本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの主要著作に即して考量した、福嶋揚『カール・バルト 未来学としての神学』の水準について

カール・バルトの主要著作に即して考量した、福嶋揚『カール・バルト 未来学としての神学』の水準について

 

 私はよく知らないCGNTV JapanがYouTubeを通して流していた「未来学としての神学」について、著者の福嶋揚がインタビューに答えている映像を観た。というのは、富岡幸一郎の『カール・バルト 使徒的人間』の時と同じように、『カール・バルト 未来学としての神学』にあるカール・バルトという字を目にしたからである。私は、『使徒的人間』については特に自然神学に関するところを読んでいて、富岡がバルトの自然神学論について論じているにも拘わらず、バルトの『教会教義学 神の言葉T/1・2』や『カント』を読んでいないことがすぐに分かったので、その時点で私は年も年だし時間が勿体ないので読むのをやめたのだが、福嶋のその本を購入したり借りたりして読んだわけではない。したがって、この記事は、インタビューに答えている福嶋が『未来学としての神学』について説明していた言葉に基づいて書いている(なお、福嶋は青山学院大学・東京神学大学・日本聖書神学校で講師をしているという)。

 

 先ず福島は、東京大学大学院で倫理学を専攻していたからだと思うのだが、バルトだけでなくユンゲル・モルトマンにも興味があるらしくモルトマンの『希望の倫理』を翻訳している。モルトマン神学の特徴は、「神学と一般の学問との対話」、「特殊と普遍」、「救済史と普遍史」(喜多川信『歴史を導く神――バルトとモルトマン』)との混合を目指した点にあり、それ故にヘーゲル学者の山崎純はモルトマンの歴史形成論について、ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した(近代主義的・人間中心主義的に、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象した)「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念における宗教」とは、人間の自己意識・理性・思惟によって対象化された自由と理性の理念である、モルトマンは、このヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、「律法・父の国・奴隷状態の歴史(≪世界史的段階で言えば、経済的基盤を狩猟採取に置いた自然にまみれた原始未開の段階≫)」、「恩寵・子の国・神の子供状態(≪世界史的段階で言えば、経済的基盤を農耕に置くことによって自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていない・自由を認識し自覚でき得ていない自然を原理とするアジア的段階≫)」、「自由・霊の国・神の友の状態(≪世界史的段階で言えば、経済的基盤を資本制に置いた自己意識・理性・思惟によって自然から対象的となることによって自然から完全に超出し自由を獲得した・自由を認識し自覚した自由を原理とする西欧近代の段階≫)」、という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した、と述べている(『神と国家』)。福島がこのようなモルトマンの本を翻訳したということは、インタビューでも答えていたようにバルト(彼の発言からバルトのその一部である)だけでなくモルトマンやエコロジー等々をも混在させたところで混合神学(換言すれば自然神学)を構成しようとしていると言えるだろう。
因みに、吉本隆明によれば、個体とは、その内部構造・意識構造・ 「存在の根本的な構造」における人間存在の一様式のことである。その個体の内部構造・意識構造は、自己関係づけと自己抽象づけとの構造としてある。自己関係づけとは自己の身体がここ(空間)にあるという意識、自己を自己として関係づける意識である。すなわち、自己の自然的な身体を内在的に関係づける意識、空間的な自己意識である。自己抽象づけとは自分の身体が現(時間)にあるという意識であり、自己を自己として抽象する意識である。すなわち、自己の自然的な身体を内在的に抽象化する意識、時間的な自己意識である。したがって、「対象的に関係づけられて存在するのが個体」とする現象学や実存主義は「本質直観」における知覚や感覚に依拠した自己了解や自然了解を、すなわち「自己対象了解……自然対象了解……を人間の存在本質の根本におくわけですけれども、わたくしどものかんがえではそうではない」と吉本は批判するのである。すなわち、この自己関係づけと自己抽象づけの構造において、「個体は個体として自己に関係づけられるから」、対象(自己身体・性としての他者身体・宇宙を含めた外界――すなわち全自然)を対象的に関係づけることができるのである。この人間的個体は、様々な観念的諸生産物を創出する。ところで、自己抽象づけの度合は、了解性によって測られ、了解性は時間性によって測られる。したがって、認識の了解性の度合(了解度)・抽象の度合(抽象度)の差異は、時間化度の差異による。また、知覚の拡がりや延長という自己関係づけの度合は空間化度によって測られる。そしてまた、了解性が時間性である根拠は次の点にある。「人間はさまざまな体験や感覚のみがき方」をし、そうしたことの時間累積の果てに「現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」、今に現存する感覚や知覚作用を持つにいたった。すなわち、その根拠は、原始・未開から現代までの時間の累積(歴史性)にある。したがって、古代人と現代人において、感官に映る対象は同じであっても認識の度合に差異が生じるのは、時間化の度合、時間累積の度合の差異、すなわち了解性の度合の差異による。古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識し、現代人あるいは今に現存する人間がその岩石を単なる自然物であると認識する場合のその差異性の根拠は、古代から現代までの時間累積(歴史性)の度合・了解化の度合・時間化の度合の差異にある。このように、「人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には空間およ び時間に分割されるほかはない」。したがって、「言葉の表現もまた、表現に固有な<時間性>と<空間性>を獲て成り立っている」のである。自己関係づけを個体の内部構造・意識構造においてではなく、個体と対象との関係でいえば、自己関係づけとは、「心的規範」意識であり、それは「対象にたいする関係つけの意識」、対象の受け入れの意識、対象の空間化の意識である。言い換えれば、心的規範とは、自己関係つけの意識の空間化とその度合のことである。また、自己抽象づけを個体の内部構造・意識構造においてではなく、個体と対象との関係でいえば、自己抽象つけとは、「心的概念」を構成する意識、了解作用の意識、時間化の意識である。言い換えれば、心的概念は、自己抽象つけの意識の了解作用・時間化とその度合のことである。そして、その個体と対象とのあいだを介在するのは「言語」である。この「言語という ものを基本的に成りたたせているのは、心的な規範および概念」である。個体の内部構造・意識構造における心的規範は、外化(表現)されて対象化された心的「規範」・「言語における文法構造」――言語的規範、文法的規範・音韻の規範・韻律の規範等の外在的な共同的規範となる。また、心的概念は、外化(表現)されて言語表現の水準を決定する対象化された「心的概念」・「言語における実体」となる。このような仕方で、言語は、その個と現存性・類と歴史性の交点で、世界を分節化する。その場合、言語・概念によって分節化された世界は、客観的な世界そのものではなく、言語によって抽象された世界・人間化された世界・人間の非有機的身体化された世界であり、ある抽象度やある意味づけやある物語性を付与された世界である――「メルロオ=ポンティの哲学について」・「自立思想の形成について」・「人間にとって思想とは何か」・「言葉の根源について」・「個体・家族・共同性としての人間」・「幻想としての人間」による

 

(1)インタビュアーが「神は分からない方」、「ロマンチックなもの」と発言したのに対して、福嶋は「バルトも神は語れないものだと分かっていた人」と答えている。そして、この福嶋は、表現としてのアンセルムスの言葉――「神とは、それ以上大いなるものが考えられないもの、それ以上偉大なものが考えられないもの」を引用している。しかし、バルトの著作に即して言えば、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は、ご自身の中での神として、「父なる名の三位一的特殊性」、「神の三位一体的父の名」、「三位相互内在性」において存在する、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する(それ故に、われわれ人間は誰であれ、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、神の不把握性の中にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神である、この神がわれわれのための神として、「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・「言葉の語り手」・創造主、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である父の子としてのイエス・キリスト自身――啓示・「語り手の言葉」・和解主、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主なる全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由な愛の行為の出来事全体において存在し給う。このキリストにあっての神の啓示は、その啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である証の力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身(「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身)の出来事の自己運動を、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)をわれわれ人間に与えることができる授与能力を持っている(Tコリント13・8以下)。このような訳で、例えば前期ハイデッガーの哲学原理やモルトマン神学との混在を前提とした混合神学(人間学的神学、総括的には自然神学)は論外であるが、そしてあくまでも終末論的限界の下においてであるが、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会が・その一つの機能としての神学が、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの)、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」(このように、バルトは多様な言い方をしている)として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(その死と復活の出来事における「律法の成就」・完了そのものとしてのイエス・キリストにおいては、福音と律法は二元論的に対立してはおらず、律法はキリストの福音を内容とする福音の形式である、すなわち<純粋>なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)という連関においてのみ、先行して神語り給うが故に後続して神語り給うことを聞き語ることは可能となるのである。何故ならば、われわれ人間は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、それ自身としての人間的な「『自分の理性や力(≪感情、意志、自然を内面の原理とした身体的修行等≫)によっては』全く信じることができない」からである(『福音主義神学入門』)、「神に敵対し神に服従しない」それ自身としてのわれわれ人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」からである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。そしてもちろん、先にも書いたが、最後法廷的には、そうしたわれわれ人間のその思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」からである。したがって、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)においてイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことがない自然神学的な「単なる知識」としての「形而上学的な教義学」(教会の一つの機能としての神学)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、その教義学(神学)は「教義学(≪教会の一つの機能としての神学≫)としては非学問的」なのである。

 

(2)福嶋は、「終末論という言葉は誤解を招きやすいので」(誤解されたくないならば、ちょうど後述にあるバルトが聖書的啓示証言に即して神学的に概念規定したように、またドストエフスキーが『罪と罰』の登場人物・マルメラードフに文学的に表現させたようにすればいいのにも拘らず、福嶋はそれをしないのである)、その言葉を「避け」た自らの造語としての「未来学としての神学」について、「神が、人間に向かって語りかけて来るもの」、「未来から語りかけて来る声」、「それ以上大いなるすばらしい未来は考えられない未来」とすれば、「神についての学」としての神学は、「未来について考える学」である、それも「遠い未来ではなく」、「未来が今現在にダイレクトに語りかけて来て、現在の私たちを揺り動かす未来からの声」について考える学問である(ここで、福嶋が、「終末論という言葉は誤解を招きやすい」と考えて、換言すれば教会の一つの機能としての神学を目指すのではなく「大学社会の神学」を目指すというところで未来という言葉を使っていることをわれわれは知る、すなわち福嶋は、バルトのように聖書的啓示証言に即したキリストにあっての神に「誠実と真実」を・「責任的応答」をするのではなく、前期ハイデッガーの哲学原理と神学との混在を目指した混合神学者・自然神学者であるブルトマンのように、人間論的な人間学的な「同時代の人たちの思考の前提」・「そこから形成された理解の規準」に「誠実と真実」を・「責任的応答」をしようとしているのである、そうできると考えているのである。しかし、このような思惟と語りは、聖書的啓示証言から逸脱していくだけでなく、現存する現実からも復讐されるであろう、現存する現実も許さないであろう、人間論や人間学も許さないであろう、例えばかつても述べたようにちょうど前期と後期の総体を生き思惟したハイデッガー自身からブルトマンが根本的包括的に原理的に「揶揄」・批判されたように―― 「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、(≪恣意的独善的に、人間の自己意識・理性・思惟が対象化したに過ぎない・あるいは人間的欲求が対象化したに過ぎない≫)『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ(≪人間自身によって対象化され・客体化された偶像への信仰として、聖書的なキリストにあっての≫)神を見失うことではなかろうか』」)、それは「キリスト教の本質」について・「キリスト教の今日の効用」について・「キリスト教神学とは何か」について考えるものでもある、と語っている。また、福嶋は、「終末論的未来というよりも、人間の内にある神の国」、「遠いところにあるものに違いないが、同時に私たちの中に種があるようなもの」と述べている。「聖書の神についての一つの捉え方」(換言すれば、聖書の神について、形而上学一面的固定的な抽象化を施した捉え方)としての「未来学」を主張する福島は、「聖書への絶対的信頼」(バルト『説教の本質と実際』)――すなわち第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執したバルトにおける先行する神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)という事柄を後景へと退けてしまったところで、換言すれば無媒介的に「人間の内にある神の国」とか「私たちの中に種がある」と述べているので、「存在の類比」的な「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された人間的なもの(バルトによれば人間自身の「内在的に理解された宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」)に依拠していることは明らかである。したがって、人類の滅亡の危機(カタストロフィー)としての三つの危機――すなわち「貧困の拡大」・「生態系の破壊」・「戦争の危機」に興味を持つ福嶋は、聖書的啓示証言だけでなくモルトマン神学との・またエコロジー等との混合神学(自然神学)を志向し目指していることは明らかである。しかし、福嶋は一つにはエコロジー神学を目指しているのであるが、自然史の一部としての人類史の自然史的過程における科学・技術や生産様式の発達は自然史的必然に属する事柄であるから、それ故にそれは共同観念的に法的政策的に遅延させることができても退行させたり・逆行させたりすることはできないから、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないのである。このことが、すべてのエコロジストと同じように、後続的に時流・時勢としてのそれに追従する神学・神学者の福嶋には理解することができないのである。

 

 それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の神の言葉)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として認識し自覚し、それをそのように保持しない福島の「未来が今現在にダイレクトに語りかけて来て、現在の私たちを揺り動かす未来からの声」は、その原理・規準・法廷・審判者・支配者を持たないのであるから、結局はこの多元的な・多元<主義>的な価値観の多様化した現存する社会の中で百人百様の恣意的独善的な「わがまま勝手な」「声」に拡散していくだけであることは明らかなことである。したがって、三つの危機について述べておきながら、それらの問題を明確に提起していないから(マルクスは、『ユダヤ人問題によせて』で、「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」と述べた時、その言葉は、傾聴に値する言葉なのである、それ故に福嶋は)、何も述べていないのと同じなのである。このような福島は、自然史の一部としての人類史の自然史的過程における経済社会構成の拡大・高次化、軍事技術を含めた科学・技術の発達、その知識の増大、生活の利便性の増大は自然史的必然(それが良きものであれ悪しきものであれ自然史的成果)として後退させたり・逆行させたりすることはできないということを認識し自覚することができないのである(もちろん、その自然史的成果は、それに見合った観念諸形態を生み出すのであるが、そしてその観念はその自体構造と自己増殖過程を持つのであるが、観念を本質としているから停滞や退行や復古があり得るのである)。また、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「福音」(イエス・キリストにある救済・平和)と、現存する近代市民社会の中にある現実的な・すなわち社会的な諸利害・諸矛盾の対立を、それ故に観念の共同性を本質とする法の構成によってあたかもそうした諸利害・諸矛盾の対立がないかのような仕方で、しかも<価値>はそれを疎外・外化・表現したこちら側にあるにも拘らず向こう側に、観念の共同性を本質とする法の側に・法的中枢としての憲法の側に移行させるという仕方で、それ故に自己にとって自己還帰しない<逆立>した共同観念としての、人間自身が疎外・外化、表現した観念の共同性を本質とする法的中枢としての憲法の中の日本の「憲法9条」(戦争放棄の平和<主義>)との間には深い関係があると主張していると共に、そう主張しながら福嶋は、戦争の元凶そのものである一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な国軍を持った民族国家(日本国もそうだ)を止揚する問題については一言も述べていないのである、民族国家を止揚する問題を明確に提起してはいないのである。したがって、ここでも福嶋は、何も言っていないのと同じなのである。すなわち、福嶋は、この現存する世界が、経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いているが故に、戦争の元凶である民族国家を止揚しない限り平和はあり得ないということが分かっていないのである。したがって、福嶋は、単なる平和<主義>者でしかないのである。経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている世界において平和を実現するためには、民族国家を止揚する問題を明確に提起しなければならない。また、貧困問題や様々な格差の問題を明確に提起しようと考えるならば、福島は、マルクスの「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、(≪肯定的側面と否定的側面を持った≫)この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的である形態(人類史の農耕を経済的基盤としたアジア的段階における相互扶助意識の在り方)を破壊しないで(≪肯定的成果をわがものとすることによって≫)、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)という思惟と語りに傾聴すると同時に、次のようなミシェル・フーコーや吉本隆明の思惟と語りに傾聴せざるを得ないのである(われわれ一人ひとりもそうであるが)――マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。何故ならば、資本主義制度における生産は、制度的必然、「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである、すなわち資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできないもの」なのである、したがってマルクスは、「搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである、「このマルクスのやり方にちょっと手を加えますと、ほぼわたしのしたかったことになります。(中略)問題は、何らかの様式に基づいてセクシュアリティを生産し、不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものかをとらえること、それだけなのです」(『セックスと権力』)、「資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことである」、しかし資本主義は「人類の歴史の無意識(≪自然史の一部である人類史における自然史的過程≫)の生んだ……最高の出来栄えの作品」・尖端的な作品である、したがって自然史の一部である人類史における自然史的過程の尖端性にある「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品」である、したがってまた資本主義には「悪」と「欠陥」、搾取や貧困があるから資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪」で欠陥があると資本主義を批判しその資本主義的(西欧近代的)な文化や文明を批判しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」、すなわちその根拠を揺るがし資本主義を包括し止揚し超えるためには、資本主義とその資本主義が生み出した文明や文化や商品を包括し止揚し超えていく以外にはないのである、言い換えれば還相的な究極的総体的包括的永続的課題としては、資本主義を包括し止揚し超えていくためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を明確に提起しなければ不可能なのである、その可能性は人類史における世界普遍性として存在していた人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的段階(日本で言えば、原日本人の段階、縄文的段階)における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にある、すなわち民族国家の枠組みを超えた「世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化」に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある。それができれば、経済社会構成を資本制におく西欧近代を超え出て、次の段階に超出することができる、また往相的な過渡的部分的相対的緊急的課題としては、それが「西武」や「電通」や「自民党の手先」の商品であっても、それらが優れたものであれば評価すべきであるから、創造的な批判は、それらの商品を包括し止揚してそれらを超えた商品を創造する以外にはないのである(『情況へ』および『マルクス――読みかえの方法』ならびに『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会におけるバルトは、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を、徹頭徹尾神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性としてある、「成就と執行」・「永遠的実在」としてある、その成就・完了そのものとしての「顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身――ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」にのみ置いている。したがって、バルトは、すべての点で福嶋と違って、『平和に関するバルトの書簡』では、次のように述べている――「平和の概念は包括的な救済概念と同じである」、この救済概念は、「この世の神との和解」、「人間相互間の和解を直接その内に包含している和解」である、「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成され(≪成就・完了され≫)、死人からの復活においてすでに啓示されているような、和解」である、したがってわれわれ人間によって「初めて完成されねばならないような和解」ではなくて、神の側の真実としてある「神ご自身によって確立された和解」である、「イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的」なのであり、「敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にある」のである、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける平和は、「神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性」、それ故に「永遠的実在」である(神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰を通しての客観的現実性、「永遠的実在」である)、「この贈り物はただ、われわれがこれを受けとることを待っている」、したがってわれわれが「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨」なのである、そうした中で、われわれは「平和は戦争より善いものであるということを」繰り返し「断言せねば」ならないが、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさない」ことは「明白」である(何故ならば、戦争の元凶である民族国家が現存するからである)、したがって世界が必要としている革命的認識は、「世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ことにのみ感謝を持って信頼し固執し固着して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしない」ところにあるのである。こういうことを全く理解していないところの、ただ「生産力を高めるということではなくて、人間が地球と隣人に対する愛と連帯をもう一度取り戻すための革命が地球規模で起きる必要がある」というような形而上学的な「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)としての思惟と語りをする福嶋が、その論理と概念構成から言って、結局は福嶋自身の恣意性独善性の中にしかない「未来からの声」を聞いて世界や隣人を良き方向へと導いていけるはずがないのである。前述したこととの関連でもっと言えば、福嶋は、「人間が地球と隣人に対する愛と連帯をもう一度取り戻すための革命」が必要だと力を込めて叫ぶのであるが(それは空虚な叫びでしかないであろう、そのことは現存する現実が証明するであろう)、現在の問題(現在を止揚する問題、現在を止揚する問題を明確に提起する問題)を持たない福嶋には、国家論、換言すれば現存する国家を止揚する、すなわち現存する国家を止揚する問題を明確に提起する革命論の問題――すなわち還相的な究極的総体的包括的永続的な問題(観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う大多数の被支配としての個体的自己としての全人間の社会的な、すなわち現実的な解放の問題)と往相的な過渡的部分的相対的緊急的な問題(観念の共同性を本質とする国家を、大多数の被支配としての一般大衆・一般国民に、どこまでも開いていく問題)との総体性・全体性についての発言が一言もないのである。このような「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」の知識人に対して、吉本は次のように述べている――人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかないもの」である、「歴史的現存性」とは、それが良きものであれ悪しきものであれ、「人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のこと」である、したがって「個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にない」のである、したがってまた個人としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」、人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存性(自己史)を刻んでいく、すなわち人間の歴史(人類史)は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである(『思想の基準をめぐって』)。このことはわれわれの経験的普遍に照らしても首肯できるものであるから、次のような主張も、本当は錯誤に基づいていると言えるだろう(それ故に、先行する時流や時勢・人間学に依拠した後続する時流や時勢・人間学との混合・折衷を志向し目指すエコロジー神学も、錯誤に基づいたものでしかないと言えるだろう)――自然の一部である人間が、肉体・身体と精神・意識を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた外界としての自然、それからまたその歴史的行為の時間性における人間化された自然・非有機的身体)との相互規定的な対象的活動を行うという点に人間の類的な活動や生活があるから(この対象的活動の極限を想定すれば、その極限においては天然自然はなくなり、天然自然ではなく人間化された自然としての非有機的身体を対象とせざるを得なくなる)、そして世界は経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いているのであるから、「スウェーデンの環境活動家のグレタ・トゥンベリさん(16)の活動」によって、「環境保護に目覚めた」「カナダに住む18歳の生物医学を学ぶリムさん」が、「トルドー政権は今年から温暖化ガスの排出規制を打ち出していない州に対し、『連邦炭素税』を課し」た「一方で、今年6月には石油パイプラインの拡張計画を承認した」ことにより「温室効果ガスの排出量が増えるおそれがあり、環境保護団体から批判が相次いだ」ことを契機に、「政府が環境危機対策にしっかり取り組み、安全な未来を約束するまで、子どもをつくらないよう呼びかけるキャンペーンを立ち上げ」たところ、そのキャンペーンに「開始1カ月で、若者を中心に5千人以上が賛同した」(朝日新聞DIGITAL、10/21配信)という記事の内容も、錯誤に基づいていると言うことができるのである。卑近な例を挙げれば、その極限に想定されるものは天然自然主義であるエコロジストたちも、技術的に対応が不可能であれば放射能汚染があり得る原子力発電および火力発電や(日常や通勤や旅行に供する)自動車・列車や冷暖房機器等々の、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的成果である経済社会構成拡大・高次化や科学技術の発達やその知識の増大や生活の利便性の向上を十分に享受しているのではないだろうか? したがって、エコロジーを標榜することが重要なのではなくて、この段落で述べた吉本のように、それが自然史的必然の悪しき側面であるとすれば、例えば公害の問題であれば、国や企業が予算を付けて技術的に解決していく以外にはないということが問題であり、『情況へ』および『マルクス――読みかえの方法』ならびに『アフリカ的段階について 史観の拡張』にあるように、「資本主義的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)」を明確に提起しなければならないということが問題である。そうでなければ、その必然性として、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」以外にはないのである。

 

 さて、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方に、それ故にそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し連帯したバルトの終末論は、次のようなものである――聖書によれば、聖霊は、われわれの「救済主」である、しかし聖霊は、「救済主」であるだけでなく、その「存在の本質」である「失われない単一性」・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また「父および子とともに創造主なる神」でもある、新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、「神性」を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている、したがってこの「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰」、キリストにあっての神との出会いであるイエス・キリストとの出会い、「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによるのである、この信仰の出来事(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事のことである、救済・平和を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、この「信仰の確実性」は「希望の確実性」である、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」、ここで 「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」・「永遠的実在」として<すでに>ということである。したがって、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、救贖、完成、復活されたキリストの再臨)を考えること・待望することは過去(キリストの復活――すなわち「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」・「成就された時間」)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活――すなわち「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」・「成就された時間」)を考えること・想起することは未来(終末、救贖、完成、復活されたキリストの再臨)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の「前の過去」を考えることでもあるのである。

 

 一言、論じていて感じた感想を述べれば、確かに東大大学院で倫理学を専攻したという福嶋揚は、『使徒的人間 カール・バルト』を書いた富岡幸一郎に比して学業の優等生ではあるであろうが、その思惟と語りの内容について言えば、その論理と概念構成は、両者とも、バルトとは全く異なって、すなわち恣意的独善的にバルトのある言葉や一面・部分だけを抽象する(切り取る、拡大鏡にかけて全体化する)ことで、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を志向し目指している同類の神学者であり、キリスト教的著述家であったということである。また、両者とも、その誤謬に、大学社会やマス・メディアという「普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろう」(『カール・マルクス』)としているという点で、同類であったということである。したがって、ここでも、私は、彼らのような人たちすべてに対して、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し連帯する第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したバルトを、恣意的独善的な言葉によって人々に誤解させたりしないで欲しい、そのようにしてバルトに迷惑をかけたりしないで欲しい、と衷心から願う者である。