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カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述14)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述14)
神学の道(2)
 先ず論述13を整理すれば――
 「intelligere知解スルことという動詞の文字通りの意味」――すなわち「intus legere〔内部ニ立チ入ッテ読ムこと〕をどこかで想起することが適切であるとすれば」、アンセルムスにおいて「intelligere知解スルこと」は、「原則的に、legere読ムことを、すなわちCredo(≪あの<客観的>に可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の中であらかじめ語れていることを(≪後続して≫)後から考えることを意味している」。
 イエス・キリストにおけるキリストにあっての神の啓示の「真理を知るようになりつつ、さらに真理を肯定することの中で、intelligere知解スルこと」は、「ただ単にcredere信ジルこと(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoを信ジルこと、「Credoを信じる信仰自身」、「素朴な形でのintelligere知解スルこと」、正しい個人的な服従信仰≫)と同時に起こるというだけでなく」、「intelligere知解スルこと」は、「それ自体credere信ジルことであるし、あり続ける」。「しかし、intelligere知解スルこと」は、「あらかじめ語られたことの中で内部で読む、(≪後続して≫)後から考えること」、「あらかじめ語られたこと」を終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復して考えること、「換言すれば(≪啓示の≫)真理を、自分のものとしながら」、「知識として受け取ることと肯定することの間にひろがっている道程を実際に通り抜け」、「今やまた……(≪啓示の≫)真理を(≪啓示の≫)真理として理解することを意味している」。
 「credere信ジルこととこの本来的なintelligere知解スルこと」は、「ただ単に概念的に区別されなければならないだけでなく、実践的にも一致しないものであって、信仰者は、intellectus fidei信仰ノ知解(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)をそのまま単純に、すなわち自動的に手に入れられるわけではないのである」。言い換えれば、信仰者は、intellectus fidei信仰ノ知解(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)を手に入れるためには、あのそれ自身が聖霊の業であり<客観的>に可視的に存在している啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその第二の形態の神の言葉(預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言)およびそれに信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である「教会の啓示されたCredo」(教会の<客観的>な信仰告白および教義)に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、換言すればそれらを終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復するという仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、力を尽くして理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。
 このような訳で、アンセルムスの「intelligere知解スルことが、深められた形のものであるとはいえ根本的にはlegere読ムことということでしかないということ」――この「点が、アンセルムスとその時代の『自由主義』神学者とを区別している点であり」、またアンセルムスの「それが深められたlegereであり」、「intus legere(中で内部で読むこと)であり」、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり<客観的>に可視的に存在している啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)、もっと言えばそれからそれに信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義の「中で内部で読むこと」(それに終末論的限界の下で絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方で読むこと)であり、それ故にそれに後続して「後から(後に続いて)考えてゆくことであるということが、同じように明確に、アンセルムスとその時代の『積極主義者たち』、伝統主義者たちとを区別している点である」。
 イエス・キリストにおけるキリストにあっての神の「啓示された真理は、いわば(われわれから見て)内的なテキストを持っている」、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身)を持っている。この「内的なテキストは、もちろん(われわれから見て)外的なテキスト」(イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)が、「その権威のある主張から見ても、われわれの信仰という点から見ても」、啓示の「真理であるということ以外のことを語っておらず、またその内的なテキストは、外的なテキスト以外のところで見出されることもないのであるが」、「しかもそれでいて、ここで外的なテキストを聞き・読み取ることはそのまま内的なテキストを聞き・読み取ることになるということでは決してなく」、「特別な意志と特別な行為によって、なかんずく特に決定的なこととして、特別な恵みによって」、換言すれば全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下において、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二形態の神の言葉である「外的なテキストの中で尋ね求められ・見出されなければならないのである」。このような訳、もっと言えば、聖書およびその聖書に信頼し固守し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義の中で「尋ね求められ・見出されなければならないのである」。第二の形態の神の言葉である「聖書(≪その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)は、もちろん、完全ナ真理ヲイワバ確固トシタ基盤トシテ、ソノ上ニ建テラレテイル。そして、この聖書の『基盤』(≪啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの≫)がわれわれに対して信仰(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰≫)の中で啓示されるのである」。
 「まさに、聖書の基盤がそのように啓示される時」、「それは、われわれの知解にとって問題となり」、「われわれは、啓示されたものと信じられたものを」、「『自分自身』の限界の内部で、それ故に『いくらかでも』、神ノ援ケニヨッテイクラカナリトモ瞑想シテキタ……真理ヲ」、「洞察すべき課題の前に置かれるのである」。したがって、「ただ単に客観的真理そのものだけではなく、またわれわれによって洞察されるべきその内的な意味、根拠、関連性も、聖書が語っていることは、それが語っている通りのものであるということを証しすべきなのである」。イエス・キリストにおけるキリストにあっての神の自己啓示・自己顕現は、その啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与えることができる授与能力を持っている、このような訳で全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「聖書は神の言葉となるところで、聖書は神の言葉なのである」。このような「聖書への絶対的信頼」に基づく『説教の本質と実際』)これらの事柄が肝要なことである、それだけでなくわれわれ人間に対して、三位一体の神の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業である<客観的>に可視的に存在している啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)が与えられているのであるから、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学、そこにおける思惟と語りと行動は、起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身、「イエス・キリストの名」)、その第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な最初の、啓示の「概念の実在」、「イエス・キリストの名」の「概念の実在」、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言、)を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を、<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に分離してはおらず、それ故にイエス・キリストにおいて律法は、キリストの福音を内容とする福音の形式である――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である、すなわち<純粋>なキリストにあっての神・<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)という連関の歩みが課せられているのである。

 

 このような訳で、「intelligere知解スル(理解スル)こと」は、「決してperspicere〔瞑想スルこと〕ではないであろうから」、「われわれが、信仰命題を基礎づけるために、その内容を確証している聖書の言葉を思い出すことから成り立っていることはあり得ない」。「そのようなことは、……欠かすことができないintelligere知解スル(理解する)ことの前提に、信じるところのlegere読ムことに立ち帰ることを意味するであろう」――「アンセルムスは、神学者として……立証スルトイウヨリモ、貴君ト共ニ探究シようと欲する」。「不信者たちの抗弁と嘲笑、また信じるキリスト者たちも持っている不確かさ(≪何故ならば、イエス・キリストにおいて自己啓示されたキリストにあっての神は、聖性・隠蔽性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているからである。言い換えれば、われわれは教会論的なキリスト教的人間であれ・誰であれ、神の不把握性の下に置かれている、終末論的限界の下に置かれている、Tコリント13・8以下≫)、教養のある者と教養のない者たち」が――すなわち「異教徒タチハキリスト教ノ信仰ノ単純サヲ狂気ザタトシテ愚弄シ、コノ質問ヲ私タチニ浴ビセカケ、マタ信者ノ多クモ心ノウチデソノコトニ思イヲメグラシテキタ。……コノ問題ニツイテハ、有識者ノミデナク、多クノ無学ナ者モ尋ネ、ソノ理由ヲ求メテイル」そういう「教養のある者と教養のない者たち」が、第二の形態の神の言葉である「聖書と(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義としての≫)Credoの本文に対して問うもろもろの問い」は、「啓示の内的なテキストと外的なテキスト」というものが、「われわれ人間にとって、いずれにしても一つではないということ、それらのテキストの意味、根拠、関連性は、それらと共にそれらのテキストの真理は、われわれによって、いずれにしてもそのままただ読み取られることはできないのであって、むしろわれわれとって、広い範囲にわたって闇の中に閉ざされており」、それ故に「特別な、読むことを超え出ている運動でもって(≪啓示の内的なテキスト、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)把握されなければならないということを示している」。全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)としての「信仰の中で自分のものとされた言葉」は、「確かに、……単なる理解ノウチニアルモノヲ意味スル言葉としても、それ自身、意味、根拠、関連性に満ちた祝福を与える全き真理である」。それは、「まさにそのようなものとして……われわれによって把握されることを欲している」――「ソレ故ニ、彼ハ、非常ニ熱心ニ心ヲコノコトニ向ケタノデ、(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)彼ノ信仰ニ基ヅイテ、精神的理性ヲモッテ、(≪第二の形態の神の言葉である≫)聖書ノ中デ、暗闇ニ覆ワレテ隠サレテイルノヲ感ジル多クノモノヲ(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)理解スルコトガデキタ」。このような訳で、「『聖書的根拠』を断言的に引用してくることは、確かに問題をもう一度立てるであろうが、しかし問題と取り組むに当たって何も貢献しないであろう」。何故ならば、問題は、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としての神学(教会教義学)にとっては、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを起源的な第一の形態の神の言葉とするキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの、それ故に具体的にはその最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が、<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関が重要だからである。このことを、「アンセルムスによって鮮明に強調された方法論的な原則」、すなわちintelligere知解スルこととprobare証明スルことが問題である時には聖書の権威を引き合いに出すことでもって作業が為されてはならないという原則が語っている」――「ソコデ(スナワチ黙想ニオイテ)行ナウ証明ハドノヨウナ事モ聖書ノ権威ニ全ク頼ラズ、……証明スル」、「ドウセコノ人間ハ聖書ヲ信ジテイナイカ、曲解シテイルノダカラ、聖書ノ権威ヲモッテ彼ニ答エテハナラナイノデス」、「……私タチガ信ジテイルコトハ、聖書ノ権威ヲ借リズニ、……証明サレ得ルトイウコトデシタ」。「この原則の特別な適用」は、「多くの異議が唱えられた規則……の下にアンセルムスはその著書『神ハナゼ人間トナラレタカ』の中で自分の身を置いた規則」、「すなわちこのキリスト論的な詳論においては、キリストニ全ク何事モ起コラナカッタカノヨウニ彼ヲ括弧ノウチニ入レ……キリストニツイテ……何事モ知ラレテイナイコトトシテ、議論が展開されるべきであるという規則」にある――「……受肉……ハ全クナカッタモノト仮定シヨウ」、「私タチハキリストトキリスト教信仰ガ全ク存在シナカッタモノト仮定シタ」、「彼ニツイテ、コレマデノヨウニ全ク存在シナカッタトシテ……」、「……先験的ニ……」。しかし、これらのことは、アンセルムスが、「信仰ノ知解(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)を尋ね求めるために、そもそも聖書(≪第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)の内容を知ることなしに、(≪それ故に≫)白紙で、Credo(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)を、(≪生来的な人間的理性によって≫)ほかのところで得られた認識の諸要素から再構成するために、彼の考えの源泉および標準(≪原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)としての聖書を用いないことにしたということを意味してはいない」。このような訳で、「一義的に、……聖書(≪第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)とCredo(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)は、アンセルムスのところでは、……一瞬間たりとも彼の前提および対象であることをやめてしまうわけではなくて」、「ただ彼が……それに対し学問的に(≪下記の【注】を参照。教会の宣教における教会の一つの機能としての学問としての神学として≫)答える」べき「特別な問題に際しては、その答えを、聖書の、すなわちCredoの諸命題から引き出してき、それの権威でもって基礎づけることを……やめようとしているだけであるということが結果として生じてくる」、換言すれば一義的にはあくまでも第二の形態の神の言葉である聖書およびそれに信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会のCredoに「『このように書かれている』ということを舞台に登場させ、……朗読されたことが熟慮され・理解されることを欲している」ところで、「学問的に(≪教会の宣教の一つの機能としての学問としての神学として≫)答える」べき「特別な問題に際しては」、聖書の、すなわちCredoの諸命題から引き出してき、それの権威でもって基礎づけることを……やめようとしているだけであるということが結果として生じてくる」――したがって、アンセルムスは、「聖霊の発出についてのローマ・カトリックの教えを、(≪第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての≫)聖書ト(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の≫)聖ナル父タチノ無数ノ証明ヲ用イ」ずに、すなわち「まさに、ほとんど引用を用いることなしにことを処理し、済ませる(≪教会の宣教の一つの機能としての≫)神学的(≪学問的な≫)な記述の仕方の巨匠なのである」。このような訳で、アンセルムスの「方法論的な定式」は、形而上学的に一面だけを固定的に抽象して理解したり、一面だけを拡大鏡にかけて全体化して理解してはならず、その総体性において理解すべきものである。
 バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』や『バルトとの対話』において、次のように述べている―――アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は合理主義だと批判した。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、教会の宣教の一つの機能としての学問としての神学を一般的真理としてではなく、「啓示から得られた認識」、それ故に具体的には聖書(≪第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)とCredo(≪聖書に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)としてのイエス・キリストの「実在から」啓示認識の可能性について考えたのである。このような訳で、われわれは、「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」また「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、と言わざるを得ないのである。このような訳でまた、われわれは、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、(≪教会の宣教の一つの機能としての学問としての≫)神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、教会の宣教一つの機能としての学問としての神学も人間的な理性的な知的営為ではあるが、その「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と言わざるを得ないのである。

 

【注】
 バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわちそういう仕方でインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」、「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示・和解に感謝を持って信頼し固執し固着する「認識」・信仰(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)である。その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化、「最高存在」・「最モ完全ナ存在」は、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」(偶像)、その神の啓示でしかないものである、それ故にその偶像神の名と呼びかけによる救済と平和の企ても、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたそれでしかないものである。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」、それ故に 人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないのである。何故ならば、「神に敵対し神に服従しない」われわれ人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」からである、人間論的な自然的人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間であれ誰であれ、われわれ人間は、それ自身としては、「『自分の理性や力(≪感情力、意志力、禅的な自然を内面の原理とした身体的修行等≫)によっては』全く信じることができない」からである(『福音主義神学入門』)。神の言葉は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で、それ故にその隠蔽と顕現(イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間である)において、「われわれのところに来」るのである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、「信仰の出来事」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の出来事)は、徹頭徹尾われわれ「人間自身の業」ではなく、徹頭徹尾「神の言葉自身」の出来事の自己運動の業、すなわち啓示の出来事と「聖霊の注出」(「聖霊の注ぎ」)においてのみ可能となる出来事なのである。このような訳で、「言葉を与える主」は、同時に「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示(イエス・キリスト自身、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解)の出来事の宣べ伝えを目指すことのない自然神学的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学(神学)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また(≪ある人間学的な哲学原理・認識論・世界観に依拠した≫)首尾一貫した仕方のもの」であっても、教会の宣教の一つの機能としての学問としての神学・「教義学としては非学問的」なのである。

 

 前述したように、アンセルムスの「方法論的な定式」は、形而上学的に一面だけを固定的に抽象して理解したり、一面だけを拡大鏡にかけて全体化して理解してはならず、その総体性において理解すべきものなのである。したがって、その「方法論的な定式」の総体性において、第二の形態の神の言葉である聖書および第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会のCredoの「権威を引き合いに出す」のではなく、「『理性ノミ』で検討され・立証され・確信させられ、ユダヤ人たちに対して、また異教徒たちに対してさえ、議論において満足が与えられるべきであると言う」アンセルムスに対して、アンセルムスが、形而上学的にその一面だけを固定的に抽象して、一面だけを拡大鏡にかけて全体化して「理性ノミと書いていたかのように理解されてはならない」のである。何故ならば、その「方法論的な定式」の総体性における「アンセルムスの理性は、ちょうど(≪キリストの福音とキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法という「福音と律法」の総体的構成の仕方においてではなく、二元論的に福音と律法を対立させた「律法と福音」の構成の仕方においてであれ≫)ルターの信仰(≪「信仰ノミ」≫)が行いを結果として自分の下に持っているのと同じように、必然的に、(≪第二の形態の神の言葉である聖書および第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会のCredoの≫)権威を前提として自分の下に持っている」からである。またその総体性において、「ちょうどルターによれば、ただ信仰のみが義とするように、アンセルムスによれば、ただ理性(≪妥当性のある論理≫)だけが証明する(狭義のより厳密な意味でのintelligere知解スルことに奉仕する)法廷として認められるべきである」。

 

 前述したことは、12月5日の「来日したローマ教皇、カール・バルト、吉本隆明――「平和」の実現等についてのその思惟と語りと行動の差異性をめぐって」の記事における妥当性のある論理的な総体的な認識の方法を持つ「(4)カール・バルトにおける平和をめぐっての思惟と語りと行動について」のバルトの在り方と、例えば日本基督教団の「戦後70年にあたっての平和を求める祈り」における論理なき、形而上学的一面的固定的抽象的な、折衷的な、雑多な認識の方法の在り方とを比較衡量してみる時よく理解することができる。