本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』川名勇訳、新教出版社

(その1)
 この1942年刊行の『教会教義学U/2 神に関する教説』にある「神の恵みの選び」は、1935年の『福音と律法』、1936年の「神の恵みの選び」、1956年の『ローマ書新解』の時間的連続性において把握しない場合、その理解は根本的な誤謬に陥ることになるっと思います。すなわち、その場合には、旧来訳聖書や新共同訳聖書における「イエスの信仰」の属格の目的格的属格理解に規定されて、神の側の真実だけでなく、天然自然や人間的自然、人間の自主性・自己主張・自己欲求・自己プログラム、人間の感情・理性・実存・意志、人間論や人間学的な認識論や哲学的原理や世界観、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍等、が神との等価性において登場し、不可避的に、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教として、根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」ることを積み重ねていくだけになると思います。
 したがって、近代主義や自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の内在的問題を唯一自覚していたバルトは、徹頭徹尾全面的に、ローマ書やガラテヤ書等にある「イエスの信仰」の属格を、確信を持って「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」と認識(信仰)し、そのイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=「福音と律法」における「真理性」と「現実性」の同在性・構造としてある啓示の客観的現実性=神の側の真実にのみ信頼し固執する、その信仰・その神学・その教会の宣教・そのキリスト教・その認識方法および概念構成を目指しました。
 さて、この本の序論で、オットー・ヴェーバーと彼に依拠した川名は、「選ばれるという出来事は、具体的には『彼(≪イエス・キリスト≫)への信仰のうちに』成立するものである」。そのことを、「バルトは、(中略)イエスを信ずるとは、彼の復活と彼の祈りを目の前に置き、心の中に保つことを意味する。まさにそのことこそ、選ばれるという意味である」と述べている、と一方通行的に信へと上昇していく言葉でもって、尤もらしく、しかし根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語っているのですが、ほんとうはバルト自身は、啓示の弁証法において、次のように述べているのです――本論にあるバルトの「棄てられた者は、神の御前に棄てられた者として独立した存在を持っているのではない。彼はただ棄てられた者でしかないように神によって定められているのではない」・新約聖書において特定の人間のユダは、「永遠的刑罰の具体化」の例や「救いようのない棄却と喪失の例」ではない・「選ばれた者とは、……選ばれた『棄てられた者』」である、という言葉は、すべての人間はそのあるがままで、先ず以て、イエス・キリストとの連続性の中に包括されているということを意味しています。すなわち、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=「福音と律法」における「真理性」と「現実性」の同在性・構造としてある啓示の客観的現実性=神の側の真実の中に包括されているということを意味しています。信があろうが不信であろうが、キリスト者であろうが非キリスト者であろうが、ドストエフスキーの『罪と罰』におけるマルメラードフの終末倫的な告白にあるように、「終末論的可能性、主の日における救い」において、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、ということができるでしょう。
 さて、バルトは、イスカリオテのユダの問題を、他人事ではなく、まさに使徒団の只中にある、現存する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の只中にある、内在的問題として扱い語っています。この内在的問題とは、近代以降の問題に言い換えれば、バルトの「超自然な神学」・信仰・教会の宣教・キリスト教における認識方法および概念構成からする、時流や時勢への同化・迎合や神と人間・神学と人間学との混淆・共働を目指す自然神学の系譜に属するそれに対するアンチテーゼであり、全キリスト教に対する根本的かつ究極的な宗教改革の不可避性の問題のことです。神学における良質な三位一体論や思想の往還や啓示の弁証法を持たない、神学者・牧師著述家等における事例を挙げれば、枚挙にいとまがありません。その事例を挙げれば、
1)イエス・キリストの神の「存在の本質」である神性性を棄揚した滝沢克己、それだけでなくイエス・キリストにおける神の人間へと向かう神の「存在の仕方」・神の子・神の言葉性まで棄揚してしまった八木誠一、
2)日本におけるナショナルなもの=滅私奉公的な人間の在り方と、神の子・神の言葉・神の「存在の仕方」であるイエス・キリストにおける在り方を混淆させた北森嘉蔵、
3)神も神の配慮も哲学者や知識人のものとしようとしたエーバハルト・ユンゲル、大木英夫、
4)神学的な進歩史観を構成するために「歴史を完成に導く」神概念と聖霊概念を要請したモルトマンや喜田川信、
5)聖霊や聖霊の言葉を実体化し、神学における状況論なき思想なき中世的思考に停滞しているルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健、
6)「神学がなくても信仰は成立しますが、「高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学(《知識》)が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学(《知識》)が不可欠なのです」と驕り嘘振る佐藤優、
7)バルトの「超自然な神学」を論じながら「イエスの信仰」の属格を目的格的属格として理解し、アウグスティヌスは自然神学の系譜に属していないと説明する富岡幸一郎、
8)『神の人間性』で、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べたうえでバルトは、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べているにもかかわらず、近代主義に対するその神学における思想的武器である「神の神性において」の概念を恣意的に揚棄してしまって、「たとえ人間が」その意志において・自主性において・自己主張において・自己欲求において「神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということ」であると、尤もらしく聞こえる言葉で、しかし根本的な「誤謬に普遍性の後光をかぶせて語」るWEB上の牧師の「『神の人間性』に見る後期バルトの神観、
9)バルトの三位一体論における神の「存在の本質」の概念から言えば、徹頭徹尾、聖霊は「父ト子ヨリ出ズル御霊」であって、「父の霊」への「排他」性は本質的に成立しないにもかかわらず、また『教会教義学』の第四巻は和解論が神性を本質とするイエス・キリストにおける神の「存在の仕方」・神の子・神の言葉に関わる事柄であるからにイエス・キリスト自身の霊的臨在の強調が展開されているだけであるにもかかわらず、時系列的判断に基づいて「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、……『父の霊』は考えられていない」、と断定的にしかし根本的な「誤謬に普遍性の後光をかぶせて語」る神学者・蘇光正、
という具合です。神学的状況を一つとってみても、これが実情なのです。私自身は一キリスト者に過ぎませんが、神学者・牧師・著述家の知識やメディア情報を鵜呑みにしたり模倣したりせずに、先ずはたとえ拙くとも自分なりに自己了解を介したところで発言しています。次に引用するバルトの言葉に依拠して、そうしています。
1)「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」。
2)「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている。
 また、次に引用する吉本の言葉にも依拠して、そうしています。

 

  わたしは、個人がだれでも誤謬をもつものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に普
 遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするものをみると、憎悪を感じる。(中略)弱さは個人の内部
 に個性としてあるときにだけ美しいからだ。(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」勁草書房)
  わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと思っ
 た。「頭をひねりながら判読」してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また「ある程度以
 上のスピードで読める(正確に)」ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったくしんじてい
 ない。 (吉本隆明『源氏物語論』筑摩書房)
  万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品を読んでいく
 だけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。(中略)専門家と
 いわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと
 思います。 (吉本隆明『幸福論』青春出版社)

 

 いずれにせよ、『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』を理解するためには、『福音と律法』における
1)主格的属格としての「イエスの信仰」の概念内容と、
2)「真理性」と「現実性」との同在性・構造としてある啓示の客観的現実性の理解が必要なため、
次回の(その2)からは、先ずそこから入っていきたいと思います。

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その2)

 先ず以て、重要な点は、バルトは『福音と律法』で、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造において把握しているということです。そして、私たちは、ここにのみ、一切の近代主義・自然神学的な信仰・神学群・教会の宣教・キリスト教に抗することができ、不信とむなしさと不確かさと不安の只中にある現在から未来に生きることのできる唯一無比の信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の根拠と原理と原動力があることを知ります。近代以降は、それ以外にあり得ません。したがってそれは、ほんとうは、自然神学的な、神だけでなく人間の自主性・自己主張・欲求・プログラムもという神と人間との混淆論・神との「共働者」論に基づく目的格的属格理解に依拠した既存の旧来訳聖書や新共同訳聖書・信仰群・神学群・教会の宣教群・全キリスト教に対して、180度のベクトル変容を迫るものなのです。すなわちそれは、全キリスト教に対して、根本的かつ究極的な最後の宗教改革を迫るものなのです。しかし、現在までのところ、そのことを、近代主義を骨肉にまで受け入れた自然神学的な全キリスト教は、全く認識し自覚していないのです。また、その対極にあると同時に、それと同じ自然神学の位相にあるエコロジー神学群も土俗的神学群等々も全く自覚していないのです。
1)「福音と律法の真理性」における福音の内容とは何か
 啓示の真理によれば、誰であろうと人間は、自主性・無神性を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在です。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その死を欲します。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしません。もうどうしようもなく、そういう存在なのです。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の自由な愛によって、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト自身が、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)という点にあります。すなわち、このインマヌエルの出来事(神は、罪深き私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」、というイエス・キリストの出来事・啓示)は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としています。言い換えれば、福音の内容は、徹頭徹尾全面的に、主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性=神の側の真実そのもののことなのです。決して、神と人間との混淆・共働という目的格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の主観的現実性=人間の主観性・主体性もということではないのです。
2)「福音と律法の真理性」における福音の形式としての律法とは何か
 「福音と律法の真理性」における福音を内容とする福音の形式としての律法は、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=イエス・キリストが信ずる信仰による神の義=福音の内容=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)としてのそのイエス・キリストを信ぜよ、という神の「要求と強請」であり、「恩寵への召喚」のことです。このことは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて初めて認識し定義することができ事柄なのです。恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音の形式である律法が建てられるわけです。なぜなら、この律法がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからです。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのです。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求)は、人間はただの人間でしかない以上、神性を本質とするイエス・キリストを模倣することではないのです。また、それは、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもないのです。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないわけですから、素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えということになるわけです。したがって、それは、
ア)主格的属格としての「イエスの信仰」による神の義にのみ信頼し固着すること、すなわちその神の義としての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固着すること、そしてそのことに対する感謝の応答・その告白と証しと宣べ伝えにある、
イ)「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということである、
ウ)「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということである、
ということになるわけです。
 ほんとうは、これらアからウまでの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのです。この誡命を人間に対しておくことによって、イエス・キリストの出来事は、この「福音と律法の真理性」の「現実化」を目指していることが分かります。すなわち、全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済(史)は、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性においてのみ成就されることを目指していることが分かりわけです。そのために、まず、この福音の形式である律法が、「真実の罪人」の手に、「にもかかわらず」与えられたら、どのような状態になるのかを、啓示の出来事に即して論じられなければならないでしょう。ここにおいては、バルトは、ルターと同様に、律法→福音という順序で語るのです。このことは、(その3)で述べてみたいと思います。