カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトについてのノート:9.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述9)
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 教会の一つの機能としての「神学的な学問の、全線にわたって可能な、……また必然的な進歩がある」。しかし、アンセルムスは、「同時に、権威(下記の【注】を参照)である教会教父たち」の「信仰の知解の探求」における成果(それが良きものであれ悪しきものであれ)に関して、「人は彼らの作業の結果」・「信仰の知解の探求」における成果(それが良きものであれ悪しきものであれ)のところに「立ち続けなければならないことはないし、また立ち続けることはゆるされない」と語っている。何故ならば、先ず第一に、教会教父たちの思惟と語りは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のそれだからである、換言すればそれは、「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)――すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、起源的な第一の形態の神の言葉を、それ故に具体的には起源的な第一の形態の神の言葉と共に教会の宣教(聖礼典および説教、その一つの機能である神学)における原理・規準・法廷・審判者・支配者としてのその第二の形態の神の言葉――すなわち預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を、<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(それ故に「律法の成就」・完了そのものとしてのイエス・キリストにおいては、福音と律法は二元論的に対立してはおらず、律法は<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式である)との関連性において「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さなければならないそれだからである。第二に、「客観的な(≪啓示の≫)真理ノ根拠」は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会に対して、世の終りまで(≪教会の主・頭として≫)教会と共にいることを約束された主が、その恵みを教会の中で分与することをやめ給わないであろうことが確かである限り」「包括的である」から、たかだか百年の生涯を生きる人間の生における、またその「人間的な把握力」における、また「intelligere知解スルの諸可能性」における「彼らの命題でもって尽くされる」ことはできないし、それ故に「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し連帯する者は、彼らの思惟と語りに拘束されてしまうことはできないからである。このことは、単に、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し連帯した「教会教父たちの神学について妥当するだけでなく」、それに信頼し固執し連帯した「すべての神学についても妥当するということは、明らかである」。したがって、原理的に、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等に依拠した二元論的な混合宣教・混合神学の思惟と語りについては、総括的に言えば自然神学や自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返している思惟と語りについては、最大限の注意を払って対応することが肝要なことであることは明らかである。何故ならば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)が客観的に存在しているのであるから、そして信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)のためには全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づかなければならないのであるから、また啓示は啓示自身に固有な証明能力・キリストの霊である聖霊の証しの力・起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事に自己運動を持っているのであるから、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、神学も人間の自己意識・理性・思惟を使っての知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)ことは明らかであるからである。その最後的な形態は人間中心主義的な神の人間化あるいは人間の神化(混淆)にあるのであるが、また神学の人間学化あるいは人間学の神学化(混淆神学、混合神学、人間学的神学、哲学的神学等)にあるのであるが、そのような神だけでなく人間も――すなわち人間の自己主張・自主性・自己義認の欲求も(『福音と律法』)という二元論的な混合宣教・混合神学(総括的に言えば自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教)の至り着く果ては、『ローマ書』「第二版序言」のバルトの重要な立場である神と人間との無限の質的差異の止揚、解消の事態である(『カント』、『ヘーゲル』、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』等を参照されたし)。このバルトは、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)から前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンの啓示認識の方法を原理的に批判している(『ルドルフ・ブルトマン』を参照されたし)。そして、至極当然のことであるが、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンへの原理的な批判は、バルトだけでなく、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間の自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化されたに過ぎない≫)存在者レベルでの神(≪人間自身がつくった偶像≫)への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と述べて原理的に批判したところの、前期を包括しその前期と後期の総体を生きたハイデッガー自身も行っている(木田元『ハイデッガーの思想』)。もっと言えば、ヘーゲル学者の山崎純は、『神と国家』において、モルトマンの歴史形成論について、ヘーゲルにおける「神の彼岸性を克服した神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念における宗教」(換言すれば、神と人間との無限の質的差異を止揚し解消してしまった理念における宗教)とは、人間の自己意識・理性・思惟によって対象化された自由と理性の理念であり、モルトマンは、このヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、「律法・父の国・奴隷状態の歴史」(人類史的あるいは世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階)、「恩寵・子の国・神の子供状態」(人類史的あるいは世界史的段階で言えば、経済的基盤を農耕に置いた、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていない自由を認識し自覚していない自然を原理としたアジア的段階)、「自由・霊の国・神の友の状態」(人類史的あるいは世界史的段階で言えば、自然から完全に超出し自由を獲得し自由を認識し自覚している自由を原理とした西欧的段階)という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想したものであると指摘している(このモルトマンを評価しているメルロ=ポンティの身体性に依拠して混合神学・神学的な歴史形成論を論じた喜多川信に対しては、その個体性の哲学を原理的に批判した吉本隆明の『吉本隆明全著作集14』「個体・家族・共同性としての人間」および『詩的乾坤』「メルロオ=ポンティの哲学について」等を傾聴されたし――このことは、かつてすでに論じた)。「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の「聖教父オヨビ博士タチノ多クハ、(≪その第二の形態の神の言葉、すなわちその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわちその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である≫)使徒タチニ従イ、私タチノ信仰ノ根拠ニツイテ多クノ強力ナ論述ヲシテオリマス。ソシテ、ソノ真理ノ瞑想ニオイテ彼ラニ等シイ人タチヲ見イダスコトハ、現代モ将来モ望ミ得マセン。一方、堅固ナ信仰ノ持チ主ガソノ根拠ノ発見ニ努力スルコトヲ望ムトシテモ、決シテ彼ハ非難ヲ受ケルベキデハナイト私ハ考エマス。ソモソモ、『人ノ一生ハ短ク』(ヨブ一四・五)、コレラノ教父、博士タチニシテモ、イッソウ長イ人生ヲ与エラレタナラバ発見出来タコトモスベテ言イ尽クスコトハ出来マセンデシタ。マタ(≪啓示の≫)真理ノ根拠ハ広大、奥妙デ、死スベキ運命ニアル者ノ知リツクスコトノ不可能ナコトデス。サラニ、主ハ『コノ世ノ終リマデ』共ニオラレルコトヲ約束ナサッタ教会ニ、ソノ恩寵ノ賜物ヲ変ワラズ与エ続ケテオラレマス」、全き自由のキリストにあっての神はそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を客観的に存在させることを通して、また全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通してそうされておられます。

 

【注】
 それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会における「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」は、あくまでも「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事)、啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性とによって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)の「権威」・「自由」に基礎づけられている「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、徹頭徹尾「限界づけ」られている。したがって、この「限界づけ」を認識し自覚していない神学者、それに類する者は、すなわちその「限界づけ」から逸脱して「自分で(≪自分には≫)それ以上」の「権威」・「自由」やそれに基づいた神学的知識(その知識の実体は、本当は、その神学者やそれに類する者の恣意的独断的な知識でしかない)があると自惚れている者は「愚か者」でしかないのである。

 

 アンセルムスは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)――すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、起源的な第一の形態の神の言葉に感謝を持って信頼し固執し連帯することを通して、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉――すなわち預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯することを通して、「人間の精神に対して決定的に(あるいは少なくとも此岸においては決定的に)閉ざされたままであり続けなければならない」啓示の「真理のあれらのヨリ深遠ナ、マタヨリ多クノ根拠が存在していることについて知っているだけでなく」、「現在は隠されているが、しかしそれ自体は接近することができ、将来においてなお見出されるべき根拠について知っている」。したがって、「アンセルムスが学問の内部での運動を、事実、その都度、一つの根拠からもう一つのより高度な根拠への上昇として理解しようとした限り」、アンセルムスは、「神学的な進歩という考え」を持っていたと言うことは「適切なことである」。言い換えれば、アンセルムスは、「学問の内部での運動」を、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、具体的には第二の形態の神の言葉である最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として媒介することを通して、すなわち絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「一つの根拠からもう一つのより高度な根拠」へと上昇(深化、豊富化、高次化)していく過程に置いていたのである。すなわちこのような神学的な学問の過程性に、起源的な第一の形態の神の言葉(<純粋>なキリストにあっての神、<純粋>なキリストの福音)に向かっての「神学的な進歩という考え」を置いていたのである――アンセルムスの「学問的な自己意識がおそらく最高潮に達した」ところの、その存在の本質としての神性の受肉ではなくその存在の仕方としての言葉の受肉として「神ハナゼ人間トナラレタカのはじめの数章」で、アンセルムスは、「モシ無償デ受ケタモノヲ人ニ喜ンデ分ケ与エラレレバ、先生ガマダ到達シテオラレナイ高キモノヲ受ケルニ値スルノデスカラ、神ノ恵ミニ期待ナサルベキデス」という考えに「場を与えている」。この時、「その都度、……(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の≫)歴史的な時間の中で遂行された(≪神学的な≫)進歩というもの」が、「神学者の恣意の手にゆだねられているのではなく」、「われわれにとってその都度、何を知解することがよいことであるのかをよく知り給う神の知恵によって条件づけられているということが、よく注意されなければならない」、啓示自身が持っている啓示の固有な証明能力に・キリストの霊である聖霊の証しの力に・起源的な第一の形態神の言葉自身の出来事の自己運動に・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に・全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に「条件づけられているということが、よく注意されなければならない」。「私ニ有益トオ考エニナラレルコトダケ、私ガ理解スルヨウニ計ラッテクダサイ」。何故ならば、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その思惟と語り、その一つの機能としての神学が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、「われわれ人間の決定事項ではない」からである、それ故に全く人間的な教会の宣教、その思惟と語り、その一つの機能としての神学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」からである。このような訳で、アンセルムスにとって、前述したような意味での「神学の完全性」が、「同時に、原動力と留保を意味していることは見紛うべくもないことである」――「モシ貴君ノ質問ニ私ガアル程度満足ノイクヨウニ答エルコトガ出来タトシテモ、私ヨリ賢明ナ人ナラ、ヨリ以上ニ貴君ノ意ニ沿ウコトガ出来タデアロウコトハ確カデアル。サラニコノヨウニ重要ナ問題ニツイテハ、人間ガ何ヲ言ウコトガ出来タトシテモ、ソレヨリモ深遠ナ根拠ガ秘メラレテイルコトヲ知ラナケレバナラナイ」、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ということを認識し自覚しなければならない、Tコリント8以下について認識し自覚しなければならない。このことをドストエフスキーにおける文学の言葉で表現すれば、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、「主よ、汝の王国の来たらんことを」(『罪と罰』)という、終末、救済・平和の「完成」、復活されたキリストの再臨を待ち望むという終末論的信仰における思惟と語りになる(全き自由の神のその都度の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる終末論的信仰において「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、(≪「平和」の概念は「救済」概念に包括されている≫)救われていることについて語る時」には、われわれは、神の側の真実としてある「成就と執行」として、「永遠的実在」として、永遠的な客観的現実性として「すでに」においてと、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとって「いまだ」において、「終末論的に語る」のである。救済・平和の「完成」は、終末、すなわち復活されたキリストの再臨を待たなければならない)。