本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』川名勇訳、新教出版社

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その2)

 先ず以て、重要な点は、バルトは『福音と律法』で、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造において把握しているということです。そして、私たちは、ここにのみ、一切の近代主義・自然神学的な信仰・神学群・教会の宣教・キリスト教に抗することができ、不信とむなしさと不確かさと不安の只中にある現在から未来に生きることのできる唯一無比の信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の根拠と原理と原動力があることを知ります。近代以降は、それ以外にあり得ません。したがってそれは、ほんとうは、自然神学的な、神だけでなく人間の自主性・自己主張・欲求・プログラムもという神と人間との混淆論・神との「共働者」論に基づく目的格的属格理解に依拠した既存の旧来訳聖書や新共同訳聖書・信仰群・神学群・教会の宣教群・全キリスト教に対して、180度のベクトル変容を迫るものなのです。すなわちそれは、全キリスト教に対して、根本的かつ究極的な最後の宗教改革を迫るものなのです。しかし、現在までのところ、そのことを、近代主義を骨肉にまで受け入れた自然神学的な全キリスト教は、全く認識し自覚していないのです。また、その対極にあると同時に、それと同じ自然神学の位相にあるエコロジー神学群も土俗的神学群等々も全く自覚していないのです。
1)「福音と律法の真理性」における福音の内容とは何か
 啓示の真理によれば、誰であろうと人間は、自主性・無神性を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在です。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その死を欲します。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしません。もうどうしようもなく、そういう存在なのです。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の自由な愛によって、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト自身が、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)という点にあります。すなわち、このインマヌエルの出来事(神は、罪深き私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」、というイエス・キリストの出来事・啓示)は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としています。言い換えれば、福音の内容は、徹頭徹尾全面的に、主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性=神の側の真実そのもののことなのです。決して、神と人間との混淆・共働という目的格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の主観的現実性=人間の主観性・主体性もということではないのです。
2)「福音と律法の真理性」における福音の形式としての律法とは何か
 「福音と律法の真理性」における福音を内容とする福音の形式としての律法は、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=イエス・キリストが信ずる信仰による神の義=福音の内容=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)としてのそのイエス・キリストを信ぜよ、という神の「要求と強請」であり、「恩寵への召喚」のことです。このことは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて初めて認識し定義することができ事柄なのです。恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音の形式である律法が建てられるわけです。なぜなら、この律法がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからです。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのです。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求)は、人間はただの人間でしかない以上、神性を本質とするイエス・キリストを模倣することではないのです。また、それは、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもないのです。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないわけですから、素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えということになるわけです。したがって、それは、
ア)主格的属格としての「イエスの信仰」による神の義にのみ信頼し固着すること、すなわちその神の義としての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固着すること、そしてそのことに対する感謝の応答・その告白と証しと宣べ伝えにある、
イ)「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということである、
ウ)「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということである、
ということになるわけです。
 ほんとうは、これらアからウまでの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのです。この誡命を人間に対しておくことによって、イエス・キリストの出来事は、この「福音と律法の真理性」の「現実化」を目指していることが分かります。すなわち、全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済(史)は、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性においてのみ成就されることを目指していることが分かりわけです。そのために、まず、この福音の形式である律法が、「真実の罪人」の手に、「にもかかわらず」与えられたら、どのような状態になるのかを、啓示の出来事に即して論じられなければならないでしょう。ここにおいては、バルトは、ルターと同様に、律法→福音という順序で語るのです。このことは、(その3)で述べてみたいと思います。