カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトについてのノート:11.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述11)
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 前回の(6)に「引き続いてのintelligere知解スルことの条件」は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト自身)、それ故に具体的にはそのイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書)――これら「先ず第一義的に優位に立つ原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」(バルトはこれらすべての言葉を使っている)としての第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(それ故に具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言)に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法――ここで「隣人愛」は、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を、すなわち神の側の真実としてある成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)という連関における第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義に信頼し固執し連帯したところの、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて人間的主観に実現された神の恵みの出来事(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)としての「credereそのものの(≪Credoを信ジルことそのものの≫)実在である」。したがって、「知解にとって」は、上述したような仕方で「正しいことが正しく信じられるということは、徹頭徹尾決定的なことである」。したがってまた、ここで「正しく信じること」は、上述したような仕方で「人間の対応する行為であり、定義からして、神ニ向カウコトであるところの信じることだけである」――「ソレニ向カワナイナラ、ソレヲ信ジルコトハ誰ニトッテモ無益ナコトデアル」。このような訳で、「信仰はただ単にソレヲ信ジルということだけでなく」、「信ズベキコトヲ信ジルコトである。そうでないとしたら、それは、……無益な死んだ信仰である」。

 

 「信仰とその知解は、神の言葉に基づいている……」。全き自由の神のその都度の全き自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた「神の言葉の賜物について語られるところでは、……それを聞くことの出来事のことも(≪起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動において、先行して神語り給うが故に後続して神語り給うことを聞くという出来事のことも≫)共に理解されなければならない」――「ソシテ、コノ畑ノ種ハ神ノ言葉、イヤ言葉デハナク、コトバヲ通シテ把握サレル意味デアル。意味(≪具体的には聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、起源的な第一の形態の神の言葉へと向かって「別の言葉で同一のこと言うこと」・「解釈する」こと≫)ノナイ声ハ心ノウチニ何モ構築シナイ」。

 

 「信仰とその知解は心の事柄である……」。「まさにそれだからこそ、それは意志の事柄である。何故と言って、信じることとその知解の正しさが望まれないところでは、どうして正しい心があるはずがあろう」。われわれは、先に述べたような仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(これは、<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である)という連関を志向し目指さなければならないのである、イエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)をのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さなければならないのである――「心デ望ムヨウニ、私タチハ心デ信ジまた理解スルガ、正シク信ジアルイハ理解シテモ、正シク望マナイ者ヲ、聖霊ハ正シイ心ヲ持ツ者トハ判断シテシナイ。ナゼナラ、正シク信ジマタ理解スルコトハ、正シク意志スルタメニ理性的被造物ニ与エラレテイルノニ、ソノヨウナ者ハ、正シイ信仰ト理解ヲソノタメニ行使シテイナイカラデアル」。「この正しい信仰が存在しないところ、そこでは、また正しい知解もあり得ない」。ここでは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉)の「永遠のまことの神性の告白を信用しない」ところの近代主義的プロテスタント主義的神学の学問性が、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」「すべての大学社会の」「神学の学問性が、ちょうど正しいことが信じられないところにおけると同じように、問いに付されているのである」――「ソモソモ、正シイ理解ニ従ッテ正シク意志シナイ者ハ、正シイ理解ヲ持ッテイルトハ言エナイシ」・「シカモ、精神ハ、信仰ト神ノオキテニ対スル従順ナシデ、ヨリ高イモノノ理解ヘト登ルコトガ禁ジラレテイルダケデハナク、善キ良心ノ欠如ハ、時ニ与エラレテイル理解ヲモ除去スル……コトサエアリマス」。「すべての神学的に答えようとすることと答えることができる」ためには、「神学者自身に向けられた禁欲的な問い」――すなわち、神学者(第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の神学者)には「純粋な心、明らかにされた目、子供のような服従、霊にあっての生、聖書からの豊かな養いが必要である」という「問いがよく考慮されなければならない」のである――「ソコデ、マズ心ガ信仰ニヨッテ清メラレナケレバナリマセン。マタ、……主ノオキテヲ順守スルコトニヨリ、マズ眼ガ照ラサレナケレバナリマセン。マタ、……(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示≫)証言ニ対スル謙虚ナ従順ヲ通シテ神ノ子供トナラナケレバナリマセン。……デハ、信仰ノ奥義ヲ非難シ議論スル前ニ、肉ノモノヲアトニシテ、霊ニ従ッテ生キマショウ。(≪第二の形態の神の言葉である≫)聖書ノウチデ、私タチガ従順ヲ通シテ養ウ糧ニヨッテ豊カニ養ワレレバ養ワレルホド、知性ヲ通シテ満足ヲ与エルモノヘト、ヨリ深クヒカレルコトハ真実ダカラデス」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』・『教会教義学 神論』および『教義学要綱』ならびに『バルトとの対話』によれば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の神学者(下記の【注】を参照)には、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力が、キリストの霊である聖霊の証しの力が、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動が必要であるということが、「よく考慮されなければならない」のである、徹頭徹尾「人間精神とは同一ではない」、「人間精神の一形姿」ではない、人間的理性・思惟・自己意識とは同一ではないところの神のその都度の自由な恵みの決断によって与えられる「聖霊によって更新された理性」が必要があるということ、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」が必要であるということが、「よく考慮されなければならない」のである。「信仰が実在の信仰であるところ」、すなわちその信仰が神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)であるところでは、「換言すれば服従であるところでは」、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に対する「服従」とそれに信頼し固執し連帯する決断・態度における「服従」であるところでは、その「服従の信仰に基づいた神学は、積極的な神学である……」。バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、「単なる知識」と「認識」(信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰)とを厳密に区別して、次のように述べている――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、イエス・キリストにおける神の自己啓示(それ故に具体的には聖書的啓示証言)を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合(人間的主観に実現された神の恵みの出来事が惹き起こされた場合)、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執し固着する「認識」(信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰)である。この時初めて、先行する神の言葉は、後続するわれわれに対して「実在」となり、また後続するわれわれも人間的にそれを「実在として理解することができる」、われわれは、イエス・キリストにおいて成就・完了された救済・平和を「信仰の中で持つ」――このことは、「約束として持つことである」、そして「われわれはわれわれの未来の存在を信じる、われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」、ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実として、それ故に客観的現実性として、「成就と執行」・「永遠的実在」として<すでに>ということである。またバルトは、『福音と律法』で、次のように述べている――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。アンセルムスは、この神の側の真実において、先に述べたような仕方で「正しいことを信じることと正しく信じること(そしてまたそれと逆の)この必然的な共存が、そこで知解されるためには、信じられなければならないことを付け加える。何故ならば、ただ信仰の中でだけ、服従の信仰(≪credere≫)と教会の信仰(≪Credo≫)のこの共存が経験されることができ、またただその経験の中でだけ、それは知解されることができるからである」――「実にコレコソ、私ノ言ウ『信ジナカッタナラ、理解シナイデアロウ』トイウコトデス。ナゼナラ、信ジナカッタナラ、人ハ体験シナイデショウカラデス、ソシテ体験シナカッタナラ、人ハ分カラナイダロウカラデス」――アンセルムスの「この文章……は、よく知られているように、シュライエルマッヘルの信仰論の表題の頁に、私ハ理解スルタメニ信ジマスと並んで現れているのであるが」、「正しい個人的な服従信仰(≪credere≫)と教会の信仰(≪Credo≫)の間の相関関係の必然性の『体験』について語っており、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰(≪信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰≫)はこの体験に対し優位な立場に立ちつつ秩序づけられているということを語っている」。しかし、シュライエルマッハーは違っている。すなわち、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、ヘーゲルの宗教版である近代<主義>者のシュライエルマッハーにとって「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」、またシュライエルマッハーにとって、「信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される」、この神学における人間中心主義的な「近代<主義>的思惟」は、対自的であって対他的な・すなわち自由な「人間(≪人間の自己意識・理性・思惟≫)が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く」。このことについて、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハは、根本的包括的な原理的な批判をしている――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして(≪それ故に≫)、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)、と。したがって、近代<主義>的プロテスタント主義的宣教・神学における近代<主義>的思惟にとって、宣教は、「『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。近代<主義>的プロテスタント主義的宣教者・神学者たちは、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない」・聖書は近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や情報が不足している・聖書は救済・平和が不足している等々と考えると同時に、人間の「精神的な促進のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする、すなわち「自己表現としての宣教」を企てる、すなわち「存在者レベルでの神」(偶像)の・「存在者レベルでの神(≪偶像≫)への信仰」の宣教・神学を企てる、すなわち自然的な混合宣教・混合神学を企てる。

 

【注】
  「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである限り、教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)、第三の形態の神の言葉の属する全く人間的な教会の一つの機能としての「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、何故ならば「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」の基づいて終末論的限界の下で与えられた信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰≫)である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」、教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たちのこと」である(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。

 

 ここで、かつて近代<主義>的神学者たちが「『実存的な』思惟の要請でもって為した……のと同じような」「死んだ正統信仰ただあまりにも動きの激しい活動的な(≪人間の≫)精神性(≪その働きとしての「国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念」や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観や思想傾向≫)へのへつらいの危険に対して」、アンセルムスが「矯正をして力を奮わせたということは見損なわれてはならないことである」。しかし、アンセルムスは、この「intelligere知解スルことの条件」も、(4)・(5)・(6)からして最後法廷的には、換言すれば第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における・またその一つの機能としての神学における思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、それ故に「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のであるから、「最後の一歩手前のものである」ということについて「意識していた」(自覚していた)し、「多くの真剣な問い」の中の「一つ」であった――「ソレユエ、誰モ慎重サヲ欠イタ軽率サヲモッテ種々雑多ナ詭弁ヲ弄シ、アル抜ケ難イ誤謬ニ陥ルコトノナイヨウニ、マズ堅固ナ信仰ヲモッテ真摯ナ生活ト知恵ヲ身ニツケズニハ、軽ハズミニモ複雑ナ神ニ関スル諸問題ト取リ組ムコトガアッテハナリマセン」。このことを認識し自覚しないならば、すなわち神学と人間学との混合神学・折衷神学としての自然神学の段階で停滞と循環を繰り返すならば、最後的にはシュライエルマッハーのようにヘーゲル哲学(人間学)に包摂されてしまう以外にないのである。その典型が、その前期と後期の総体を生きたところのその前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したルドルフ・ブルトマンであった。当然のことであるが、このブルトマンに対して、その前期と後期の総体を生きたハイデッガー自らが、次のような根本的包括的な原理的な揶揄・批判を為したのである――「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとく肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、(≪何故ならば、≫)『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』(≪結局のところ、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された神・偶像、その偶像への信仰として、キリストにあってのまことの神、キリストにあってのまことの神への信仰を見失うことになるであろう≫)」、と(木田元『ハイデッガーの思想』)。したがって、東北学院大学教授・佐藤司郎や東京神学大学実践神学教授・小泉健が、ルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論に依拠して、「聖霊論的出発」は「人間的なるものと、(人間が)なしうることの新しい強調を可能とする」、「聖霊論的出発」は「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」、聖霊論的説教論は「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得るもの」と述べているのであるが、人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲル以降(近代以降、人類史における西欧近代の段階以降)においては、もっと言えばフォイエルバッハおよびマルクス以降は、神学と人間学との混合神学・折衷神学(自然神学)は、どのような神学であれすべて、徹頭徹尾人間学に包摂されてしまうのである、このことは自明的なことである。したがって、中世的思考に退行し停滞しない限り、「神学の優位性を確保」すると言うことは決してできないし、「人間学的局面にもその位置を正しく与える」と言うことも決してできはしないのである。このような訳で、われわれは、現在においてもなお依然として、「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」のである、換言すれば対自的で対他的な人間の自己意識・理性・思惟の「自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」・また「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由)としての「自存性」と神とは全く異なる被造物、人間、人間的理性や人間的欲求によって為される「すべての条件づけからの神の自由」としての「独立性」との総体性・全体性における「神の自由を認識していないという事態に遭遇するのである(『ヘーゲル』)。したがってまた、「誰モ慎重サヲ欠イタ軽率サヲモッテ種々雑多ナ詭弁ヲ弄シ」(アンセルムス)てはならないのである、「アル抜ケ難イ誤謬ニ」(アンセルムス)、大学社会やマス・メディアという「普遍性や組織性の後光をかぶせて語って」はならないのである(吉本隆明『カール・マルクス』)。