本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その3)

(その3)
3)神は、「福音と律法の真理性」における賜物を、福音を内容とする福音の形式である律法として、罪人の人間の手に「にもかかわらず」与える――この「にもかかわらず」の「消極的な意味」とは何か?
ア)ここで真実の罪とは、人間の「自主性」・「恩寵に対するわれわれの拒否と神に対するわれわれの『自己主張』」のことであり、人間にある「無神性」のことです。神は「福音と律法」の賜物を、こうした罪人である人間の手に「にもかかわらず」与える「消極的な意味」とは何か? ということです。イエス・キリストが信ずる信仰による神の義にのみ信頼し固着せよ、という福音の形式である律法(神の「誡め・要求・要請」)に対して、人間は、人間の自由な自己意識の無限性(ヘーゲル哲学における人間に内在する神的本質)を自覚した近代以降は、そのことに自覚的でない場合、不可避的に、どうしようもなく人間の欲求・自主性・自己主張・プログラムを手放すことはできないわけです。したがって、人間は、福音の形式である律法を聞く時、「律法を悪用する」「罪の法則」によって「善きものを反対物に変」えるという人間的な「巨大な欺瞞」を惹き起すわけです。それも、「実に神の名において、神の呼びかけのもとに」です。このようになる根拠は、人間が、義認の唯一の根拠である「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を、すなわちイエス・キリストが「律法の終わりとなられた方」であることを聞かず承認せず、神だけでなく人間の欲求・自主性・自己主張もという神との「共働者」であることを求め続けるところにあるわけです。その場合人間は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げていきます。このような神に対する「熱心さの無知」は、人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認(無神性)に基づいており、「神の要求」を、人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えていきます。この時、人間のその存在・その思惟・その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さ・「不従順」・「虚偽」となるわけです。なぜなら、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせるからです。ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」。また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する。そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する。「まことに空の空なるかな、である」、となるわけです。バルトは、「これらすべてのことが、一体何だろうか」と述べています。このバルトの言葉は、倫理の言葉ではありません。神学における還相過程からの言葉なのです。したがって、この言葉を倫理的反発において捉えた場合、その人は、バルトをその根本においてトータルに理解することはできないのです。すなわち、この言葉は、神との「共働者」論に基づく往相過程における相対的過渡的部分的課題の観点しか持たない自然神学的なその存在・その思惟・その実践に対するアンチテーゼなのです。言い換えれば、「この世にあって、そこなわれた、弱い、困窮するすべての人々への黙々たる奉仕」は、神学における還相的な究極的永遠的課題である全人間・全世界・全人類の救済・平和の根拠である、神の側の真実=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性に対する感謝の応答としてのその告白・証し・宣べ伝えにあるわけです。現在に至るまで諸個人等や全世界・全人類は、個や男女や夫婦や家族や、社会や政治の諸課題に対する解決のための様々な人間的試みを行ってきたのですが、終末論的限界の前に立たされてその試みは、今までも成功したためしはないし、今後も決して成功することはないでしょう。バルトは、このことに自覚的なのです。そのことに自覚的でない場合、私たちは、自分を愛するように隣人を愛せよというキリスト教的な愛の奉仕の在り方(自己愛の外化)に限って言っても、その在り方と、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』におけるアイヌの在り方や野村達郎の『民族で読むアメリカ』における北米インディアンの在り方との決定的で根本的な差異性をいったいどこに設定できるのだろうか? という問いの前に立たされます。
イ)自然に対する最大限の利益の享受と感謝の念が浸透し・人と樹木や動物との情念の交流ができ・山川草木に霊が宿ると考える内在的な精神は、世界史のアフリカ的縄文的段階においては世界的普遍性として成立していた。そうした内在的な精神を残していたアイヌ人と北米インディアンのその在り方はどのようなものだったのだろうか?
 バードは、アイヌ人について次のように報告しています―@彼らが使っている煙草入れや煙管入れを二ドル半で買いたいと言うと、「それらは一ドル10セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」と言った。儲けることはアイヌ人の「ならわし」ではなかった。A「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、村の男たちが総出でその家を建て直すことを「ならわし」としていた。B明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」。「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる―彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」。C彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる。D彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない。すなわち、軍事部門を立ち上げようとする意志・国家形成の意志をもたない。E彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている。総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」。
 こうしたアイヌにおける内在の精神は、黒人アフリカ等にも存在するし、白人進出以前の二万年前から先住する、征服併合された被支配民である北米インディアンにも残されていたことが分かっています。。野村達郎は、北米先住民のインディアンについて次のように報告しています――@収穫物の平等な分配がされていた。A長老たちによる合議制による社会で、国家形成を目指さず、部族共同体あるいは部族連合にとどまる平和な種族であった。B独立革命以前のイングランド系移民である「コロニスト」(植民者)や「セトラー」(定住者)は、インディアンや同国人の死体を食すくらいに飢餓や疫病の流行等の困難を極めた植民であったが、インディアンはそうした彼らに対して平和的で親切であった。しかし、黒人に対する支配の在り方もそうであったが、初期入植者の子孫である白人主義・アングロサクソン・プロテスタント(正当なアメリカ人としてのWASP)による北米インディアンに対する侵略・支配の在り方は酷いものであった。
 いったい、どちらがキリスト教的な愛の奉仕の在り方と言えるだろうか。「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没したことはなかったであろうか」――私は、このバルトの言葉を首肯します。
ウ)このような人間の自主性・自己主張・自己弁護・自己義認(無神性)の欲求に基づく「律法の悪用」という事態の中で、人間によって恣意的に曲解された神の律法(福音の形式)と共に、神の福音の内容も「破壊」され定期ます。すなわち、ここにおいては、イエス・キリストは、「一種神話的な半身(付属物)」、「理念の人格化」、「偉大な貸方」でしかありません。このような偽りの姿における福音の形式である律法は、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」による神の義そのものであるイエス・キリストを「律法の目標としない」わけですから、その「律法の目標」は、人間的な「自然法」や抽象的「理性」や「民族法」という形に転倒されてしまうわけです。その場合、イエス・キリストが信ずる信仰による神の義、それは福音の内容であるとともに、それが人間の手に渡される時に律法という形式を取るわけですが、その福音の形式である律法をも守らないのですから、福音の内容であるイエス・キリストが信ずる信仰による神の義もあり得ないことになります。ここに、人間の真実の罪と人間の状態があります。したがって、この場合の人間の状態は、徹頭徹尾「喪われた者」であり、「死と地獄に渡された者」であり、「何の助言も、何の慰めも、何の助けも存在しない」ということのみを知らされるところにあります。この事態の認識は、一般的真理としてではなく啓示の真理・信仰の真理として、あくまでも啓示の出来事(啓示の客観的現実性)と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識において可能なわけです。すなわち、その意味において、人間の感情・理性等の人間的契機の直接性、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論や人間学的な認識論や哲学原理や世界観神、神と人間・神学と人間学との混淆・共働に基づく啓示の主観的現実性に基づく啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識においては不可能なわけです。
 このことが、「にもかかわらず」から生ずる「消極的な意味」である、というわけです。(その4)では、神は、「福音と律法の真理性」の賜物を、福音を内容とする福音の形式である律法として、罪人の人間の手に「にもかかわらず」与える――この「にもかかわらず」の「積極的な意味」とは何か? について述べてみます。