カール・バルトについてのノート:10.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく
カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述10)
(6) 三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての「すべての神学的な言説の具体的な標準」は、「それらの言説の創始者および彼の聞き手のところで」・また「対話仲間と読者のところで」下されるそれとして、「神学的な言説の特殊な認識<価値>が確定される……標準」ではない。言い換えれば、それは、「特定の学問的な考察の……intelligere知解スルことにおける進歩」、すなわち具体的には「まさに教会に宣教を義務づけている」ところのイエス・キリストにより直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(第二の形態の神の言葉としての啓示の「概念の実在」)である聖書に信頼し固執し連帯した創始者を含めた先行する特定の学問的な考察の成果を肯定的にあるいは否定的に媒介・反復して深化・豊富化していくという意味での「進歩」である(下記の【注1】を参照)。したがって、それは、「単に(≪一般的な≫)学問的な確実さ」とは質が違うものである。したがってまた、その「神学的な言説の特殊な認識<価値>」の確定は、われわれにとっては、終末・完成――すなわち復活されたキリストの再臨を待ち望む終末論的限界の下で、徹頭徹尾「<最後>法廷的には、当然のことながら……」、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方――すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者としての父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身の中に、換言すれば「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者として、「自ら真理であり給う(≪キリストにあっての≫)神……の中に、隠されており、あくまで隠され続けている」(Tコリント13・8以下)――このことは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、教会の宣教における思惟と語りと同じように、その一つの機能としてのすべての神学的な思惟と語り・言説が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識(≪あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関における特殊な認識<価値>としての認識≫)として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁(総括的に言えば自然神学としての人間学的神学における一般的な認識<意味>としての認識、自然的な人間的な意味性・物語性としての認識≫)でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ということである、それ故に、その宣教を含めて第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としてのすべての神学的言説は、われわれの思惟と語りにおける「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者である起源的な第一の形態のイエス・キリスト(それ故に具体的には、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言)から絶えず繰り返し「攻撃されている」。したがって、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」という神学的概念に第一義的に依拠した東京神学大学実践神学者・小泉健による恣意的独善的な人間の側からする「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」という無媒介的な思惟と語り・神学的言説は、「攻撃されている」のである。言い換えれば、全き自由の神の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づくことなしの、それ故に人間の側の恣意性独善性「わがまま勝手」さによる、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における全き自由の第三の存在の仕方である「聖霊」(聖霊は、神的な愛に基づく交わりの中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」・啓示者であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」・啓示であるところの性質・業・働き・行為・行動である)が、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「説教者」に「言葉を与え、語ることへと導く」という思惟と語り・神学的言説は、そして第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の「説教者」が、全き自由の神の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づくこともなしに、聴衆に「聖霊の言葉を伝え」・聴衆を「聖霊の言葉に導く」という思惟と語り・神学的言説は、すなわち神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象した人間の側からする聖霊や聖霊の言葉の恣意的独善的な「わがまま勝手」な<実体化>は、「攻撃されている」のである。
このような訳であるから、すべての神学的な言説は、「最上の場合においても、人間的な賛同を……見出すことができるだけである……」、ちょうどルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論を賛同的に評価し紹介した神学者や牧師やその賛同者たち、小泉健や佐藤司郎のように。「しかし、少なくとも神学作業が信頼に値するもの(≪「認識価値」のあるもの≫)であるか・信頼に値しないもの(≪「認識価値」のないもの≫)であるかについて決定する一つの標準がある」――この「標準」は、それ自身が聖霊の業であり<啓示の主観的可能性>としての客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身)の最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である「聖書(≪聖書的啓示証言≫)……の本文である」、「アンセルムスによれば、……Credoの根本要素」と「credereが、それ故にintelligere知解スルことが関わっている根本要素を形造っている聖書の本文である」。言い換えれば、「アンセルムスによれば、……Credo(≪教会の<客観的>な信仰告白≫)の根本要素」、すなわち第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」――すなわち最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、キリスト教に固有な類およびその時間性)に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白(第三の形態の神の言葉としてのキリスト教に固有な類およびその時間性)としての「Credoの根本要素」と、「credere」(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白・Credoを信ジルこと、「Credoを信じる信仰自身」≫)が、それ故に「intelligere知解スルことが関わっている根本要素を形造っている聖書の本文である」。このように、「聖書がそこでの決定的な源泉であることによって、同時に聖書はまた、intelligere知解スルことの決定的な標準であり、理性的結論デアル真理ノタメノ権威である」(≪下記の【注2】を参照≫)、すなわち聖書は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の思惟と語り・神学的言説における原理・規準・法廷・審判者・支配者であるから、教会の一つの機能としての「神学的学問」は、それに信頼し固執し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義(第三の形態の神の言葉)に対して「責任を持たなければならない」――「『神ハナゼ人間トナラレタカ』の中で、……対話相手であるボゾが、……教会的な権威(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義、下記の【注2】を参照≫)を代表していることに注目されなければならない」、それ故に「神学的学問」は、その教会の<客観的>な信仰告白および教義に対しても「責任を持たなければならない」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言)は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての「啓示の実在」そのものである「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストと共に、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である。何故ならば、預言者および使徒たちの最初の直接的な第一の「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教である聖書こそが、教会に宣教を義務づけているからである」。したがって、第二の形態の神の言葉である「聖書(≪聖書的啓示証言≫)が教会(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の宣教≫)を支配するのであって、(≪第三の形態の神の言葉である≫)教会が(≪第二の形態の神の言葉である≫)聖書を支配してはならないのである」、すなわち教会(教会の宣教、その一つの機能としての神学)は、恣意的独善的に「わがまま勝手に」、聖書(聖書的啓示証言)に先行することは許されないのである、聖書(聖書的啓示証言)を自らの思惟と語り・言説における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を、<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(ここで「隣人愛」は、<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である――すなわち、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)を志向し目指さなければならないのである、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さなければならないのである。
「アンセルムスの規則は、……次のようなものである」――ある「命題が、聖書の本文とあるいはその直接的な結果と一致する時には(≪それ故に、自然的な、人間学的な哲学原理・認識論・世界観あるいは現存する思想傾向・文化傾向・人間論あるいは「国家的、政治的、経済的、……道徳的な諸原理や理念や体制」あるいは特定の人種・民族の利害等と一致する時ではない≫)、その命題は確かに絶対的な確実性をもって妥当するのであるが」、「この一致の中では、まだ本来的に(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての≫)神学的な言説ではない」。「それに対して」、ある神学的な「言説が、本来的に神学的な……命題であるならば」、「換言すれば聖書の本文(≪その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉≫)に対して独立的に形成された命題(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての神学的な言説における概念的規定、概念構成≫)であるならば、その時」、一方で「それが聖書(≪その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉≫)に矛盾しないという事実」が、その神学的な「言説が信頼に値していることについて決定する……」、例えば第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のバルトにおける三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)という、聖書・第二の形態の神の言葉・その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」に対して「独立的に形成された」神学的な概念構成は、「聖書(≪その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉≫)に矛盾しないという事実」が、その神学的な「言説が信頼に値していることについて決定する」というように、また同じバルトにおける神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等)――「イエス・キリストが信じる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」、「律法の成就」・完了、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和という、聖書・第二の形態の神の言葉・その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」に対して「独立的に形成された」神学的な概念構成は、「聖書(≪その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉≫)に矛盾しないという事実」が、その神学的な「言説が信頼に値していることについて決定する」というように。したがって、他方で、その第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての神学的な「言説が、聖書(≪その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉≫)に矛盾しているという事実」は、それが「どんなに輝かしい基礎づけがそこにあるとしても、……信頼に値しないものであることについて決定する」――「私タチガ理性ニヨッテ表明スルコトデ、時ニ聖書ノ言葉ヲモッテ明ラカニ示スコトモ、ソノ言葉カラ立証スルコトモ出来ナイコトガアルトシテモ、ソノ見解ヲ受ケ容レルベキカ、拒否スベキカハ次ノヨウニ聖書ヲ通シテ知ルコトガ出来ル。スナワチ、モシコノ見解ガ明白ナ理性(≪――バルトの『福音主義神学入門』や『教義学要綱』に即して言えば、われわれ人間は誰であれ、われわれ人間の自然的な・生来的な「『理性や力によっては』全く信じることができない」から、すなわち信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰は全き自由の神の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づかなければ不可能であるから、聖霊とは決して同一ではないところの聖霊によって更新された理性――≫)ニヨルモノデ、聖書ノドノヨウナ部分トモ矛盾シナイナラ――聖書ハドノヨウナ真理ニ反スルコトモナイヨウニ、ドノヨウナ虚偽ヲモ支持スルコトハナイカラデアル――、理性ノ表明シテイルコトヲ聖書ガ否定シテイナイトイウ事実カラ、ソレハ聖書ノ権威ニヨッテ受ケ容レラレテイル。シカシ、タトエ私タチニハ私タチノ理性ガ批判ノ余地ノナイモノト見エテモ、私タチノ理解ガ疑イモナク聖書ニ反スルモノナラ、ソレハドノヨウナ真理ノ支持モ得テイナイモノト信ジナケレバナラナイ」、「モシ私ガ聖書ニ疑イモナク反スルコトヲ何カ言エバ、ソレガ誤リデアルコトハ確実ダシ、マタソノコトニ気ヅイタナラ、ソレヲ固執シタイトハ思ワナイ」。このように思惟し語るアンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」、そしてそのことを、「人は合理主義だと批判した」、しかしアンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」、すなわちアンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、「啓示から得られた認識」、客観的可視的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身)のその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉)から啓示認識の可能性(啓示の主観的可能性)について考えたのである。
【注1】
バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、次のように述べている――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」、また「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、それらは混合神学、人間学的神学、哲学的神学、総括的に言えば自然神学でしかなかった、このことを宣教に敷衍すれば、二元論的な<純粋>なキリストの福音だけでなくキリスト教的な社会的政治的実践もという混合宣教は、総括的に言えば自然的な信仰・神学・教会の宣教でしかなかった、それ故にそのような混合宣教は、「かつて語った(≪あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関の中で<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指した≫)説教の一貫した繰り返し」において、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行」くというものではなかった(『カール・バルトの生涯』)、それ故にそのような宣教は、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関の中で<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにおける宣教ではなく、二元論的な福音の宣教だけでなく社会的政治的実践もという混合宣教あるいは折衷宣教であった。
したがって、バルトは、『バルトとの対話』で、次のように述べている――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち神学も人間的な理性を用いの理性的な知的営為ではあるが、 「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と。また、『教義学要綱』では次のように述べている――「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、それ故に神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」における聖霊の注ぎにより更新された理性も聖霊ではない、と。
【注2】
神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会における「権威」・「自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性とによって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの第二の形態の神の言葉である聖書(聖書的啓示証言)の「権威」・「自由」に基礎づけられている「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、徹頭徹尾、「限界づけ」られている。言い換えれば、第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちと「イエス・キリストとの出会いの直接性」における「直接的、絶対的、内容的な」「権威」と、「自由」――すなわち「イエスの弟子たちがキリストの後に従う随従」は、直接的な唯一回的特別なそれであるから、「繰り返され得ないもの」である。第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちと第一の形態である主なるイエス・キリストとの関係は、「啓示そのものが一回的であるのと同じように、一回的な関係」である。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉である全く人間的な「教会・その成員の現実存在」と、そうした第二の形態の神の言葉における「預言者および使徒たちの現実存在」とは、本質的に同一ではない、本質的に等価ではない。本質的に同一化することはできない。第三の形態の神の言葉である全く人間的な「教会・その成員の現実存在」を、第一の形態の神の言葉および具体的には第二の形態の神の言葉に「先行」させることはできない。したがって、第三の形態の神の言葉である全く人間的な「教会・その成員の現実存在」は、その「教会・その成員の現実存在」に「宣教を義務づけている」ところの、具体的にはそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」を志向し目指さなければならないのである、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さなければならないのである。