の恣意性独断性を可能とする自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の道を完全に払拭していく道を歩んだし歩み続けたのである。もしもわれわれが最善最良の教会の宣教の道を目指すとするならば、このバルトの道を、キリスト教に固有な類として、時間累積させていく以外にはないのである。

 

 前述したように、神のその都度の自由な恵みの決断により「御子(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事≫)もしくは御言葉の霊(≪その啓示の出来事の主観的側面≫)としての聖霊(≪「聖霊の注ぎ」≫)が、われわれをこの御子にもしくは神の御言葉に向かって、打ち開き、備え、用意し給うとはどのようなこと」であるのか?
 「聖霊は和解者なる神の霊であるにも拘らず、否それであるからこそ、(≪愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である≫)聖霊の職能(≪性質、働き、業、行為、行動、活動≫)はとりわけ、処罰の仕事でなければならない」。何故ならば、人間論的な自然的な人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間である「キリスト者でさえも……自分が罪人であるということ、すなわち神に対して罪を犯しているということを全く知っていない」からである。それでは、人間は、そのことを「どこから知るのであろうか」――それは、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事としての「御言葉によって」である、「御言葉によって示される」。すなわち、われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比を通して、「神に対する人間的反抗」、「罪深い堕落した人間」、そのような「人間の世」を、また生来的な自然的な「『自分の理性や力によっては』全く信じることができないこと」を、また「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ことを、また「イエス・キリストの復活」において「神の選び」を・「イエス・キリストの十字架」において「神の放棄」を自己認識・自己理解・自己規定することができるのである。したがって、「焦慮や絶望」、「慰めなくあることこそ」が、「慰め主の業である」。「神の御霊のみが、われわれにこの御言葉が正しいことを悟らせるのである」、信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を悟らせるのである。したがって、「もし、われわれが聖霊に逆らう罪を犯さず」、「自分の不信仰を信じ」、それ故に「真の悔改めを拒まないとするならば、それは聖霊によるのである」。

 

 この「キリスト教生活を構成している信仰」は、一方で聖霊による「悔い改め」を意味しており、他方で聖霊による「信頼」を意味している。それは、「御言葉への信頼、(≪その復活に包括された≫)キリストの苦難と死とによって、われわれの重大な罪が取り除かれることへの信頼、すなわちわれわれの肉の中に実証せられるキリストの義が、値なしに加えられることへの……信頼」、換言すれば「このような恵みの測るべからざる自由な贈与である義認に対する信頼」である。したがって、それは、「『見ぬものを真とする』とする信仰である(ヘブル一一・一)何故ならば、そこで行われている一切は、神があくまでも主体である行為であり、(≪神と人間との無限の質的差異の下で≫)その客体をわれわれの側に移すことは考えられないことだからである」。このような訳で、「われわれが義と認められているとすれば、それは、全くキリストにおいてであって、われわれにおいてではないのである。それにも拘らず、このようにわれわれが真に義と認められていること」は、「神の御言葉によって(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰において≫)、われわれに現わされているがゆえに」、「われわれには依然として隠されているのである」、ちょうどイエス・キリストにおける神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」(われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその第二の存在の仕方において、その内的・内在的な三位一体の神の存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示であるように、イエス・キリストは「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」であり、まことの神にしてまことの人間であるように(近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」のは、「視覚的錯覚」、近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験に依拠しているからであるが、その場合、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が自然神学的な思弁でしかないものなのであり、そこでは、イエス・キリストは、八木誠一の言う「ただの人」・「ただの人間」、あるいは「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」、「最高の理想」、キリスト教的実存の範型、社会的政治的実践の範型という「空虚な概念」でしかなくなってしまうのである。「啓示ないし和解」を生じさせるのは、まさにご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」のそのまことの神としての「キリストの永遠のまことの神性」にあるのであって、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの人間としての「キリストの人間性」にあるのではないのである)――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ2・19以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。信仰は、信仰の「経験・喜び・確信」である。しかし、「御言葉が信仰に向かって語ることが、このように隠されているがゆえに(≪何故ならば、われわれ人間は、内的・内在的な三位一体の神の不把握性に下に置かれているのであるから、信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰の授与は、あくまでも全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、すなわち客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で、神の側の方からやってくるからである≫)、信仰それ自体も隠されているのである」。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」(『教会教義学 神の言葉』)。「信仰の経験」は、「われわれの持つ経験に対して戦う」、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に対して戦う。「信仰の喜び」は、「人間がいつも究極的に、しかも『誘惑』の中で、……最も広範で、かつ最も根深い、救いようのない困窮(≪常に先行するキリストにあっての神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという無神性・不信仰・真実の罪、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における罪≫)に対して戦う」。「信仰の確信」は、「その反対の確信」、すなわちただ単なる相対的な確信に過ぎないところの「人間自身で持ち得るような究極的な確信に対して戦うのである」。その死と復活の出来事におけるイエス・キリストにおいては、「この否の下に、根本的に然りが隠されている」のである。「信仰の箇条が理論的に全く信じられないということは、信仰のこのような実際上隠された性格を持つことから来る……兆しにしか過ぎない。この隠蔽性の中において、(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的側面としての≫)聖なる御霊以外のものは真の信仰をもたらしはしない」のである。したがって、人間精神、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性が、すなわち「われわれの霊が、真の信仰を造るのでは決してない」のである。「信仰のこの隠蔽性」は、常に先行する神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという無神性・不信仰・「真実の罪に対する悔改めを……片時たりとも、既にすんだこととして背後に追いやったりはしない」という点において「具体的となる」。何故ならば、「御言葉によって勝利せられた人間は、(≪徹頭徹尾≫)キリストにあって義と認められたことを信じ、自分自身の中には全く何ら義と認められるべきものがないこと」、すなわち「自分の人間的な不信仰を正直に認め、それを告白することをやめないであろう」からである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。「キリスト者こそは、『罪人にして同時に義人である』。この和解しがたい矛盾を克服することは、自分(≪われわれ人間自身の生誕から死まで≫)の中にはない」のである。何故ならば、「それは、神の御言葉の行為」(「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、子なる神の存在としての神の愛の行為の出来事)、「まさに罪人のままの人間を『義人』となすために、人間を『罪人』(≪「誘惑」としてある、常に先行する神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという無視性・不信仰・真実の罪のただ中にある罪人≫)となし給うお方、キリストの行為である」。「しかも、この矛盾の承認も、その克服の認識もいずれも、われわれ自身の霊(≪人間精神≫)のなす事柄ではなく、(≪神の側の真実としてある客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で啓示意識・啓示信仰を与える≫)聖なる御霊のなし給う事柄である」。このような訳で、「誘惑に中にあって、信仰が不信仰に勝利する時、それは人間の霊(≪人間精神≫)ではなく、またキリスト教的な霊(≪キリスト教的な人間精神≫)ですらなく、(≪「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な第三の存在の仕方、愛に基づく父と子の交わり、「父なる神と子なる神の愛の霊」、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」≫)聖なる霊が信仰において勝利したのである。まさに、われわれの上にいつも襲いかかる誘惑の脅威こそが、慰め主の約束、聖霊の至高の援助の約束を保持しているのである」。このように、「聖霊から経験・喜び・確信は来るのである」。キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代に現存する「私は、(≪「まだ天にではないが、さりとてこの世にでもない」という中間的途上的状態で≫)自分の下にこの世を持っており、自分の上に天をいただいている」。すなわち「私は、この世の生活と永遠の生活との間を、ただひとり、信仰をもって、漂うているのである」。このことが、「信頼としての信仰に対する聖霊の意味である」。

 

 神の側の真実としてある「和解は、われわれの存在にさからって行われ、(≪それ故に≫)われわれの存在から、それを理解したり、把握したりすることは金輪際できないが」、それ故に客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰において「和解はわれわれに近づき要求をするのである」。したがって、「和解は、われわれの生活の自己完結した循環を打ち破り、またそれに動揺を与える」、「それが、聖化の現実であり、キリスト者の服従の課題なのである」。教会がそうであるように、信仰も「概念的実体ではない」のである。「『われ信ず』とは、『わたしが信仰の中に実存している』という意味である」。「わたしが実存していること自体が、わたしの信仰なのではない。わたしはわたしが信仰の中に実存しているというそのことを、(わたしの業ではなく)神の業(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰≫)として、ただ信ずることができるのみである。しかし、わたしが信じている限り、わたしはその信仰の中に実存しているのである」。このように、「信仰は、行為なしには存在しないし、義認は聖化なしには存在しないということは、ヤコブ書的な命題ではあるが、同時また、真にパウロ的な命題であり、宗教改革者も、ルターとても決して無視しなかった命題である」。宗教改革者たちは、「聖霊の注ぎ」・「聖霊の賜物」・「聖霊の導き」ということを、われわれ自身の人間的実存としてのキリスト教生活の確立と関係づけている。また、それを、服従としての信仰の動機づけ、成就形成と関係させているほどである」。「キリストの和解において出来事となる神と人との交わりの全き真理(≪客観的な啓示の真理≫)は、その(≪客観的な啓示の真理の≫)主体的側面(≪主観的側面≫)から言うならば、……聖霊の賜物として(≪「聖霊の注ぎ」による≫)、聖化の現実の中で、信仰が自分の側に行為(≪服従行為≫)を持つということの中に具体化させられる」。そのことは、『福音と律法』、『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』に即して言えば、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリストをのみ信ぜよ、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着性というキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)に生きること(行為、服従行為)ということに中で具体化させられる、また教会(すべての成員)は具体的にはあの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すということの中で具体化させられる、と言うことができる。このことは、「もろもろの誡命中の誡命(≪キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請≫)、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」。このように、「信仰が、それに伴って業を持つということは、信仰が現実的である(≪信仰は表現されなければならない、信仰はすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音を告白し証しし宣べ伝えて行かなければならない≫)ということと同一である」。「この現実的であるということが、……聖霊による審判(≪何故ならば、その思惟と語りと行動が現実的であるかどうかということは、人間自身の決定事項ではなく、神ご自身の決定事項であるから)と義認において行われる」のである。この意味において、「聖霊は、事実とりわけ、聖化の霊なのである。聖化という概念が、恵みとはであるかを告げるのではない(それが、アウグスティヌスやカトリック教を初めてとして、すべてカトリック化された成義・成聖論の根本的な誤りである)」。「恵みの真理」は、「垂直に上から降下する審判、われわれの義認である」。そして、「この恵みの現実」は、すなわち「われわれの聖化の現実」は、「この垂直線がわれわれの実存の水平面を断ち切ることの中に存する」、「われわれの水平面が、この垂直線によって……断ち切られている」。この「点において、キリスト者の服従の課題が起こるのである」。「神の言葉の恵み(≪キリストの福音≫)が聴従を求める時(≪前述したようなキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請となる時≫)、それは、われわれが限界づけられることを意味している(≪この限界づけは、前述したようなイエス・キリストをのみ信ぜよ、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着せよ、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖なる、公同ノ教会」を目指せ、また具体的にはそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とせよ、ということを意味している≫)」。「この信仰においてわれわれに直面する限界づけ」は、「相対的ではなく、絶対的である。また、抽象的ではなく、具体的である。それは、われわれをに結びつけるという点において、絶対的であり、われわれを隣人に結びつける点において、具体的である。しかも、この現実の結びつきは、神と隣人に対するである。この点から、われわれに対する聖なる神の要求(≪・要請・命令、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法≫)は、犠牲奉仕であることが理解されねばならない」。「われわれは、聖化を通して、神に帰属させられ、隣人に義務づけられる」。言い換えれば、われわれの聖化は、「『罪人(≪「俗的な生活秩序」におけるそれ≫)にして、同時に義人(≪「恩恵の王国の霊的な生活秩序」におけるそれ≫)である』われわれの実存の生活秩序たる教会国家(社会構成――支配構成。国家の問題は、現存する観念の共同性を本質とする国家を無化することにより、大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民を、その究極性総体性永続性において社会的現実的に解放する問題、すなわち現存する国家の過渡的問題と究極的問題とを明確に提起する問題である、換言すれば革命論の問題である)」の中で、キリストにあっての神に対して責任的応答を為す時、「現実となる」と言うことができる。「聖化」は、聖霊の業としてある客観的可視的に「啓示されてあること」――すなわちあの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に対する信頼・固執・連帯、具体的にはその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(すべての成員)の思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする決断と態度において、またあの純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関において、「われわれが神の言葉を聞く信仰者として実存し、まさにそのことによって、御言葉の実践者以外ではあり得ないということを通して行われるのである。ここに、キリスト者の服従という課題が起こる」のである。このようにして、「われわれは神と隣人を愛しているであろうか。自分自身を犠牲として捧げ、真に奉仕をなしているであろうか。ここに、一つの課題が横たわるのである」。何故ならば、「われわれは、御言葉を聞く自らを、同時に真に聖化させられた実行者、服従者として以外に考えることはできないが、他面で、このわれわれの服従は、……われわれの悔改め、信頼と同じように、直接には隠されていて、部分的にさえも……決して見えないからである」、「恵みが、われわれにとって現実であるという内容と方法は、信仰の闇に包まれており、そこではただ御言葉だけが光だからである」。このような訳で、われわれには、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を必要とするのである。しかも、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、われわれの思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故にわれわれの思惟と語りと行動は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立しているのである」。「ただ聖霊によってのみ、それが服従であって、不服従ではないことが決定するのである」。さらにわれわれキリスト者の服従は、「キリストの完全さに遠く及ばず」、全く「不完全」であるから、「われわれの信仰は、いつも繰り返し『はじまり』に過ぎないことは明瞭である」。「しかし、信仰においてこそ」、すなわち主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストに対する信仰においてこそ、「われわれはまた悔改めの中に……自分の不信仰(≪常に先行する神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという無神性・真実の罪≫)を認識することの中に……置かれていなければならない」。「われわれは、『不完全』な服従を、不従順ないしは罪とみなさなければならない」。「聖化の現実にとりわけ関心を寄せていたカルヴァン」は、「次のことを喚起していた――『われわれは、われわれの服従の現実を問うにあたって、外見的には最高の段階に達した服従であったとしても、絶えず繰り返し、厳格に、始まりはおろか無にまで引き戻されるのである』、と」。啓示認識・啓示信仰は、ただ全き自由の神のその都度の全き自由の神の恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられるものであるから、「われわれには思い計らない仕方で、神によって良い行いになるのか、そのいずれであるかを決定するのは、ただ聖霊によるのみである」。「キリスト者の聖化は何ら能動的なものではなく、……受動的な聖化である」、「行為が生来罪なしにあるのではなく、神の憐れみと恵みとによって赦され、この憐れみを信頼する信仰のゆえに、よしとされるのである。したがって、われわれは行いのゆえに恐れを持つべきであるが、神の恵みのゆえに、慰めを持たなければならない」。このように、「全く、聖霊のみが、キリスト教生活であるかないかについての審判者である」。したがって、「われわれの聖化は現実であるが、……その服従はわれわれには解くことのできない課題である」、「人間の生活をキリスト教生活として構成する聖霊は、聖なる御霊である」。このことから言えば、「キリスト教的世界観」、「キリスト教的道徳」、「キリスト教的芸術」、「キリスト教的政党」、「キリスト教的新聞」、「キリスト教的結社」、「キリスト教的施設」、「キリスト教的企画」という「行いによる義(という偏見)」は、「聖霊の欠如とでも結論づけねばならぬ……」のである。