1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳1-75頁)
1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳1-75頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
カール・バルト『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』吉永正義訳、新教出版社に基づく
(なお、T/1「教義学の規準としての神の言葉」等については、その都度『教会教義学 神の言葉』論として論じている)
バルトは、神学をただ単なる「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、すなわちただ「単なる知識」としては取り扱ってはいない。バルトは、神学を教会の宣教の一つの機能として、それ故に常に、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教との関わりの中で、神学における思想の問題を自覚的に取り扱っている。すなわち、バルトは、先ず以ては「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書)を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、それからまた現実と時代に強いられながら、総括的に言えば自然神学の<段階>あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>における問題を明確に提起することによって、それらの<段階>を根本的に原理的に包括し止揚し克服して、<非>自然神学の<段階>あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>へと移行して行くことを目指している。「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(カール・マルクス『ユダヤ人問題によせて』)。
さて、ここで、『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」と『教会教義学 神の言葉T/1 序説/教義学の規準としての神の言葉』・『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』等を翻訳した吉永正義の『バルト神学とその特質』における三位一体論の解説記事の根本的な原理的な欠陥は、次の点にある(ただここで断わっておきたいが、私は、地道な翻訳作業をされた吉永正義に対して、心からの感謝の意を表する者であるし、彼の翻訳は、最高度に大きな功績があると考える者である。何故ならば、私自身は、まさにこの吉永の邦訳が出版されていたおかげで、既存の大学神学者等々の本(「単なる知識」)を「そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすること」なく、バルト自身の主要著作(その思惟と語り)を精読し、彼のその神学の全体性・総体性を理解することができるようになったからである。もう一人だけ尊敬できる翻訳者は、先ず以て『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を翻訳し、そして『福音と律法』における(否、全著作における)バルトの最高度に重要な立場である主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」をバイアスをかけることなく翻訳した神学者であり文芸批評家でもあった井上良雄である)――吉永は、「福音と律法の問題を除いて」バルトとルターは最も近い立場にある、と述べている。この思惟と語りは、両者には「福音と律法」理解において根本的な原理的な差異があるとしても、それ以外においては「最も近い立場」にあったということを意味する(厳密には、ルターは徹頭徹尾「律法→福音」という順序で論じ、バルトは先ず以て「福音と律法の真理性」においては「福音→律法」という順序で論じたのだが、このバルトは、「本来的な勝利の福音」である「福音と律法の現実性」における「真実の罪に対する神の勝利」においては、「律法→福音」という順序は正当なものとなると述べている)。しかし、その「福音と律法」理解における「イエス・キリストの信仰」の属格理解の差異性は、バルトとルターの間に、根本的な原理的な差異性を生じさせているのである。言い換えれば、バルトは、ルターにおける伝統的な目的格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(人間の側からする神との「共働」・「協働」、「神人協力」を目指す、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指すイエス・キリストを信じる信仰による神の義)という立場にある問題を明確に提起したのである。すなわち、バルトは、ルターとは全く違って、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(神の側の真実としてのみある、イエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和そのもの)という立場において、ルターの自然神学の<段階>あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>を根本的に原理的に包括し止揚し克服して(否定的に媒介して)、<非>自然神学の<段階>あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>へと移行して行ったのである。このことが、まさに神学における思想の問題なのである、ちょうど神の側の真実としてある「全く端的に、信じ給うた」(『福音と律法』)イエス・キリストにある「信」においてのみ、内在的な不信および外在的な不信を包括し止揚し克服した信を明確に提起することが、すなわち信と不信を架橋することが神学における思想の課題であるように。
「聖書的証言の本来的テーマ」は、ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち父なる神の子としての「啓示ないし和解」、起源的な第一の形態の神の言葉、「子なる神、キリストの神性を問う問い」の中に、起源的な第一の存在の仕方である「父を問う問い」と愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である「聖霊を問う問い」とが包括されている点にある。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル、「神われらと共にいます」という第二の存在の仕方において、自己顕現・自己啓示された。このことは、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」としての内在的な起源的な第一の存在の仕方である父なる神が、子(第二の存在の仕方)として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」(第二の存在の仕方)において、その「存在の本質」である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。このようにイエス・キリストにおいて自己顕現・自己啓示する神は、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである。このことは、「神ご自身がわれわれ人間に対して自己啓示されないならば、また神ご自身が神とわれわれ人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れたわれわれ人間」は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を持つことができないということを意味している。したがって、このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、この「啓示自身が啓示に固有な証明能力を持っている」、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」・聖霊の証しの力を持っている、またこのイエス・キリストにおける啓示は、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を持っている、またこのイエス・キリストにおける神の自己啓示は、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っている。
バルトは、「二章 神の啓示<上>三位一体の神」の「八節 その啓示における神」について、またその根拠について、次のように「定式化」を行っている――神の言葉は、その啓示における神ご自身である。なぜならば、神は主(≪「神の主権」・「神のみ国、神の支配、の告知」≫)としてご自身を啓示されるのであり、そのことは聖書によれば、啓示の概念にとって、このこと――神はご自身、破壊されない単一性(≪内在的な「失われない単一性」≫)において、しかしまた、破壊されない差異性(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」≫)において、啓示者(≪起源的な第一の存在の仕方、父なる神、創造主≫)、啓示(≪第二の存在の仕方、子なる神、和解主≫)、啓示されてあること(Offenbarsein)(≪第三の存在の仕方、聖霊なる神、救済主≫)であり給うということ――を意味しているからである。
【このことは、次のように言うことができる――起源的な第一の存在の仕方である父は「子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源」であり、それ故に第二の存在の仕方である「子は父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊は「父と子が根源である」。この内在的な三位一体の神は、「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示」する。したがって、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。言い換えれば、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする、換言すれば先ず以てご自身の中での神として「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神であり給う、それからまたこの神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において、三度別様に、イエス・キリストの父(起源的な第一の存在の仕方、啓示者・言葉の語り手・創造主、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)――、子としてのイエス・キリスト自身(第二の存在の仕方、啓示ないし和解・語り手の言葉・和解主、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊(第三の存在の仕方、啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)なる神であり給う、と】
われわれキリスト者は、先ず以て「人間的な理性」を用いて――その思惟と語りが、キリスト教に固有な類として、すなわち「キリスト教的語りの正しい内容の認識として、祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のだが――、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の現在としての、すなわちキリスト教に固有な類の時間性の現在としてのキリスト教に固有な歴史的現存性における「普遍的な概念」に基づいて、「教義学的な定式化」を行うのであるが、バルトは、この定式化が、「人間的な理性」によるものであり、それ故「合理的」で論理的な構成となることは必然であると述べた上で、彼は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書に服従する」という仕方ではなく、その最初から人間学との「混合」を目指すという仕方における、あるいは人間学的な哲学原理・認識論・世界観等を第一次化した「混合神学」を目指すという仕方における「定式化」は、その最初から人間学の「後追い知識」として、キリスト教に固有な類の時間性に時間累積させていくことはできないと述べている。
第三の形態の神の言葉に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義である「三位一体論」の根拠としての神の啓示は、旧約聖書における「ヤハウェ」、新約聖書における「神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身」の自己啓示のことである。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書またその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である「三位一体論」の根拠である。したがってまた、この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがってまた、「教会の宣教の批判と訂正」 は、常に、この「三位一体論に即して行わなければならない」のである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに「神性否定のキリスト論」や「半神・半人キリスト論」や「三神論」や人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」という自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教へと埋没していく以外にないからである。神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「三位一体論」の「根」・「根拠」・「基礎」である。したがって、「三位一体論」は、神の側の真実としてある神の自己啓示を「根」・「根拠」・「基礎」として持っている・持ち続ける。したがってまた、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、われわれを、必然的にそのような認識と信仰へと向かわせる。
このように、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「解消されない単一性(≪「失われない単一性」≫)の中で啓示者(≪言葉の語り手、父なる神、創造主としての神、永遠なる父≫)であり、啓示ないし和解(≪語り手の言葉、子なる神、和解主としての神、永遠なる子≫)であり、啓示されてあること(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、聖霊なる神、永遠なる霊、「人間の身に起こるその作用」――「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰≫)である」。
バルトは、次のように述べている――「三位一体論こそ、キリスト教の神論をキリスト教の神論として、したがって三位一体論こそ確かにキリスト教の啓示概念をキリスト教の啓示概念として、すべてのほかの神論および啓示概念から、根本的に区別し、ぬきん出させるところのものである」。「自分を啓示する神はだれであるか」という「啓示の問題は……三位一体論の問題と共にたちもすれば、倒れもする」。すなわち、前述した三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。「三位一体論の教義」は、第二の形態の神の言葉である「聖書の中にあからさまに表現されている教えではなく、むしろ(≪第三の形態の神の言葉に属する≫)教会的な教えである」。すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示についての聖書の教え(≪第二の形態の神の言葉≫)は、……三位一体論の梗概として解釈されなければならない」。事実、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における「三位一体論」は、第二の形態の神の言葉である「聖書の注釈」である。しかし、それは、「恣意的になされた、その対象を聖書以外のところにもつような思弁ではない」。すなわち、それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に即さないところで恣意的独断的になされた第三の形態の神の言葉に属する教会の「思弁ではない」。したがって、「三位一体論」は、キリスト教に固有な類の時間性における第三の形態の神の言葉に属する「教会的な釈義」であるが、「間接的には、(≪キリスト教に固有な類の時間性における第二の形態の神の言葉である≫)聖書の啓示の証言の諸命題と同一であると理解されるべきもの」である。ここにおいて、神学の一つの学科である教義学は、「キリスト教に特有な神についての語り(Rede)について、キリスト教会がなす、学問的な自己吟味」として、「教会の一つの機能である」(『教会教義学 神の言葉T/1 序説』)。この意味における教義学は、「決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。何故ならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである。したがって、「教義学者」やそれに類する牧師やキリスト教的著述家は、「信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家」や牧師だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである。何故ならば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(そのすべての成員)の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」からである、その教会の宣教、その神学、その思惟と語りの在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」からである