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3の1(上).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

3の1(上).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(147-179頁)
再推敲・再整理版です。

 

「十七節 宗教の揚棄としての神の啓示――一 神学の中での宗教の問題」(147-179頁)

 

バルトは、「宗教の揚棄としての神の啓示」について、次のような定式化を行っている。
 「聖霊の注ぎの中で起こる神の啓示は、<人間的宗教>の世界の中で、神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ、現臨し給うことである。換言すれば、人間が自分勝手に考え出し、自らの力できざみ造った神の偶像の前で、自分を義とし聖化しようとする人間のこころみの領域の中で、神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ現臨し給うことである。教会は、恵みを通して恵みによって生きる限り、<まことの宗教>の場所である」(147頁)。

 

 バルトの定式は、次のように理解することができる。
 「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方、すなわち「啓示されてあること」であり、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの、換言すれば客観的な「存在的な必然性」)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性、主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」)の関係と構造(秩序性)であり、救済者であるところの、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」(「信仰の出来事」としての「聖霊の注ぎ」、換言すれば主観的な「認識的な必然性」)の中で起こる神の啓示は、生来的な自然的な身体と精神を介して普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、人間化された自然を含めた宇宙・天然自然の外界)との相互規定的な対象的活動を行うわれわれの人間の人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された個体自己の成果の世代的総和とその時間累積としての世界や歴史における様々な原理・理念・主義・体制、特定の支配構成・社会構成、特定の人種や民族、自然法や民族法、哲学や道徳等々人間がつくった偶像・「存在者レベルでの神への信仰」にしか過ぎない「<人間的宗教>の世界の中で、神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ、現臨し給うことである」。「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(≪「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な啓示の出来事、客観的な「存在的な必然性」≫)がその啓示の出来事の中での主観的側面としてのキリストの霊である「聖霊の注ぎ」において「現臨しつつ行動し給うところ、現臨しつつ行動し給う限り」、イエス・キリストは、「まだ肉の中にあり、まだ罪人として歩んでいる人間を教化し、導き給う。……それは厳格に隠された教化形成であり、隠された指導である」。この「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方である信仰の出来事としての「聖霊の注ぎ」による「イエス・キリストの行動」は、「人間の生活がキリストにかなったものになるということを目標としている」。しかし、この「キリストにかなう」ということは、キリストが「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であり、われわれ人間はあくまでもただの人間である限り・あり続ける限り、「第二のキリストである人間になるということではない」。すなわち、「キリストにかなっているということ」は、われわれ人間が、その人間性全体において、「キリストの故に、キリストにおいて、神の子供であり、それ故に」、「キリストに方向づけられている人間であることを意味している」。このことは、「聖霊の業」であるが、われわれは、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としてのその「聖霊の注ぎ」(信仰の出来事としての「聖霊の注ぎ」)によって「そのように方向づけられることにおいて、神の啓示を聞き、受け取ることができる」。
 「教会は、恵みを通して恵みによって生きる限り」、換言すれば教会が、「恵みを通して恵みによって」、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)という総体的構造に基づいて常に先行する第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「啓示されてあること」に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(通俗的な意味での隣人愛のことではなく、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のことである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して生きる限り、その教会は、「<まことの宗教>の場所である」。「教会は、(≪前述したような仕方で≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、それ故にそうでない時には、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである(『啓示・教会・神学』)。何故ならば、われわれは、われわれの存在を、起源的な第一の形態の神の「言葉の下に服しめられる服従の出来事」(信仰の出来事)を生起させる「霊から」(客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての霊から)、「新しい誕生から」、「神の言葉に向かう方向性を持つ」からである。われわれ人間の生来的な自然的な知力、感性力、悟性力、理性力、意志力、想像力、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等からではない。このことは、神の側の真実としてあるあの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいた出来事であるから、「われわれ人間の何らの功績によらず」、また「われわれ人間の側からの貢献や協働(≪・共労・共働・協力・混合・混淆≫)なしに」、それ故に神の側から・神のその都度の自由な恵みの決断によって、「必然的に、不断に、抵抗すべからざる仕方で、起こる」のである。したがって、このことは、「イエス・キリストご自身(≪客観的な啓示の出来事、すなわち客観的な「存在的な必然性」≫)の否定および拒否」においては、それ故にその啓示の出来事の中での主観的側面としての「イエス・キリストご自身の霊である聖霊(≪信仰の出来事としての「聖霊の注ぎ」、主観的な「認識的な必然性」≫)の不在」においては、「否定され、妨害され、不活発にされ」・「起こらない」のである。

 

 そのような訳で、徹頭徹尾神の側の真実としてあるあの総体的構造からして、「神のもとで啓示の実在を、……人間のもとで啓示に対する可能性を確認すること」を、換言すれば「啓示の出来事を神に帰し、……その出来事を受けとる器官あるいは結びつき点を人間に帰すること」を、また「神の恵みをこの事柄における特別なこととして、……人間的な適正と受容能力をこの事柄における一般的なこととして理解すること」は、「われわれに禁じられている」のである。「神を内容として、人間を形式として、それであるから啓示の出来事を神と人間の間の、恵みと自然の間の、共同作業(≪混淆・混合・共労・協働・共働・協力作業≫)として解釈することはわれわれに禁じられている」のである。徹頭徹尾神の側の真実としてある、あの主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)に基づいて、またあの総体的構造に基づいて、この「禁じられている」ことを認識させられ理解し自覚する時には、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの客観的な正当性と妥当性とを持った根本的包括的な原理的なキリスト教批判を包括し止揚し克服することができるのである。先ず以て、このことこそ、神学における思想の問題である。その時には、ハイデッガー自身が、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化して神学を構成したブルトマン神学に対して、その神学における人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「……『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うこと……』」になるから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」というように「揶揄」・批判されることはないのである。したがって、「人間には啓示なくしても」、「人間自身が本来(≪生来的に自然的に≫)持っていて、そして啓示の中で言わば甦って来る」、人間に内在する「啓示能力」、「言語能力」、「言語受容能力」、「呼びかけられうる能力」、「啓示に先立つ『啓示能力』」、すなわち「結合点」があるというように<人間的宗教>を目指して自然神学(混合神学、人間学的神学、「神人協力説」的神学)を主張するブルンナーの神や啓示や神学は、まさしくフォイエルバッハが客観的な正当性と妥当性とを持って根本的包括的に原理的に批判したキリスト教そのものなのである――「(中略)神の啓示の内容は、(≪キリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質 』)。東京神学大学の実践神学者の小泉健が、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」というように神の側の真実としてある聖霊や聖霊の言葉を、人間・小泉が恣意的独断的「わがまま勝手に」実体化させた時、小泉は、自然神学の段階で停滞しているのであり、<人間的宗教>としてのキリスト教を目指しているのである。小泉とは違って、われわれは、教会の宣教(説教と聖礼典)、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」と言わなければならないのである。その時には、教会は、「人間的宗教」ではなく、「まことの宗教の場所である」と言うことができる。

 

 さて、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて与えられるわれわれ人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰も、「人間的な状態、経験、活動の形態をもつ出来事である限り、われわれはここで、人間的な宗教の問題と出会う」のである。何故ならば、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊(≪の注ぎによる「信仰の出来事」≫)を通しての神の啓示は、(≪終末論的限界の下で、われわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事として≫)人間的な現実存在のひとつの規定として実在であり、可能性である」からである。したがって、それは、「ひとつの人間的な、歴史的および心理学的に把握することできる現象」として、その「本質、構造、価値を考察することができる」客観的な対象として存在している。したがってまた、「ここでわれわれが取り組まなければならないのは、まさに宗教という問題領域についてである」、換言すればその宗教が、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事としての「まことの宗教」を目指しているそれであるのか、それともそれ以外の人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」、すなわち「人間的宗教」を目指しているそれであるのかという問題についてである。われわれは、「啓示の実在と可能性を、またその主観的な側面からしても、……(≪神の側の真実としてある≫)神的実在および神的可能性として言い表そう」としたが、その問題領域において、「神と人間の間の出会いと交わりについて、教会と聖礼典について、(≪キリスト教に固有な≫)神の前での人間の特定の存在と行動の仕方について語る」のである、ちょうど例えば「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>について語るのである、またちょうど例えば常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、常に先行する「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないことについて語るのである、すなわち常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」と言わなければならないことについて語るのである、またちょうど例えば第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(そのすべての成員)は、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、神の側の真実としてあるあの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業(「啓示されてあること」)であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源・根源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その連続性に連続せざるを得ないということについて語るのである。われわれ人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰としてのキリスト教は、様々な宗教の中の一つの種、すなわち「類の中での種」として、「ユダヤ教、イスラム教、仏教、神道、あらゆる種類のアニムズム的、トーテミズム的宗教、禁欲的、神秘主義的、預言的宗教」と類似性を持っている。このことから、キリストの啓示は、キリスト教に固有な「独特なもの」、キリストにあっての神としての神の「神的な独一無比なもの」であるが、人間的宗教の一つの種として「独一無比なものではない」と言うこともできる。したがって、われわれは、このことを「認識し、承認しなければならない」。しかし、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして(下記の【注】を参照)、この一面だけを拡大鏡にかけて全体化して、換言すればこの一面だけを形而上学的に抽象し固定化して、キリスト教をただ単なる人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」(人間がつくった偶像への信仰)を目指す人間的宗教一般として考察することは誤謬を犯すことになるのである。「(中略)確かに受肉(≪その内在的本質の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそ(≪人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない≫)すべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名(≪ナザレのイエスという人間の歴史的形態≫)からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階における日本において、天皇を含めて非農耕民は、神人と呼ばれたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名(≪ナザレのイエスという人間の歴史的形態≫)だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるナザレのイエスという人間の歴史的形態≫)だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。

 

【注】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。

 

 さて、「人は……神および神々を、具体的な礼拝形式の形で神性の像や表徴とかかわることにより、あるいは犠牲、なだめの行為、祈祷により、宗教的風習、活動、密儀を通して、信仰共同体や教会の形成をとおして、崇め敬うべき義務について知っていた」。また、「すべての宗教がもつ世界観的要素と問題、例えば世の始めと世の終り、人間の発生と本質……の問題」は、キリスト教と同じであると言うこともできる。すなわち、キリスト教は、まさに宗教史の対象であると言うことができる、まさにキリスト教は、「人間的な実在および可能性としても、理解されることができる」のである。このような訳で、キリストにあっての神は、神の側の真実としてあるあの総体的構造、すなわち「神的実在と神的可能性」それ自体において、前述したような「莫大な量の並行事象と類似現象のただ中に、入り込み給うた」のである。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「人間的宗教の世界の中での神の現臨であり、したがって人間的宗教の世界の中での神の隠れである」。この「神の隠れ」は、「聖霊の注ぎ(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての信仰の出来事と≫)、……言葉の受肉」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)に基づく終末論的限界の下での「まさに人間に対する神の啓示」・顕現である、「まことの宗教への召喚」である。

 

 そのような訳で、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示」を根拠とするキリスト教が、類における種として、人間的宗教一般の一つであり、それ故に「人間的な実在および可能性としても、理解されることができる」ということを認識し承認し確認する時、そのキリストの啓示を、「信仰は信仰として」、「神学は神学として」、「教会は教会として」、「自分自身と自分の存在根拠を真剣に受けとろうとしている」のか、「真剣に受けとることができるのかという問い前」に、すなわち「異常なほど切迫した機会の前に、誘惑に陥る契機の前に、立たせられる」のである。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その人間的側面だけを拡大鏡にかけて全体化して、換言すればその人間的側面だけを形而上学的に抽象し固定化して、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいた「自分の主題、自分の対象を放棄してしまう」時には、結局は「空虚な自分自身の単なる影(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベル神」、人間がつくった偶像、その偶像としての神の啓示、その偶像としての「神」の名と呼びかけによる「救いの計画と救いの方法」、「平和の計画と平和の方法」≫)となってしまう」のである。それに対して、終末論的限界の下で、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、教会の宣教にとって最善最良のキリスト教に固有な神学を構成することを目指したバルトは、神の側の真実としてあるあの総体的構造の「事柄にあくまでかたく踏み止まり、事柄を注視しつつ、いよいよもって事柄について確信するようになり、そのようにして、それが自分自身について公に宣言していることが真であることを確証し、強固な基礎の上に立つ機会を持つ」信仰・神学・教会の宣教を目指したのである。「宗教は人間的な実在と人間的な可能性としての人間的な教えであるという命題」は、「われわれが(≪人間学的に≫)宗教の本質および現象として知っていると考えることが、われわれにとって神の啓示をはかる際の標準および解釈原理となる」のか、「それとも逆にわれわれは、……キリスト教宗教とすべてのそのほかの宗教を、(≪神の側の真実としてある、「神的な実在と神的な可能性」、あの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける≫)神の啓示がわれわれに向かって語ることから解釈しなければならないのかという問い」を現前化させる、また「教会は単なるひとつの宗教団体であるのか、それともそこではまた言葉の最も包括的な意味で宗教が『揚棄』される場所であるのかという問い」を現前化させる、また「信仰を人間的な敬虔性のひとつの形態として理解するか、それとも神の裁きと恵みのひとつの形態として……理解するかという問い」を現前化させる(換言すれば、それともあの総体的構造に基づいて人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰――すなわち「神の恵み」が与えられる時、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して「神に対する人間的反抗」、「罪深い堕落した人間」、その世界と歴史――すなわち「神の裁き」を理解するかという問いを現前化させる)、また「宗教が神学の本来的な問題・唯一の問題である」のか、「それとも(≪宗教は≫)神学の中でのほかの諸問題と並んでのひとつの問題であるのかという問い」を現前化させる。この時、第三の形態の神の言葉に属する教会のわれわれは、「キリスト教宗教とすべてのそのほかの宗教を、(≪キリストにあっての≫)神の啓示がわれわれに向かって語ることから解釈しなければならない」と語るのである。何故ならば、イエス・キリストにおける啓示の出来事は、われわれ人間の個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せる場所だからである、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所だからである、人間的宗教としての自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所だからである。

 

 「十六世紀および十七世紀の根から発生し、十八世紀から二〇世紀にかけて、人間の自分自身を表現してきた近代主義的プロテスタント主義の思想の方向性」は、人間的「宗教を、啓示から見たり・説明したりしない」で、「逆に啓示を、宗教から(≪形而上学的に抽象され一面化され固定化された「人間的宗教」から≫)見たり・説明したりした」という点にあった。このことが、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教信仰・神学・教会の宣教における「思惟の特徴」であった。その総括的標語は、「宗教という言葉は、ルター派、改革派、カトリック教会の中で力を奮う信仰という言葉に決定的に対立しつつ導入されている」、「それは……(普遍的に)キリスト教的啓示概念に対する理神論的批判を前提としている」という主張にある。したがって、その思惟のベクトルは、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて与えられる啓示信仰というキリスト教に固有な「まことの宗教」の、フォイエルバッハ等が客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判した人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」という「人間的宗教」一般への解体にある。

 

 「人間的宗教」とは何か? それは、フォイエルバッハによれば、人間の外にある自然を対象とする自然についての意識は、自己意識と異なっているが、自己意識の対象は人間の中にある内在的対象であるから、宗教的対象についての意識は自己意識と一致する。したがって、人間が自然から対象的になり得ていない段階では、神も自然神であるが、人間が自然から対象的になり得た時には、神は、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」である。言い換えれば、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」、「最高の実在」、「絶対的存在のようなもの」、「絶対に自由な力の精髄」、「一切事物を超越する存在の精髄」、「究極最深のもの」、「物自体」である。この時、それらを対象化し客体化した主体はこちら側にあるのに、その第一義性・価値性は、向こう側に、すなわち対象化され客体化されたそれら「存在者」、「存在者レベルでの神」の側に、「人間的宗教」の対象の側に移行する。これが宗教の秘密である。観念の共同性を本質とする国家も、それを疎外した現実的な社会はこちら側にあるのに、第一義性・価値性は向こう側、観念の共同性を本質とする国家の側に移行する。様々な「人間的宗教」を揚棄した政治的近代国家(憲法規定として、様々な自由、信教の自由が保障され政教分離が規定された自由主義国家)は、「人間的宗教」としての自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にある共同的なキリスト教の最後的形態である。この国家は、第一義性・価値性としての現実的な社会が自由・平等でなくても、第一義性・価値性として転倒された擬制民主主義としての議会制民主主義に基づく観念の共同性を本質とする自由国家であり得る。現存する現実的な近代市民社会(その個別的私的生活)は、われわれに、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との競争・対立・争いの生活を、利害共同性との競争・対立・争いの生活を強いる社会である、社会的に現実的に不自由・不平等であっても法的には共同観念的には自由・平等であり得る社会である、それ故に社会的に現実的に自由・平等でなくても、第一義性・価値性として転倒された支配としての国家の枠組みの中で恣意的にだけは自由・平等であり得る社会である。自由主義を標榜する国家であれ、社会主義を標榜する国家であれ、国家より規模の大きい現実的な社会を第一義性・価値性としないところの観念の共同性を本質とする国家を第一義性・価値性とする国家主義がそうであるように、科学を第一義性・価値性とする科学主義は、近代の宗教的形態である。

 

 さて、カルヴァンが「人文主義者の文体でもって使用した宗教概念」は、「宗教が啓示の中で揚棄されていて、決してその逆ではないところの聖書から読み取られた標準概念である」。先にも述べたが、イエス・キリストにおける啓示の場所は、人間的宗教としての自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教、人間的宗教一般を見渡せる場所として、人間的宗教一般を揚棄する場所である。言い換えれば、神の側の真実としてある「神的な実在と神的な可能性」、あの総体的構造を持っている「真に罪なき、従順なお方」であり「まさに顕ワサレタ神であり隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所は、人間的宗教一般を揚棄することができるところの「まことの宗教」の場所である。「なぜならば、もともと虚偽者である生まれながらの(≪それが人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な≫)人間は、認識という側面からしても、意志という側面からしても、まことの宗教に対する能力を持たないからである」。したがって、イエス・キリストにおける啓示の場所においては、その「まことの宗教」ではないところの人間的宗教としての「イツワリノ宗教」・「迷信」・「ソノホカノ宗教ハ存在シナイ」のである。

 

 「十七世紀初頭の……ポラーヌスと……ヴォレプにおける宗教概念」は、「神学的な認識原理のもとで思想体系の先端」としてのそれではなく、「倫理」的なそれであった。「ワレウス」においては、「一般的な宗教的概念」が登場してくる――それは、「人間自身ノ良心ガソノコトヲ教エテオリ、マタ自然ソノモノガ、マコトノ宗教ノ中デコレラノコトガ要求サレテイルコトヲ教エテイル」というものである。ここでは、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の(≪注ぎによる信仰の出来事に基づいた≫)内的証示は、……付随的な役割しか演じていない」のである。すなわち、ワレウスは、「マコトノ神ニツイテノマコトノ認識」、「人間ガ神ト和解サレルマコトノ道」、「神ヲ礼拝スルマコトノ祭儀」について、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の側の真実としてあるあの総体的構造を明確に提起することを通して論証しようとしないで、「良心および自然に基づいて論証する完結した体系を保持して」、「良心および自然の声によって」、「良心および自然を通して」、「われわれに意識されている宗教の一般概念に基づいて論証しようとしている」のである。このことは、「聖書が注釈され、適用される際」に、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会が、すなわちその神学者や牧師や成員が、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストを起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とするのではなく、逆に「聖書を支配していく方向性を意味している」。何故ならば、彼らは、キリストの「啓示」が、恣意的独断的に「わがまま勝手に」「例証されようとはせず」、あの総体的構造に基づいて「解釈されることを欲する」ということ、「解釈する」とは、現存する歴史の個々の世紀においてあの総体的構造に基づいて「別の言葉で同一のことを言うことである」ということ、「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」ということ――この方向性を持っていないからである。

 

 「アブラハム・ハイダンは……カルヴァンとデカルトを自分の中で結び合わせようとした」。その神学的思惟におけるカルヴァン的発言は、「マコトノ宗教」「ガドノヨウナ性質ノモノデアルノカ、神自身ニヨッテワレワレニ開示サレ、啓示サレナイ限リハ、神自身ノホカハ何人モ知ラナイ」であり、「無神論者を意識した」人間学的思惟におけるデカルト的発言は、「個々ノ人間ニ生マレナガラ(≪生来的に自然的に≫)備ワッテイル神ニツイテノ自然的認識がある」、「コノ神ノ認識カラ宗教ハ由来スル」である。次に、「ブルマン」は、宗教概念を、「護教論的に合理化していく流儀と体系的に強調してゆく流儀との合体において捉えようとした」。前者は、「マコトノ宗教ハタダ神トソノ啓示カラ由来スル。マコトノ宗教はただキリスト教宗教だけである」という思惟と語りにあり、後者は、生来的な自然的な「理性的被造物ニトッテハ神ハ……至高ト最高ノ徳ヲウヤマイ、礼拝スルヨリモモット適当ナコトハ何モナイノデアルカラ、ソレハ神ト人間ノ本質ソノモノカラ流レ出テクル。ソレ故ニ宗教ハ必然的デアリ、(≪生来的な自然的な人間の≫)自然的理性ノ結果デアル。ソノヨウニシテ自然的宗教ハ存在スル。ソレ故宗教ハ必然的デアリ、生マレナガラノ理性ノ結果デアル。ソノヨウニシテ自然的ナ宗教ガ存在スル」という思惟と語りにある。「これが宗教の秘密である」、それ故にその時、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」(『キリスト教の本質』)。

 

 「十八世紀初頭……『理性的正統主義』という近代的な思想方向」が登場する。「改革派の神学者ヴァン・ティルの教義学」は、「単線的に……自然神学の完璧な教義学」である――ヴァン・ティルは、「理性ノ原理ヲ信仰ノ原理ト同ジ次元ノモノト見ナサナイヨウニと留保をつけながらも」、自然的宗教の原理は、「モッテ生マレタ共通ナ概念ヲ通シテ人間ノ精神ノ中デ明ラカトナル理性ノ光(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊」、「恵みの光」ではなく、生来的な自然的な「理性」、「自然の光」≫)ソノモノデアル。ソレデアルカラ、……偏見カラ開放サレタモノハ誰モコノ理性ノ光ヲ無視スルコトガデキナイ」と述べている。したがって、人間的宗教としての自然的宗教とは、「各人ガ自分ノ考エニ応ジテ、自分ニ適当ダト思エル仕方デ自分ノ能力ヲ、……確カナ光ノ瞑想ト崇敬ニ従事サセテイル人間の熱意……ノコトデアル」と述べている。「ルター派の神学者ブッデウス」は、このような自然的宗教に基づいて、「人間は、……最高存在(ワレワレガ神ト呼ブトコロノ最モ完全ナ存在)を知っている」と述べている。このような訳で、自然的宗教の原理は、神の側の真実としてある客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊」、「恵みの光」ではなく、生来的な自然的な人間の「理性」、「自然ノ光」との「調和」を目指すそれである。この時、その自然的宗教は、「宗教ノ基礎デアリ土台デアル概念……を含んでいる」から、すなわちその自然的宗教の原理に反するものは、「啓示ではないか、それとも誤解された啓示となってしまう」のである。したがって、この自然的宗教における「神学的思惟全体にとって中心的に重要なもの」は、「人間的宗教、人間が啓示なしに持つことができる神関係である」。したがってまた、この「人間的宗教、あるいは神関係」が、啓示認識・啓示理解のための「前提、標準」であるから、啓示は、人間が啓示なしにも、神について、自分自身について、「知ることができることを歴史的に確認するだけのものとなってしまう」のである。すなわち、「いかなる啓示も、(≪人間の恣意性と独断性において、≫)もしもそれが自然の光にかなっていないならば」、また「自然の光を補充するものでないならば」、「まことの啓示ではないものとなる」のである。まさに人間中心主義的な人間的宗教である。この時、それは、まさに人間的宗教として、「誤謬は可能」ではなく、「誤謬は必然」である。したがって、そのキリストの啓示なしの「まことの宗教」なしの「人間的宗教」においては、その最初から、キリストにある救いも平和もないと言うことができるのである。

 

 「十八世紀の後半」の「啓蒙思想の第二段階における理性は啓示によって補われる必要はないとし、啓示内容を理性的真理に限定した」「ネオロギーの信奉者たち企て」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)・「キリスト教教義」を、「自然的ナ宗教概念に基づいて、徹底して批判にさらすことを正しいと考える」という点にあった。その後は、「自然的ナ宗教を自然的ナ倫理へと縮小し、啓示を……道徳的な理性能力の実現化としてだけ知り、受けとろうとしたカント的な合理主義……がつづいた」。カントは、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした。カントのそれは、まさに宗教としての自然神学(哲学的神学)への方向性を持っていた。丁度、それは、「すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識」というアウグスティヌスの教説(自然神学)の方向性と同じであった(『カント』)。また、ヘーゲルの強力な痕跡を持った人間的宗教としての自然神学の道を目指した近代主義者のシュライエルマッハーは、「逆に、感情として理解された宗教の中に、神学の一切を見出そうと欲したし、啓示を、特定の感情を、したがって特定の宗教を、生み出す特定の印象の中に見出そうとした」。したがって、彼らのそれは、まさに「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」というそれであった (『キリスト教の本質』)。また、「ヘーゲルおよびD・F・シュトラウスによれば、キリスト教は自然的宗教とともにただ、表象から純化された(≪感覚的要素が揚棄され精神の自由が達成された≫)哲学の絶対的知識の、(≪概念によって把握された学的体系としての哲学へと≫)(揚棄されるべき)前形式に過ぎないことになった」。「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。

 

 さて、A・リッチュルは、キリスト教宗教は、「感覚的な自然として理解された世からの人間の解放が最も完全な形で実現されるが故に」、「人間的生の最高の価値として理解されるべきだと教えた」。また、E・トレルチは、様々な宗教世界を比較考量することを通して、キリスト教が「すべての時代にわたって、常に相対的に最善の宗教であるという結論……に到達するために、神学者は特に一般宗教史の現象を『仮説的に追感すべく』習練しなければならない、と教えた」。総括的に言えば、彼らの主題は、「宗教は(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示から理解されるべきではなく(≪それ故に、「まことの宗教」から理解されるべきではなく≫)、(≪その≫)啓示の方(≪それ故に、その「まことの宗教」の方≫)が(≪キリストの啓示から独立した、それ故に「まことの宗教」から独立した≫)宗教(≪人間的宗教≫)から理解されるべきである」、という点にあった。言い換えれば、新プロテスタント主義は、「保守的な傾向をもったもろもろの神学、十八世紀の超自然主義、十九世紀および二〇世紀の信条主義的、聖書主義的、『積極主義的』神学も、全体としてみれば」、「結局(≪人間的≫)『宗教主義』」であった、換言すればそれは、キリストの啓示から独立した、それ故に「まことの宗教」から独立した、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す神学、人間的宗教の段階で停滞と循環を繰り返す神学であった。