本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、バルトの読み方・分かり方(その9)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

序論
 神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済・救済史(福音の歴史・神の時間・神の側の真実・啓示の客観的現実性)と歴史(人間の歴史・人間の時間)との無限の質的差異について、『教会教義学 神の言葉』に即して整理すれば、次のように言うことができます。
1)聖書における神の啓示は、「神の時間」・「まことの実在の時間」の中で遂行されたイエス・キリストの出来事における「和解の善き業」・「唯一」の「恵みの契約」のことである。そしてこの「契約の仲保者」は、神性を本質とする「人なるキリスト・イエスである」。したがって、キリストの誕生・死と復活の宣教における「福音の歴史の正しい考察」・正しい歴史認識の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」という点にある。すなわち、人間の歴史は、「神的自由の行為」としての啓示となることはできない。言い換えれば、神の側の真実である超歴史・救済史・永遠は、常に、人間が人間的に所有する人間の歴史・時間の彼岸・外にある、と。したがって、両者の混淆や共働は、本質的にあり得ないわけです、成立しないわけです。したがって、神の側の真実だけでなく、人間の自主性や自己主張もという自然神学の系譜に属する信仰・神学・キリスト教、またそうした神学者・牧師・著述家は、両者の混淆・共働を目指すわけですが、その場合それは、本質的に、その最初から根本的な誤謬に陥っていくことが必然となるわけです。
2)「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(《「神の裁きの啓示」・律法》)から新約(《「神の恵みの啓示」・福音》)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就の時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造におけるそれであり、「新しい世」のはじまりである、と。したがって、私たちは、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」=成就の時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識(信仰)することができるわけです。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識(信仰)することができるわけです。

 

 

ハイデッガーの根本的なブルトマン神学批判の正当性

 

 私の理解によれば、次のように言うことができると思います。
 木田元の『ハイデッガーの思想』によれば、ハイデッガーはブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と述べたと言います。このハイデッガーの揶揄・批判は、フォイエルバッハのキリスト教批判・宗教批判がそうであったように、正当性のある根本的な揶揄・批判であって、したがってその批判を、その神学の認識方法および概念構成において包括し止揚する点に神学における思想の問題があるわけですが、時流や時勢への同化・迎合、神と人間・神学と人間学との混淆・共働を目指す自然神学の系譜に属するブルトマンもまたそのことに対して無自覚・無頓着だったのです。
 この状況論なき思想なきブルトマン神学について、バルトの『ルドルフ・ブルトマン』に即して言えば、次のように言うことができます――「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学に見出したブルトマンは、神と人間との無限の質的差異における第一次的な啓示の実在そのもの、また聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史性を揚棄してしまって、逆に前期ハイデッガーの哲学原理によって対象化された人間の意味的世界である存在者レベルでの神・啓示を第一次的なものとし、この第一次的なものに従事することにおいてのみ「イエス・キリストについてのケーリュグマ」・「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容・新約聖書の使信の内容・イエス・キリストの出来事を知らせた宣教や説教を第二次的なものとしたのです。したがって、ブルトマンにとっては、イエス・キリストの十字架処刑も、イエス・キリストの死人からの甦り・復活も、「ケーリュグマと信仰の認識基礎命題ではなく」単なる「説明文」に過ぎないものなのです。このことは、ブルトマンが、前期ハイデッガーの哲学原理に基づく啓示認識、その啓示認識に依拠した存在の比論を通した人間の自己認識を、その神学の認識方法および概念構成としたことを意味するのです。この事態は、人間の神化・神の人間化であり神学の人間学化を意味するのです。
 さて、オットー・ヴェーバーは、『和解論』第13章「神わららと共に」を、次のように論じています。
1)バルトにとって、イエス・キリストが「インマヌエルであり、『神われらと共に』であり給う」。また、バルトは、「実存哲学を用いることをしないで、客観・主観の分裂の克服は、イエス・キリスの名という現実の中に、すでにあらかじめ与えられていると考える」。このことは、私の理解によれば、バルトが確信を持って、神の側の真実としてのイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執したことを意味しています。
2)「バルトは『客観的なもの』を重視あるいは絶対視し、ブルトマンは『主観的なもの』を重視あるいは絶対視するという風に、規定することは出来ない。その対立は、さらにいっそう深いところにある」。これではやはり、橋爪に「一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」と書かれても仕方がありません。ほんとうは、このことは、次のように言うことができます。
1)バルトは、神と人間との無限の質的差異の下で、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する「超自然な神学」の認識方法および概念構成を行っている。
2)それに対して、ブルトマンは、神と人間との無限の質的差異とキリスト教固有の啓示の「概念の実在」の歴史性を揚棄して、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠した啓示の主観的現実性に基づく自然神学的な神学の認識方法および概念構成を行っている。したがって、ブルトマンの神・啓示・神学は、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーが批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものなのです。
 バルトはこうも述べています――神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である、と。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味しています。この神性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのです。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。言い換えれば、そこにおいて、バルトの現存性は、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史性に連帯するのです。この場所で、バルトは、現在から未来に生きる言葉について、次のように語っています。

 

  パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄
 は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々
 に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題
 は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての
 重大問題と直結している。 (『カール・バルト著作集14』「ローマ書」吉村善夫訳、新教出版社)

 

 

バルトの根本的なブルトマン神学批判

 

 バルトは、こう述べています――「私と同時代の神学者たちが試みかつ遂行した神学的企てのなかで、最も私の注意をひいて来たのは、ルドフル・ブルトマンの新約聖書の『非神話化』である。と言っても、それが提示する具体的な問題のため」ではなく、それがルターの宗教改革を出自としそして「シュライエルマッハーによって育成されたタイプの神学の主題と方法(《人間の神化・神の人間化、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識という主題と方法》)を再び採用している点で、非常に印象的であるからである」。「私はその特殊な主題について、ましてその原理的な方法について、ブルトマンに従うことはできなかった。そこでは、神学は……新しく特定の哲学にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっているのを、私は見たのである」。
 私たちは、ブルトマンの「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」という知識的に上昇する往相過程だけの信仰・神学が、その認識方法および概念構成が、近代主義的なキリスト教的教養人には受け入れ可能であっても、そのあるがままの不信や非キリスト者や非知や一般大衆・一般市民に対しては全く閉じられていく以外にないことを知ります。したがって、バルトは、知的に上昇する信・神学の往相過程しか持たないブルトマン(その学派)等に対して、「『現代人』が実際に存在するのは」、「ただ教養人の間だけではない」のであるから、「実存主義への特別な拘束力が生じるべきだ」と語りました。私たちは、教養人振ったよほどの偏屈者でない限り、このバルトの言葉を首肯できるでしょう。「(中略)この(新約聖書の)使信が、まさにイエス・キリストについての使信として、神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かであり、また、この使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎり、われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である。(《しかし、第一次的な》)(中略)他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事を、この証言から取り去って(《この証言から啓示の実在を取り去って》)――その結果、(《啓示の実在を取り去った》)この証言を、そこでは第二次的なもの、あの第一次的なもの(《ハイデッガーの哲学的原理・「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された人間の自己意識の意味的世界である啓示・存在者・存在者レベルでの神》)に従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの、に形式変換し、転釈するという場合、その使信をゆがめ、切りちぢめることにならざるをえない……。 (『カール・バルト著作集3』「ルドルフ・ブルトマン」小川圭冶訳、新教出版社)、「私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる『宗教』が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである (カール・バルト『バルト自伝』佐藤敏夫訳、新教出版社)。

 

 この引用にあるバルトの言葉は、正当性のある根本的なフォイエルバッハの宗教批判やハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」、すなわちブルトマン神学を含め自然神学の系譜に属する神学群・教会の宣教群・全キリスト教を根本的に包括し止揚した神学における思想の言葉なのです。言い換えれば、人間のその啓示認識が啓示の出来事と信仰の出来事に基づいたそれであっても、啓示の実在そのもの(第一次的なのも)は、常に、その人間の啓示認識(第二次的なもの・新約聖書の使信・啓示の「概念の実在」)の彼岸・外にある。しかし、ブルトマン神学の認識方法および概念構成は、この事柄を揚棄し、さらに前期ハイデッガーの哲学的原理・「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次的なものに形式変換し、新約聖書の使信・証言を、その第一次的なものに「従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの」=第二次的なものへと形式変換するわけです。言い換えれば、これでは、ブルトマン神学は、単なるキリスト教哲学あるいはブルトマン教にしか過ぎません。そのような水準にしかないのであれば、そのようなブルトマン神学に耳を傾けるよりは、純粋な人間論・人間学である、ヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスやフーコーやドストエフスキーや吉本や太宰や賢治や漱石等々に耳を傾けた方がいいに決まっています。  さて、バルトにとって聖書の証言の報知する福音は、全人間・全世界・全人類の自由事項・独占事項ではないし、もろもろの実存的理解者によるそれではないし、感情・理性・実存等の人間的契機の直接性や人間学的な哲学原理や認識論や世界観に依拠したそれではないし、「大学社会の神学」者や牧師や著述家の述べるそれではありません。このことを、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、その都度における神の自由な決断による「神の語り、行為、秘義」である神の言葉(啓示)は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて初めて「聞かれ」「信じられる」のであるから、人間の意識や教会に内在的に存在している実体ではないし、人間的な「証明を必要としない」位相にあるものなのです。したがって、教義学的教義は、「ただ、啓示の真理の方」へ、「努力しつつ」、「向かっている」、「語ろうとしている」、その希求のもとでの認識・概念・教義なのです。しかし、ブルトマンは、第一次的なもの(啓示の実在そのもの)を揚棄してしまって、新約聖書の使信を第二次的なものとし、「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示・存在者レベルでの神・人間の自己意識の意味的世界を第一次的なものに形式変換してしまったのです。したがって、ブルトマンにおける啓示認識の対象は、常に人間的な使信(対象化された人間の自己意識の意味的世界・存在者・存在者レベルでの神)であり、その人間的使信の媒介・反復における連続性のそれであるわけですから、その「神学の秘密は人間学以外の何物でもない」ものなのです。
 したがってバルトは、次のように言わなければならなかったのです――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」。「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」。またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」。キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」。また、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、と。言い換えれば、人間学の後追い知識としての自然神学的な人間学的神学は、神学としても人間学としても非自立的で中途半端なものでしかない、ということです。したがって、時流や時勢や人間学の盛衰に流され続けている自然神学的な神学群や教会の宣教・全キリスト教は、現在から未来に生きることは決してできないのです。したがってまた、バルトは、次のように言わなければならなかったのです――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」。すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と。言い換えれば、私たち罪に穢れた人間には、心が開かれ「み言葉を受け入れまた聞くために」、「み言葉の主である」聖霊によって「再生」された理性を必要とするわけです。「聖霊は理性を抑圧しない」。「理性の再生をもたらす」。しかし、人間実存の直接性に依拠する「実存的釈義家」の場合は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提とし」・それに信頼し固執しているから、誤謬は必然なのである。それに対して、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」徹頭徹尾「聖霊」であるから、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」に依拠したバルトの場合は、「あやまちは可能である」けれども、実存主義者の場合のように「あやまちは必然」ではない、と言えるでしょう。もちろん、人間は、神の人間との無限の質的差異において存在していますから、聖霊によって「再生」された理性であっても、徹頭徹尾全面的に、その理性は、聖霊と同一では決してありません。
 また、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、釈義神学による聖書的教えの認識・概念も、キリスト教的な神についての「語りの規準」であるイエス・キリスト自身・啓示の実在そのものと同一では全くありません。したがって、神学・教義学・神についての教会の語りは「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではありません。なぜなら、「使徒や預言者たちが語ったこと」は啓示の実在そのものではないから、もしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、人間によって言語を介して対象化された彼らの語り・「存在者レベルでの神」を問うことになってしまうからです。したがって、神学・教義学・神についての教会の語りは、「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならないわけです。その時だけ、「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され」・命じられていることを知ることができます。神学・教義学・神についての教会の語りは、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるのですが、神学・教義学・神についての教会の語りそのものが、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリストの中で、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となるわけです。その場合、神学・教義学・神についての教会の語りは、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができます。このことは、その神学の認識方法および概念構成において、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識に固執し、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白と教義である啓示の「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)に連帯することを意味しています。しかし、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのです。したがって、神学・教義学・神についての教会の語りの在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているわけです。したがってまた、私たちは、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に対して、次のように言わなければならないわけです。「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない (『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」井上良雄訳、新教出版社)。バルトは『ルドルフ・ブルトマン』で、次のように述べています。「……ブルトマンの仕事の中心に、新約聖書をひとつの使信(《ケーリュグマ――『宣教する』ことによって伝えられた宣教内容=新約聖書の使信の内容=イエス・キリストの出来事を知らせた内容、宣教、説教》)の記録として理解しようとする意図がある……。(中略)理解する者がその使信を自分自身に向けられたものとして聞き取ることによってのみ、また解釈者として、みずからその伝達者となることによってのみ、(中略)彼ら(新約聖書の記者たち)を理解すること自体が、すでに信仰であり、彼らを釈義すること自体が、すでに説教である」。
ア)前期ハイデッガーの哲学的原理によって対象化された人間の自己意識の意味的世界である啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次化すること自体が、自己自身の「非本来的存在から本来的存在への」・「過ぎゆく存在から将来の存在への移行の歴史」であり、信仰であり、説教である、と言うわけです。ハイデッガーの哲学原理に基づく啓示の主観的現実性に依拠したブルトマンとは違って、神性を本質とするイエス・キリストにおける神の側の真実=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執したバルトの場合の実存理解はこうです――新約聖書の使信において、私たち人間は、「見えないもの、知りえないもの、勝手に処理しえないものへの信頼としての信仰」へ、「自己自身の現在から神の将来への方向転換」へ、「そのことによって神と隣人に対する愛」へ、「そのままで、人間の本来的実存であり、真に自然な実存である新しい被造物の『終末論的』実存」へ、その神の恵みに対する感謝の応答としての実存へと召しだされている、という点にあります。言い換えれば、神の側の真実であるキリストの復活・成就された時間においては、すなわち私たちの人間的存在が「イエス・キリストの人間的存在である限りは」、「そのままで、人間の本来的実存」なのです。
イ)ブルトマンの実存論的聖書解釈にとって、聖書記事は、そして新約聖書の使信そのものも、その表象形式の神話も、人間の自己理解の表明であり、それは、不信・非本来性から信・本来性への実存的移行の表明であり、言語によって対象化された実存の表明、すなわち聖書記者たちの実存的主張であるから、そのように「理解し、解明」されなければならない、とブルトマンは言うわけです。ここに、ブルトマンの聖書解釈における前期ハイデッガーの哲学的原理に基づく「絶対」的規準としての「先行的理解」・「解釈学的原理」があるわけです。ブルトマンは、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの実存主義に見出したのですが、ブルトマンの場合、その存在、その現前性、その被制作性、その被企投性、その言語、そのシンボル体系、その不可避な類・歴史性の第一次性を自覚した、すなわち人間中心主義的な人間的現実存在(思索者・詩作者)の自由なその思考、その現存性、その時間化(差異化)と存在了解、その企投性の限界性を自覚した後期ハイデッガーの転回によって、言い換えれば、個と類・歴史性と現存性が出会う出来事・「存在の生起の出来事」を自覚した後期ハイデッガーの転回によって、バルト自身も述べているように、ブルトマンはハイデッガー自身によって足をすくわれてしまったのです。私の理解によれば、そのように言うことができると思います。
ウ)ブルトマンは「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」、と語るわけです。それに対して、バルトは、このように語ります――「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である。私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」。あくまでもバルトは、神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ、そして聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の時間的連続性(歴史性)にのみ信頼し固執して、信仰し思惟し神学し思想し実践しているのです。近代以降においては、信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、この場所においてしか、現在から未来に生きることはできないのです。

 

 

バルトにおける聖書の歴史認識の方法

 

 バルトの『教会教義学 神の言葉』に即して述べてみます――
1)「聖書の中で物語られているもろもろの歴史」は、史実史や神話ではなく、「ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ(主観を交えて脚色しており、そういう意味で)干渉し、関与する」という「歴史物語あるいは古譚の要素を持ったもの」である。
21)「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた。
3)史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っているという点にある。
4)聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の彼岸・外にあるものである。すなわち、聖書証言の報知における歴史(Gschichte)・「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」認識・概念もあり得ない。
5)聖書の中の歴史である歴史物語あるいは古譚は、すなわち『和解論』における「原歴史」あるいは「史実以前の歴史」は、無空間的無時間的な神話ではない。なぜなら、「神話が事実として報告していること」は、「少なくとも潜在的に存在している根源的なそして自然的な結びつきとの関係の中に立っている」ところの、「思弁の前形式」として、自然生に依拠した世界史のアフリカ的縄文的段階においては世界普遍的に起こり得た出来事であって、世界史的に「決して一回的な出来事ではなく、繰り返され得る出来事」だからである。歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜなら、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある。
6)神話を「思弁の前形式」である。したがって、思弁は、逆に、自然から超出し、抽象に抽象を重ねて概念や理念へと抽象度を高めた観念である。この「思弁の前形式」である神話についてバルトは、神話は「人間自身の事柄」として、「歴史を意図しているのではなく」「空間〔領域〕や時間を超越して(無空間的に、無時間的に)」、「人間存在の基本的な諸関係についての物語の形で述べられた描写」である、と述べている。さて、吉本隆明は、世界のどの地域にもあてはまる未明の社会に普遍的にあった「風俗や生活」について、次のように論じている(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)――大和朝廷の側から神話の形で書かれた支配の歴史である『古事記』や『日本書紀』の初期神話には、場所と時間が特定できない記述がある。すなわち、日本列島のどの地域・地勢・自然風土なのか場所が特定できない記述や、世代的継承・親子関係や兄弟姉妹関係と関わりのない無時間的な「ひとり神」の概念の記述がある。例えば、初代天皇の神武天皇・「カムヤマトいわれひこ」は、「地名を名前とする日本列島に特徴的な呼称」である。しかし、その祖先神である「ヒコなぎさたけうがやふきあえずのみこと」(「波うち際に建てた産屋の屋根を葺くのが間にあわないうちに生まれた」)は、「日本語の人名とは思われない名称を持った」その場所を特定できないものである。このように、人類は、農耕社会の段階において「男・女神」を要請したが、自然生を主とした狩猟採取の原始社会(アフリカ的縄文的段階)においては、「無〈性〉神」としての「独神」という幻想性・観念しかなかった。このようなことは、未明の社会の有力な人物の場合には、世界普遍的にあり得た。
7)バルトは、イエス・キリストの名にのみ信頼し固執することによって、受肉の概念も神人性の概念も新約聖書の内容ではない、と理解しました。「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている(カール・バルト『教会教義学 神の言葉』吉永正義訳、新教出版社)。

 

 このように述べるバルトは、世界史のアジア的段階における神人としての非農耕民の存在も知っていたと言えるでしょう。吉本は、『〈アジア的〉ということ』で、世界史におけるアジア的段階概念の本質の一つである共同体論について、次のように述べています――この「共同体論」の扱う対象は、第一に、アジア的な風土的自然環境(広大な砂漠・平地帯を有する、気候・地形)によって経済的基盤を季節的循環に基づく農耕においた農耕村落共同体における農耕民(循環と停滞)と神人(進歩と発展の契機)と呼ばれた非農耕民との関係性についてである。アジア的共同体の当初においては、農耕以外の職業に携わる非農耕民は神人と呼ばれた。天皇もそれであった。その尊ばれると同時に蔑まれる存在の神人は、具体的には芸能者・宗教者・鍛冶屋・ハンセン病、笊や籠を生産する竹細工師、海部民のことであったが、海部民と農耕民・狩猟民との相互転換は可能であった。第二に、農耕村落共同体の規模やその共同体が育む相互扶助意識についてである。第三に、自分の所属する村落が世界のすべてであるという閉じられた在り方が生み出す、未開の心性や村八分や、村落以外のことに対する無関心についてである。したがって、バルトは、受肉論も神人論も「イエス・キリストの名」・一回的な客観的現実性からのみ認識し理解したのです。
8)復活の出来事は、無空間的無時間的な神話としてでもなく、史実時空においてでもなく、歴史物語時空において起こっているのである。したがって、聖書の歴史・歴史物語あるいは古譚・「原歴史」・「史実以前の歴史」は、まさに一つの年代的および地誌的地域的時空の中で起こったことであるが、証明されることもされないこともあるのである。したがってまた、西洋近代の只中を生きたバルトは、時流や時勢に同化・迎合し、人間論や人間学の盛衰に流され続ける、近代主義者たちとは全く違って、確信を持って次のように語りました――「〈史実的に〉確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく。〈歴史家〉たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、じっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得る」のであり、「そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠」をもっている、と。このバルトの聖書の歴史認識の方法においてはじめて、エーバハルト・ブッシュも述べているように、「その後に続いて起る史実的出来事によって凌駕されて古くなったり、相対化」されたりしてしまうことはないのです。言い換えれば、このバルトの聖書の歴史認識の方法は、今後も登場してくるであろう人間学的領域における歴史実証主義的研究等によっても、その後追い知識としての人間学的神学によっても、またそれらの盛衰によっても左右されることのない神学の認識方法および概念構成なのです。すなわち、バルトは、神学において自立した思想を構成しているのです。
9)先述したことと重複しますが、非自立的で中途半端な聖書の歴史実証主義的認識を含めて人間学的神学におけるその人間学の水準を確定するために、神話乃至古代史の研究の在り方について論じている吉本の言葉に耳を傾けてみたいと思います。「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカ
 だとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」弓立社)、「……〈奇跡〉(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自
 分流(《文芸批評あるいは思想》)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の〈悪〉というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『〈非知〉へ―〈信〉の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」春秋社)。もう一人のミシェル・フーコーにも耳を傾けてみたいと思います。フーコーは、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について論じています。「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(《しかし、そのことは》)、全く重大なことではないのです」 (M・フーコー『思考集成IV』「ミシェル・フーコーとの対話」大西雅一郎訳、筑摩書房)。

 

 私たちは、ここに、宗教家した近代主義者、すなわち歴史的科学的な実証主義者とは全く異なる、両者の優れた歴史認識の在り方と根本的な評価の在り方を垣間見ることができるでしょう。