カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

15.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

15.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

神学の道(3)
 「『探究』の手段を表示することができる」「奪格においても……用いられ」、「『探究』の目標を表示することができる」「対格においても用いられる」アンセルムスにおける「ラチオratio」(「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」)は、「何を意味しているのか」。
(ア)アンセルムスが、「ラチオratioニヨッテという時」、「あるいはスデニ理性ノ指導ノモトニ……あるいは理性ノ教エルトコロニ従イあるいは理性ノ……指導ニヨリあるいは理性的ニあるいは諸根拠カラあるいは必然的理由ニヨッテ」という時、「ラチオは尋ね求められた知解へのを表示しているように見える」。
(イ)それに対して、アンセルムスが、「〔根拠ヲ熱望スル〕rationem esurire、〔求める〕quaerere、〔示す〕ostendere、〔知解スル〕intelligereことについて、〔根拠ニ関シ黙想スル〕meditari de rationeについて語る時、それは、尋ね求められた知解そのものを表示しているように見える」。

 

 したがって、前者の場合には、「知解する人間的なラチオ」(奪格的側面、探究の手段)を、後者の場合には、「信仰の対象そのものに固有なラチオ」(対格的側面、探究の目標)を「考えることがゆるされるであろう」。このことをバルトの『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、このことは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教の一つの補助的機能としての神学に関わるわれわれが、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を、それ故に具体的には預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの<理性的>な思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――ここで「隣人愛」は、<純粋>なキリストの福音を内容とするキリストの福音の形式としての律法のこと、すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、具体的には徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである)そのものであるイエス・キリストをのみ信ぜよ、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固着せよ、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を所有することができるために<純粋>なキリストの福音を告白し証し宣べ伝えよという神の命令・要求・要請のことである――という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくということを意味している。

 

 アンセルムスは、「ラチオratio」(「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」)を、感覚と知識を内容とする「経験と取り組むに際して」の「概念能力および判断能力」と表示し、「人間ノ中ニアルスベテノモノノ原理オヨビ判断(≪このことは「異端的な詭弁化の肉欲主義に対して向けられている」≫)と呼び」、「人間(≪単なる「動物」と「区別」された、自己身体を座とする生来的に自然的に類的機能を有する理性を持った人間≫)を、(天使と共通に、すべてのそのほかの被造物と区別して)理性的ナ本性と呼び」、その「理性性ということでもって」、「判断を形成してゆく能力」、すなわち「真なるものと真でないもの、善いものと善くないもの等々」を「区別する能力のことを理解した」。アンセルムスは、「天使と人間によって……構成されている……神の道の終りと目標を形造っている霊の国」は、「理性的デ至福ノ都」と呼んでいる。「客観的なラチオに対するその対立」、「人間的な(あるいは天使の)概念能力と判断能力についての思想」は、前述したように、「探求ノラチオについて、……私ノ確信ノ根拠について、……神のもろもろの言葉と行為のラチオについて、それらの必然性と可能性のラチオについて語られる時、……超えられる」。「その結果、先ず第一に、信仰対象に固有な、……人間的な概念能力および判断能力の認識するラチオ(≪バルトの思惟と語りに即して言えば、徹頭徹尾「聖霊そのもの」では決してないが、聖霊によって更新された理性≫)を手段として、信仰の対象が啓示を通して与えられた後」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事≫)に基づいて終末論的限界の下で与えられた後、「指示されるべきである存在的なラチオの表象が生じてくるのであるが、この表象は、アンセルムスが三番目に最高のこととして真理ノラチオを知っているということを付け加えて受け取る時」、「正しく解釈」することができる。その「真理ノ根拠」(「あるいは真理ノ理性的根拠」)」は、「それとして……厳格に理解されるならば、最高ノ本性ノ理性と……同一である」、すなわち「父と同質である神的な言葉と同一である」、換言すればご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」におけるその<起源>・<根源>としての第一の存在の仕方の「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、その区別された第二の存在の仕方の「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの「性質」・「働き」・「業」・「行為」・「行動」・「活動」として最後的な第三の存在の仕方である聖霊と同一である――この「真理ノラチオは、神のラチオである」(「神ハ何事モ理由ナクシテハナサラナイ……」)。「それがラチオであるが故に、それは真理を持つのではなく」、「神が、真理(≪啓示の真理≫)が、それを持つが故に、それは真理を持つのである」。このような訳で、「あの言葉」は、それとして「神的なのではなく」、「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の<起源>・<根源>としての第一の存在の仕方である「父によって語られた言葉(≪第二の存在の仕方、働き・業・行為≫)であるが故に、あの言葉は神的なのである」、ちょうど「キリストの永遠のまことの神性」は、「啓示および和解におけるキリストにおける行為で認識することができる」ように、すなわち「啓示ないし和解」が「キリストの永遠のまことの神性」の根拠ではなくて、「キリストの永遠のまことの神性」が「啓示および和解を生じさせる」ように。前述したアンセルムスの「ラチオratio」は、「すべてのそのほかの神ノラチオと同一ではないが」、「神の被造物のラチオとして、神ノラチオにあずかっているラチオについて言えることである」(「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された理性も聖霊と同一ではない――『教義学要綱』および『バルトとの対話』)。したがって、啓示の「真理がそのようなラチオに制約されているのではなく」、「ラチオが(≪啓示の≫)真理に制約されている」のである――「最高真理(≪啓示の真理≫)ハソレ自体デ自存し、ドノヨウナモノノモノデモナク、ムシロアルモノガ最高真理ニ従ッテ存在スル時、ソノモノノ真理アルイハ正直ト言ワレルノデアル」・「真理ハ……ドノヨウナ始メニモマタ終リニモ制約ヲ受ケルコトハナイ」。言い換えれば、「啓示の真理」自身が、「啓示自身が、啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、そのことに基づいたキリスト教に固有な個体的自己の信仰的成果の世代的総和(類)とその時間性を、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っている、すなわち先ず以て起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を、それからまた第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、そしてそれからその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義を持っている。

 

 前述したことは、「先ず第一に、認識的なラチオに対して、適用されるべきである」。すなわち、「認識的なラチオの使用を念頭に置いた」「ラチオの真理」は、「明らかに表示ノ真理」、「例えば、一つの命題の真理と同一であるであろう」。このことについて、人間に生来的な「自然的な思惟能力あるいは言語能力の『真理』以上のこと」、「〔ソレガ言イ表ワソウトシテイル目標ニ〕フサワシイコトが言おうとされている時」、前述したように、「徹頭徹尾その表示が表示された対象と一致するということを通して、条件づけられている規則が妥当する」――「……在ルモノヲ在ルト(すなわち存在シナイモノヲ存在シナイト)命題ガ表示スル時、命題ニ真理ハアリ、真デアルトイウコト」。「この対象を通して規定された正しい使われ方の中で、……ワレワレノラチオノ真理について、まことに語られることができるかどうかが決定される」。何故ならば、「対象の存在と本質の真理」は、「ワレワレノラチオノ真理」「それ自身の中に基づいてはおらず」、「神的な言葉……を通して、その対象が創造され、その対象に対してそれが造られると共に」、「神によって語られた言葉としてのそれ自身に固有な真理との類似性を賦与する神的な言葉」、それ故に「厳格に理解された真理(≪啓示の真理≫)ノラチオの中に基づいている」からである。言い換えれば、終末論的限界の下での「対象の存在と本質の真理」の認識のためには、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての聖霊によって更新された理性を必要とするのである、換言すれば常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の~の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」ということを必要とするのである。何故ならば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、神とは全く異なるわれわれ人間は、「『自分の(≪生来的な自然的な≫)理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)からである、また「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉』)からである。このような訳で、「人間的なラチオが正しい使用へと定められていること」は、すなわち「対象から発する使用の定め」は、「ただいわば導き、それを手段にして、真理そのものが、すなわち神ご自身が、その決断を下し給う導きでしかない」のである、「真理(≪啓示の真理≫)に関して、(≪生来的に自然的に有する≫)人間的なラチオが創造的な・標準的な意味を持っているということについては、いかなる意味においても語ることができない」のである――「……スナワチ思考ノ真理ト命題ノ真理……ハドノヨウナ真理ノ原因デモナイノデス」。われわれの<理性的>な思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」。したがって、われわれの<理性的>な思惟と語りは、『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである(『教会教義学 神の言葉』)。このことは、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ということである、換言すれば<非>自然神学の段階においては「あやまちは可能である」が、自然神学の段階においてはその最初から「あやまちは必然である」ということである(『バルトとの対話』)。

 

 「第二に、存在的なラチオに関しては、……真理(≪啓示の真理≫)へのそれの参与は、原則的に認識的なラチオの参与以外のものではないが」、「それよりもより高度な参与であるということ」、そしてその「参与」は、「認識的なラチオ……の場合と同様に、すべてのラチオの真理としての真理そのもの(≪啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの≫)によって存在的なラチオ(三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)が賦与されなければならないということが生じてくる」――「この賦与は、認識的なラチオの側においては、その都度下される決断(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという決断と態度≫)の事柄である一方」、「存在的なラチオについては、……それのラチオが存在的なラチオであるその対象の創造と共に、真理が賦与されているということが語られなければならない」。このことは、「アンセルムスにとって問題である信仰ノラチオについて妥当する」。したがって、この「信仰ノラチオratio」(根拠、原因、理性)は、「アンセルムスにとって、疑いもなく真理ノラチオと本来的な厳密な意味で同一である」。したがってまた、信仰ノラチオが「真理ノラチオであるかどうかについてではなく、それがそのようなものとして自分を知解させるかどうかについての決断が問題である」。「信仰ノラチオ」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の「Credo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の中に」、それ故に「聖書(≪預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)の中に隠されており、それは、自分自身をわれわれに知らせるためには、自分自身を(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で≫)啓示しなければならない」――「それ故に、『私タチガ真理(≪起源的な第一の形態の神の言葉である啓示の真理、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、その聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)ニ根ザシタ理由カラ学ンダ……』」この「信仰ノラチオ」は、「そのことを、ただ(≪啓示の≫)真理、神ご自身が(≪その都度の自由な恵みの決断により終末論的限界の下で≫)そのことをなす時にだけ、なすことによってだけ、なす」のである。「したがって、知解することの出来事の中で、その都度、存在的なラチオと共にまた認識的なラチオが、(≪啓示の≫)真理と同形的であり、その限りマコトノラチオであるか(≪徹頭徹尾、聖霊により更新された理性のそれであるか、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたそれであるか≫)……あるいはないか、あるいは(そのことが実際的ニハ普通のことであるのだが)ある程度そうであるといった具合である」。「原則的に、……(≪「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての啓示の≫)真理自身が、すべてのラチオの主であり、それ自身で、何がこことあそこで、その都度マコトノラチオであるかについて決定する」。すなわち、「信仰の対象のラチオが、また人間が自分の概念能力および判断能力について為す使用が、(≪啓示の≫)真理に(真理それ自身の決断の力によって)同形的であることによって、そのラチオ性のために決断が下され・求められた知解が出来事となって起こるのである」。したがって、われわれは、次のように言わなければならないのである――われわれの<理性的>な思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」。したがって、われわれの<理性的>な思惟と語りは、『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである、と(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の「Credo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の考え抜かれた理解」(「信仰ノ知解intellectus fidei」)は、「そのラチオ性のために」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において「出来事となって起こるのである」が、この「証明スルことと喜バスことにまで来なければならない」「信仰が『要求する』」「知解スルintelligereこと」、啓示の「真理を(≪啓示の≫)真理として理解すること」――すなわち「信仰ノ知解intellectus fidei」は、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の「Credo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の考え抜かれた理解」は、「最後的には祈りおよび祈りの聞き届けの問題である」から、すなわち「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」から、それを手に入れるためには、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員のわれわれは、前述したような仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、(≪「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、≫)力を尽くして理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。