カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトの生涯――ルターを否定的に媒介した自然神学との決別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程(その2−1)

カール・バルトの生涯――ルターを否定的に媒介した自然神学との決別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程(その2−1)
再推敲・再整理版です。

 

 バルトは、1920年代を、「『時の間』の時代と見て、生き」た。バルトの神学体系において、内容的な意味での処女作『ローマ書』第2版へ向かって成熟した彼は、次には、「時の間」の時期に、現実と時代とに強いられて、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教にあるローマ・カトリック<主義>にプロテストしたルターを否定的に媒介した自然神学からの決別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を著わすことへと向かった。人間と自然とに「共通な規定」を「自然」に置いたフォイエルバッハに対して、自然の一部である人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動に、非有機身体化(自然の人間化)と有機的自然化(人間の自然化)という「浸潤」し「対立」し合う「疎外関係」(経済学なそれではなく、自然哲学的なそれ)を見たマルクスにとって、すなわちフォイエルバッハを「紙一重のところで超えた」マルクスにとって、「真に亡霊のように悩ませ、巨大な壁としてかれのまえにたちふさがり、真に学ぶべき卓越した存在としてみえたのは……プロイセン国家哲学の反動的な巨匠ヘーゲルであった」(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」)。こうした事情は、バルトにおいても変わりはなかった。バルトは、『ヘーゲル』で、次のように述べている――ヘーゲルにおけるその神、その神の啓示は、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動の無限性が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうから「受け入れ難く耐え難い」のであり、その「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、人間中心主義的な「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にあるのであるが、すなわち人間の側からする神との「混淆」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」という事態にあるのであるが、換言すればその自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における事態にあるのであるが、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々(≪近代主義的、それ故に自由主義的神学者、民族主義的神学者、エコロジー神学者、フェミニスト神学者、ブルトマン、モルトマン、人類史における尖端性としての西欧近代の段階とアジア的な日本的特殊性に依存した滝沢克己や八木誠一等々≫)の所でも」、その「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」、と。したがって、バルトにとっても、人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見した「人間中心主義」のヘーゲル哲学は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に連帯する自らのその神学の原理およびその認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚し克服しなければならない対象であった。したがってまた、バルトは、先ず以ては『ローマ書』「第2版序言」で、ヘーゲル哲学を根本的包括的に原理的に止揚し克服できる「方式」は、換言すれば人間の側からする神との「混淆」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、二元論的な宣教(説教と聖礼典)と社会的政治的実践との「混合宣教」論、神学と人間学との「混合学」を目指す一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服できる「方式」は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するというところにある、と述べたのである。このことは、様々な対象に対して適用可能である、われわれのための神の時間、啓示の時間、イエス・キリストの時間、キリストにあっての福音の歴史、永遠、救済史は、われわれ人間の時間、人間の個の時間性としての自己史、人間の類の時間性としての歴史(世界史、人類史)、われわれ人間の自己愛の外化を本質とする隣人愛・隣人愛の時間、有限の、常に、<外・彼岸>にあるし・あり続けるというように、また聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」としての「聖霊」は、「人間精神……と同一ではない」というように、すなわちたとえその人間的理性が神のその都度の自由な恵みの決断によって更新された理性であったとしても、その人間的理性は、徹頭徹尾「聖霊と同一ではない」というように(『教義学要綱』)、また「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのものは、神のその都度の自由な恵み決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の、常に、<外・彼岸>にあるし・あり続けるというように(Tコリント13・8以下)。
 われわれは、これまで、『カール・バルトの生涯』を辿りながら、段階的に言えばその第一の段階に相当するところの、一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する決別のための処女作『ローマ書』「第2版序言」へと向かったバルトの道程を見てきた。今回は、『カール・バルトの生涯』を辿りながら、段階的に言えばその第二の段階に相当するところの、その『ローマ書』第2版を経由させたところの、一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する決別のための宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』へと向かったバルトの道程を探求してみたい。

 

 先ず以て、ブッシュの「W 時の間 ゲッティンゲンとミュンスターの神学教授として1921−1930年」の記述における欠陥は、その「時の間」の時期における『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』へと向かう、現実と時代から強いられたバルトが認識し自覚した神学的思想的な課題とその思想形成の過程が重要であるにもかかわらず、そのことの記述が為されていないという点にある。それは、前述したことであると言ってよい。その記述の欠如が何故欠陥かと言えば、『ローマ書』「第2版序言」およびルターを否定的に媒介した自然神学との決別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』における現実と時代から強いられたバルトの神学的思想的な課題は、客観的に正当性と妥当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)に対して、その批判を、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという仕方での自らの神学の立場において、すなわち自らの神学のその原理、その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚し克服するという点にあったからである。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』によれば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における神の啓示の内容は、「人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものであり、それ故にその対象からして、「神学の秘密は人間学以外に何物でもない!」からであるし、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』によれば、自然的な共同宗教としてのキリスト教の最後的形態は、第一義性・価値性としての観念の共同性を本質とする政治的近代国家であるからであるし、ハイデッガー(木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)によれば、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンの神学における信仰は、人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した対象物、物語り世界、意味的世界に対する信仰――すなわち「存在者レベルでの神への信仰」でしかないから、このような自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教は、バルトの神学の総体像に引き寄せて言えば、聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>と「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという仕方での自らの神学の立場において、すなわち自らの神学のその原理、その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚し克服されなければならない。このような訳で、現実と時代から強いられたバルトの神学的思想的な課題とその思想形成の過程は、そのような自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服することにあったのである。このことができれば、その教会の宣教における言葉、その一つの機能としての神学における言葉は、時代を超えて未来に生きるであろうからである、換言すれば人類史の尖端性としてある西欧近代の段階を超え出て未来に生きるであろうからである。

 

 ここからは、ブッシュの『カール・バルトの生涯』を、時系列的に辿ってみる。
 1921年のゲッティンゲン大学への教授としての赴任は、バルトにとって、今までの「誤りと失敗」に満ち満ちた「運動」の終わりと、処女作『ローマ書』第2版の次にやってくる、現実と時代が強いてくる神学的思想的問題を扱う「仕事」の始まりを意味していた。このように、バルトの神学的営為は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「(≪それが神学大学であれ、大学神学部であれ、大学文学部神学科であれ≫)すべての大学社会の神学」とは違っていた(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。11月の説教で、バルトは、「神学の学問性」は、「いっさいの人間の名前から逃走して……啓示された主の御名に赴くこと」・「主の御名について知ること」、すなわち「イエス・キリストの名」について知ることである、と述べている。この思惟と語りは、『教会教義学 神の言葉』では、同じ内容において、次のように語られている――神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「神の言葉が人間によって信じられる……出来事」、すなわち信仰の出来事は、「人間自身の業ではなく、神の言葉自身」の業、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動の業、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注出」による、換言すれば「言葉を与える主(≪啓示の客観的側面≫)は、同時に、信仰を与える主(≪啓示の主観的側面≫)である」、したがって聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、すなわちイエス・キリストの出来事(純粋なキリストの福音)の宣べ伝え(純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)を目指すことのない「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は教会の宣教における一つの機能である教義学としては非学問的である」、と。したがって、バルトは、「非情な集中力で講義の準備に没頭した――『ほとんどたいてい徹夜で!』」。何故ならば、バルトは、「あわれな騾馬のように、まるで霧の中を自分の道をさぐりあてなければ」ならなかったし・またバルトは、「学問的機敏さが欠如していて、ラテン語の知識も不十分で、記憶力もわるいという条件の下で」、学問(神学)に没頭しなければならなかったからである。講義の準備のために、そしてそれは教会の宣教にとって最善最良の神学を構成するためであったが故に、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという仕方で、それ故に「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求める」(『啓示・教会・神学』)という仕方で、レンガを一つ一つ積み上げていくようにして尽力した。
 バルトは赴任当時、「改革派の信仰告白文書を所有してもいなければ、……読んでもいなかった」が、バルトのその神学的思惟は、すでに「改革派的であり、カルヴァン主義的であった」。そうした中で、教授職遂行のために「相当厳しい徹夜の勉強によって」、「ますます自覚的に改革派の神学者となり、『……純粋な改革派の教理に関心を持つようになって』い」った。
バルトは、ゲッティンゲン大学で、「ルターとフィヒテの偉大な研究家」であり、「ドイツ=国家主義的であった」エマヌエル・ヒルシュに注目した。彼らは「議論と論争をかわした」。その「議論と論争」において、その思惟と語り方して自然神学の系譜に属するヒルシュの「一般的な宗教書としての聖書という理解に対して」、<非>自然神学の段階へと移行していく歩みを進めているバルトは、「具体的な神の啓示の原典としての聖書という……理解」を対置させた。このバルトの語りは、神に聞くとは、具体的には聖書に聞くということを意味しているのであるが、この語りにおける神学的立場は、1934年の『啓示・教会・神学』等、すべてに貫徹されていく。

 

 1922年、バルトは、「神学の主題と方法」について、フリードリッヒ・ゴーガルテンとの間に決定的な差異性を認識し自覚する。すなわち、ハイデルベルク信仰問答やエペソ書について「正しく語ることができる前に、まず歴史とは何か」、すなわち人間学的な人間の時間性としての「歴史概念を理解しなければならない」と主張するゴーガルテンの自然神学的な立場に対して、バルトは、『教会教義学 神の言葉』の概念に依拠して言えば、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)におけるハイデルベルク信仰問答(第三の形態の神の言葉に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義)やエペソ書(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言)を「研究し、それをきっかけとして、初めて歴史とは何かを理解しよう」とする<非>自然神学の立場を対置させた。何故ならば、バルトの神学の」総体像に引き寄せて言えば、「福音の歴史の正しい考察」、正しい歴史認識の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」という点にあるからであり、それ故に人間の歴史は、「神的自由の行為」(全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事)としての啓示となることはできないからであり、それ故にまた「われわれが哲学的用語(≪歴史的用語≫)をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試み(≪歴史主義的試み≫)が終わるところから始まる」からであり、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」からである。もっと言えば、われわれ「罪に穢れた人間」は、「心が開かれみ言葉を受け入れまた聞くために」は、「み言葉の主である聖霊によって再生された理性」を必要とするからであり、そしてその「聖霊は理性を抑圧」せず「理性の再生をもたらす」からである。このような訳で、人間実存の直接性に依拠する「実存的釈義家」の場合は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提」として、それに信頼し固執しているから、「誤謬は必然」となるのであるが、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは聖霊である」から、その「聖霊の交わりにおける人間の実存」に依拠したバルトの場合は、もちろん神とは全く異なるただの人間として「あやまちは可能である」が、「実存的釈義家」の場合のように「あやまちは必然」ではないのである(『バルトとの対話』)。ここで、聖霊によって更新された理性であっても、その人間的理性は、神と人間との無限の質的差異の下にあるそれとして、聖霊と同一ではないのである。
 1922年夏、バルトは、「三つの大きな講演で、彼の神学を明確に語って」いる。バルトは、その講演で、危機神学・弁証法神学(「神の言葉」の神学)を語ったのであるが、現存していた「宣教の危機的状況」の認識と自覚に基づいたバルトの神学の「主題と方法」の内容は、バルトにとって、現存していた「あらゆる神学の本質の解明」、換言すれば自然神学の本質の解明であり、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという仕方での自然神学の根本的包括的な原理的な止揚と克服にあった。
 第一の講演『キリスト教宣教の危急と約束』――弁証法的に「神がわれわれに然りと語ったからこそ、われわれは徹底的に……否の中に立たなければならない」。第二の講演『現代における倫理学の問題』――「われわれは神学者であるから、神について語らなければ」ならない(当為性)。「しかしわれわれは人間であり、その限りでは神について語ることはできない」(不可能性)。したがって、「われわれは〔神学者としての〕われわれの当為と不可能の両者を知り、まさにそのことを通して神に栄光を帰さなければならない」・弁証法的に神について語ることを含めてわれわれ人間の語り・言語は、「『神の言葉』を語ることはできず、ただ神の言葉への示唆となりうるに過ぎない」(『神学の課題としての神の言葉』)。この思惟と語りの先に想定されるバルトの思惟と語りは、聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>と「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという仕方において明らかになってくるところの、イエス・キリストにおける啓示は、啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与えることができる授与能力を、聖霊の業である「啓示されてあること」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っているというそれである、また先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」というそれであり、それ故に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」というそれである(『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』)。
 さて、1922年2月、バルトは、マールブルク大学の新約学の正教授のブルトマンを、マールブルクに訪ねている。興奮をもって前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンは、バルトを誤解し曲解し誤謬したまま、『ローマ書』第2版の書評において、自然神学の系譜に属する「シュライエルマッハーやR・オットーやトレルチが、宗教という表題のもとで論じたことと同列において」、「全面的に賛同」した。バルトはこのブルトマンのその神学の原理、その神学の認識方法と概念構成に対して、次のように根本的包括的な原理的な批判を加えている――ブルトマンの実存論的聖書解釈にとって、聖書記事は、そして新約聖書の使信そのものも、その表象形式の神話も、人間の自己認識・自己理解・自己規定の表明であり、それは、不信・非本来性から信・本来性への実存的移行の表明であり、人間の言語を介して対象化された実存の表明(意味的世界、物語り世界)、すなわち聖書記者たちの実存的主張であるから、そのように「理解し、解明されなければならない」とされる――ここに、ブルトマンの聖書解釈における前期ハイデッガーの哲学原理に依拠した「絶対的規準としての先行的理解」と「解釈学的原理」がある。このブルトマンは「神話的世界像と神話的人間像は時代の経過と共に、われわれの前から消え去ってしまう」し、われわれの「眼前存在」、現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現は理解できない」から、それは「非神話化されなければならない」と語った。このブルトマンの「特殊な主題」と「その原理的な方法」に対して、バルトは、「ブルトマンに従うことができなかった」。何故ならば、バルトは、「そこでは、神学は……新しく特定の哲学にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっているのを、……見た」からである。そして、バルトは、ブルトマンに対して、次のような根本的包括的な原理的な批判を加えた――第二の形態の神の言葉である「(新約聖書の)使信が、まさに(≪起源的な第一の形態の神の言葉であり「啓示の実在」そのものである≫)イエス・キリストについての使信として、神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かであり、また、この使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言(≪起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストにより直接的に唯一回的特別に召され任命されたその<人間性>と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」≫)であることも確かであるかぎり、われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である」。しかし、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次性としたブルトマンは、恣意的独断的に、「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての第一次的な「他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事(≪起源的な第一の形態の神の言葉であり「啓示の実在」そのものである客観的なイエス・キリストにおける出来事≫)をこの証言から取り去って」しまったが故に、「その結果」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉であり「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストを起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言としての「この証言を、そこでは第二次的なもの、(≪すなわち≫)あの第一次的なもの(≪ブルトマンの聖書解釈における前期ハイデッガーの哲学原理に依拠した「絶対的規準としての先行的理解」と「解釈学的原理」によって対象化され客体化された対象物、ブルトマンの意味的世界、物語り世界としての「存在者レベル神」、その神の啓示≫)に従事することにおいてのみ真であり、重要であるものに形式変換し、転釈するという場合、その使信をゆがめ、切りちぢめることにならざるをえない……」、と。この、まさしく自然神学の系譜に属するブルトマンは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員であるわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を、自らの思惟と語りに引き寄せることができずあるいは引き寄せることをせずに、興奮を抑えきれないまま、それ故に前期ハイデッガーの哲学原理に対して対象的になって距離をとるという作業をしないまま、前期ハイデッガーの哲学原理に依存しそれにのめり込んでしまったのである。したがって、バルトは、次のように語るのである――「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」、「責任的応答をなすべきなのか?」、ハイデッガーのような「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」、「そこから形成された理解の規準に対してか?」―― 否である。われわれは、「十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所」において、「われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエス・キリストを(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、すなわち客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」よる信仰の出来事に基づいて≫)認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」(『ルドルフ・ブルトマン』)。このブルトマンは、ハイデッガーからも足をすくわれてしまった――ブルトマンは、その存在、その現前性、その被制作性、その被企投性、その言語、そのシンボル体系、その不可避な類と歴史性の第一次性を自覚した、すなわち人間中心主義的な人間的現実存在(思索者・詩作者)の自由なその思考、その現存性、その時間化(差異化)と存在了解、その企投性の限界性を自覚した後期ハイデッガーの転回によって、換言すれば個と現存性――類と歴史性とが出会う出来事、「存在の生起の出来事」を自覚した後期ハイデッガーの転回によって足をすくわれてしまったのである。

 

 1922年から23年の冬学期の講義で、バルトは、「人文主義は、一貫して宗教改革の神様にかかわりをもつことを意図していると宣言する」ツヴィングリを取り上げたが、彼の神学は「現在もある……衆知の近代的プロテスタント神学」(総括的に言えば、自然神学)のそれであったことを知り、失望する。また、バルトは、「宗教改革者たちの聖書理解、神理解へと導かれ」、1923年『ルターの聖餐論の出発点と意図』を書いたが、「最後にはルターに対しては、カルヴァン的留保」・「確かにそうだが=しかし」「をつけなければならなかった」。われわれは、ここで、この「カルヴァン的留保」が、1927年の『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の神学的思想的展開へと繋がっていくことを、そして『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を経由させた『福音と律法』の神学的思想的展開へと繋がっていくことを(もちろんこの間に、『教会教義学 神の言葉』との関連性がある『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』の展開も必要としたことを含めて)、理解することができる。バルトの「神の言葉の神学」は、「宗教的人間の歴史的=心理学的自己理解」における神学のことでは全くなくて、「あらゆる人間の自己理解を限定し、規定する優越的なものと新しいもの、これを聖書では、神、神の言葉、神の啓示、神の国、神の行為と呼んでいる」のであるが、絶えずくり返し、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員であるわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、神に聞く(「啓示の実在」そのものであり起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身)、具体的には聖書(第二の形態の神の言葉、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)に聞く神学のことである。すなわち、それは、終末論的限界を自覚した途上にある神学のことである。また、バルトの「弁証法的という表現」は、「人間に対して優越的に出会う神と人間が対話する時の指向の特徴(≪完全性、自由性において先行する神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>≫)を意味している」。
 1922年8月に、バルト・トゥルナイゼン・ゴーガルテンで、雑誌『時の間に』(この名はゴーガルテンの論文のタイトルで、編集主幹はゲオルク・メルツであった)の発行を決意する。しかし、バルトは、ゴーガルテンを「非常に疑わしく」見ていた。また、ゴーガルテンが雑誌の名を『御言葉』としようとしたとき、その名は「我慢できないほど思い上がったもの」に思えて、むしろ「『愚者の船』とでもした方がましただ」とトゥルナイゼンに語っている。バルトは、この雑誌発行の主旨と目的について、「今世紀初頭の新プロテスタント主義の積極主義的自由主義神学、あるいは自由主義的積極主義神学に対抗して、そこで聖なるものとして承認されたとかんがえられてきた人神をも、共に拒否しつつ、新しく神の言葉の神学を立てること」にある、何故ならば、「聖書は、……このような神学が必要なのだと迫ってきていると思われたし、……宗教改革者たちが一つの模範として育ててきたものだと考えたからである」、と述べている。この雑誌発行と並行して、1923年『キリスト教世界』誌において、バルトは、アドルフ・フォン・ハルナックと神学論争を行った。

 

 1923年、「ルール紛争」(ドイツのルール地方へのフランス軍による侵入と占領)が起こって、ドイツに「熱狂的愛国主義」が燃え上がった。バルトは、フランスに対して「はげしい憤激と激昂」を抑えることができなかった」が、同時に、「同僚教授たちのドイツ的ナショナリズム」・「熱狂的愛国主義」に対しても「憤慨」しそれを拒否した。バルトは、「ドイツ人の教授たちは、残忍な行為を、きわめて精神的、倫理的、キリスト教的に理由づけることにかけては、まさにほんとうの達人です」、と述べている。日本でもまさしくその通りであった――天皇制「国家の政策を、(≪NHKや朝日新聞、教会・教団の指導層や神学者や牧師を含めて≫)知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、社会的存在の自然基底としての現存する大衆を戦争へと駆り立てその本人や家族や親族や友人を死に追いやっていった(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」筑摩書房)。バルトは、このルール紛争を契機に、「自分をドイツ人として感じ始め」た。ルール紛争時における「同僚教授」・知識人の知識の在り方は、ドイツに限ったことではない。
 また、 バルトは、Tコリントの手紙の中心は、15章にあると見なしたことに対して、ブルトマンは反対する書評を書いた。バルトが、Tコリントの手紙の中心は15章にあるという場合、彼は、例えば改革派の信仰告白のように、「行為によってではなく信仰によって義とされるということに強調点をおくのではなく、むしろこの義認を遂行するのは、神であって人間ではないことに重点を置くことを意味している」のである。このことを、バルトは、『福音と律法』、『ローマ書新解』においては、神の側の真実としてあるその死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(「平和の概念」は、この「救済概念に包括されている」それである――寺園喜基『バルト神学の射程』「平和に関するバルトの書簡」寺園喜基訳)というように述べている。また、『教会教義学 神の言葉』においては、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている。このキリストの復活(「成就された時間」)は、「新しい世」・時間のはじまりである。このことを、われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して、次のようにして認識するのである――すなわち、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(「成就された時間」)であるキリストの復活における「神の勝利の行為」によって包括され止揚され克服されて「そこにある」として認識する、と同時に、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」として認識するのである。

 

 1923年から24年にかけての冬学期に、「かつてよく読み親しんだ改革派の神学者でもあるフリードリッヒ・シュライエルマッハーを取り上げた」。シュライエルマッハーに対するバルトの総括は、彼は、「役にも立たない後続の近代人たちだったら愚かしく、不手際で、首尾一貫しないまま、おずおずとやるようなことを、知的に、啓発的に、また堂々と行った人物」である、という点にあった。しかし、いずれにせよ、シュライエルマッハーの神学は、「比類のない大ペテンであり、人がしばしば怒りの声をあげたくなるような」水準のものでしかなかった。まさしく「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」を惹き起こす人間中心主義の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡」を持った自然神学の系譜に属する人物であった。
 また、バルトは、パウル・ティリッヒとの差異性についても、次のように述べている――両者にとって、「キリストは救済史そのものである」。しかし、自然神学の系譜に属するティリッヒにおいては、キリストは「客観的所与」として、「常に至るところに現存し、認識できる啓示の……象徴でしかない」が、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し固着し連帯した<非>自然神学の立場のバルトにとっては、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち父なる神の子としての啓示、和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的なイエス・キリストにおける自己啓示・自己顕現――この啓示の出来事においてそのキリストにあっての「神によってのみ開示され、われわれが神に知られることによってのみ知りうる(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいてのみ知りうる≫)ような、最も特殊な出来事」なのである。バルトは、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持し、それ故にその<方式>によって、人間の側からする神と人間との「混淆」、神と人間との「共働」・「協働」、「神人協力」、二元論的な教会の宣教と社会的政治的実践という「混合宣教」、神学と人間学との「混合学」を、根本的包括的に原理的に止揚し克服して行くことを目指したのである。そのために、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち父なる神の子としての啓示、和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了、「神の義、神の子の義、神自身の義」、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるこの「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派、教派、思想傾向、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、文明的文化的傾向、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」という立場に立脚したのである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 1924年春、バルトは、ヘッペの書物に出会って、そこへ復古・「逆行」するというのではなくて、それを包括し止揚する形で、「聖書の啓示証言の中心的指標へと向かう形体と実体を同時に備えた教義学を見出した」。この時、バルトは、「教会の学の領域内にいることを知った」、すなわち「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」内にではなくて、教会の宣教の一つの機能としての神学内にいることを知った。したがって、バルトは、「正統主義的」でもない、「スコラ的」でもないところの、教会の一つの機能としての教義学の構成を目指すのである。バルトは、その教義学の第一節で、次のように述べている――「教義学の問題は、(≪「啓示の実在」そのものであり起源的な第一の形態の神の言葉である客観的なイエス・キリストにおける≫)啓示において神によって語りかけられ、(≪第二の形態の神の言葉である≫)聖書において預言者と使徒によって再び伝えられ、(≪第三の形態の神の言葉に属する≫)今日のキリスト教の(≪聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した、それ故に第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義に信頼し固執し固着し連帯した≫)説教によって語られ、聞かれる、またそうなるべきである神の言葉に対する学問的自覚である。この対象と、この自覚の必然性とその道筋についての原理的了解の試みのことを、われわれは教義学序説と呼ぶ」、と。言い換えれば、このことは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に対する学問的自覚である。

 

 1925年夏学期の終わりに、ミュンスター大学のプロテスタント神学部から、「教義学と新約釈義の教授として」の招聘の報せを受ける。その最初の学期に、前述した教義学の最後の部分である聖霊に関わる「終末論を取り上げ」、「神の言葉を構成する啓示そのものが終末論的である」のであり、その対象は、復活されたキリストの再臨(「完成」――『バルトとの対話』)である、と述べた。このキリストの「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。
 同じ学期にバルトは、「正規の演習」をカルヴァンの「『綱要』について行った」。ブッシュは、バルトが「しばしば何週間ももっとも悪質な抑うつ症に陥って」、「スイスの田舎牧師にでもなって逃げ出したいとの思い」を懐いていたこと、「教皇もカルヴァンもシュライエルマッハーもいないところに行って、ただ<ひたすら沈黙し>ていたい」と願っていたということを記述している。バルトは、ミュンスターでは「ローマ・カトリックの神学教授たちと交際するようになり」、「カトリック主義を知る」こととなる。そして、そこで得たローマ教会に対するバルトの確信――それは、ローマ教会においては、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返している「根本的な誤謬を犯している場合にも、何らかの仕方で実質はわれわれの場合よりもよく保持されており、……通常行われているのとは全く異なった古典的な対話となる」ということであった。