カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトの生涯――成熟の書としての『福音と律法』への道程(その2−1)

カール・バルトの生涯――成熟の書としての『福音と律法』への道程(その2−1) 
再推敲・再整理版です。

 

 先ず以て、この『ルートヴッヒ・フォイエルバッハ』を経由させた成熟の書としての『福音と律法』は、神の側の真実としてあるその死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了、それ故に「神の義、神の子の義、神自身の義」、それ故にまた成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのものを内容としている(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである)。この『福音と律法』の内容について、総括的に、バルトは、次のように述べている――第一に、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」(≪ギリシャ語原典ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」(このことが、神の側の真実としてある「律法の成就」・完了、それ故に「神の義、神の子の義、神自身の義」――すなわち「福音と律法の真理性」における福音の内容である)、と。また第二に、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪神の側の真実としてある≫)神の子が信じ給うこと(≪主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」≫)に由って生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(このことが、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』」――すなわち「福音と律法の現実性」における勝利の福音の内容である)、と。

 

 さて、1930年春、バルトは、ボン大学に、組織神学の教授として招聘される。バルト、44歳の時である。このボン大学におけるバルトの「キリスト論の講義」には、大学知識人の必然性として自然神学の系譜に属する滝沢克己も参加していた。おそらくはマルクスの自然哲学と人類史のアジア的段階における日本的特殊性としての自然原理に依拠して滝沢は、「イエスの肉体に於いてインマヌエルの事実が始めて生成した」とするバルトに対して、その人間イエスの出来事・「イエス自身の言葉と行為」は、その源泉である「神われらとともにいます」という「根本的事実」・「インマヌエルの事実」(未だ区別や分節化がされていない未分化のままの総合や自然や宇宙の概念と同じような水準のそれ)から生成された「生ける徴」であると主張したのである――「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」(『滝沢克己著作集第二巻 カール・バルト研究』創言社)。この滝沢とはまったく異なった水準において、バルトは、次のように述べている――「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリスト(≪啓示者である父なる神の子としての啓示、和解、起源的な第一の形態の神の言葉≫)と呼ばれる。すなわち、(≪ご自身の中での神としての、すなわち内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方――働き・業・行為である≫)神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして(≪換言すれば、最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」として、客観的可視的に存在している啓示の「概念の実在」として≫)、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが(≪具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉である≫)教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」井上良雄訳、新教出版社)。
 学生の中には、「熱狂的なバルト主義者」も現われ始めた。しかし、バルトの主要著作に即して、その神学の総体像を、それ故にその神学の原理および認識方法と概念構成を根本的包括的に理解するためには、われわれは、バルト主義者になってはならず、また反バルト主義者にもなってもならず、また大学神学者や牧師やキリスト教的著述家の知識をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしてもならず、バルト者となって、その主要著作を精読し、その総体性・全体性において理解するようにしなければならないのである。
 44歳(1930年)になったバルトは、次のように述べている――「われわれは……思想と行動の基本線については」、「善きにつけ悪しきにつけ」、「関心をもつ同時代人に自分を知らせ、できるかぎり理解させることもできるようになった」、と。しかし、このことは、『バルト自伝』によれば、「仕事をやりとげた」ということではなくて、「やっと手に入れた立場の内的・外的なテストと確証が、今初めて行なうことができる」地平に立った、ということである。

 

 バルトの一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教からの「訣別」――すなわち「キリスト教の教理を哲学的、また人間学的に……基礎づけ、解明するという古い神学の最後の残渣から」の「解放」は、先ず以て、1931年夏に完成・出版された『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』によって行われた。このアンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は合理主義だと批判した。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義」を明確に否定している。すなわち、アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言から、換言すれば先ず以て最初の直接的な第一の「啓示から得られた認識」、啓示の「概念の実在」としてのイエス・キリストの「実在から」、もっと言えば聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義から、イエス・キリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいて、それ故に起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて、啓示認識の可能性について考えたのである。何故ならば、アンセルムスは、「隠蔽性・秘義性」を本質とするキリストにあっての神に対して、人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」について認識し自覚していたからである。したがって、アンセルムスは、終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、客観的可視的に存在する「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とするということについて認識し自覚していたのである、聖霊によって更新された理性を必要とするということについて認識し自覚していたのである(『教会教義学 神の言葉』および『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。このような訳で、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のである(ゴッドシー編『バルトとの対話』古屋安雄訳、新教出版社)。バルトは、「私が神学者として(≪哲学者の≫)彼らの誰とも自分を結びつけようとは考えていないことを実際に示せば示すほど、それだけ私に注目し、……私を尊敬してくれた」、と述べている。バルトの演習に出席するためにやってきたミュンスター大学の哲学教授のハインリッヒ・ショルツに対して、バルトは、神学は「イエス・キリストの死人の中からの復活に基礎をおくと言明した」ことに対して、シュルツは、「真剣に」バルトを「見つめて、……<それは物理学と数学と化学のすべての法則と矛盾する。しかし君が言おうとすることがやっとわかった>」と言った。

 

 さて、バルトにとって、「弁証法神学の代表者たちとの関係は、いよいよあやしい雲行きになって行った」。そのようになることは、「われわれが根本的に……わずかな共通点」しか持っていなかったから当然であった、とバルトは述べている。彼らとの、決定的な究極的根本的な原理的な差異は、バルトにとっては、ゴーガルテンも、ブルンナーも、ブルトマンも、聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>持たないという点にあったし、彼らは、人間の側からする神と人間との「混淆」、神と人間との「共働」・「協働」、「神人協力」、神学と人間学との「混合学」(人間学的な哲学現呂・認識論・世界観等々に依存した人間学的神学、哲学的神学)を目指していたという点にあった、総括的に言えば自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す神学者であるという点にあった。彼らのその自然神学の根拠は、『福音と律法』に即して言えば、人間の側からする先行する人間的契機の直接性に依拠させた目的格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストを信じる信仰による律法の成就、すなわち神の義)にあった。
 オットー・ヴェーバーは、バルトの『和解論』第13章「神わららと共に」において、バルトとブルトマンの差異を、次のように論じている――「バルトは『客観的なもの』を重視あるいは絶対視し、ブルトマンは『主観的なもの』を重視あるいは絶対視するという風に、規定することは出来ない。その対立は、さらにいっそう深いところにある」。これではやはり、橋爪大三郎に「一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」と書かれても仕方がないのである(『ふしぎなキリスト教』講談社)。まさに、これでは何も言わないと同じである。何故ならば、その神学の根本的包括的な原理的な差異性は、例えば、ブルトマンのように自然神学の段階で停滞したそれか、それとも神の側の真実としてあるその死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」に依拠したバルトのように、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯して、それ故にその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする立場において、その自然神学の段階を包括し止揚し克服して、<非>自然神学の段階へと移行したそれかという点にあるからである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』「和解論の対象と問題」)。
 バルトは、現実と時代から強いられて、すなわち「神学上の、教会内の、さらに一般社会の状況の変化」に強いられて、『教会教義学』を、「主としてアンセルムス研究書のための勉強の成果」の「進展」によって、「全く新しくやり直さなければならず、またどのようにやり直さなければならないか」・「教義学における問題の中心は何でなければならないのか」を考え、それは、「われわれに語られた生きた神の言葉としてのイエス・キリストについての教説」ということについて明確に「認識した」(それは、1935年バルメンでの講演、徹頭徹尾、先行する神の側の真実の側面から論じられた『福音と律法』の内容であると言うことができる)。アンセルムス研究の成果は、例えば次のようなものである――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、第一に、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった。言い換えれば、アンセルムスの場合は、バルトの神学の総体像に即して言えば、客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を媒介・反復するという仕方で、もっと言えばその聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義を媒介・反復するという仕方で、「教えられつつ語ろう」とした、第二に、「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、またこの認識・信仰を通して、その信仰の類比・関係の類比において得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定≫)を前提条件としていた。アンセルムスは、アウグスティヌスのその原理および認識方法と概念構成における自然神学性を紙一重で超えて、<非>自然神学的な原理および認識方法と概念構成の段階へと超出していく道を歩んだ。まさに、このアンセルムスの在り方に、神学における思想性はあるのである。いずれにいても、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとした(≪自然神学者の≫)カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、(≪自然神学を内容とする匂いのする≫)アウグスティヌスの教説と一致する」のである。また、われわれ人間における「存在を問う問い」は、それは「考えることの対象である限り」、「対象そのものを」問う問いとして、対象を「考えられたものへと解消」(≪先行させた人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動の無限性によって対象化し客体化した対象物、対象化された存在、その人間の物語世界、意味的世界、存在者へと解消≫)しないで、その「独立的に存在する」対象そのものとして問われなければならない。何故ならば、このことに自覚的でないならば、その「存在を問う問い」は、先行する前期ハイデッガーの哲学原理に基づく「絶対的基準としての先行的理解」と「解釈学的原理」を第一次化したブルトマンに対して、総括的に言えばブルトマンの自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対して、ハイデッガー自身が正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的な批判を展開したその批判対象そのものに過ぎないものとなるからである。ハイデッガーは、ブルトマンに対して、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマンとその学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ(≪神と人間との無限の質的差異の下にある神としての≫)神を見失うことではなかろうか』」と「揶揄」・批判した――木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)。

 

 バルトは、次のように述べている――「私の新しい課題は、以前に語ったすべての事を全く違った形で、すなわち今度はイエス・キリストにおける神の恵みの神学として考え直し、表明し直すということであった。……そしてそこで私が経験したのは、この集中(≪「キリスト論的集中」≫)によって、すべてのことを、以前よりもはるかに明瞭に、はるかに確実に、はるかに単純に、信仰告白に対してはるかにふさわしい形で、それと同時に、はるかに自由に、はるかに開放的に、またはるかに包括的に、語り得るという事実であった。というのは、以前には私が……教会の伝承(≪「神の言葉の三形態」≫)によるよりは、むしろ(≪自然神学的な神学と人間学との「混合」学的枠組みの中で≫)哲学の体系という卵の殻によって……少なくとも部分的には妨害されていたからである」。このキリスト論的集中によって、「教会の伝承と宗教改革者たち、特にカルヴァンとの、高級な意味での批判的対決」へと向かったし、「正統派カルヴァン主義者にもなりえなかったからこそ、ルター派教派主義にも、いかなる同情をも捧げることはできなかった」、「教派主義的教義学を書くつもり」もなかった。客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し固執し固着する、換言すれば起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に信頼し固執し固着する、教会のひとつの機能としての教会教義学を構成しようとした――「神学はまさに神の言葉の真理の自己証明(≪客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、換言すれば起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動≫)のみを信頼すべきである。この信頼が、すべてのキリスト教的、非キリスト教的な思考形式とイデオロギーと神話と世界観と諸宗教に対するかかわりにおいて、神学の(弁証論的な)力となる。(中略)この信頼によって神学は、他の諸学問の中にあってそれ自身の法則に忠実に(≪何故ならば、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」から≫)、従ってできるかぎり徹底的であると共に、すっきりした知的な仕事を遂行しようと努力する」ことができる。この教会の宣教における一つの機能としての神学は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し固着し連帯して「神の言葉の真理性について証しすることができるだけである」、また神学の対象は、「神と人間の、また人間と神の関わりの歴史であり、この歴史は……旧・新約聖書の証言(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)によって語り伝えられ、(≪その聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉に属する≫)キリスト教会の使信の起源であり、内容」にあるから――すなわち「この意味で理解された<神の言葉>」にあるから、そしてこの常に先行する「神の言葉の至高の自由によって基礎づけられ、その自由によって規定されているからこそ、……(≪教会の宣教における一つの機能としての神学は≫)自由な学であり、それ故にまさに組織〔された〕神学ではない」のである。したがって、このように常に<非>自然神学の立場に立脚しようとしたバルトは、教義学を、決して「ある一定の哲学を基準として選ばれたある種の基礎概念を前提とし、それに対応する方法によって構築された思想体系である」組織神学として構成しようとはしなかったのである。したがってまた、バルトは、客観的可視的に存在する「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)における第一の形態の神の言葉でありイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである(『啓示・教会・神学』)。「神と神の言葉」の認識可能性は、「自然的に、状態として、『存在論的に』人間に与えられているのではない」、それ故に生来的に自然的に備わっている、人間の理性の内にはない、人間の心や精神の内にはない、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍にはない、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等々にはない、「存在ノ類比」にはない、のである。言い換えれば、「神と神の言葉」の認識可能性は、イエス・キリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な証明の力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事に自己運動――この「神の言葉そのものの中にのみある」のである。したがって、人間の側からする客観的な正当性と妥当性があるのかどうかも確定できないところのキリスト教関係者による何分で分かるキリスト教という触れ込みでのキリスト教は、「単なる知識」としてのそれであって、聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、すなわち信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)ではないのである。神がその啓示において「父」、「子」、「霊」であるのは、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に基づくのではなく、「神が本質的」に内的・内在的に「『もともと』、『前もって、それ自身において』」「父と子と霊であるからである」、換言すればキリストにあっての神は、ご自身の中での神として、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神である(父なる名の内三位一体的特殊性、神の内三位一体的父の名、三位相互内在性)、それからまたわれわれのための神として「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)において父、子、聖霊なる神の愛の行為の出来事としての神の存在である。したがって、バルトは、信仰の類比・関係の類比において、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解されなければならない、と述たのである(『教会教義学 神の言葉』)。このように述べるバルトは、観念的威力として伝統的な根強さのある、「自然神学」、「反キリスト」、「存在ノ類比」に依拠するカトリック主義(ローマ・カトリックだけでなく、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教、自然的なキリスト教)は、「プロテスタント教会にとっての、非常に強力な、深い、最終的には唯一の、真実に取り上げるべき」対象であり、「対話の相手」であり、それ故にそれを根本的包括に原理的に止揚し克服して、そこか超出すべき対象である、「それに比べると、理想主義や人智学や民俗宗教や無神論運動などは『児戯』に等しい」、と述べている。
 これらのバルトの道程は、1931年−32年の間におけるそれである。

 

 さて、「教会の宣教は、無秩序の中にある異教の国(ポリス)に公正を実現するように呼びかけるかぎり」、<不可避的>に、「ソレ自体政治的」とならざるを得ない、とバルトは述べている。この不可避性という認識と自覚が重要なのである。二元論的な語りで声高に教会の宣教と同時に社会的政治的実践が必要であるという者たちは、戦争等の現実的契機が身近に迫ってきた時、その自己欺瞞を自己暴露せざるを得なくなるであろう。したがって、その政治性は、あくまでも不可避的なそれであるから、その「宣教が表明するものが、具体的な神の戒めであるならばよいが、(≪ある社会構成――国家・支配の枠組みを前提として、観念の共同性を本質とする、議会制民主主義、政治的近代国家、民族国家、その法的制度的政策的な言語とか≫)政治的イデオロギーという抽象的真理であるならばよくない」、ともバルトは述べるのである。バルトのこの立場は一貫したものである。1957年当時の事実的政治の枠組みの中で、「なぜ、カール・バルトはハンガリー問題について黙っているのか?」と「幼稚な反共主義」者であったキリスト教的政治屋のラインホルド・ニーバーによるバルトに対する政治的強要や政治的陰謀や他律的な二者択一の倫理を強いる「啓蒙の恐喝?」(フーコー)に対して、不可避な政治家バルトは、東西イデオロギー(権力)のどちらにも加担せず、また「一言も答え」えず、断固として拒否する在り方で対応したのである。このバルトは、終末(復活されたキリストの再臨、完成)においては、一切の国家は無化されてしまうという終末論的観点において、次のように述べている――「キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、(≪神の側の真実としてある≫)神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の政治的権力、国家形態、政治形態≫)のともがらと成ることができようか」、と(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」井上良雄訳、新教出版)。このバルトの終末論的観点に立てば、その不可避的な政治性における革命の究極像は、現実的な、それ故に社会的な、人間の究極的総体的永続的な解放に伴うところの、一切の観念の共同性の無化であり、その尖端性にある観念の共同性を本質とする国家の無化にあることは明らかなことである。したがって、このようなバルトの終末論的観点からすれば、近代市民社会の疎外態である、換言すれば現実的な「私利・私意」を精神とする近代市民社会に存在する利己主義的な私的他者との対立・争いや利害共同性との対立・争いの調停・調整機能を持たせた観念の共同性(共同的な観念的形態)を本質とする法的政治的近代国家(自国の利害を第一義的に最優先する巨大で強力な国軍を持つ戦争の元凶である民族国家)を愛する故に(そのような「国を愛する故に」)という現存する法的政治的国家の枠組みを前提とした日本基督教団の「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」などあり得ないと言うことができる。言い換えれば、この教団の戦責告白は、<現実的>な近代<市民社会>に現存する自国の大多数の被支配としての一般大衆、一般国民を「愛するが故に」と告白するのではなく、近代市民社会の疎外態である<観念的>な共同性(共同的な<観念的>形態)を本質とする法的政治的近代国家(民族国家)を「愛するが故に」と告白しているのである、それ故に先ず以て現実的な近代市民社会に現存する自国の大多数の被支配としての一般大衆、一般国民の彼らや彼らの家族や親族や友人を死に追いやらないためにとも告白しないのである。このことを、聖書にある「隣人を自分のように愛しなさい」(ここで隣人愛は、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関の中におけるキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち神の命令・要求・要請である)という言葉に即して言えば、現存する自国の大多数の被支配としての一般大衆、一般国民を愛し、彼らや彼らの家族や親族や友人を死に追いやらないためにという思惟と語りと行動が為されないのに、どうして現存する他国の大多数の被支配としての一般大衆、一般国民を愛し、彼らや彼らの家族や親族や友人を死に追いやらないようにすることができるだろうか(このような訳で、私は、教団指導層、教会指導層に対して、的確な再吟味と的確な訂正を切に願う者である)。「宣教活動に対する神学の課題は、『武器』を準備することにあるのではなく、バルトのその神学の総体像に即して言えば、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するところで、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする聖書的啓示証言を、われわれの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」、その啓示に固有な証明能力を持っているイエス・キリストの啓示の出来事、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)における関係と構造(秩序性)、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」という認識と承認と確認を持つことができるように、『宣教活動の根拠と対象に対する』関係を問う『問い』を立てることにある」。このことから、「われわれは、ここでもまた、『自然神学』と『存在ノ類比』……の問題に対するバルトの強靭な対決に……気づくであろう」。

 

 1930年、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が第2党の地位を獲得する。1932年、大統領選挙にヒトラーが出馬し次点となると同時に、ナチ党が第1党となる。そして、1933年の全権委任法の制定へと向かっていく。こうした中で、バルトは、1931年、「社会主義の理念と世界観に対する信仰告白」としてではなく、不可避的な「実際的な政治的決断」において、ドイツ社会民主党に入党する。

 

 バルトは、1932年から1933年の冬学期に「説教学演習」を行った。そこで展開された説教論の特徴は、次の点にあった――第一に、「近代プロテスタント主義の悲惨」、欠陥の「全体は、その宣教が(≪「聖書への絶対的信頼に基づく聖書講解」ではなく、≫)主題説教になってしまった」点にある。したがって、第二に、「説教にとって不可欠な条件は、信仰告白箇条をとり上げる」点にある。すなわち、説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」としてのイエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。説教者は、この証し・証言としての「聖書への絶対的信頼」に基づく「聖書講解であることの義務」を負っている。イエス・キリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて、その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。したがって、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代的な人間の感覚や知識を内容とする経験や情報が不足している≫)と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていない」のである。その場合、その説教者の説教は、その最初から、自然神学な「存在ノ類比」に依拠した、彼自身の「独自な」言葉に過ぎなくなるのである、自己表現としての宣教・説教(「存在者レベルでの神」、その神の啓示についての説教)になってしまうのである。そこでは、「聖書神学と自然神学の結合……の実際的適用以外の何物でもない」ものとなるのである。キリストの福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、説教者は、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならないのである(『説教の本質と実際』)。また、バルトは、同じ冬学期に、19世紀神学を「三度目に取り上げ」、「敬虔主義と啓蒙主義」は、「外面的に違っている」が、内在的には自然神学的な試み、すなわち「『主権を要求する人間(≪自主性・自己主張・自己義認の欲求を先行させる人間≫)の自己意識の中に神を組み込む』試み(≪人間の側からする神と人間との「混淆」の試み、神の人間化あるいは人間の神化の試み≫)だという点で一致している」、と述べた。

 

 1933年1月30日、ヒトラーが政権の座につく。バルトは、「愛するドイツ国民が偽りの神を礼拝(≪まさに「存在者レベルでの神への信仰」を≫)し始めるのを、……見た」。この萌芽は、1932年6月に誕生した「帝政復活を目ざす復古主義、権威主義政策を進めようとした」パーペン内閣にあって、「結果的にはワイマール共和国の崩壊、ヒトラーの政権奪取の端緒になった」。この「パーペンが、次にシュライヒャ−が宰相になった時、バルトは、「自分の部屋で荒れ狂い」、「暗い預言を口」にした。バルトは、イエス・キリストをのみ主・頭とすべき教会自身が、そのナチ国家に対して、それは「敵対者」だというように認識し自覚する能力を持たないことを知る。すなわち、バルトは、教会が、「教会自身とその使信と教会形態をナチ国家に『統制化』せよという要求」を、「即座に、明確に拒否することはできなかった」ことを見る。バルトは、『時の間に』の「友人たちの一部」、「学生と聴講者の一部までが」、その統制化に「加担し、あるいは少なくとも黙って承認するのを」、「悲しみと驚きをもって見つめた」。「1933年には、……青年宗教改革派の一人として、さらにしばらくの間はドイツ・キリスト者の仲間として登場」したゴーガルテンについて、バルトは、「ゴーガルテンが1920年代に行った『権威』についての講演その他を聞いて、すでにその頃から、この人はナチズムの知的創立者の一人だと考えていた」。こうした危機的な政治的状況の中で、バルトは、自らの責任を、福音主義的教会が「支配的となってきた世界観的状況とイデオロギーに対して(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書の福音をしっかりと保持しつづけるように協力」し奉仕する点に置いた。そして、バルトは、神だけでなく人間も――否、人間が第一・そして次に神、神と実存、神と秩序、神と国家、神と民族、神と「異なる神々」(偶像)という設定の仕方の非情な「危険を嗅ぎ分けた」。したがって、バルトは、「第三帝国が始まったばかりの時期」に、『神学の公理としての第一戒』の講演で、キリスト教界に対して、「究極的には『あらゆる自然神学と訣別して、……イエス・キリストにおいて自らを啓示する神にのみたよる……べきである』と呼びかけた」。反ナチ官吏の弾圧法である『職業官吏階級の再建法』によって、「おおくの教授たちが、次々に罷免されたり、左遷されたりした」。1933年3月に社会民主党はそうした該当者に対して、「社会民主党員であることのためにその官吏資格を」犠牲にする必要はない(「内面的だけの党員でいい」)という通達・勧告を出した。自然神学の系譜に属するパウル・ティリッヒは、その通達・勧告に対して、「個人的に承認した」が、<非>自然神学の段階へと歩みを進めていたバルトは「断乎として拒否し、今こそまさに公然と党員であることに固執すべきだとした」。6月、「社会民主党は完全に禁止され、解党した」。同月、バルトの影響下で、「第三帝国下の教会に対する(改革派教会からの)最初の警告」である「デュッセルドルフ十四か条テーゼ」が制定されたが、その第一テーゼは「今日のキリスト教会は、その唯一の主はキリストであり、神の言葉によって生まれ、神の言葉にとどまり、他の者の声に耳を傾けることはない」というものであった、換言すればその思惟と語りと行動において、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指すものであった。同月から7月にかけて、「教会とナチ国家との統制化要求を掲げ」たドイツ・キリスト者信仰運動の「強力な増大と扇動活動の中で、論文『今日の神学的実存』が書かれた。バルトの神学的実存の在り方は、教会はもっと社会的政治的実践が必要だと声高に叫ぶところにあるのではない、すなわちバルトのそれは、「私は……私がいつも語ろうと努力してきたこと(中略)われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った」・こうした「一貫した繰り返し」において「かつて私が語った説教」が、ある状況下において、「呼びかけ、要求し、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかった」、そして「おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という点にあった。

 

 バルトは、その神学の総体像を念頭に置いて言えば、不可避性としてある政治との関りの中で、次のような、神学的実存における良質な思想的原則を持っていた。
 第一に、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである、また「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきである、また両者から対象的になって距離をとるという仕方で、「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』小島洋訳、新教出版)、第二に、「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪現存する世界が、経済の世界性と自国の利害を第一次的に最優先する民族国家の一国性を単位として動いており、戦争の元凶である民族国家が存在する限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」(『バルトとの対話』)、第三に、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」、「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)。

 

 また、バルトは、その神学の総体像を念頭に置いて言えば、第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会の宣教における良質な思想的原則も持っていた。
 第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会の宣教は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」であるイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)を、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉であるその証し・証言・証人としての聖書(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、その「正しい注釈」における、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、行わなければならない。したがって、教会の宣教(その成員)は、その「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存」してしまってはならない。したがってまた、教会の宣教は、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し固着し連帯するという仕方で、「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、「礼拝改革」、「キリスト教教育」とか、社会的政治的実践とか、「教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考え」てはならない。また、教会の宣教の規準を、第二の形態の神の言葉である聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等に置いてはならない。また、教会の宣教は、「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとしてはならない。また、教会の宣教は、ある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとしてはならない(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態に属する「神的要素」(教会の宣教における、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストと、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言と関わっているという意味でのそれ)と「人間的要素」(現存する全く人間的な人間に属するという意味でのそれ)の構造としてあるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会の宣教は、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、和解、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける一回的な唯一の啓示の出来事にのみ感謝をもって信頼し固執し固着した宣教に赴くべきであり、それ以外の一切から「無条件に開かれ、自由でなければならない」のであり、「神を恐れるべきであって、世を畏れるべきではない」のである。すなわち、教会の宣教は、そのような説教と聖礼典を行っているかどうかを、具体的には客観的可視的に現存する第二の形態の神の言葉である聖書を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、自己吟味し・的確に「批判し、訂正」していかなければならないのである。

 

 「ドイツの教会は……一九三三年の夏に、ナチズムの成功とその理念のもつ催眠術的な力によって、その教理と制度に関して、いわゆる(≪「ヒトラーに大々的に支持された」≫)ドイツ・キリスト者の支配下に陥いって」いった。すなわち、「実に神の名において、神の呼びかけのもとに」(トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)、その法的言語や政策的言語を介して、ヒトラー政権に、その国家共同性に加担していくことになった。そうした帝国教会共同性において、「プロイセンの教会総会は牧師職と教会行政職の法的地位に関する教会法を採択したが、そこには『わざわいなるアーリア条項』が含まれていて、……非アーリア人種と、非アーリア人と結婚した者とは、もはや教会関係の職につけなくなってしまった」。バルトは、同年10月に、『時の間に』誌から「訣別」した。何故ならば、当初から「単なる知識」としての知識的言語によってナチズムに加担していたドイツ・キリスト者のゴーガルテンの、神と「異なる神々」(偶像)、すなわち神だけでなく神と「ドイツの民族法」もという、「まさしく自然神学的なそれであり、自然神学そのものであり、そこには、その自然神学に基づく新プロテスタント主義の本質的部分の、究極の、最も完成された、最悪の再現以外の何物をも、まさにそれ以外の何物をも見出すことができなくなった」からである。トゥルナイゼンは、このバルトと歩みを共にした。