カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

13.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

13.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

神学の道(1)
 「知解スルintelligereという動詞の文字通りの意味」――すなわち「intus legere〔内部ニ立チ入ッテ読ムコト〕をどこかで想起することが適切であるとすれば」、アンセルムスにおいて「知解スルintelligereこと」は、「原則的に、読ムlegereことを、すなわちCredoの中であらかじめ語られていることを」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>信仰告白および教義(Credo)の中であらかじめ語られていることを、後続して「後から考えることを意味している」。言い換えれば、「知解スルintelligere」ことは、第三の形態の神の言葉に属する教会の成員のわれわれが、「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、具体的には三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指す教会のCredo(教会の<客観的>な信仰告白および教義)の中で、「あらかじめ語られていることを(≪後続して≫)後から考えることを意味している」。この根拠は、次の点にある――<先行>する神の用意に包摂された<後続>する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の~の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」という点にある、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、それ自身、その啓示に固有な証明能力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」――客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で啓示認識・啓示信仰を与えることができる授与能力を持っているという点にある、それ故に「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、「解釈するとは」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、またその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義に後続して「別の言葉で同一のことを言うことである」という点にある。

 

 この時、その神学的な思惟と語りは、その思惟と語りの深化と豊富化において、キリスト教に固有な類と歴史性に時間累積できるのである。したがって、前述したような仕方ではなく、教会の宣教の一つの機能としての神学が、その最初から、自らの神学的な思惟と語りに、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験を加味させ、また現存する文明的傾向・文化的傾向・思想的傾向を加味させ、また近代主義的な人間学的な哲学原理・認識論・世界観等を加味させて「混合神学」(総括的に言えば、自然神学)を目指すことをしたならば、その最初から、その神学的な思惟と語りを深化させ豊富化させることはできるわけがないのである、それ故にキリスト教に固有な類と歴史性に時間累積させることができるわけがないのである。何故ならば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学におけるその思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」からである、それ故に教会の宣教、その一つの機能としての神学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」からである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 アンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを「人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」。このアンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、「啓示から得られた認識」、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(「啓示ないし和解」の「概念の実在」としてのイエス・キリスト)の「実在から啓示認識の可能性について考えた」のである、さらに引き続いてその聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのイエス・キリストの「実在から啓示認識の可能性について考えた」のである。啓示の「真理を知るようになりつつ、さらに真理を肯定することの中で、知解スルintelligereこと」は、「ただ単に信ジルcredere(≪「Credoを信じる信仰自身」、すなわち教会の<客観的>な信仰告白および教義を信ジル≫)ことと同時に起こるというだけでなく」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoを信ジルこと」、「Credoを信じる信仰自身」、「素朴な形での知解スルintelligereこと」、正しい個人的な服従信仰と同時に起こるというだけでなく、「知解スルintelligereこと」は、「それ自体信ジルcredereことであるし、あり続ける」。しかし、「知解スルintelligereこと」は、「あらかじめ語られたことの中で内部で読む、(≪後続して≫)後から考えること」、「あらかじめ語られたこと」を終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復して考えること、「換言すれば(≪啓示の≫)真理を、自分のものとしながら」、「知識として受け取ることと肯定することの間にひろがっている道程を実際に通り抜け」、「今やまた……(≪啓示の≫)真理を(≪啓示の≫)真理として理解することを意味している」。「信ジルcredereこととこの本来的な知解スルintelligereこと」は、「ただ単に概念的に区別されなければならないだけでなく、実践的にも一致しないものであって、信仰者は、信仰ノ知解intellectus fidei(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)をそのまま単純に、すなわち自動的に手に入れられるわけではないのである」。言い換えれば、信仰者は、信仰ノ知解intellectus fidei(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)を手に入れるためには、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、この聖書的啓示証言に、またその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「教会の啓示されたCredo」(教会の<客観的>な信仰告白および教義)に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、力を尽くして理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。この時、その「信仰ノ知解」は、人間的理性や人間的欲求やが対象化した「最高存在」、「最モ完全ナ存在」、「物自体」等というような「単なる知識」とは区別されたそれなのである。

 

 このような訳で、アンセルムスの「知解スルintelligereことが、深められた形のものであるとはいえ根本的には読ムlegereことということでしかないということ」――この点が、「アンセルムスとその時代の『自由主義』神学者とを区別している点であり」、またアンセルムスの「それが深められた読ムlegereことであり」、「中で内部で intus読ムlegereことであり」、それ故に三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、さらに引き続いてその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義の「中で内部で読むこと」(終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で読むこと)であり、それ故にそれに後続して「後から(後に続いて)考えてゆくことであるということが、同じように明確に、アンセルムスとその時代の『積極主義者たち』、伝統主義者たちとを区別している点である」。

 

 イエス・キリストにおいて「啓示された真理は、いわば(われわれから見て)内的なテキストを持っている」。言い換えれば、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを持っている。この「内的なテキストは、もちろん(われわれから見て)外的なテキスト」、すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)が、「その権威のある主張から見ても、われわれの信仰という点から見ても」、啓示の「真理であるということ以外のことを語っておらず、またその内的なテキストは外的なテキスト以外のところで見出されることもないのであるが」、「しかもそれでいて、ここで外的なテキストを聞き・読み取ることはそのまま内的なテキストを聞き・読み取ることになるということでは決してなく」、「特別な意志と特別な行為によって、なかんずく特に決定的なこととして、特別な恵みによって」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二形態の神の言葉である聖書――すなわち「外的なテキストの中で尋ね求められ・見出されなければならないのである」。このような訳、さらに引き続いてその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義の中で「尋ね求められ・見出されなければならないのである」。第二の形態の神の言葉である「聖書(≪最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)は、もちろん、完全ナ真理ヲイワバ確固トシタ基盤トシテ、ソノ(≪「啓示ないし和解の実在」そのものである第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身の≫)上ニ建テラレテイル。そして、この聖書の『基盤』(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身≫)がわれわれに対して信仰(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中で啓示されるのである」。「まさに、聖書の基盤がそのように啓示される時」、「それは、われわれの知解にとって問題となり」、「われわれは、啓示されたものと信じられたものを」、「『自分自身』の限界の内部で、それ故に『いくらかでも』、神ノ援ケニヨッテイクラカナリトモ瞑想シテキタ……真理ヲ」、「洞察すべき課題の前に置かれるのである」。したがって、「ただ単に客観的真理そのものだけではなく、またわれわれによって洞察されるべきその内的な意味、根拠、関連性も、聖書が語っていることは、それが語っている通りのものであるということを証しすべきなのである」――「……個々ノ研究ヲ通シテ達シタ結論ハドレモ……、ソレハ推理ノ必然性ガ簡潔ニ要求シ、真理ノ明晰性ガ明ラカニ証明スルモノデアルコトヲ表示シテホシイトシタ」「……推理ト真理ニヨッテ証明スル」。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を持っている。「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「聖書は神の言葉となるところで、聖書は神の言葉なのである」。教会の宣教の一つである説教(言葉)の内容と形式について、「聖書への絶対的信頼に基づく、聖書講解であることの義務を負っている」(『説教の本質と実際』)として、言葉と行為、理論と実践とを二元論的に対立させて語ることは決してしなかったバルトは、次のように述べている――それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った説教(≪言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動(≪行為≫)になって行った」し、「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」(『カール・バルトの生涯』)。マルクスにおいても、理論と実践は、二元論的に対立してはおらず、「自然哲学」、「宗教、法、国家……の幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する市民社会の構造」、「宗教、法、国家という幻想性と幻想的な共同性」という三位一体的構成を持った「マルクスの完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、理論がかれを実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」)。