カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

14.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

14.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

神学の道(2)
 このような訳で、「知解スル(理解スル)intelligereこと」は、「決して〔瞑想スル〕perspicereことではないであろうから」、「われわれが、信仰命題を基礎づけるために、その内容を確証している聖書の言葉を思い出すことから成り立っていることはあり得ない」。「そのようなことは、……欠かすことができない知解スル(理解スル)intelligereことの前提に、信じるところの読ムlegereことに立ち帰ることを意味するであろう」――「アンセルムスは、神学者として……立証スルトイウヨリモ、貴君ト共ニ探究シようと欲する」。「不信者たちの抗弁と嘲笑」、「また信じるキリスト者たちも持っている不確かさ」――それは、人間論的な自然的人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、聖性・隠蔽性・隠蔽性において存在する神の「不把握性」の下に置かれているからであり、またTコリント13・8以下にあるように終末論的限界の下に置かれているからであり、また「神に敵対し神に服従しない」からであり、また「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」からであり、また「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」からである――、「教養のある者と教養のない者たち」が、「異教徒タチハキリスト教ノ信仰ノ単純サヲ狂気ザタトシテ愚弄シ、コノ質問ヲ私タチニ浴ビセカケ、マタ信者ノ多クモ心ノウチデソノコトニ思イヲメグラシテキタ。……コノ問題ニツイテハ、有識者ノミデナク、多クノ無学ナ者モ尋ネ、ソノ理由ヲ求メテイル」そういう「教養のある者と教養のない者たち」が、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書とCredo(≪その聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の本文に対して問うもろもろの問い」は、「啓示の内的なテキストと外的なテキスト」というものが、「われわれ人間にとって、いずれにしても一つではないということ、それらのテキストの意味、根拠、関連性は、それらと共にそれらのテキストの真理は、われわれによって、いずれにしてもそのままただ読み取られることはできないのであって、むしろわれわれとって、広い範囲にわたって闇の中に閉ざされており」、それ故に「特別な、読むことを超え出ている運動でもって」、換言すれば啓示の内的なテキスト、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて把握されなければならないということを示している」。神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰としての「信仰の中で自分のものとされた言葉」は、「確かに、……単なる理解ノウチニアルモノヲ意味スル言葉としても、それ自身、意味、根拠、関連性に満ちた祝福を与える全き真理である」。それは、「まさにそのようなものとして……われわれによって把握されることを欲している」――「ソレ故ニ、彼ハ、非常ニ熱心ニ心ヲコノコトニ向ケタノデ、(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)彼ノ信仰ニ基ヅイテ、精神的理性ヲモッテ、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書ノ中デ、暗闇ニ覆ワレテ隠サレテイルノヲ感ジル多クノモノヲ(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)理解スルコトガデキタ」。

 

 このような訳で、「『聖書的根拠』を断言的に引用してくることは、確かに問題をもう一度立てるであろうが、しかし問題と取り組むに当たって何も貢献しないであろう」。何故ならば、問題は、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学にとっては、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関が重要だからである。このことを、「アンセルムスによって鮮明に強調された方法論的な原則」、すなわち知解スルintelligereことと証明スルprobareことが問題である時には聖書の権威を引き合いに出すことでもって作業が為されてはならないという原則が語っている」。「ソコデ(スナワチ黙想ニオイテ)行ナウ証明ハドノヨウナ事モ聖書ノ権威ニ全ク頼ラズ、……証明スル」、「ドウセコノ人間ハ聖書ヲ信ジテイナイカ、曲解シテイルノダカラ、聖書ノ権威ヲモッテ彼ニ答エテハナラナイノデス」、「……私タチガ信ジテイルコトハ、聖書ノ権威ヲ借リズニ、……証明サレ得ルトイウコトデシタ」。「この原則の特別な適用」は、「多くの異議が唱えられた規則……の下にアンセルムスはその著書『神ハナゼ人間トナラレタカ』の中で自分の身を置いた規則」、「すなわちこのキリスト論的な詳論においては、キリストニ全ク何事モ起コラナカッタカノヨウニ彼ヲ括弧ノウチニ入レ……キリストニツイテ……何事モ知ラレテイナイコトトシテ、議論が展開されるべきであるという規則」にある――「……受肉……ハ全クナカッタモノト仮定シヨウ」、「私タチハキリストトキリスト教信仰ガ全ク存在シナカッタモノト仮定シタ」、「彼ニツイテ、コレマデノヨウニ全ク存在シナカッタトシテ……」、「……先験的ニ……」。しかし、これらのことは、アンセルムスが、「信仰ノ知解(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)を尋ね求めるために、そもそも聖書(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とした第二の形態の神の言葉≫)の内容を知ることなしに、(≪それ故に≫)白紙で、Credo(≪そのような聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)を、(≪生来的な自然的な人間的理性によって≫)ほかのところで得られた認識の諸要素から再構成するために、彼の考えの源泉および標準(≪原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)としての聖書を用いないことにしたということを意味してはいない」。

 

 このような訳で、「一義的に、……聖書(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とした第二の形態の神の言葉≫)とCredo(≪その聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)は、アンセルムスのところでは、……一瞬間たりとも彼の前提および対象であることをやめてしまうわけではなくて」、「ただ彼が……それに対し学問的に答える」べき「特別な問題に際しては、その答えを、聖書の、すなわちCredoの諸命題から引き出してき、それの権威でもって基礎づけることを……やめようとしているだけであるということが結果として生じてくる」、換言すれば一義的にはあくまでも第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とした第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会のCredoに「『このように書かれている』ということを舞台に登場させ、……朗読されたことが熟慮され・理解されることを欲している」ところで、「学問的に(≪教会の宣教の一つの機能としての学問としての神学として≫)答える」べき「特別な問題に際しては」、聖書の、すなわちCredoの諸命題から引き出してき、それの権威でもって基礎づけることを……やめようとしているだけであるということが結果として生じてくる」――したがって、アンセルムスは、「聖霊の発出についてのローマ・カトリックの教えを、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とした第二の形態の神の言葉である≫)聖書ト(≪その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の≫)聖ナル父タチノ無数ノ証明ヲ用イ」ずに、すなわち「まさに、ほとんど引用を用いることなしにことを処理し、済ませる(≪教会の宣教の一つの機能としての≫)神学的(≪学問的な≫)な記述の仕方の巨匠なのである」。このような訳で、アンセルムスの「方法論的な定式」は、その一面だけを形而上学的に固定的に抽象して理解したり、一面だけを拡大鏡にかけて全体化して理解したりしてはならず、その全体性・総体性において理解すべきものなのである。

 

 したがって、もしもそのように理解しないとしたら、次のような事態を惹き起こすことになるからである――(ア)「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものとなるから、その「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものとなるからである (L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。(イ)それ故に「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしない」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしない」、何故ならばその時「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」からである、キリスト教哲学は「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなくなる」からであり、「またそれがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなくなる」からである(『教会教義学 神の言葉』)。(ウ)したがって、われわれは、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、(≪教会の宣教の一つの機能としての学問としての≫)神学は哲学的試みが終わるところから始まる」のであり、教会の宣教一つの補助的機能としての学問としての神学も人間的な理性的な知的営為ではあるが、その「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ものなのである(『バルトとの対話』)。

 

 このような訳で、アンセルムスの「方法論的な定式」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)およびその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会のCredo(教会の<客観的>な信仰告白および教義)の「権威を引き合いに出す」のではなく、「『理性ノミ』で検討され・立証され・確信させられ、ユダヤ人たちに対して、また異教徒たちに対してさえ、議論において満足が与えられるべき」ものであると言われているのであるが、このように言うアンセルムスのこの一面だけを形而上学的に固定的に抽象して、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化して「理性ノミと書いていたかのように理解されてはならない」のである、すなわちアンセルムスの「方法論的な定式」は、前述したようなその全体性・総体性において理解されなければならないのである。何故ならば、その「方法論的な定式」の全体性・総体性における「アンセルムスの理性は、ちょうど(≪バルトのようにキリストの福音と福音を内容とする福音の形式としての律法という「福音と律法」の全体性・総体性においてではなく、二元論的に福音と律法を対立させた「律法と福音」という構成を為したルターにおいてであれ≫)ルターの信仰(≪「信仰ノミ」≫)が行いを結果として自分の下に持っているのと同じように、必然的に、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>なCredoの≫)権威を前提として自分の下に持っている」からである。またその全体性・総体性において、「ちょうどルターによれば、ただ信仰のみが義とするように、アンセルムスによれば、ただ理性(≪客観的な正当性と妥当性のある論理≫)だけが証明する(狭義のより厳密な意味での知解スルintelligereことに奉仕する)法廷として認められるべきである」とされる。例えば、ちょうど、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、その学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」というハイデッガーの思惟と語りと(木田元『ハイデッガーの思想』)、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を前期ハイデッガーの哲学原理に見出し、それを第一次化して有頂天になってしまった自然神学者ブルトマンの思惟と語りとを比較衡量してみる時、そして両者の思惟と語りを徹頭徹尾<理性的>に判断してみる時、全く以てハイデッガーの思惟と語りの方に客観的な正当性と妥当性があることは明らかであるようにである。ここに、典型的な人間学的神学(総括的に言えば、自然神学)の末路があると言うことができる。<哲学者>・ハイデッガーによる前述したような客観的な正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的なブルトマン批判において、その時、客観的に、<神学者>・ブルトマンの神学(総括的に言えば、自然神学)は、実際的事実的に、自然時空に死語化してしまったのである。