カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

10.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

10.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。
この知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

(6)第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教の一つの機能としての「すべての神学的な言説の具体的な標準」は、「それらの言説の創始者および彼の聞き手のところで」、また「対話仲間と読者のところで下される標準ではない」、またそれらが「神学的な言説の特殊な認識<価値>」を「確定させる……標準」ではない。何故ならば、もしそうだとしたら、例えば、前期ハイデッガーの哲学原理に「新約聖書の釈義に役立つ新しい鍵」を見出しそれを第一次化したブルトマンやその学派のように、バルトが第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として神学的に根本的包括的な原理的な批判をする前に(『ルドルフ・ブルトマン』)、後期に包括された前期と後期の全体性・総体性を生き思惟したハイデッガー(後期ハイデッガーの転回)による、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」という客観的な正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的な「揶揄」・批判によって、その神学は成立根拠を喪失し一巻の終わりとなってしまうことになるからである。このような訳で、「特定の学問的な考察の……知解スルintelligereことにおける進歩」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした学問的成果を否定的にあるいは肯定的に媒介・反復することを通して、キリスト教に固有な類を深化し豊富化させていくという意味での「進歩」である。したがって、それは、「単に(≪一般的な≫)学問的な確実さ」とは質が違うものである。したがってまた、その「神学的な言説の特殊な認識<価値>」の確定は、われわれにとっては、復活されたキリストの再臨、終末、「完成」の時までは、徹頭徹尾「最後法廷的には、当然のことながら……」、「自ら真理であり給う(≪キリストにあっての≫)神……の中に、隠されており、あくまで隠され続けている」(Tコリント13・8以下)

 

 このような訳であるから、すべての神学的な言説は、「最上の場合においても、人間的な賛同を……見出すことができるだけである……」。「しかし、少なくとも神学作業が信頼に値するもの(≪「認識価値」のあるもの≫)であるか、信頼に値しないもの(≪「認識価値」のないもの≫)であるかについて決定する一つの標準がある」――その「標準」は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書……の本文である」。「アンセルムスによれば、……Credoの根本要素」――すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義の根本要素と「credere(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)を信ジルこと、「Credoを信じる信仰自身」≫)が、それ故に知解スルintelligereことが関わっている根本要素を形造っている聖書の本文である」。このように、「聖書がそこでの決定的な源泉であることによって、同時に聖書はまた、知解スルintelligereことの決定的な標準であり、理性的結論デアル真理ノタメノ権威である」。このように、聖書は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学的言説における原理・規準・法廷・審判者・支配者であるから、それ故に「神学的学問」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義に対して「責任を持たなければならない」――「『神ハナゼ人間トナラレタカ』の中で、……対話相手であるボゾが、……教会的な権威(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)を代表していることに注目されなければならない」、それ故に「神学的学問」は、その教会の<客観的>な信仰告白および教義に対しても「責任を持たなければならない」。

 

 「アンセルムスの規則は、……次のようなものである」――ある「命題が、聖書の本文とあるいはその直接的な結果と一致する時には、その命題は確かに絶対的な確実性をもって妥当するのであるが」、「この一致の中では、まだ本来的に(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての≫)神学的な言説ではない」。「それに対して」、ある神学的な「言説が、本来的に神学的な……命題であるならば」、「換言すれば聖書の本文に対して独立的に形成された命題」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした自らの神学的立場、神学的な言説、概念規定、概念構成であるならば、「その時」、「それが聖書に矛盾しないという事実」が、その神学的な「言説が信頼に値していることについて決定する……」、ちょうどバルトにおける神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等)――すなわち、「イエス・キリストが信じる信仰」による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(救済概念に包括された平和)としての、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした<非>自然神学の段階へと移行したところでの自らの神学的立場、神学的な言説、概念規定、概念構成がそうであるように。このようにして、「独立的に形成された」自らの神学的立場、神学的な言説、概念規定、概念構成は、「聖書に矛盾しないという事実」が、その神学的な「言説が信頼に値していることについて決定する」のである。したがって、「独立的に形成された」神学的な「言説が、聖書に矛盾しているという事実」は、それが「どんなに輝かしい基礎づけがそこにあるとしても、……信頼に値しないものであることについて決定する」のである、ちょうど例えば先に述べたブルトマンの神学的立場、神学的な言説、概念規定、概念構成がそうであったように――「私タチガ理性ニヨッテ表明スルコトデ、時ニ聖書ノ言葉ヲモッテ明ラカニ示スコトモ、ソノ言葉カラ立証スルコトモ出来ナイコトガアルトシテモ、ソノ見解ヲ受ケ容レルベキカ、拒否スベキカハ次ノヨウニ聖書ヲ通シテ知ルコトガ出来ル。スナワチ、モシコノ見解ガ明白ナ理性ニヨルモノデ、聖書ノドノヨウナ部分トモ矛盾シナイナラ――聖書ハドノヨウナ真理ニ反スルコトモナイヨウニ、ドノヨウナ虚偽ヲモ支持スルコトハナイカラデアル――、理性ノ表明シテイルコトヲ聖書ガ否定シテイナイトイウ事実カラ、ソレハ聖書ノ権威ニヨッテ受ケ容レラレテイル。シカシ、タトエ私タチニハ私タチノ理性ガ批判ノ余地ノナイモノト見エテモ、私タチノ理解ガ疑イモナク聖書ニ反スルモノナラ、ソレハドノヨウナ真理ノ支持モ得テイナイモノト信ジナケレバナラナイ」、「モシ私ガ聖書ニ疑イモナク反スルコトヲ何カ言エバ、ソレガ誤リデアルコトハ確実ダシ、マタソノコトニ気ヅイタナラ、ソレヲ固執シタイトハ思ワナイ」(人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、自然的な生来的な「『理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした禅的修行等々≫)によっては』――全く信じることができない」から、聖霊とは決して同一ではないところの聖霊によって更新された理性を必要とするのであるが、その更新された「理性ノ表明シテイルコトヲ聖書ガ否定シテイナイトイウ事実カラ、ソレハ聖書ノ権威ニヨッテ受ケ容レラレテイル」、したがって、「タトエ私タチニハ私タチノ理性ガ批判ノ余地ノナイモノト見エテモ、私タチノ理解ガ疑イモナク聖書ニ反スルモノナラ、ソレハドノヨウナ真理ノ支持モ得テイナイモノト信ジナケレバナラナイ」、「モシ私ガ聖書ニ疑イモナク反スルコトヲ何カ言エバ、ソレガ誤リデアルコトハ確実ダシ、マタソノコトニ気ヅイタナラ、ソレヲ固執シタイトハ思ワナイ」)。