カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

9.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

9.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

(5)教会の宣教の一つの機能としての「神学的な学問の、全線にわたって可能な、……また必然的な進歩がある」。しかし、アンセルムスは、「同時に、権威(下記の【注】を参照)である教会教父たち」の「信仰の知解の探求」における成果(それが良きものであれ悪しきものであれ)に関して、「人は彼らの作業の結果」・「信仰の知解の探求」における成果(それが良きものであれ悪しきものであれ)のところに「立ち続けなければならないことはないし、また立ち続けることはゆるされない」と語っている。何故ならば、第一に、教会教父たちの思惟と語りは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会におけるそれであるからである。言い換えれば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(そのすべての成員)の宣教は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての、内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を、それと共に具体的には教会に宣教を義務づけている第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないからである(ここで、「隣人愛」は、<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請である。イエス・キリストにおいては、福音と律法は二元論的に対立してはおらず、律法は、<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式である)。第二に、「客観的な(≪啓示の≫)真理ノ根拠」は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会に対して、世の終りまで(≪教会の主・頭として≫)教会と共にいることを約束された主が、その恵みを教会の中で分与することをやめ給わないであろうことが確かである限り」「包括的である」から、たかだか百年の生涯を生きる人間の生における、またその「人間的な把握力」における、また「知解スルintelligereことの諸可能性」における「彼らの命題でもって尽くされる」ことはできないし、彼らの思惟と語りに拘束されてしまうことはないからである――このことは、「教会教父たちの神学について妥当するだけでなく」、それ以降の「すべての神学についても妥当するということは、明らかである」からである。第三に、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力を持っている」からである、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えることができる授与能力を持っているからである、その結果としての「啓示されてあること」を――すなわち聖霊自身の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っているからである。したがって、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、神学も人間の自己意識・理性・思惟を使っての知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)ことは明らかである。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の「聖教父オヨビ博士タチノ多クハ、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)使徒タチニ従イ、私タチノ信仰ノ根拠ニツイテ多クノ強力ナ論述ヲシテオリマス。ソシテ、ソノ真理ノ瞑想ニオイテ彼ラニ等シイ人タチヲ見イダスコトハ、現代モ将来モ望ミ得マセン。一方、堅固ナ信仰ノ持チ主ガソノ根拠ノ発見ニ努力スルコトヲ望ムトシテモ、決シテ彼ハ非難ヲ受ケルベキデハナイト私ハ考エマス。ソモソモ、『人ノ一生ハ短ク』(ヨブ一四・五)、コレラノ教父、博士タチニシテモ、イッソウ長イ人生ヲ与エラレタナラバ発見出来タコトモスベテ言イ尽クスコトハ出来マセンデシタ。マタ(≪啓示の≫)真理ノ根拠ハ広大、奥妙デ、死スベキ運命ニアル者ノ知リツクスコトノ不可能ナコトデス。サラニ、主ハ『コノ世ノ終リマデ』共ニオラレルコトヲ約束ナサッタ教会ニ、ソノ恩寵ノ賜物ヲ変ワラズ与エ続ケテオラレマス」。

 

【注】第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会における「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」は、内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身、この「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性とによって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)の「権威」・「自由」に基礎づけられているところの「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、徹頭徹尾「限界づけ」られている。したがって、この「限界づけ」を認識し自覚していない神学者、それに類する者は、すなわちその「限界づけ」から逸脱して「自分で(≪自分には≫)それ以上」の「権威」・「自由」やそれに基づいた神学的知識があると自惚れている者は「愚か者」でしかないのである。

 

 さて、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたアンセルムスは、「人間の精神に対して決定的に(あるいは少なくとも此岸においては決定的に)閉ざされたままであり続けなければならない」啓示の「真理のあれらのヨリ深遠ナ、マタヨリ多クノ根拠が存在していることについて知っているだけでなく」、「現在は隠されているが、しかしそれ自体は接近することができ、将来においてなお見出されるべき根拠について知っている」。したがって、「アンセルムスが学問の内部での運動を、事実、その都度、一つの根拠からもう一つのより高度な根拠への上昇として理解しようとした限り」、アンセルムスは、「神学的な進歩という考え」を持っていたと言うことは「適切なことである」。言い換えれば、アンセルムスは、あくまでも終末論的限界の下ではあるが、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の中におけるキリスト教に固有な類の深化および豊富化の時間累積という考えを持っていたのである。すなわち、アンセルムスは、教会の宣教の一つの機能としての神学的「学問の内部での運動」を、「一つの根拠からもう一つのより高度な根拠」へと上昇(深化、豊富化、高次化)していく過程に置いていたのである。アンセルムスの「学問的な自己意識がおそらく最高潮に達した」ところでの、「神ハナゼ人間トナラレタカのはじめの数章」で(受肉は、その存在の本質である「神性」の受肉ではなく、その存在の仕方である「言葉」の受肉である)、アンセルムスは、「モシ無償デ受ケタモノヲ人ニ喜ンデ分ケ与エラレレバ、先生ガマダ到達シテオラレナイ高キモノヲ受ケルニ値スルノデスカラ、神ノ恵ミニ期待ナサルベキデス」という考えに「場を与えている」。この時、「その都度、……(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の≫)歴史的な時間の中で遂行された(≪神学的な≫)進歩というもの」が、「神学者の恣意の手にゆだねられているのではなく」、「われわれにとってその都度、何を知解することがよいことであるのかをよく知り給う神の知恵によって条件づけられているということが、よく注意されなければならない」、啓示自身が持っている啓示の固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)――具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とするということに「条件づけられているということが、よく注意されなければならない」。「私ニ有益トオ考エニナラレルコトダケ、私ガ理解スルヨウニ計ラッテクダサイ」。何故ならば、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」からである、それ故に全く人間的な教会の宣教、その思惟と語りと行動、その一つの機能としての神学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」からである。アンセルムスにとって、前述したような意味での「神学の完全性」が、「同時に、原動力と留保を意味していることは見紛うべくもないことである」――「モシ貴君ノ質問ニ私ガアル程度満足ノイクヨウニ答エルコトガ出来タトシテモ、私ヨリ賢明ナ人ナラ、ヨリ以上ニ貴君ノ意ニ沿ウコトガ出来タデアロウコトハ確カデアル。サラニコノヨウニ重要ナ問題ニツイテハ、人間ガ何ヲ言ウコトガ出来タトシテモ、ソレヨリモ深遠ナ根拠ガ秘メラレテイルコトヲ知ラナケレバナラナイ」。