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カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述13)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述13)
神学の道(1)
 「intelligere知解スルことという動詞の文字通りの意味」――すなわち「intus legere〔内部ニ立チ入ッテ読ムコト〕をどこかで想起することが適切であるとすれば」、アンセルムスにおいて「intelligere知解スルこと」は、「原則的に、legere読ムことを、すなわちCredo(≪あの<客観的>に可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の中であらかじめ語れていることを(≪後続して≫)後から考えることを意味している」、例えば「神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理」であり、それ故に「教会の宣教の批判と訂正」の原理・規準・法廷・審判者・支配者である「三位一体論」のように。言い換えれば、「intelligere知解スルこと」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり<客観的>に可視的に存在している啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(これは、取りも直さず起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリストをのみ主・頭とするキリスト教に<固有>な類であり、その時間性としての歴史性である)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉――すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの)、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての聖書的啓示証言を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で構成された第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のCredo(教会の<客観的>な信仰告白および教義)の中で、「あらかじめ語られていることを(≪後続して≫)後から考えることを意味している」、「あらかじめ語られていること」を終末論的限界の下で絶えず繰り返しそれを媒介・反復するということを意味している。この根拠は、次の点にある――<先行>する神の用意に包摂された<後続>する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないという点にある。イエス・キリストにおけるキリストにあっての神の自己啓示には、その啓示に固有な証明能力が、キリストの霊である聖霊の証しの力が、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動が、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力があると言わなければならないという点にある。したがって、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、「解釈するとは、(≪あの「神の言葉の三形態」の関係と構造、すなわちその秩序性に信頼し固執し連帯して≫)別の言葉で同一のことを言うことである」と言わなければならないという点にある。したがってまた、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての教会教義学(神学)におけるその思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故に教会の宣教、その一つの機能としての教会教義学(神学)は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者である、あの<客観的>に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(言わば、キリスト教に<固有>な類と歴史性)によって、われわれ人間の恣意性・独断性・独善性は、排除されているのである。このことを、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、アンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを「人は合理主義だと批判した」、しかしアンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」、すなわちアンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、「啓示から得られた認識」(その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての聖書的啓示証言、もっと言えばこの聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義)としてのイエス・キリストの「実在から啓示認識の可能性について考えた」のである。啓示の「真理を知るようになりつつ、さらに真理を肯定することの中で、intelligere知解スルことは、ただ単にcredere信ジルこと(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoを信ジルこと、「Credoを信じる信仰自身」、「素朴な形でのintelligere知解スルこと」、正しい個人的な服従信仰≫)と同時に起こるというだけでなく、intelligere知解スルことは、それ自体credere信ジルことであるし、あり続ける」。「しかし、intelligere知解スルことは、あらかじめ語られたことの中で内部で読む、(≪後続して≫)後から考えること」、「あらかじめ語られたこと」を終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復して考えること、「換言すれば(≪啓示の≫)真理を、自分のものとしながら」、「知識として受け取ることと肯定することの間にひろがっている道程を実際に通り抜け」、「今やまた……(≪啓示の≫)真理を(≪啓示の≫)真理として理解することを意味している」。「credere信ジルこととこの本来的なintelligere知解スルこと」は、「ただ単に概念的に区別されなければならないだけでなく、実践的にも一致しないものであって、信仰者は、intellectus fidei信仰ノ知解(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)をそのまま単純に、すなわち自動的に手に入れられるわけではないのである」。言い換えれば、信仰者は、intellectus fidei信仰ノ知解(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)を手に入れるためには、あのそれ自身が聖霊の業であり<客観的>に可視的に存在している啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその第二の形態の神の言葉(預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言)およびそれに信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である「教会の啓示されたCredo」(教会の<客観的>な信仰告白および教義)に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、換言すればそれらを終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復するという仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、力を尽くして理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。この時、その「信仰ノ知解」は、「単なる知識」とは区別されたそれである。『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、バルトは、「単なる知識」と「認識」(信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰)とを厳密に区別している、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、イエス・キリストにおけるキリストにあっての神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわちあの啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執する「認識」・信仰、信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰である、その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである、したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、あの啓示の「概念の実在」ではない、何故ならばキリストにあっての神の言葉は、「人間の現実存在の内部」、人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないからである、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」からである、われわれ人間は生来的なそれ自身としての「『自分の理性や力(≪意志、感情、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』全く信じることはできない……」からである(『福音主義神学入門』)、キリストにあっての神の言葉は、あくまでもあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、その隠蔽と顕現において、「われわれのところに来る」のである。このような訳で、アンセルムスの「intelligere知解スルことが、深められた形のものであるとはいえ根本的にはlegere読ムことということでしかないということ」――この「点が、アンセルムスとその時代の『自由主義』神学者とを区別している点であり」、またアンセルムスの「それが深められたlegereであり」、「intus legere(中で内部で読むこと)であり」、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり<客観的>に可視的に存在している啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)、もっと言えばそれからそれに信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義の「中で内部で読むこと」(それに終末論的限界の下で絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方で読むこと)であり、それ故にそれに後続して「後から(後に続いて)考えてゆくことであるということが、同じように明確に、アンセルムスとその時代の『積極主義者たち』、伝統主義者たちとを区別している点である」。イエス・キリストにおいて「啓示された真理は、いわば(われわれから見て)内的なテキストを持っている」、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト)を持っている。この「内的なテキストは、もちろん(われわれから見て)外的なテキスト」(イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)が、「その権威のある主張から見ても、われわれの信仰という点から見ても」、啓示の「真理であるということ以外のことを語っておらず、またその内的なテキストは外的なテキスト以外のところで見出されることもないのであるが」、「しかもそれでいて、ここで外的なテキストを聞き・読み取ることはそのまま内的なテキストを聞き・読み取ることになるということでは決してなく」、「特別な意志と特別な行為によって、なかんずく特に決定的なこととして、特別な恵みによって」、換言すれば全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下において、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二形態の神の言葉である「外的なテキストの中で尋ね求められ・見出されなければならないのである」。このような訳、もっと言えば、聖書およびその聖書に信頼し固守し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義の中で「尋ね求められ・見出されなければならないのである」。第二の形態の神の言葉である「聖書(≪その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)は、もちろん、完全ナ真理ヲイワバ確固トシタ基盤トシテ、ソノ上ニ建テラレテイル。そして、この聖書の『基盤』(≪啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの≫)がわれわれに対して信仰(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰≫)の中で啓示されるのである」。「まさに、聖書の基盤がそのように啓示される時」、「それは、われわれの知解にとって問題となり」、「われわれは、啓示されたものと信じられたものを」、「『自分自身』の限界の内部で、それ故に『いくらかでも』、神ノ援ケニヨッテイクラカナリトモ瞑想シテキタ……真理ヲ」、「洞察すべき課題の前に置かれるのである」。したがって、「ただ単に客観的真理そのものだけではなく、またわれわれによって洞察されるべきその内的な意味、根拠、関連性も、聖書が語っていることは、それが語っている通りのものであるということを証しすべきなのである」――「……個々ノ研究ヲ通シテ達シタ結論ハドレモ……、ソレハ推理ノ必然性ガ簡潔ニ要求シ、真理ノ明晰性ガ明ラカニ証明スルモノデアルコトヲ表示シテホシイトシタ」「……推理ト真理ニヨッテ証明スル」。イエス・キリストにおけるキリストにあっての神の啓示は、その啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与えることができる授与能力を持っている、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「聖書は神の言葉となるところで、聖書は神の言葉なのである」。このような「聖書への絶対的信頼」に基づく『説教の本質と実際』)これらの事柄が肝要なことである、それだけでなくわれわれ人間に対して、三位一体の神の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業である<客観的>に可視的に存在している啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)が与えられているのであるから、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学は、起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身、「イエス・キリストの名」)、その第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な最初の、啓示の「概念の実在」、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言、「イエス・キリストの名」の「概念の実在」)を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を、<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に分離してはおらず、それ故にイエス・キリストにおいて律法は、キリストの福音を内容とする福音の形式である――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわち<純粋>なキリストにあっての神・<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関の歩みが課せられているのである。