本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神の子らの生活(その3−1)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神の子らの生活(その3−1)」(302−321頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、引用の不備や誤字脱字等の不備はご容赦ください)

 

 バルトは、「十八節 神の子らの生活」について、次のような理性的な定式化を行っている。

 

「神の啓示は、それが聖霊の働きの中で信じられ認識されるところでは、神をイエス・キリストの中で尋ね求めることなしにはもはや存在せず、また神が既に彼らを見出されたことを証しすることなしには存在することができない人間を造り出す」。(302頁)

 

 私たちは、この定式から、すぐに、主格的属格としての「イエスの信仰」、それゆえに一切の天然自然や一切の人間的自然には全く左右されることがない神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」、すなわち「啓示の客観的実在」(啓示の客観的現実性)それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である「啓示の主観的可能性」としての「神の言葉の三形態」――第一形態としての「第一義的」な「原理」としてのイエス・キリスト(<「啓示の実在」そのもの>)と、第二形態としての教会に宣教を義務づけている教会の「宣教の原理」である「聖書」、すなわち聖書の言葉・証言・証し・宣教・説教および第三形態としての「教会の宣教」、すなわち教会の客観的な信仰告白・教義としてある啓示の「概念の実在」、これらは不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である――を媒介・反復することを通した、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とそのキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与(「啓示の主観的実在」、「啓示の主観的現実性」)、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間的な人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与、によって造り出されたキリスト教的人間のその「存在」・その思惟・その実践は、
@「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、
A「外面的なもの」、すなわちその外化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神への讃美」としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、
との同時性・同在性・構造性において理解することができる。

 

 なぜならば、@神の言葉は、三位一体論の唯一の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストの名(啓示の客観的実在・「啓示の実在」そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてある、からである、Aまた神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となるそれである。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」、からである。言い換えれば、そこにおいて、バルトの現存性は、それ自体が聖霊の業である聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」、すなわち不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性に連帯するのである。この場所で、バルトは、現在から未来に生きる言葉について、次のように語るのである――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している(『ローマ書』)、B啓示の客観的実在それ自体がその啓示に固有な証明能力を持っており、それゆえに「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、からである。したがって、「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。したがってまた、それ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的な啓示に固有な類・歴史性)を媒介・反復しなければならないのである。このような訳であるから、例えば、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマンの神学の、その原理・その認識方法と概念構成は、その最初から「誤謬は必然」となるものなのである。

 

 聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白・教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに、神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論、神の人間化・人間の神化、人間自身が対象化した・外化した「存在者レベルでの神への信仰」、その神の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムの増産、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した無神性・不信仰としての<宗教>、<自然神学>的なキリスト論・聖霊論・神論、に埋没していく以外にはないからである。したがって、バルトは、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである。「み言葉の行為者としての人間」・キリスト教的人間を、すなわち「神への愛」と「神の讃美」を、尋ね求めたのである。また、このような仕方において、個性と時代性を刻んだのである。
 このような訳であるから、神の啓示における「体系」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト」・「イエス・キリストの名」、だけなのである。したがって、まことのキリスト教宗教(教会や神の子どもたち、キリスト教的人間)の信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成、その存在・その思惟・その実践、は、三位一体論的――キリスト論的集中のそれとならざるを得ないのである。神の啓示は、そのことを認識し承認し確認する「人間を造り出す」のである。神の啓示は、神自身の自己啓示、すなわち神自身の自己認識・自己理解・自己規定として、「われわれに啓示されたイエス・キリスト」であり、父なる神に関わるのである。したがって、佐藤優のように、「『天にいる神』をほんとうに信じていません」し、「高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学(≪知識≫)が必須です」、と述べ、短絡的・出鱈目に、「だからこそ……神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」、と述べる場合、さらに信じられなくなるだろうし、その神学自体がもはや神学ではなく、人間学の後追い知識でしかない位相のそれでしかなくなってしまうであろう。すなわち、この佐藤の神や信仰は、神と人間との無限の質的差異を捨象してしまったところでの、ハイデッガーが揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」(人間・佐藤自身が対象化した神・その神への信仰)そのもの、それゆえに宗教そのものでしかなくなってしまうであろう。ここではその質については問わないとしても、佐藤の場合は、ほんとうは、神学をではなく、人間学等の後追い知識としての宗教学(人間学的神学)を、目指しているのである。例示しよう。神人論は、聖書に、キリスト教会に、固有なものではなく、農耕を経済的基盤とした人類史におけるアジア的段階において、非農耕民は神人と呼ばれていた。国家主義者の佐藤の好きな概念である「権威」としての天皇も、神人と呼ばれていた。佐藤の場合、これで終わりである。それに対して、バルトは、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して、次のように述べるのである――「神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」、と。この、「イエスの信仰」の主格的属格理解に立脚して紙一重を超えていくバルトの神学における思想性を、思想なき佐藤には全く理解できないだろうなあ、と思う。しかし、このような眉唾ものの佐藤が、ウェブ平凡で、「上から目線」(橋爪大三郎)でキリスト教神学入門やバルトを論じているのだから、不思議であるし呆れてしまうのである、世も末だなと思えてしまう。それはさておき、いずれにしても、イエス・キリストにおける啓示(啓示の客観的実在)は、「神の言葉の三形態」における「第一の形態」であり、神の言葉の直接性であり、「啓示の実在そのもの」である。それは、「すでに来たり給うた」、また「再臨し給う」イエス・キリスト自身、「イエス・キリストにおいて起こった和解」、イエス・キリストにおけるインマヌエルとしての神の言葉である。

 

 ここで、私たちは、次のことを、認識し承認し確認する。
@イエス・キリストが、私たち人間に対して、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、それゆえに私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界(≪究極的限界、終末論的限界≫)の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを認識し承認し確認する。したがって、その神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、人間的実在と人間的可能性に偏向・偏在した無神性・不信仰としての<宗教>、すなわち<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における福音、が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと」「変わって行く」ことを、また消費資本主義的段階を即自的に生きる神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たちが、大衆受けする・時流や時勢受けする・場当たり的な安っぽいイメージ価値(人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、人間自身が支配し管理するその神の名と呼びかけにるプログラム)の付加の増産をしていることを、見渡せる場所なのである。日本だけでなく、おそらくは世界中の、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家やそれに与する大学神学部・教団・教会の現状は、最悪、悲惨、惨憺たるものであって、ハイデッガーがブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と揶揄・批判した、その最悪、悲惨、惨憺たる水準に停滞したままであると言えるだろう。この最悪、悲惨、惨憺たる水準での停滞と循環は、彼らが、誰一人として、フォイエルバッハやマルクスの根本的包括的な原理的な宗教批判を含めて、そのハイデッガーの揶揄・批判を、神学における思想の課題として、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚・棄揚・揚棄し克服・超克していくべきそれであるということを、全く認識し自覚していないのであるから、それゆえに全く担っていないのであるから、当然のことなのである。それだけでなく、バルトだけが、その課題を認識し自覚し担ったのであるが、そのバルトを根本的包括的に原理的に認識し理解している者が誰一人としていないのであるから、あの最悪、悲惨、惨憺たる水準での停滞と循環は、当然のことなのである。もちろん、バルトを根本的包括的に原理的に理解しないで(理解しようとしないで、そういう努力もしないで)、バルトの一面だけを拡大鏡にかけて論じる、それゆえに一面的皮相的に出鱈目な戯言を述べる、バルト論者や似非使徒や知ったかぶりは、ごまんといるのであるが……。もっと包括的に言えば、神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その個・現存性――類・歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である、ということである。
A全人間・全世界・全人類の、完了された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)は、イエス・キリスト・「イエス・キリストの名」にのみあるということを、感謝をもって認識し承認し確認する。この時、私たちは、マタイ26・6−13、マルコ14・3−9を、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉(自己愛の外化としての隣人への愛)と、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」であるイエス・キリストの還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済・平和の言葉(神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」)とを同時性・同在性・構造性において、それゆえに信仰・神学・教会の宣教における思想の言葉として、聞くことができ持つことができるのである。言い換えれば、後者に根拠を持たないキリスト教の自己愛の外化としての隣人愛は、信仰・神学・教会の宣教における思想の課題としては、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」(『福音と律法』)、と言うことができるのである。なぜならば、イザベラ・バードが『日本奥地紀行』で書いたように、キリスト教的な自己愛の外化としての隣人愛は、人類史におけるアフリカ的・縄文的段階における自然的な愛の奉仕と比較考量した場合、明治期の日本人たちは「堕落している」と映るだろうし、西洋人は「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」というように映るだろう、からである。事実としても、そうであったであろうし、そうであるだろう。したがって、西洋人のバードは明確に確信を持って、アイヌ人は「善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている」、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」、と述べたのである。このようなアイヌのその存在・その思考・その実践の在り方は、白人進出以前の二万年前から先住する、征服併合された被支配民である北米インディアンについても言えるのである(野村達郎『民族で読むアメリカ』)。
B「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を通して、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝し信頼し固執し連帯する「啓示」認識・「啓示」信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではないのである。神の言葉は、一切の天然自然の中だけでなく、一切の人間的自然の中にもないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、その都度の神自身の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」るのである。この神の聖性、神の隠蔽性・秘儀性・不把握性とは、私たち人間のその啓示認識・啓示信仰が、常に終末論的限界(≪自己相対化≫)の前に立たされるということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、すなわち信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となるのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示・和解としてのイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない無神性・不信仰としての<宗教>、<自然神学>的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。                                     
Cブルトマン(その学派)の「神学は……新しく特定の哲学にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっているのを、私は見たのである」。ブルトマンの「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」という知識的に上昇する一方通行的な往相過程だけの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成は、近代主義的なキリスト教的教養人には受け入れ可能であっても、その現にあるがままの、不信や非知や非キリスト者(教)、大多数の被支配としての一般大衆、に対しては全く閉じられていく以外にないものである。したがって、バルトは、そのブルトマン(その学派等)に対して、「『現代人』が実際に存在するのは」、「ただ教養人の間だけではない」のであるから、「実存主義への特別な拘束力が生じるべきだ」、と述べたのである。神学における思想の課題としては、ほんとうは、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、信と信にある不信、信・知・キリスト者(教)と不信・非知・非キリスト者(教)の、両者を架橋し、その枠組を取り除き、信・知・キリスト者(教)を、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)・大多数の被支配としての一般大衆に、完全に開かなければならないのである。バルトにとって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(啓示・和解)における「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類、に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。

 

(1)「み言葉の行為者としての人間」
 バルトは、「み言葉の行為者としての人間」について、次のように述べている。

 

(ア)私たちが、「聖書の証言の対象」である「啓示」を問う時、キリスト教会に宣教することを義務づけている聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」である啓示の客観的実在そのものとしてのイエス・キリストと共に、教会の宣教における「原理」・「源泉、標準」である。したがって、第一に、「聖書の証言の対象」である「啓示」を問う問いに対する、聖書の啓示証言(「啓示概念」・啓示の「概念の実在」)に依拠した「啓示概念の中に前提されている主体を特に念頭において与えられた第一の答え」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の三つの存在の仕方(父・子・聖霊)という三位一体論の教説である、第二に、「啓示概念の中で示されている出来事そのものを念頭において与えられた第二の答え」は、「イエス・キリストにおける神の言葉の受肉についての教説である」、第三に、「この出来事の目標と結果を特に念頭において与えられた第三の答え」は、「聖霊の注ぎの教説」である。そして、この「聖霊の注ぎの教説」における「最後の考察の対象」は、「啓示を受けている人間」、すなわちイエス・キリストにおける啓示に固有な証明能力に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与された人間自身、である。イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ一四・二六)であり、「上から」の「よき賜物」である。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」、神に向かっての自由・神のための自由、神をキリストの中で尋ね求める自由は、「キリストの奴隷」となることであるが、そのことは、先ず以て、私たち人間が、その存在・その思惟・その実践において、一切の天然自然や一切の人間的自然に全く左右されることのない神の側の真実としてのみある「客観的な本源性」である主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ、このイエス・キリストにのみ、この神の義そのものにのみ、感謝を持って信頼し固執することを意味している。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせるのである。また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができるのである。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。このことが「初めて、神の言葉としてのイエス・キリストの中で聖霊を通して遂行された啓示のまったき内容である」。(303・304頁)

 

 このような訳であるから、「われわれは……次のことをしないように……はっきりと警告」されている。すなわち、それは、「聖霊の注ぎの教説」における「最後の考察の対象」である「啓示を受けている人間」は、「啓示なし」の「啓示から切り放されたキリスト教的人間」のことではない、というそれである。それは、具体的に言えば、「神の言葉の三形態」を媒介・反復しないキリスト教的人間ではない、というそれである。また、それは、聖書によれば「和解主のまことの神性と人間性についてのきびしい教えだけがある」――『神の人間性』でバルトは、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」、それゆえに「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている――から、「和解主の心理学」・「和解された者の心理学なるもの」に依拠するキリスト教的人間ではない、というそれである。単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの神性を否定するキリスト教的人間ではない、というそれである。したがって、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な「直接的な観照の対象、心理学の対象、となり得るであろう……それはここでもあそこでも結局『肉』であり、それについてはヨハネ福音書六・六三に述べられている、肉は益なし、が妥当する。それ故われわれは……キリスト論において、肉となった言葉にあくまで踏み止まらなければならなかった」のである。したがってまた、「事柄にそわない馬鹿げた振舞いに陥りたくないならば、われわれの肉との、あの救いとなる抗争」における「霊にあくまで踏み止まらなければならない」のである。受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、キリストの「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している。「新約聖書的――キリスト論的命題」は、@「まことの人間」として、「神の子あるいは神の言葉が人間、ナザレのイエスである」。A「まことの神」として、「人間ナザレのイエスが神の子あるいは神の言葉である」。このイエス・キリストの名で語るべき「最初にして最後のこと」・「イエス・キリストは誰であるか」という問いに対する答えは、単一性・神性・永遠性を本質とする「まことの神にしてまことの人間である」というその「存在の仕方」・神の子・神の言葉(性質・行為・働き)にある。したがって、「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」。すなわち、「ヨハネ一・一四の言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題、そのヨハネの「言葉」は、三位一体における神の単一性・神性・永遠性を本質とする「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の永遠のみ子」・「まことの神にしてまことの人間である」イエス・キリスト(神の第二の存在の仕方・神の子・神の言葉)のことである。そのキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(神の第二の存在の仕方)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、単一性・神性・永遠性を本質とするその「キリストの神性」が、「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。

 

 前回述べたように、キリスト教宗教(教会や神の子どもたち)は、「決してそれ自身においてまことの宗教であるのではない」ように、「キリスト教的人間自身が、真理の主人となるわけではない」のである。このことは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、聖霊によって更新された理性を必要とするのであるが、その更新された理性も聖霊と同一でないのと同じである。また、バルトは『神の人間性』において、人間自身の「素晴らしさ」を語るのであるが、人間の理性や能力や構想等の根本的かつ究極的な限界性をも語るのである。また、「神の人間性」と、その「神の人間性」から与えられた人間の人間性との無限の質的差異についても語るのである。すなわち、人間における労働や性・夫婦・家族や言語が対象化した文明や文化等の人間的自然(人間の人間性)の一切は、「神の人間性」ではないということを語るのである。(304頁)

 

 もしも、「教会や神の子供たち」が、イエス・キリストにおける啓示に固有な証明能力、「神の言葉」、「聖霊」、「信仰」、の外部に偏向・偏在した、それゆえに人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した、無神性・不信仰としての宗教的人間・「キリスト教的人間それ自身」に、それゆえに人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求・人間的な「要請」に、踏み止まろうと欲する時、そうした教会や神の子供たちは、「抽象的に考察されたキリスト教的人間」でしかないし、それゆえにその場合、「本来的な真剣な意味」での「真実の罪」を・「真実の罪」人を、それゆえに「義トサレタ罪人」としてのキリスト教的人間を、自己認識・自己理解・自己規定することはできないのである。なぜならば、その場合には、啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」を通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰やそれに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間的な人間の自己認識・自己理解・自己規定は存在しないから、結局は、存在の類比に依拠した、すなわち人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の後追い知識としての、人間的な人間の自己認識・自己理解・自己規定しか得られないからである。それに対して、「人がイエス・キリスト(≪啓示の客観的実在・「啓示の実在」そのもの≫)にあって、聖霊(≪の注ぎ≫)を通して(≪それゆえに、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復することで≫)受けとる実在の啓示」(啓示認識・啓示信仰、啓示の主観的実在)は、「人間に向かって、彼が……本来的な意味で罪人であり、ただこの彼の身に対して起こる裁きの中で、裁きとともにだけ、それであるから自分自身の中でではなく、イエス・キリストにあって、神と和解せしめられ、したがって恵みを受けた」キリスト教的人間、「義トサレタ罪人」、「恵みを受けたものであるということを語ることを止めないのである」。(305頁)

 

 「神の光であり、神の光のみであるし、あり続ける」、その「神の光の中」で、「われわれは……自分の現実存在」を、神に向かっての・神のための「自由な決断と規定」の「行為の中で絶えず実現してゆこうとしている存在を、みる」のである。「(和協信条)人間ハ堕罪ノ後モ、理性的な被造物デナクナッテシマッタワケデハナイ。(中略)ただしかしまさに、霊的ナ、神的ナ事柄ニオイテハ、(中略)彼ガ聖霊ヲ通シテ心ガ照ラシ出サレ、回心サセラレ、生マレカワラセラレル以前ニハ、自分の罪に対する神の怒リ、死と地獄を通して自分が脅かされていることを見てとることができず、すべての警告や教示をうけとることができない限り、彼はどうしてもそのようなものである。(中略)ナゼナラバ、彼ハ神ノ意志ニ対シテ反逆シ、敵意ヲ抱イテイルカラデアル。(中略)……理性的な被造物として、人間は神的な行為の対象となる。(中略)主ナル神ハ、人間ノ暗クサレタ理解力が明ルクサレ、彼ノ転倒シタ意志ガ従順ナ意志ニ変エラレルトイウ仕方デ、人間ヲ引キヨセ給ウ。(中略)神が聖霊ニヨッテソノ人間ヲ導キ、支配シ、治メ給ウ程度ニ応ジテ、ソノ限リ、人間の回心は起こることができるし、起こるべきである」。「啓示の恵みは、人間の人間性を通して条件づけられていない。むしろまさに人間の人間性こそ、啓示の恵みを通して条件づけられている」。「神の自由」は、「人間の自由を抑圧し、消し去ってしま」わない。なぜならば、そうであるならば、その「神の自由」は、「人間に向けられた神のいつくしみの自由」ではないからである。したがって、「神がその自由を、まさに自由な人間にたいしてこそ、実証し、確証するということ、それが啓示の恵みである」。

 

 ヘーゲルは、対自的で対他的・他在であって自在としての自由の原理、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性の原理を発見した。人間の神化・神の人間化の原理を発見した。思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」という原理を発見した。これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」の原理である。したがって、バルトにとって、「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にあった、神と人間との無限の質的差異の揚棄に基づく人間中心主義的な存在の類比におけるその原理・その認識方法と概念構成にあった。このヘーゲルの哲学原理・認識方法と概念構成は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」能天気な神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちとは違って、バルトにとっては、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に原理的に止揚し超克していかなければならない思想の課題としてあった。したがって、バルトは、先ず以て、「自由」・「主権」は、神自身においてのみ「実在であり真理」である、と述べたのである。バルトはこの概念構成によって、ヘーゲル哲学を紙一重で超えているのである。このバルトにおける信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成は、啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、にあるのである。言い換えれば、この時、ヘーゲルのあの自由の概念は、啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して得られたそれとして、それゆえに神と人間との無限の質的差異の下でのそれとして、正当性を得るのである。なぜならば、対自的であって対他的・他在であって自在としてヘーゲルの自由の概念は、正当性があるからである。このことは、感性的存在だけが現実的存在である・感覚の対象(客体・自然)だけが真(真理)であるとみなして、ヘーゲルの媒介性一般まで否定しまったフォイエルバッハに対して、マルクスが世界認識において正当性のあるヘーゲルの媒介性一般を救抜したのと同じである。例えば、『ドイツ・イデオロギー』での「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」という言い方は、フォイエルバッハとは違って、ヘーゲルの媒介性一般を正当に評価している証左である。(306−308頁)

 

 神の言葉は、それを「語られた方」「自身からして」、単一性・神性・永遠性を本質とするそれとして、「『あなたがたのたましいを救う力』がある(ヤコブの手紙一・二一)」。神の言葉は、「それ自身の力」において、その啓示に固有な証明能力に基づいて、「それを信じ、認識した人間の『心に植え付けられ』」・「『心に植え付けられて』いる」。人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与(啓示の主観的実在)は、垂直的に「上から」、啓示それ自体から、人間の側にやってくる。すなわち、そこには一切の人間的自然の介在はあり得ないのである。そこには、全き、完全な、他在であって自在な、神の自由が、神の自由な決断が、あるだけである。その場合、「み言葉は、『あなたの口にあり、心にある』(ローマ一〇・八)」。このことは、「み言葉が彼によって『受け入れられる』ことを欲しているということを意味している」。しかし、この「受け入れられる」ということは、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認・自己聖化の欲求もという在り方を放棄することを、「神の前」での「すなおさ」への「方向転換」を、意味している。したがって、この方向転換は、神から「新しく措定された」「われわれの現実存在」、「神の前」での「すなおさ」におけるその存在・その思考・その実践への「方向転換、を意味している」。したがってまた、「もしも彼が単なる聞き手であって、まさに聞き手として同時に、み言葉を行う者であろうとしないならば、自分自身を欺いている(ヤコブの手紙一・二二)」ことになるのである。「み言葉を行う者」とは、「神ノ言葉ヲ心デ把握シ、生活デ証シスル――神の言葉ヲ聞イテソレヲ守ル人タチハ、メグマレテイル(ルカ一一・二八)トノ、キリストノ言葉ニ従ッテ、真剣ニ自分ヲユダネタコトヲ生活デモッテ証シスル――モノのことである(カルヴァン)」。それに対して、「み言葉の単なる聞き手」とは、「み言葉」に対する「単なる専門家、興味を抱いている者、尊敬者、崇拝者として自分自身(≪自主性・自己主張・自己義認・自己聖化や人間的な実在と人間的な可能性、への欲求を持つ自分自身≫)を保留しておこうとする」それのことである。このようなことは、「人間的な言葉に対してはできることであるが、神の言葉に対しては決してできなない」ことである。なぜならば、啓示に固有な証明能力に基づいて「神の言葉を聞くということ」は、それが「主の言葉であるが故に」、不可避的に必然的に「神の言葉に聞き従うことを意味している」からである。
 神の言葉は、律法(神の要求)として、「われわれ自身を要求してくることによって、……われわれ自身の、自由な、自発的な服従を要求してくる」、「われわれの現実存在をもっての告白を要求」してくる、「われわれの心を要求」してくる、「単に聴従するだけでなく、留保なしに服従すること、真理にわれわれが身をまかせる決断へと要求」してくる。すなわち、「言葉の行為」は、その神の「言葉を本当に聞くという以外の何ものでもないのである」。この言葉の「行為ソレ自身ノ中ニ、祝福ガアル(カルヴァン)」、「救い」がある。啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」への信頼と固執と連帯に、「救いと祝福」があるのである。

 

 パウロにとっても、「律法を聞く者が義とされるのではなく、ただ律法を行う者が義とされる(ローマ二・一三)」。「一つの土台イエス・キリストの上に各人は自分の業を立てる、またこの業こそが終わりの裁きの時にいずれにしても明らかにされるであろうことである(Tコリント三・一三)」。「ひとりひとりが自分を欺かないように、……自分の誇りをもつとともに、それぞれ自分の重荷も負うであろう自分の行いを……検討してみなさい、と命じられている(ガラテヤ六・三以下)」。パウロは、「永遠の救いに到達することを、……努力してなしとげるという観点」を述べた「その後直ちに」、「なぜならば、あなたがたのうちで働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神だからである」、という「顕著な基礎づけ」を行っている(ピリピ二・一二以下)。「またパウロはエペソ二・八以下で逆に、わたしが救われたのは、恵みにより、信仰によるのであり、神の賜物であって、決して行いによるのでないことを、最高級の強い表現で語った後」、「わたしたちは、神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである」、と述べている。パウロは、「Tテサロニケ一・三、Uテサロニケ一・一一によれば、信仰の業という概念を知っている」。すなわち、パウロは、「使徒としての自分の行為を、主のご用をなしとげること(Tコリント一六・一〇)として、また自分のことを神の同労者として(Tコリント三・九)」として述べている。この業・行為・「行いの前提は、パウロにとっては、……それの主体が神ご自身であり、あくまで神ご自身だけであって」、それゆえに「その力は行いによって増し加えられることもなければ、減らされることもなく、ただまさに行いによって<確認>されることができるだけである行為……から成り立っているということである」(ピリピ二・一二以下およびエペソ二・四以下)。このように、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」である啓示の客観的実在においては、それ自体が持つ啓示に固有な証明能力においては、イエス・キリストの業あるいは聖霊の業と人間的な業が競合しないように、人間的な行いと人間的な信仰との競合もないのである。「人間はパウロによれば……信仰の中でのみ、あの神的な行為の対象であり、(神によって義とされたが故に)神の前で義とされた人間である」。なぜならば、「人間は信仰の中でイエス・キリストを対象にもっており、イエス・キリストとかかわりをもち、イエス・キリストに合わせられ、イエス・キリストに委ねられ、イエス・キリストのみもとに行くように命じられているからである」。「個々人と共同体との対立」についても、それは、近代的な対立概念ではあって、「新約聖書のものではない」のである。なぜならば、「新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」からである。イエス・キリストにおいては、個と共同性も逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。

 

 『福音と律法』によれば、次のように述べられている――恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音の形式である律法が建てられる。なぜならば、この律法がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式である。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求)は、人間はただの人間でしかない以上、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもない。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、キリストにあっての神に対する素直な感謝の応答、あのイエス・キリストにおける死と復活の出来事――インマヌエルの出来事の告白・証し・宣べ伝えにある。したがって、それは、
@主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、にのみ信頼し固着すること、すなわちその神の義としての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固着すること、そしてその告白と証しと宣べ伝えにある、
A「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということにある、
B「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということにある。これら@からBまでの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。(この事柄を、便宜上、啓示に固有な証明能力を通して授与された人間的な人間の自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活、と名付けておきたい)
 このように、「われわれは……信仰そのものを、……あの、神的行為を確認する行ない」、主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのものである「イエス・キリストを信じる信仰の行い」、と呼ぶことができる。したがって、「人間が信じるということ、そのことが彼を義としない」、啓示に固有な証明能力に基づいて「彼がイエス・キリストを信じるということ、そのことが彼を義とする」のである。したがって、「行いは……ただ信仰の……必然的な註釈である」――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである(『福音と律法』)。
 このように、「彼が信じる時、彼の信仰は彼の現実存在の偶然的な規定ではなく、……必然的な規定であり、……単なる部分的な規定ではなく、全体的な規定である」。彼の、人間の、全人間の、その存在・その思考・その実践に関わる必然的な規定である。「もしも信じるところのものが人間、人間自身、全人間でないならば、それは信仰ではないし、それはイエス・キリストを対象として持っていないし、それであるから義とすることもないのである」。イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)が問題である。@イエス・キリストが、私たち人間に対して、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界(≪究極的限界、終末論的限界≫)の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを認識し承認し確認するのである。したがってまた、その神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その個・現存性――類・歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であることを認識し承認し確認するのである、A「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を通して、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝し信頼し固執し連帯する「啓示」認識・「啓示」信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。
 このように、「信仰が自由な神の造り出し給うものとして、同時に与えられた限界の内部で、必然的全体的に、また人間の自由な決断であり、行為である限り、行いは信仰であり信仰は行いである」。聖霊の注ぎによる信仰は、啓示に固有な証明能力に基づいて、「限界の内部で」、神に向かっての・神のための、自由な「決断」・「行為」、を惹き起こすのである。あの、啓示に固有な証明能力を通して授与された人間的な人間の自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活、を惹き起こすのである。(308−312頁)

 

 「われわれが聖霊の恵みについて欠けたところなく、正しく語ろうとする時、避けて通ることのできない具体的ニキリスト教的人間」は、「自由な人間」、すなわち、その人間に対して「神がその自由を確証し、確認し給うところの自由な人間」である。「自由」・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」である。したがって、その人間における自由の概念は、啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して授与された、それである。このように、バルトは、人間的な実在や人間的な可能性へと偏向・偏在していく無神性・不信仰としての<宗教>、<自然神学>的な思惟、人間の経験、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、の第一次化や存在の類比、へと偏向・偏在していく思惟をとらないのである。なぜならば、そこにおける人間の存在・思惟・実践、自由の概念、は、啓示に固有な証明能力に基づいて授与された人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それに依拠した信仰の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定、におけるそれではないからである。したがって、そのような存在・思惟・実践、自由の概念、は、ヘーゲルの哲学原理に飲み込まれてしまうそれでしかないものである。ヘーゲルの哲学原理は、「イエスの信仰」の目的格的属格理解が偏向・偏在していく最果てにある、それなのである、「イエスの信仰」の目的格的属格理解の極限に想定される、それなのである――ブルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、ルドルフ・ボーレン、ボンヘッファー、「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された「近代的精神」・人間的理性・思惟による新たな神との「共働者」関係の構築を目指したブルンナー、等々を含めて、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『ヘーゲル』)。「イエスの信仰」の目的格的属格理解においては、決してヘーゲルの哲学原理を根本的包括的に原理的に止揚して超克することはできないのである。なぜならば、程度の差はあれ、「イエスの信仰」の目的格的属格理解においては、必ずや論理的に現実的に人間的な実在や人間的な可能性の直接性が介在するからである。このことは、例えば、ルターの『キリスト者の自由』を読めば、明らかなことである(拙著123頁あるいはホームページ参照)

 

 いずれにしても、「われわれが聖霊の恵みについて欠けたところなく、正しく語ろうとする時、避けて通ることのできない具体的ニキリスト教的人間」は、「自由な人間」、すなわち、その人間に対して「神がその自由を確証し、確認し給うところの自由な人間」、この人間の自由は、「神学的倫理、あるいは内容的にキリスト教的」人間の「生活の問題」となる、それである。すなわち、その人間の自由を問うことは、「神の啓示の事実そのものとともに」、すなわち啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復すること、を通して、終末論的限界の下で、「われわれは何をなすべきかという問い」、あの啓示の「事実に対応してどのように人間の生活を形成していったらよいのかを問う問い」、神の要求・あの啓示の「事実」に対する「服従の命令」を問う問い、信仰的神学的宣教的な倫理問題、「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活の問題、と「取り組むこと」なのである。

 

 「神の子らの生活」――バルトは、この「表題をA・V・ハルナックに負うている」。バルトは、1925年、「福音主義的教義学の可能性について」、ハルナックと「最後の……対話を行った」。その時、ハルナックは、福音主義的教義学を書かなければならないとすれば、「神の子らの生活」という「表題のもとで書くであろうと……語った」。このことは、律法が福音を内容とする福音の形式であるという意味において、一面において正当性のある表題である。しかし、この事柄は、形而上学抽象的一面的固定的に論じた場合、根本的包括的な原理的な誤謬をもたらすことになるのである。したがって、バルトは、次のように言うのである――イエス・キリストにおける啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」、に信頼し固執し連帯する「福音主義教義学は、根本的、決定的に、神のひとり子と聖霊について取り扱うであろう。また神のひとり子と聖霊の中にその本来的な中心を、聖書の中にその源泉を、教会の中にその堅固な場所を、持たなければならないであろう」、と。しかし、それに対して、ハルナックは、「明らかに……そのようなことを言おうとしていたわけではな」かった。すなわち、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在していく「新プロテスタント主義」者のハルナックの「信仰の対象」は、「啓示の中での神」ではなく、「神的なものを信じる人間自身」であったのである。ハイデッガーの言い方を借りれば、それは、まさしく「存在者レベルでの神」であったし、その「神への信仰」であったのである。ブルトマンの場合もそうであった。したがって、ハイデッガーは、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法のみせかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と揶揄・批判したのである。このようになる根拠・原理は、すべて、「イエスの信仰」の属格の目的格的属格理解によるものなのである。なぜならば、この目的格的属格理解は、程度の差はあれ、神の側の真実だけでなく、人間的な実在と人間的な可能性の<直接性>を温存させるからである。それに対して、例えば、「イエスの信仰」の主格的属格理解に立脚した「超自然な」段階へと移行したバルトにおける啓示認識における理性の概念は、@聖霊によって更新されたそれであるが、Aその聖霊によって更新された理性も聖霊と同一ではないそれなのである。ヘーゲルが人間の対自的で対他的・他在であって自在な・自由な自己意識・理性・思惟の無限性の原理を発見して以降は、そのヘーゲルの哲学原理を根本的包括的に原理的に止揚し超克しない限りは、すなわちこのバルトのような信仰・神学・教会の宣教における原理・認識方法と概念構成を持たないならば、その人間中心主義的なヘーゲルの哲学原理に飲み込まれてしまうことは必然なのである。バルトは、次のように述べている――シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識・理性・思惟の意味的世界、自分自身が対象化した「存在者レベルでの神」、その「神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理する恣意的独断的なプログラム、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」、を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てるのである、と。現在も、神学者・牧師・キリスト教的メディア的著述家たちは、その枠組の中で、停滞と循環を繰り返しているのである。

 

 啓示に固有な証明能力に基づいて授与された、人間的な人間の自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活は、「聖霊の注ぎ」による啓示の遂行における、すなわち人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与における、「キリスト教的」な「人間的な自由な決断」、「人間的な行い……業」、「実在の人間の生活」、としての「性格」・「特徴」を、イエス・キリストにおける恵みの「光の中」に持っている。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。この時、その認識・信仰・確証は、個体性においても・教会共同性においても、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、何であれ、かつて語った言葉・「かつて語った説教(≪「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける福音の言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という行為・業を惹き起こすのである。したがって、バルトの場合は、牧師・神学者・思想家として、イエス・キリストにおける福音にのみ信頼し固執する説教や神学の繰り返しの言葉が、「おのずから」状況に抗する神学的実存へと駆り立てて行く、というものであったのである。したがってまた、バルトの場合は、政治的なドイツ教会闘争・反ナチ闘争も、またバーゼルの刑務所での社会的な説教奉仕、等々も、その位相にあるものなのである。このような訳で、バルトは、ステパノの殉教の本質は、その苦難の「行為」にはなく、イエス・キリストにおける福音にのみ信頼し固執する「言葉」にある、と述べたのである。因みに、このことは、人間学的領域においても言えることであって、「マルクスの完結した体系は、……理論が彼を実践のほうへ必然的につれていくようにできあがっていた」のである(吉本隆明『カール・マルクス』)。質のいい理論は、そのように構成されているのである。
 さて、バルト研究者の寺園喜基は、クラッパートと共に、クラッパートに依拠して、直接的無媒介的に、「神学的なもの」と「政治的なもの」、個と共同性、との「必然的関係」・「正しい関係」だとして(実は、混淆・共働・折衷でしかない)、「倫理―隣人愛―仕える教会―信徒―民主主義的社会主義―平和運動」という形成倫理学を主張したのであった。それは、「キリストと同じ形になること」だと主張した。言い換えれば、彼らは、自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、「おのずから」「必然的に」、「支配」と「管理」でしかない一切の社会構成や支配構成や文化構成に与せず、不可避的に状況に抗する実践へと「駆り立て」られて行く、という神学的倫理学を展開したバルトとは全く違っていた。彼らは、バルトとは違って、「イエスの信仰」の主格的属格理解に立脚しようとはしなかった。それだけでなく、人間存在の三様式とその構造性を展開することもしなかった。終末論的展開を持たなかった、革命の究極像を持たなかった。彼らは、皮相的一面的であった。彼らは、ヘーゲルの哲学原理に飲み込まれたままであった。また、ヒトラー暗殺計画の陰謀を企てた、ボンヘッファーの神学的実存の在り方は、彼の『説教と牧会』に即して言えば、「キリスト証言は、言葉と行為とをもってする説教者と聴衆とを要求する」というところにある。しかも、そのボンヘッファーの信仰・神学・教会の宣教のベクトルは、バルトとは違って、この世における、キリストの許しのもとでの、神との「共働者」論に基づいたキリストを範型とした「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現「行為」にあったから、ボンヘッファーのそのイエスへの従順な服従行為は、事実的にはヒトラー暗殺計画へと向かう権力闘争・政治的実践へと向かっていった。典型的に、ボンヘッファーのその権力闘争・政治的実践は、結局は、「イエスの信仰」の目的格的属格理解の極限に想定されるヘーゲルの哲学原理、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向・偏在していく最果て、へと向かっていくそれであった。それだけでなく、ボンヘッファーのその権力闘争・政治的実践は、過渡的課題と究極的課題との構造としてある国家論(革命論)を持っていなかったから、また権力を実体的に考えていたから、ボンヘッファーのその権力闘争が成功しないことは最初から明らかなことであった、全く質がいいものではなかった。したがって、たとえそれが成功したとしても、人間自身が支配し管理する新たな国家主義的な権力の構成でもって終わってしまうものでしかなかった。このようになる根拠は簡単なことであって、それは、ボンヘッファーが「イエスの信仰」の目的格的属格理解に立脚しているからである。したがって、ボンヘッファーは、神学的には、人間的な政治的国家の無化を伴う、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)にのみ信頼し固執しないからであり、人間学的には、過渡的課題と究極的課題との構造としてある国家論(革命論)の構想を持たずに、神と人間との「共働」論において、人間的な意志的倫理的実践的な、彼自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによるプログラムの遂行(ヒトラー暗殺計画)へと向かったのである。

 

 キリスト教的人間・「彼の生活、行為」、自由な決断、が、「『キリスト教的』性格を明瞭に描き出す」場合、それは、向こう側から、「外から」、「神から」、神の側のから、やって「来る」、それである。すなわち、私や私たちの、「生活、行為」、自由な決断、における「『キリスト教的なもの』は、つねにただ」、「わたし」や「われわれ」ではなく「彼、主」が、私や私たちの「ために」・「代わりにということの表明であることができるだけ」なのである。したがって、それは、終末論的限界のもとにおける、あの啓示に固有な証明能力を通して授与された人間的な人間の自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活としてのそれなのである。このように、それは、主が、イエス・キリストが、「慰めと警告と命令を与えつつ、限界づけつつ、力を奮うということ」であり、「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活の根拠である、ということである。したがって、この「神の子らの生活」・「教会の生活」キリスト教的人間の生活における「キリスト教的なもの」の「実在」は、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在である」。このことは、理解し易いように・イメージし易いように、『福音と律法』に即して言い換えれば、@「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、ということである。すなわち、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在」は、「わたし」や「わたしたちではなく彼が」・主が、「イエス・キリストという唯一の名」が、「この実在である」、ということである。
 「ただ間接的にのみ彼はわれわれと、われわれは彼と同一である。なぜならば、彼は神であり、われわれは人間であるからである」、「彼は天にいまし、われわれは地上にいる」からである、「彼は永遠に生き給い、われわれは時間的に生きるからである」、「この限界、終末論的な限界、は、彼とわれわれの間であくまで引かれ続けている」からである。私たちが、「神の子どもたちの生活」、「教会の生活」、キリスト教的人間の生活、を「聖霊が造り出すものとして理解する時」、例えば前述した『福音と律法』における、「交差し合っている」その存在・その思惟・その実践(行為)の人間的な自己規定を得るのである。「神の子供たち」・キリスト教的「人間の実際に異なった二つの規定」、すなわち聖書的な「生まれかわりと回心、義認と聖化、信仰と服従、神の子供と奴隷」の区別は、それを「規定する方」である単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストと聖霊」において、「交差し合っている」、ということができるのである。(313−317頁)

 

 「啓示がなすよき業」、啓示に固有な証明能力によって規定されたキリスト教的人間の「存在」は、「新しい主体と本質として……呼びかけられる」それである。この聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」キリスト教的人間のその「存在」・その思惟・その実践は、
@「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、
A「外面的なもの」、すなわちその外化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神への讃美」としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、
との同時性・同在性・構造性において理解することができる。
聖霊によって更新された「彼」、すなわち「個人」性・「孤独」性・個体性における「彼」は、聖霊の注ぎによって「確かに神の言葉」を、「永遠の言葉、すなわち、肉をとり、ご自分の肉の中で、われわれの肉を、この言葉を聞き信じるすべてのものの肉を、父の栄光の中へと取り上げた永遠の言葉」を、「聞き、信じる」のであるから、「神をキリストの中」で「尋ね求めることこそ」が、教会や神の子供たち・キリスト教的人間の「生活の内面的なこと」であり、「個人」性・「孤独」性・個体性であり、その外化(表現)された「個人」性・「孤独」性・個体性は、彼らの外面的な「行為の意図」・教会共同性である。啓示に固有な証明能力に基づいて、具体的には啓示の主観的な可能性である「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神を見出した者たち」、すなわち啓示認識・啓示信仰を授与された者たち、が、「神をキリストの中で尋ね求めることについて語っている聖書的概念」は、「神への愛」、「神に対する人間の愛」である。この「神への愛は、その人間がキリストとともに甦えらされたが故に、そのほかの彼の存在が彼から取り去られた後、ただそれだけが彼に残されている存在である」。なぜならば、「イエス・キリストご自身」が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」からである。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。
 この時、理性的な定式化における前者の「個人」性・「孤独」性・個体性は、「神をイエス・キリストの中で、尋ね求めることなしに、もはや存在すること」・思惟すること・実践することができないそれなのである。しかし、ただなお、「彼の背後には、……彼の既に片づけられた(≪キリストの復活によって止揚し・克服された≫)罪、死の深淵がある」。すなわち、イエス・キリストにあって、「彼」は、啓示の弁証法において「恵みを受けた罪人である、義トサレタ罪人である」――@「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、A福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就された時間は、「新しい世」のはじまりである。私たちは、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識に依拠した信仰の類比を通して、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、すなわち成就された時間であるイエス・キリストの復活における神の「勝利の行為」によって根本的包括的に止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができる、そしてそれと同時的同在的に、その勝利の行為は、「(≪このことは、イエス・キリストにおいては、ただ「彼らの背後にあるだけである」が、罪人であり、死の手に落ち込んでいる≫)敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であるということを認識し信仰することができるのである。また、理性的な定式化における後者のキリスト教的人間の、「外面的なもの」、「特定」の「行動すること」、「交わり」・教会共同性、「神への讃美」は、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」である「神がすでに為した」ところの全人間・全世界・全人類のために「キリストは死に、甦えられた」というイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエル――神、罪深きわれらと共に、ということ、「新約聖書において聞く啓示、和解」の出来事、その告白・「証し」・「宣べ伝え」にあるのである。言い換えれば、人間の経験や人間論や人間学の後追いとしての人間的な実在や人間的な可能性へと偏向・偏在したそれではなく、恣意的独断的なそれではなく、イエス・キリストにおける啓示の客観的実在そのものを「先ず第一義的に優位に立つ原理」とする、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」を媒介・反復した、「新約聖書において聞く啓示、和解」の出来事、その告白・「証し」・「宣べ伝え」にあるのである。なぜならば、「彼」は、聖霊の注ぎにより、「神の自由の中で、彼自身自由となり、神の子供となった」し、「神に向かって自由」となったし、「神のための自由」を得た、のだからである。したがって、「彼」は、「彼の現実存在全体を通して」、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「生きるのである」。しかし、「彼の背後」には、依然として、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」とは違った「決断」を行う、イエス・キリストの死と復活の出来事によって止揚し・克服されたところの、人間の神からの離反・背き・罪、無神性、不信仰、があるのである。したがって、「彼」は、「ただ、キリストにあって」のみ、「救われている」のである。「まさにそれだからこそ、キリストについての証言に向かっての(≪神に向かっての自由、神のための自由、の≫)決断の中で、彼は生きる」のである。「彼」は、聖霊の注ぎによって、授与される啓示認識・啓示信仰である「義トサレタ罪人として」、キリストの「死と復活」の出来事を、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである。「外的な行い・業へと向か」わせられるのである。この時、彼は、キリスト教的人間における「個人」性・「孤独」性・個体性であるにもかかわらず、教会共同性の中に、「教会の交わりの中にいるのである」。聖書的概念として、「われわれが見出され、救われていることをこのように証しし、告白すること」は、「神への讃美」である。それは、キリストの死と復活の出来事からやってくる、不可避的「必然的な行動」としての、告白・証し・宣べ伝え、である。なぜならば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)からである、また、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法が建てられるのであるが 、それは、この律法がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである(『福音と律法』)。

 

 キリスト復活から再臨・終末・救贖・完成までの聖霊の時代における「キリスト教的生活」、「神の子供たちの生活」は、終末論的限界の下において、「神をキリストの中で尋ね求め」、「見出す人間」の途上の生活である。ここに、「神学的倫理学……の原理」がある。それは、「神への愛」、「神に対する人間の愛」、と、「神への讃美」、イエス・キリストの死と復活の出来事の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性・構造性においてある。それは、あの啓示に固有な証明能力を通して授与された人間的な人間の自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活のそれである。このように、教義学が、「キリスト教的人間の問題を既にその基本的な考察」の対象として「承認し、取り扱」い、「倫理学を自分の中に取り上げている」のであるから、「特別な、神学的倫理学」を必要としないのである。先にも述べたが、クラッパートや寺園のような、直接的無媒介的な、「神学的なもの」と「政治的なもの」、個と共同性、との混淆・共働・折衷による、それゆえに形而上学的抽象的空論的な、「倫理―隣人愛―仕える教会―信徒―民主主義的社会主義―平和運動」において、「キリストと同じ形になること」を目指す形成倫理学など全く必要としないのである。なぜならば、「教義学自身」が、「神の言葉についての反省的考察」であり、神学的な「倫理学であるからである」。(317−321頁)