カール・バルト『教会教義学 創造論』における「神学的倫理学」
カール・バルト『教会教義学 創造論』における「神学的倫理学」
(エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社、1989年の533・534頁において、『教会教義学 創造論』における「倫理学」について、ほんの少しだけ述べられている)
再推敲・再整理版です。
『バルト・教会教義学・解説シリーズV/4 キリスト教倫理T 序説・神の前での自由』鈴木正久訳・編、新教出版社に基づく
教義学は、教会の一つの機能として、教会の宣教における三位一体論――キリスト論的な「神の言葉」を対象とするのであるが、「どのようなものが良い人間の行動であるか」という善悪の問題、「倫理的問題」をも包含している。この場合、神のみが「善」であるから、その善の「基準・根源」である「神の言葉」・「神の戒め」に聴従するとき、そのことが、人間の「良い良心」・「良い行い」であり、「人間の聖化」である。
さて、「神の戒め」は、「人間に対する要求であり、人間に向かっての決断である」ことにおいて、神は「人間が生きるためにのみ人間の死を欲し給う」のであるが、その神の恵みにおける「人間に向かっての審判である」、換言すればそれは、主観的な「神の戒め(その要求・決断・審判)」である。このように、人間は、神の恵みの「裁きによって」、人間が、「聖化」され、「永遠の生命に入れられ」、「解放され」、「自由にされること」が、神の恵みの「戒め」(律法・命令・要求・要請)の「究極の目標」であり「固有の業」であり、「本来の意義」である。そして、この「律法の成就」者は、唯一回限りの唯一無比の、その死と復活の出来事における「永遠のまことの神性」を本質とするまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身である。このことは、神の側の真実としてある、神の真実の行動――すなわち神自身における神のその戒めに対する神によるその戒めの厳守の行動、その死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による客観的な「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもののことである。したがって、神の戒めは、「決疑論的倫理学」が前提とする人間に内在する「理性的な、道徳的な自然性」や「伝統・自然法・聖書のいずれから取り出してきた」ような「一般的原則」ではないし、その「実質的適用」のために必要な「善の観念」や「断言的命令」という人間学的な概念も必要としないのである。したがってまた、神学的倫理学(特殊的倫理学)は、一方で神の側の真実としてある「垂直線」としての客観的な側面と、他方でその「神の戒めによる働きを受ける人間」の側の「水平線」としての主観的な側面との構造を、その全体性・総体性を問題とする。
「イエス・キリストにおいて人間に対して恵み深くありたもう神」により「聖化」された人間の神の前での「自由」、神に対する「自由」は、「従順」に対する対立概念ではなく神に対する「従順」(責任の応答)を包含した神に対する「従順の自由」・聴従の自由であり、それ故に「真の自由」である。これが、神の側の真実としてある客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事から見られた、「倫理的問題」に対する「神学的倫理学が与えるところの一般的解答である」。したがって、決疑論者のように、「聖書の中から一般的道徳的原則……を拾い集めて、それを更に個々の事態に合わせて註釈したり適用したりすること」は、「倫理学の課題」ではない、換言すれば神学的倫理学(特殊的倫理学)の課題ではない。何故ならば、聖書において神の「戒め」・「命令」・律法・要求・要請は、「原則・原理・根本命題・一般的道徳的真理などとしては現われて来ない」からであり、そしてその命令者は、「神ご自身」であって、「倫理学者」等の人間では決してないからであり、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「全く独自で一回的な具体的命令、また禁止令また指示として現われてくる」からである、また、この神の戒め・命令・律法・要求・要請を受けた人は、「単なる個人」に関連しているのではなく、「常に神が選び給うた民(旧訳ではイスラエル、新約ではイエス・キリストの教会)」に関連しているし、また「旧約の十戒でも新約の山上の垂訓や使徒の指示でも」、神の側の真実としてある客観的なイエス・キリストにおける「契約の歴史」・「救済の歴史」の「内容」に関連している。『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』「和解論の対象と問題」に即して言えば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」し、「永遠のまことの神性」を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非知、非キリスト者、非キリスト教、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである。このような訳で、神学的倫理学(特殊的倫理学)は、前述したような客観的な問題と解答に基づいて、主観的な「神の戒め(その要求・決断・審判)のもとで行動している人間」、その人間の「聖化を問題」とするのである。この問題は、「神の戒めが彼の中に最も具体的に尖鋭化して現われてくる、その命令に対して彼が服従するかしないかにある」のである。したがって、信仰的神学的実存は、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った」キリストの福音の言葉の「一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になっていく」という点にある。
このように、神の戒めとしての神の言葉は、理性的・道徳的な「自然法」、抽象的な「民族法」、人間によって管理される恣意的独断的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」等としては存在していない。また、それは、「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことではない、「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進することではない、「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進することではない(『福音と律法』)。神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象し「神の座」についた倫理学者の自由事項・決定事項としては存在していない。「良心が不安になる事態が生じて疑惑が生まれた場合に、それに応じた適当な判定を下して問題を解決してやる方法」――すなわち教会史上での「法則的・組織的」な「決疑論」的倫理学としては存在していない。この決疑論的倫理学は、カトリックにおいては「イエズス会教団で最高頂に達した」が、宗教改革は「このようなものを斥けて行動の規準としてただ神御自身の言葉をあげ」「キリスト者の自由」を重んじた。しかし、「十六世紀後半に至ってプロテスタント教会の中にも」法則的・組織的な決疑論的倫理学が「次第にはっきりと現われてきた」。ここでの問題は、ただの人間に過ぎない倫理学者やそれに類する者が、神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象し「神の座」に就き、その倫理学者の説が普遍性や組織性を獲得した時、法則的・組織的な決疑論的倫理学が成立してしまう点にある。すなわち、そこでの問題は、自然神学の問題として総括できるのである。「カルヴィンは、……神のみが唯一の立法者であり、神の意志だけがすべての義と聖の完全な原則であり、神だけがわれわれの霊魂を支配し給う」と、決疑論に反対した。バルト自身は、決疑論を拒否する根拠を、神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>において、「神が福音の恵みある神であり給い、キリストにおける神であり給う」という点に置いた。したがって、バルトは、このキリストにおける神に対して人間は、「その戒めを行うときさえも、受ける者・贈られるもの・全くの初歩者として対している」と述べている。何故ならば、このような神の側の真実でとしてある客観的な「自由な恵みの出来事」を根拠とする「実践的決疑論」においては、自然神学の段階における法則的・組織的な決疑論とは決してなり得ず、徹頭徹尾、自然神学の段階における「人間の思い上がりや出しゃばりは排除される」からである、自然神学の段階における人間の側からする神と「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」を目指す「暗黒への跳躍」は排除されるからである。したがって、バルトは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で人間的主観に実現された神の恵みの出来事を受けた人は、神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>において「神に対して自由に服従する」、聴従すると述べたのである。すなわち、神に対する「従順」を包含した「従順の自由」を認識し自覚すると述べたのである。ここから、「良い良心」と「良い行い」が出てくると述べたのである。
しかし、大学神学者はそのことに対して自覚的でない場合は、必然的に自然神学者となってしまうのであるが、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指す者は、これらのバルトの思惟と語りをその全体性・総体性において理解しようとはしないで、例えばこのバルトの思惟と語りにおける「神に対して自由に服従する」という言葉だけを切り取って全体化して、換言すれば神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象し、それ故に常に先行するキリストにあっての神を差し置いて、神に対して、「わがまま勝手」に、恣意的独断的に服従するというように読み替え可能な自分にとって都合の良い言葉だけを切り取って全体化して、バルトがいかにも自然神学を容認しているかのように人々に誤解させ誤謬させ曲解させてしまうのである。言い換えれば、彼らは、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>および具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で<非>自然神学の段階へと移行しているバルトを、常に先行する神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間の側からする神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」もという自然神学もいかにも容認しているかのように人々に誤解させ誤謬させ曲解させてしまうのである。しかし、バルトは、その処女作以降は、徹頭徹尾、<非>自然神学の段階へと移行した神学者なのである、近代以降におけるただ一人の神学における<思想家>なのである。「ヘーゲルの強力な痕跡」を持ったシュライエルマッハーにしても、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマン等々にしてもすべて、人間学に包括された「ただ単なる」神学における<知識人>に過ぎないのである。
さて、神の戒めは、「人間の具体的な意欲・決断・行為・行動の領域」に、どのように介在してくるのか? 神学的倫理学(特殊的倫理学)はどのようにして成立するのか?
神学的な特殊的倫理学(神学的倫理学、特殊的倫理学)は、換言すれば「神の具体的な戒め」(指示)と「人間の具体的な服従」(従順の自由)または不服従(不従順)は、神のその都度の自由な恵みの決断による「あの時と状況に応じ」た「新たな」「啓示」の出来事と「信仰(あるいは不信仰)」の出来事を生じさせる「聖霊の権威と指導と審判を人びとに」指し示し想定させるものである。神学的倫理学(特殊的倫理学)は、「人間の具体的な意欲・決断・行為・行動の領域に神の戒めが触れた」時における――すなわち、垂直線が水平線上に交叉した時における、「神の具体的な戒めと人間の具体的な服従または不服従」について理解する点にある。したがって、神学的倫理学(特殊的倫理学)は、「あの時と状況に応じて常に新たに啓示と信仰の事件(≪出来事≫)になってくる聖霊の権威と指導と審判を人々に想定させる」点にある。
このことは、次のように言うことができる――イエス・キリストが、われわれ人間に対して、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する」、それ故にわれわれは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」、それ故にまた「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」、と(『教会教義学 神の言葉』)。ここにおいて、神学的倫理学(特殊的倫理学)は、水平線を包含した垂直線から規定されてくる神の命令に対して、人間の行動の恒常性と連続性における「形をなした指示」を持つものとなる。そしてその場合、その指示が、「神の言葉によって啓示せられた確実さを持っているかどうかが問題となる」。もっと具体的に言えば、その「形をなした指示」が神の言葉――すなわち客観的なイエス・キリストにおける「啓示ないし和解」(福音)を内容としたその形式であるかどうかということが問題となる。
自然神学の段階で停滞するE・ブルンナーの倫理学は、次のようなものである。
(1)決疑論を斥けていることは正しいとしても、個人倫理の領域においてのみ、「神の戒めはその時々に聞きとられるもの」であるという点は首肯することができない。
(2)神の「戒め」と「諸秩序」を区別するということは正しいとしても、彼にとって神の戒め(命令)は、「われわれの行動以前に存在している」「神の『諸秩序』」(「創造の諸秩序」)――すなわち、「神に創造された」人間的な「この世の現実性」・「事実性」・「現実性」の「中にわれわれを置く」という点は首肯することができない。
このブルンナーは、神学的倫理学における「正当性」と「確実性」の根拠は、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事にあるのも拘わらず、「諸秩序」の概念を「人の心の中に内在的に記されてあり・知られている」「自然法」に基づいた「家族・経済・国家(≪歴史的所与の概念≫)と規定して」しまった。そして、「恵みの神から啓示される戒めは、ただ個人倫理の領域に関係するだけのもの」にしてしまった。
それに対して、D・ボンヘファーにおける、神の戒めと人間の行動の恒常的要素とは、次のようなものである――「神の言葉」、すなわち「イエス・キリストに啓示されている神の戒め」から、具体的には「聖書」から、「委任統治論」を展開し、神の戒めの歴史的な恒常的形態を、「キリストが世を支配し給うことの具体化」である、それ故に世も「このことを通して……キリストに向かう」ところの、「全人」・「万人に関係している」第一に「労働」、第二に「結婚生活(家族)」、第三に「政治的権威」、第四に「教会」、第五に「文化」に置いた。しかし、この「委任統治」は、「『歴史の中から発生した』ものではなく、『上から世界の中に降下してくるキリストの事実の区分』である」から、それを委任された者たちは、前述した歴史的な恒常的形態において存在する神の戒めを完遂することであり、「人間の意志を遂行するのではなく、神から負わされた委託を遂行する」ことである。したがって、これを「誤用・悪用」する場合、それは、「聖書の主題」である神と人間との「上下関係を乱すこと」になる。それは、「悪魔の力にまどわされることであるから」、「イエス・キリストに啓示されている神の戒め」にのみ、例えば『福音と律法』に即して言えば、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の戒め・命令・要求・要請)にのみ聴従するという決断と態度によって、それらと闘わなければならない。この場合、神学的に明確でないことは、彼の挙げる神の戒めの歴史的な恒常的形態である五つの領域の根拠は何かという点である。また、この五つの領域の規定は、「北ドイツの家長制が発する臭いが多少まじってはいないか」、という点である。ボンヘファーは、ブルンナーと同じように自然神学の匂いを漂わせているのである。
神学的倫理学(特殊的倫理学)の三位一体論――キリスト論的な構造(その全体性・総体性)は、教会の一つの機能としての教会教義学に包含されている。「倫理的事件」(倫理的出来事)の「二つの因子」についてであるが、それは、第一には、人間に対して支配的に戒め(「要求・決断・審判」)を与える神であり、第二には、その神に対して「受身の客体としてある人間」であり、「神の相手にされる」ことにおいて(『福音と律法』に即して言えば、あくまでも神の側の真実としてあるキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法を「受身」的に受け取る)「行動的主体」である人間である。これは、神の命令と人間の行動との倫理的事件(倫理的出来事)における恒常性である。そして、この二つの因子である「神の言葉において出会う神と人間」は、生来的な自然的な「人間の能力やその完遂の基礎の上には現われない」のであり、ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(業と働き、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト」・「神の言葉、……の内に現われている」のである。これは啓示の弁証法における「公開の秘密」であって、イエス・キリストの啓示の出来事における隠蔽性と顕現性である。したがって、神学的倫理学(特殊的倫理学)は、この神の側の真実としてのみある「肉体に対して肉体の中にある言葉」、「イエス・キリストにおける神と人との出会い」という教義学的前提を認識根拠・認識原理としなければならないのである。このようにイエス・キリストにおいて自己啓示する神は、ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(「創造者」・言葉の語り手・啓示者)、その第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(「和解者」・語り手の言葉・啓示ないし和解)、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(「救済者」・啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)であり、「父として被造物の全能の主であり、子としてこの被造物に自己を与え給い、聖霊としてこの被造物をすべての真理に導き全うしたもう神である」という三位一体の神であるから、三位一体論――キリスト論が、神学的倫理学(特殊的倫理学)の認識原理である。したがって、神学的倫理学(特殊的倫理学)における神の戒めは、三位一体論――キリスト論に基づく、また隠蔽性と顕現性という啓示の弁証法に基づく、起源的な第一の存在の仕方である「創造者」(命令者)・第二の存在の仕方である「和解者」(命令者)・第三の存在の仕方である「救済者」(命令者)というわれわれのための神としての外在的な三つの存在の仕方における人間に対する神の戒めである。したがって、その神に対して「受身の客体としてある人間」であり、「神の相手にされる」ことにおいて「行動的主体」である人間は、この三位一体論――キリスト論に基づいて初めて、神学的倫理学(特殊的倫理学)を、その三つの形態において認識し把握することができるのである。したがってまた、「創造論」においてだけでなく、「和解論」においても、また未完に終わった「救済論」においても、神学的倫理学(特殊的倫理学)は存在するのである。神学的倫理学(特殊的倫理学)のこの全体性(総体性)が肝要なことなのである。したがってまた、バルトは、「神の言葉に聞く限り、創造者なる神は、和解者・救済者なる神と切り離しては認められない。その関係から切り離して創造思想をつくりあげ、それを、現実性を解明する鍵にしようとしたりする」場合には、「多くの『秩序の神学』の代表者らがしたように……(≪自然神学の段階における≫)虚偽の創造者に向かって歩むことになる」と述べたのである。したがってまた、現実性(「倫理的事件」・倫理的出来事の場所)と歴史(その事件・出来事の時間性)は、三位一体論――キリスト論を基軸として考えなければならないのである。すなわち、「神は創造者・和解者・救済者であり給う」ということに基づいて、「それに対応して人間も被造物・恵みの享受者・約束への参与者」として、われわれ人間の個と現存性――類と歴史性の「自己展開」をなすことができるのである。「この倫理的事件(≪論理的出来事≫)においては、それがいつ・どこにおいてであれ、神が、系統立てられ・また相違している行為をなし給うのであり、また人間が、それに対応して、この神に向かって系統立てられ、また相違している在り方をするのである」。これらのことを「理解することが、特殊倫理学(≪神学的倫理学≫)の課題である」。
さて、「神の戒めに直面する人間」は、第一に、「神の被造物また契約の相手」(神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという無神性・不信仰・真実の罪のただ中にある人間が生きるためにのみ神はその死を欲し給うのであるが、その神の戒めに対する答えに聴従しない罪人)であり、第二に、「恵まれている罪人」(その罪をもイエス・キリストはその死と復活の出来事において究極的包括的総体的永遠的に止揚し克服したのであるが、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストに対しても感謝をもって信頼し固執し固着しない罪人)であり、第三に、「現在においてすでに将来の永遠的なものを保証されている神の子」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的側面である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて信仰の認識としての神認識を、それ故にまた啓示認識・啓示信仰を、それ故にまた人間的主観に実現された神の恵みの出来事を、それ故にまた「すでに」と「いまだ」の終末論的信仰を与えられた神の子)である。したがって、この事柄は、神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」として客観的に存在している事柄であるから、「ある人が自分をもはやキリスト者であるとは考えられないような時においても、事情は変わらない」のである。したがってまた、「創造者・和解者・救済者」なる神は、生来的自然的には不信のただ中にある「信仰者(≪キリスト者≫)の神であるとともに、また不信仰者(≪不信仰者そのもの、非キリスト者≫)の神でもありたもう(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」は、不信・不信仰者・非キリスト者と信・信仰者・キリスト者を架橋する信である。したがって、バルトのギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」の属格の主格的属格理解は、神学における思想の問題、すなわち信と自らにもある不信を含めた不信を架橋する問題を、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという仕方で明確に提起することにおいて、解決したということができるのである。ここに、バルトが、神学における思想家であると言うことができる所以がある≫)。「人間が彼を知る・知らないによらず、人間はこの神によって、規定され・秩序づけられているのである」。この意味で、この事柄に基づく神学的倫理学(特殊的倫理学)は、「歴史への注解書」と言うことができる。言い換えれば、イエス・キリストにおける啓示の出来事の場所は、われわれ人間の個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである、それ故にまた自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>に過ぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。
さて、「具体的な神と具体的な人間との出会い」としての「倫理的事件」(倫理的出来事)は、そしてそのことに規定される神学的倫理学(特殊的倫理学)は、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事が、われわれ人間の、個と現存性――類と歴史性の結節点に「降下」してくる場所において「発見」され・「形成」され・「構成」される。何故ならば、ここで「現実性」は、神の側の真実としてある、「啓示の客観的現実性」そのもののことであるからである(この認識は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰からやってくるのである)。したがって、「啓示の客観的現実性」が、人間の個と現存性――類と歴史性の生誕から死までの総過程を見渡したり、「発見したり・構成したり・定義したり」することができる場所なのである。
『福音と律法』では、次のように言われている――「神の恩寵」(その死と復活の出来事におけるイエス・キリスト)が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、というキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の戒め・命令・要求・要請)が建てられる。何故ならば、この律法がなければ、われわれ人間は、現実的に福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」、「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。したがって、この神の律法は、われわれ人間がただの人間でしかない以上、「永遠のまことの神性」を本質とするイエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもないのである。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」(イエス・キリストにおける「律法の成就」・完了)から考えられなければならないから、第一に、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」この「神の義」そのものとしての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」にのみ信頼し固着するということであり、素直な感謝の応答であり、その告白・証し・宣べ伝えにあるのである、第二に、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ことにある、第三に「われわれの生命がキリストと共に保管されていることを承認し受け入れる」ことにある。したがって、これらの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。したがって、バルトは、イエス・キリストにおける啓示に関わることについて、自然的な信仰・神学・教会の宣教において為されているように「自分勝手に発見したり・構成したり・定義したりしてはならない」と言うのである。
さて、バルトは、「神の意志と戒めは(≪ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における三位一体の神のそれとして≫)常に一つであって、(≪また、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において≫)創造者・和解者・救済者としての業を行う」のであるから、その三位一体論――キリスト論に基づいて、諸区域・諸領域・諸関係(諸秩序)は、「可視的に」「規定される」と述べている。したがって、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比を通して、人間も、その三位一体論――キリスト論に基づいて、「三一の働きに対応しつつ」、「同一人でありながら多様の形式」を持って存在しているのであって、「同一人」として、対自性と対他性の構造を持ち、そして個・対・共同性という三つの存在様式を生きていると述べるのである。したがって、神の戒めも人間の行動(服従あるいは不服従)も、「神がそこで命じ給い・人間がそこで従ったり従わなかったりするところの」場所・現実性(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)を「無視して、これから遊離して起こることはない」と述べている。神学的倫理学(特殊的倫理学)の奉仕の課題は、「神の戒めとそれに対応する人間の行動についての指示に、いやます緊迫と責務の意識をもって迫って行こうとする運動にある」から、「神の戒めの内容と、人間の行動の善・悪について決定する」ことにあるのではなくて、前述したような「倫理的事件(≪倫理的出来事≫)の特別な真理の一般的形態を知ること」、この倫理的「事件が演じられる諸区域を知ること」にある。したがって、それは、審判・「究極の判断は神に任せられているのである」から、倫理的事件(倫理的出来事)についての「解答自体を・規定を・決定を与えない」のである。それは、「各人が神の戒めと良い人間的行動の認識に接近するように手引きを提供し、指図を・多くの指図をする」ことにある。したがって、神学的倫理学(特殊的倫理学)においては、自然神学の段階における神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象し、ただの人間の倫理学者が「神の座」において神の意志として立法する誤謬を持ち、また三位一体論――キリスト論的な現実性、諸区域・諸領域・諸関係・諸秩序に対する無自覚による「神の戒め」の「一般原則」化・「一般的真理の遵守」化を目指す「決疑論的倫理学」と、垂直線の観点だけで、垂直線と水平線とを交叉させる観点がない「点的倫理学」への退行・逆行はあり得ないのである。
「創造者なる神の戒めを理解することは、創造者なる神がまた人間に対する命令者でもあり給うことを理解することである」。「信仰箇条の第一項と第三項はただ第二項からだけ理解されるし、また第二項はただ第一項と第三項の前提と展開においてだけ理解される」――このことは、「神の戒めにも妥当する」。「創造者なる戒めに並んでさらに他の和解者なる神の戒めが、またさらに第三の救済者の戒めが存在するという」ことではない。すなわち、「神の戒めは、唯一の・全き神の全き戒め」(ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の戒め)である、しかしわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における父、子、聖霊という三つの存在の仕方におけるその「三つの領域を混同したり・混合したり・同一視」してはならず、「区別しなければならない」のである。したがって、「倫理的事件(≪倫理的出来事≫)において神が命令し人間が行動する」ということは、「この三つの領域」「すべてで常に一緒に起こることなのである」。したがってまた、「神の一つの戒め」を、「部分的」・区別的に、また「全体的」・単一的に、「創造者なる神の戒め」・「和解者なる神の戒め」・「救贖者なる神の戒め」として、認識し理解することができるのである。「創造者なる神の戒め」は、「永遠のまことの神性」を本質とする「イエス・キリストにおいて人間に対して恵み深くあり給うところの神」、それ故に「万物の創造者・万物の主であり給うところの神」――この神を「前提」とする「一つの戒め」であるが、すなわちご自身の中での神としての「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の「一つの戒め」であるが、しかしこの神の「一つの戒めであるだけでなく、また(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である≫)人間の創造者の戒め」でもあるのである。それは、「人間の聖化であるだけでなく」、「まさに人間の被造物的行為と行動の聖化でもある」。この神が、「人間に対して恵み深くありたもう方」として、人間へと向かうその三つの「存在の仕方」(業と働き)において、「創造者」であり、「和解者」であり、「救済者」である。
さて、バルトは、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す神学における、神の命令と人間の聖化が起こる「現実性」について、次のように根本的包括的に原理的に批判している――すなわち、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す神学は、神の命令と人間の聖化が起こる「現実性」を、「完全ではないが、なお充分な確かさと明らかさをもった」ところの神が創造した生来的な自然的な「各人の自然理性」の存在に置いており、この「現実性」によって、人間は「神の被造物であることを啓示」し、またこの「現実性」が「創造の秩序、あるいは多様な創造の諸秩序」として、神の命令に対して人間がそれに「対応する行為と行動」をなし得る「一つの基盤・舞台・枠のようなもの」として存在している、と。こうした考え方の「最も注意すべき代表者」は、E・ブルンナーである。何故ならば、ブルンナーは、このことは「自然的人間には、正しく知られず・信仰によってのみ初めて真実の意味で知られるもの」であると思惟し語るのであるが、彼にとっては「神の意志」は、人間の「罪によっておおわれて……いるが、……無くなってしまってはいない」のであって、「罪人や異邦人に対しても『行き渡っている(≪生来的な自然的な≫)普遍的道徳意識』」・「生命の律法」・「被造物に与えられている秩序」を通して、「人間に知らされ、『純粋に理性的な認識』の対象となって」いると述べているからである、またそれは、「キリスト者に命じられている『心からの兄弟愛』(≪「神の啓示により・信仰によって遂行されると称する愛の業」≫)の生活の枠をなしているものであるから、われわれはこれに『結合』しなければならない」、と述べているからである。このようなブルンナーの思惟と語りに対して、その思惟と語りは、三位一体論――キリスト論的なそれでないから、それを首肯することはできないと次のようにバルトは述べている――第一に、「創造の秩序」としての「漠然とした『現実性』」を基盤・舞台・枠組みとした神の命令とそれに対応する「人間的能力に対する安易な信頼」による人間の認識と行動というブルンナーの概念は、「啓示せられた神の言葉から遊離して」しまうから首肯することはできない、第二に、その創造の秩序の枠組みで「説かれている……神の戒めは、贖罪神の戒めと相違しているだけでなく、……分離して」おり、「イエス・キリストの福音による戒めと一つのもの」として「受け取られていない」から、それ故に「人間の聖化も行われない」から、首肯することはできない、第三に、「創造者と人間との関係」について、それは、「漠然とした『現実性』」という恣意的独断的な概念によって、人間に「内在的に存在し・また啓示されており」、それ故に生来的な自然的な「『普遍的道徳意識』によって認知されるところの『創造の秩序』」である、と言うのであるが、この場合、神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象してしまっているから首肯することはできない、換言すればブルンナーのその思惟と語りは、「信条(≪ニカイア・コンスタンティノポリス信条≫)の第一項」――すなわち、「我は信ず、唯一の神を……」を止揚し捨象してしまっているから首肯することはできない、と。このように、ブルンナーのそれは、「啓示をも信仰をも必要としない」、詳しく言えば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事も必要としない、「一般的な生活の法則または存在の法則といったようなものが、『現実性』の名のもとに示されているにしか過ぎない」のである、まさしく彼のそれは、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返している思惟と語りににしか過ぎないのである。このような訳で、バルトは、「漠然とした『現実性』」の概念を根本的包括的に原理的に批判して、「啓示された神の言葉自体」、「啓示ないし和解」そのものである「イエス・キリストにおいて人間(≪「全人間」≫)に対して恵み深くありたもうところの一つの神」を前提として、換言すればご自身の中での神としての「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――自己啓示する神として自分自身が根源である、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――父が根源である、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――父と子が根源である、「一人の同一の神」、「三位一体の神」を前提として、その「神の一つの戒めがまた(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である≫)人間(≪「全人間」≫)の創造者の戒めでもあり、それ故にまたまさに人間(≪「全人間」≫)の聖化」・「被造物的行為と行動の聖化でもある」、と述べたのである。もちろん、このことは、「我信ず」という「領域の秘密を真実に尊重」する「括弧の中において」見られることである、換言すれば「永遠のまことの神性」を本質とする客観的なイエス・キリストの啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で見られることである。このことから、次のように言うことができる――すなわち、イエス・キリストにある神の恵みは、「創造と創造者の戒め」を包含している、と。この「キリストにある恵み」(「赦罪・死人の復活・神の国の恵み」)が、「創造の認識根拠である」。すなわち、このキリストにある神の恵み(啓示)を「認識するとき」(あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で啓示認識・啓示信仰を授与される時)だけ、「われわれは創造とは何であるか、人間に対して立ち現われていたもう創造者はいかなる方であるか、この創造者の被造物であるとはいかなることか、を確かに認識する」ことができるのである。「創造者は、人間を、既存の形で召し給うのではなく、無から有へと・存在へと呼び出し、その意志のままに……真正の現実性を、与えたもうところの主・父・王であり給う」。また、「キリストにある恵み」(「赦罪・死人の復活・神の国の恵み」)は、「創造の実質根拠でもある」。「創造に先立ち、これを可能にし・必然的にしたところの神の永遠の聖旨は、まさに、イエス・キリストにおける人間の恵みの選び」――すなわち、それは、「人間に向かっての神の恵みの契約」であって、「これこそ創造の内的根拠である」。「予定説」は、「イエス・キリストにある救いの自由な表現」そのものである。したがって、われわれは、その復活に包括された「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方」であるから、「神の放棄」を、その「イエス・キリストの十字架」において認識することができるし、また「神の選び」を、その「イエス・キリストの復活」において認識することができるのである。「神はまさにこの選びと契約のゆえにこそ、天と地と人間とを造り給うたのである。神は一切をイエス・キリストにおいて造り給うた。すなわち、イエス・キリストこそ一切の創造の意義であり・意図であり」、「創造の内的根拠」である。したがって、創造は、「神的然りの形態」・「神の自由な恵みのみ業」(父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である。このことから、「人間に与えられた神の一つの戒めが、またその創造者の戒めでもある」という前提が得られる。神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象し恣意的独断的に考え出された「漠然とした『現実性』」という概念ではなく、客観的な「イエス・キリストにある神の恵みの現実性」という認識と概念を得られるのである。この場合、この「キリストにある恵み」・「福音の光と力」に包括された「創造の領域」において、人間に対する神の命令は、「人間の友人」・「いつくしむ者」として「命じたもうものに他ならない」。したがって、その神の命令に対する人間の行動も、「神の友」・「神のいつくしみの享受者」として、その神の命令に聴従し「行動することに他ならない」。このように、「創造における神と人間との関係は、……神の恵みと人間の感謝との一形態である」。
ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解」、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストこそが、「人間の主また審判者である」から、個体的自己としての全人間・その被造物的実存・その人間の被造物的行為と行動も包含した「キリストにある恵み」(「赦罪・死人の復活・神の国の恵み」)の下で、人間に対して与えられた神の戒めは、「その創造者の戒めとして、まさに人間の被造物的行為と行動の聖化でもある」。また、イエス・キリストにある神の恵みは、人間の被造物的存在の「認識根拠」であり「実質根拠」である。「人間とは、イエス・キリストにおいて神がこれに対して恵み深くありたもうところの実体である」、「この認識は、これらの諸仮説(≪芸術・医学・社会学・民俗学・諸科学等によって対象化された知識的な様々な人間的成果≫)の意味を無くさないだけでなく、これらを仮説としての正しい位置におく」のである。何故ならば、「真実の神が真実の人間の中に現在してい給う」からである、換言すればまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所は、われわれ人間の個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せる場所だからである。したがって、バルトは、「イエス・キリストの中に住みたもう神の栄光を認識(≪信仰≫)したものは、同時に、人間を――十字架の死にいたるまで自らを低くし・また神によって永遠にたかめられている人間を認識(≪信仰≫)するのである。これこそ真実の人間・人間自体であり、イエス・キリストにある神の人間に対する恵みの鏡によって知られるところのものである」と述べたのである。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、その外在的な存在の仕方においてその内在的な存在の本質である「永遠のまことの神性」の認識と信仰を要求する啓示なのである。
聖書によれば、人間であるとは「神の前で応答してゆくこと」である、この神に対する応答とは、神に聴従することである、それ故に「真実の人間」とは、この「応答の責任」において存在している人間のことである。ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である「創造者なる神の戒めが、人間に求める」ものは、「人間のすべての行動に共通」な、「深き」神の恵みであるキリストの死と復活の出来事における「人間の聖化」に基づく、それ故に神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下での「神の前での自由」、「神に対する自由」としての「応答の責任」である。この共通性において、例えば、神は人間に対して、「ただ時間全体だけでなく、一つの特別な時(≪人間に関わる時間の中断と神に関わる時間――すなわち「特別に神に所属」する時間・「安息日」・「主の日」・通俗的には日曜日≫)を要求し給う」のである。この「神への愛は一切の倫理性の根本」であるから、バルトは、「一体われわれは祝日をあらかじめ理解しないで、どうして仕事日や隣人愛を理解できようか」、「あらかじめ福音を聞くことなしに、どうして律法を聞き得ようか」、「あらかじめ神の戒めによって休み、神のみ顔を仰いで祝い・喜び・自由にされることなくして、どうして自分の仕事と対人関係の意義を見出せようか」、「祝日の戒めは、人に自分の仕事を休むという行為を命じ、福音にあずかる在り方をさせる。神の戒めは命令することにおいても福音(≪換言すれば神の戒め・律法・命令は、福音を内容とする福音の形式≫)なのである。そこからして人間の生活全体が始まり得る」、と述べたのである。したがって、バルトは、「神への愛と隣人への愛は、水流と河、木と実のような関係」にあるから、「神への愛によって義務づけられた人間への愛(≪隣人愛≫)の領域だけがある」と主張したブルンナーに対して、根本的包括的な原理的な批判を加えたのである。「神への愛と隣人への愛」は、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、第三の形態の神の言葉に属する教会(すべての成員)が、具体的にはそれ自身が聖霊自身の業である客観的に「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(ここで「隣人愛」は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法・戒め・命令・要求・要請――すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくという点にあるのである。
このような訳で、「神に対する正しい関係は隣人に対する正しい関係の基礎であり、根本であるということを、あまり分かりきったことと考えてはならない」のであり、また「人間への愛が増大していても、それがはたして神への愛から出て来たものであるかどうか」を吟味しなければならないのである。何故ならば、事実的にも、自由を原理とする西欧近代を人類史の頂点と考えたヘーゲルの『歴史哲学』におけるアフリカ的段階論に惑わされない限り、人類史におけるアフリカ的段階(日本で言えば縄文的段階、原日本・原日本人の段階、北米で言えば白人進出以前の二万年前から先住する北米インディアンの段階における内在的な精神を残していた日本のアイヌ人等)においては、例えば明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」、「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっと立派な生活を送っている」、「彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている」、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」という思惟と語りは、客観的な正当性と妥当性を持っているからである(イザベラ・バード『日本奥地紀行』金坂清則訳、平凡社)。阪神・淡路大震災の時、吉本隆明にわざわざ電話をして、「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、(≪全く責任のない一般の≫)職員を脅かした」ということを自慢げに話してきたある牧師に対して、吉本は、逆に「そんなの、ちっともよくない」と全面的に否定したのであるが、この牧師は、あの「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関においてでは全くなく、自分の恣意的独断的な善意に依拠した「隣人愛」から、そうしたに過ぎないのである、それ故に詩人であり文芸批評家であり思想家でもある吉本は、すぐに見抜いて、「そんなの、ちっともよくない」と全面的に否定したのである(『「ならずもの国家」異論』)。「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪対象化された恣意的独断的な彼の善意、恣意的独断的な彼の物語世界・意味世界≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえど のように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。
まことの神にしてまことの人間である「イエス・キリストにおける人間存在を通して知られる」「神の被造物としての人間」について、次のように言うことができる。
(1)人間は、「被造物の歴史(≪「個々の世代」、すなわち個体的自己の成果の世代的総和の「継起」、世代的総和の時間累積、時間性≫)の中における存在である」。そのような存在として「神によって選ばれ・召され」・また「自己を神の前で……示してゆく能力を与えられている」。
(2)人間は、「人間の我と人間の汝との出会いにおける」存在である。人間は、「連帯的人間的であることにおいて人間的であり、そのことにおいて、神の像である」。このことは、『バルトとの対話』では、「共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ」と語られている。また、『和解論T/1』では、「イエス・キリストにおいて客観的に起こった和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」。それだけでなく、「永遠のまことの神性」を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非知、非キリスト者、非キリスト教、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれている、と述べられている。
(3)個としての人間は、「神の霊によって、素材的有機体の霊魂、身体の霊魂」、「魂と体」、「身体的存在と理性的存在」との全体性・総体性において存在する。「救贖」――すなわち「完成」(終末、復活されたキリストの再臨)は、全的人間のそれであるから、「身体的復活」である。
(4)人間は、個としても、人間の類(人類)としても、終末論的希望の下で、生誕から死までという「時間的に限定づけられた存在」(有限なる存在)である。
人間の「被造物としての構造」は、「全くの罪人(≪――父なる神、創造主としての神に関わる≫)・恵まれた罪人(≪――子なる神、和解主としての神に関わる≫)・希望において神の子である者(≪――聖霊なる神、救済主としての神に関わる≫)」である。したがって、「啓示と信仰の秘密において」――すなわち「イエス・キリストにある神の恵みが、そのみ言によってわれわれに啓示されたもの」であり、それ故にその客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識として認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠した、その信仰の類比を通した「創造の秩序」は、「一般に」、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す「人々が他の所で」、神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象し、恣意的独断的に「『創造の秩序』と呼びならわしているもの」とは根本的包括的に原理的に異なっているものであり、それ故にそれは首肯することができないものであり、「和解し得ぬものである」。