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2の1.『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

2の1.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(77-104頁)
再推敲・再整理版です。

 

「十六節 神のための人間の自由――二 聖霊、啓示の主観的可能性」(77-104頁)

 

 人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事――この啓示の主観的実在は、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性の認識」(新約聖書的な区別を包括した単一性の認識)からして、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力――すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(客観的な「存在的な必然性」)とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な必然性」)に基づいて終末論的限界の下で起こる出来事である。したがって、もっと詳しく言えば、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊とは同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の客観的な信仰告白および教義(Credo)という<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で起こる出来事である。この時、それは、起源的な第一の形態の神の言葉である「キリストを通してあり」、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉である「聖書を通してあり」、それ故にまたその聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である「教会の宣教を通して」あるのだが、その神的証言、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の受領者は、「神的証言の現実の受領者として神の子供である」ということを意味している。また、この時、教会の宣教(その一つの補助的機能としての神学)における思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであり、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」のである。

 

 「聖霊こそが啓示の主観的実在である」。このキリストの霊である聖霊が、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会を、起源的な第一の形態の神の言葉である「み言葉の奉仕」へと向かわせるのである。また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、われわれは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができるのである。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「神の子供」なのである。したがって、われわれが、「聖霊、啓示の主観的可能性」を問う場合、聖霊、啓示の主観的実在(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」、「認識的な必然性」)を通して「問うこと」を、また「理解」することを、啓示の客観的実在そのもの(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」、「存在的な必然性」)が、われわれに「欲している」のである。したがってまた、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の宣教およびその一つの補助的機能としての神学が、第二の形態の神の言葉である聖書を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、この神の側の真実としてある先行する起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示の〔後に〕従う」ところに、「啓示に対する従順はある」のである。言い換えれば、「了解質問は事実質問に対して先行することはできない」ということ、それ故に「神の啓示が人間の身に起こりうるのは、どのように人間の自由の中で可能であるのかという了解質問」(「存在的な必然性」に包括された「認識的な必然性」を前提条件とする「存在的なラチオ性」に包括された「認識的なラチオ性」)は、「あらゆる事情のもとで事実質問(≪「認識的な必然性」を包括した「存在的な必然性」≫)のあとにつづいて……問われなければならない」のである。

 

 「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方である聖霊――すなわち、神的愛に基づく起源的な第一の存在の仕方である父と第二の存在の仕方である子との「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの第三の存在の仕方でにおける働き・業・行為――、啓示の主観的実在は、「父と子の聖霊を通して神に向かって自由とされたわれわれの存在」、「神のための自由を授与されたわれわれの存在」ということである。したがって、「われわれは、事実質問から切り離した仕方で問う」のではなく、事実質問を先行させた啓示の主観的実在において「認識され承認された啓示の主観的可能性はどういうことから成り立っているのか」と問うのである。われわれは、あの総体的構造において、「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を問うのである。したがって、われわれは、「聖霊の業こそ」が、「啓示の主観的実在である」のか、「人間が神に向かって自由である根拠である」のか、「神が人間に提供するものを受けとることに対しての十分な根拠である」のか、「聖霊は果たしてそのような可能性と力を持っている」のかとは問わないのである。「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」し、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』全く信じることができない」われわれは、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「神に向かって自由ではない」し、「神のための自由」を持っていないのであるから、「神に向かって自由とされた……存在」、「神のための自由を授与された……存在」は、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造における客観的な「存在的な必然性」(「啓示の出来事」)に包括された主観的な「認識的な必然性」(「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)とそのことを前提条件とした「存在的なラチオ性」に包括された「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊とは同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)に基づいて成立しているのである。このような訳で、聖霊は、「原則的に」、「神に向かっての自由」、「神のための自由」の「唯一の可能性である」。言い換えれば、主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」の前提条件である客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「神がご自身に向かってわれわれの目と耳を開き給う時」、われわれは、そういう仕方で与えられた啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、「自分自身からは神に向かって目と耳を開くことができないということ、われわれは自分自身からは盲目であり聾であることを暴露される」のである。このように、聖霊を受ける時、「自分の霊的な無力さが暴露される」、「聖霊を持っていないことに気づかせられる」という神学的命題、この「人間が神に向かって不自由である」、「原則的に無力である」という神学的な命題、は、それ故に「哲学的な理論とは何らかかわりがない」この神学的命題は、人間学的領域における「哲学的な不可知論において、一般的に洞察できる命題ではない」のである。したがって、これらの事柄は、「護教論とは何のかかわりもない」ことである。すなわち、われわれ人間に対して、前述したような「隔たりを造り出す(≪認識させ自覚させる≫)聖霊」が、神のその都度の自由な恵みの決断により主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて「神と人間がひとつであるという単一性(≪区別を包括した単一性≫)を造り出し」、人間を神へと架橋されないならば、われわれ人間の「神に向かっての自由」・「神のための自由を造り出されない」ならば、そしてまた(≪神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において≫)「われわれの中に宿り」、「われわれを神の宮となし給わない」ならば、神的証言としての啓示認識・啓示信仰、またわれわれ人間の「神に向かっての自由」・「神のための自由は存在しない」ということを意味している。

 

 そのような訳で、聖霊は、「われわれを神と和解させる言葉の教師として、神についても、それからまたわれわれ自身についても、決定的なことをわれわれに語り、したがって神をわれわれの前に全能の主として、神の愛を、……徹底して〔人間の側での〕功績によらず」、また「徹頭徹尾われわれがそれを受けとる際の態度や努力によらず、無限の愛として示す」ところの、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方である。この聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊」であり、ここに、聖霊の起源・根源がある、神は愛・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。愛は、自由がそうであったように、神ご自身においてのみ「実在であり真理である」。イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束したもの」は、「慰め主としての霊」と「真理の御霊である」が、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」、「キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)」であり、「上から」の「よき賜物」である。この「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への方向転換におかれることである」。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることである。それは、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(啓示と信仰の出来事)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(通俗的な意味での隣人愛ではなくて、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すということを意味する。われわれが、「救済(≪平和≫)を信仰の中で持つこと」は、「約束として持つことである」。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」・「永遠的実在」として<すでに>ということである。

 

 現存した、また現存しているこの世界、この歴史は、合点が全くいかないことばかりが多くある、合点が全くいかないと考えられることばかりが多くある。何故ならば、個体的自己としての人間の類(それぞれの世紀のそれぞれの世代)、人類が「それが良きものであれ、悪しきものであれ」、「人間のつくる観念と現実のすべての成果」を、その固有な時間性において「不可避的に蓄積していくよりほかない」からであり、それ故に人は、その歴史的に蓄積されてきた歴史的現存性のただ中を不可避的に強いられて生きていくよりほかないからである。したがって、個体的自己としての人間の「意志、判断力、構想が通用するのはただ半分だけ」であって、「いったんそうした現実に衝突してからは人は、何々させられる、何々せざるをえない、何々するほかないというように生きる以外にはない」のであって、それ故に人は、そのようにして個の現存性を刻んでいくのである。したがって、人間の歴史(人類史)は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである(『思想の基準をめぐって』)。革命の究極的総体的永続的な課題である個体的自己としての全人間の現実的な社会的な解放のためには、観念の共同性を内的本質とする国家を止揚し無化しなければならないのであるが、そのためには、その起源にまで時間を遡及して究明しなければならない。人類は、様々な「独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」(平和の計画と平和の方法)を試みるであろうが(『啓示・教会・神学』)、最後の最後まで個体的自己としての全人間・全世界・全人類を究極的包括的総体的永続的に救済することはできないであろう、それ故に平和を実現することはできないであろう――このことが、私には、加速度的に、個、対・男女・夫婦・家族、共同性、様々な領域で明らかにされてきているように見える。したがって、先ず以て、その背後に隠されている暗さを認識し自覚していない軽薄な明るさは、「ホロビノ姿」であるに違いない。ドストエフスキーの『罪と罰』のソーニャの父親・マルメラードフの告白の言葉は、切実さを持っている――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」。

 

 聖霊は、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(啓示と信仰の出来事)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、われわれを、「まず第一に、主に対する反逆者として、主の善意を忘恩的に踏みにじる者として、主の招待を拒否する者として明かにする」。また、聖霊は、「われわれを、……ただ単にその有限性の中だけでなく、むしろあの方によって無から造られた塵芥としてあの方の前に存在しており、そのものの現実存在は全く台なしにされてしまい、もしもわれわれがあの方を望みつつ待つことがゆるされないならば、そのまま滅びてしまうであろう被造物として……明らかにする」――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、(≪神の側の真実としてある≫)われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。聖霊は、「神をわれわれの父と呼び、人間をこの父の子供と呼び」、「神に向かって全く役に立たないわれわれの目、耳、心の中に」、「神を……(≪神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいて≫)受け入れられるようにし」、われわれを、「行為の実在の中へと取り上げるのである」、イエス・キリストにおいて自己証明された「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体の中へと取り上げるのである。

 

 「ただ神の言葉とその聖霊の中でのみ遂行される総合(≪あの総体的構造としての総合≫)以外の別な総合についての認識」は、「すべてただ、われわれが実際に神の子供であることを忘れていることに基づいている」。また、「人間について……(≪「啓示に固有な証明能力」を持っている≫)啓示から……語られなければならない……すべてのことが」、「神は啓示されてあること(≪あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)ができないと語る時」、聖霊の業・働き・行為における「神に固有な可能性に反対して語る時」、あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)およびその啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比に反対して語る時、「われわれが実際に神の子供であることを忘れていることに基づいている」。

 

 「神は啓示されてあることができる」、すなわちキリストにあっての神は、「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を持っている、「神の啓示が人間の身に起こることができるということが、どのように可能となるかという問いに対する根本的な答え」は、客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)に包括された主観的な「認識的な必然性」(その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)において可能となるという点にある。

 

 「人間の自由において、神の啓示が人間の身に起こることができる」のは、あの総体的構造に基づいて「神の言葉が人間に聞かれるようになるからである」。ここで、「できる」とは、徹頭徹尾「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神のできること」であり、「三位一体の神の働き」である、すなわち三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「その言葉の働き、み子の業である」。「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の起源・根源としての父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が起源・根源であり、この神は、「子の中で、創造主として、われわれの父として自己啓示する」のであり、それ故に「父ト子ヨリ出ズル御霊」である聖霊は、「ご自分を……ただみ子の中でだけ、啓示し給う父の霊であることが、確かである限り、……イエス・キリストの霊である」。したがって、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会のわれわれは、「聖霊とその業についても、……ただ(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)イエス・キリストにおける啓示について(≪第二の形態の神の言葉である≫)聖書が証ししている証言……を(≪自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として≫)注釈しつつ語ることができるだけである……」。したがって、「受肉(≪その内在的本質である神性の受肉ではなく、第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)の唯一性に対応しつつ……イエス・キリストがかしらとして、彼に属する者たちの中にその兄弟をもち給うということの中で、啓示が主観的に実在となる唯一の場所」は、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉(Credoとしての教会の<客観的>な信仰告白および教義)である教会・教団である。「客観的な、サクラメント的な要素の強調」も、このことによっている。バルトは、「そしてただ最後に、それとの関連の中で、啓示の受領者としての人間について」、すなわち「キリストを通してキリストのためにかちとられたものたちについて、語らなければならなかった」と述べている。このバルトは、次のように述べている――「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではある」が、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業(≪客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」≫)として遂行される」。この時、われわれは、「神の霊と人間の精神との全面的な区別が強調されなければならない」。そして、その「啓示の主体的現実」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならない」。その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、「神の教団(≪共同性≫)」・「イエス・キリストの教団(≪共同性≫)」・「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会(≪共同性≫)」のことであって、その「イエス・キリストと個人的関係を持つその肢々としての一人一人のキリスト者」・「キリスト者個人」のことではない。また、イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会・教団(≪共同体≫)のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者(教)、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して「完全に開かれている」のである、と(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)。「個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない」し、「新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたもの」なのである(『バルトとの対話』)。

 

 「三位一体の神の働き」は、聖書によれば、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「その言葉の働き、み子の業である」。したがって、「啓示に関してのすべてのできること」は、「具体的には言葉のできること」(起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動)、「啓示ないし和解の実在」そのものである「イエス・キリストのできること」(「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」)である。したがってまた、「できないものそのもの」は、「啓示を受けとらなければならず、……和解されなければならないわれわれ自身」、「われわれの自身の働きのことである」。「できないものそのもの」は、「どのようにして人間は神の言葉を聞き、キリストを信じ、キリストのからだのひとつの肢体であり、キリストの兄弟として神の子供であることにまで来るのかという問いに対して把握できない者そのもの」のことである。したがって、「その把握できないものが人間にとって把握しうるものになることができるということは、すべて」、神の側の真実としてある、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力に基づいているのである、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいているのである。すなわち、神の「言葉が、われわれが言葉を聞くということを造り出す」。「イエス・キリストが、われわれがイエス・キリストを信じるということを創造する」。神のその都度の自由な恵みの決断による「われわれに与えられる聖霊」によって、「神の愛がわれわれの心の中に注がれる(ローマ五・五)」、「まさに言葉をわれわれに聞かせる」、神との出会いであるイエス・キリストとの出会い、信仰の出来事を可能とする。聖霊は、イエス・キリストの霊、「言葉の霊であるが故に、神の霊である」。したがって、われわれは、聖霊によって、「神に向かっての目と耳を与えられて持つことができる」。しかし「聖霊は、(≪徹頭徹尾≫)人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された人間の理性も聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>は貫徹されなければならない(『ローマ書』)。何故ならば、キリストにあっての神は、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」ではなく、神としての神だからである。あの総体的構造における客観的な「存在的な必然性」(啓示の出来事)に包括された主観的な「認識的な必然性」(信仰の出来事)としての聖霊は、「キリストのからだの生きること、預言者――使徒的証言が働くこと、説教が聞かれること、聖礼典が指し示していることが見てとられること以外のものでないが故に」、「この生きること」・「働くこと」・「聞かれること」・「見てとられること」の故に、「イエス・キリストの出来事に対してわれわれの生活の中での出来事が実際に対応するということ」の故に、「啓示の主観的な可能性を意味している」。「復活日と聖霊降臨日」、「客観的であること」と「主観的となること」、「言葉と霊」、「神的な提供と人間的な受領」は、「二つのこと」である。これら後者の「第二のものの可能性を問う」時、前者の「第一のものに基づいて」、「第二のものはその可能性を徹頭徹尾……第一のものの中に持っている」と言うことができるだけである、ちょうど主観的な「認識的な必然性」は先行する客観的な「存在的な必然性」に包括されており、そのことを前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」は先行する客観的な「存在的なラチオ性」に包括されているというように。したがって、「人は、聖霊とわれわれに対する聖霊の業を、……正しく理解したいと思う」時には、決して両者を「切り放して」(一面だけを拡大鏡にかけて全体化して)形而上学的「抽象的」一面的に「理解しようとしてはならない」のである、その総体的構造において理解しなければならないのである。

 

 そのような訳で、「人は聖霊の働きを、……それ自体独立した考察の対象とする時……、ひどく誤解し、自分自身と他の者にとって信頼できないものにしてしまう……」。何故ならば、聖霊の働きは、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造において考察の対象としなければならないからである。「人が純粋に、正しく、啓示の主観的な可能性を問おうとし、したがって聖霊とその業を理解しようと欲する」ならば、「聖霊を通しわれわれの心にそそがれた神の愛、われわれとキリストとの交わりの客観的な可能性」、それ故に「キリストご自身を見ることが大切なのである」。このような訳で、「わたしは聖霊を持っているかどうかという問い」に対しては、それは、あくまでも「キリストによって……決定される」事項、キリスト自身の自由事項・決定事項であるから、そのように問うところの標準は、あの総体的構造において、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指しているかどうかという点にある。

 

 第三の形態の神の言葉である教会の宣教(その一つの補助的機能としての神学)における思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであり、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」のであるから、その教会の「宣教あるいは説教」は、「自分はみ言葉の実際の聞き手および行為者であることができるのかという問いのもとに立っている聞き手に対して」、決して、「説教者の……経験」、「ほかの人たちの経験を指し示さないで」、すなわちわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を指し示さないで、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書――「そこに書かれていること」にのみ、「彼のためにも死なれ、甦えり給うたキリストを信じる信仰」にのみ、主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等ギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(「イエス・キリストが信ずる信仰」)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのものであるイエス・キリストを信じる信仰にのみ、「あるいは彼の洗礼、あるいは聖なる晩餐の方に視線を向けさせる……」という点にある。聖書によれば、「福音書の使信……使徒書の使信の中でも、黙示録の中でも、聖霊は……キリストから来……そして……教会を教会たらしめ、キリスト信者をキリスト信者たらしめる」、恵みは「それが罪を赦す恵み……聖化し、賜物を与える恵みとして理解されようと、……キリストの恵みである」、信仰は前述したような「キリストを信じる信仰であり、ただキリストを通して目覚ましめられ、仲介されてのみ、神の信仰である」、第三の形態の神の言葉である「教会の中での霊の賜物は徹頭徹尾教会の主としての彼(≪起源的な第一の形態の神の言葉≫)に従属せしめられており、彼を標準にしてはかられるならば使徒(≪第二の形態の神の言葉≫)は、彼の下僕であり、(≪第二の形態の神の言葉である≫)使徒の言葉は彼(≪起源的な第一の形態の神の言葉≫)が委任し給うたものであり、内容的には常に新たな表現を用いて彼を指し示すことであり、ただ彼への指し示しのみであるということである」。この「ただ彼への指し示しのみであるということである」とは、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」ということである。すなわち、それは、個々の世代(個々の個体的自己の世代的総和)が、それぞれの世紀において、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯するということである。すなわち、それは、それぞれの世紀の思想傾向、哲学原理・認識論・世界観、学派、教派、主義、文化的傾向、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、法的政策的言語(国家の言語)、時流や時勢、特定の人種等に加担するということではないのである。

 

 西方の教会は、聖霊を、啓示の客観的実在であるイエス・キリスト(客観的な「存在的な必然性」)と「切り放せない仕方でただイエス・キリストの霊(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での「主観的側面」としての聖霊、換言すれば主観的な「認識的な必然性」≫)としてだけ認識した」(信じた)。したがって、西方の教会は、聖霊を、「ただ単に」、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方として、「いま、ここで、われわれのためにだけ父と子の霊」として現存するだけでなく、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神として、「永遠から」、「父と子の霊である」と認識し信仰した。この聖霊は、永遠から「父と子の間の交わりであり」、それ故に「父の霊であるだけでなく、……み子の霊でもあり給う」から、聖霊は、「父と、父のみ子が、ご自分の兄弟とするために召されたものたち……の間の交わりであることができる」のである。

 

 中世紀の西洋における「サクラメント概念」・「教会概念」における「教皇たちの客観主義の形成」は、「(キリストのあとに従う生活と愛を強調し励ましすすめようとした)フランシスコ派の聖霊キリスト教は、明らかに、(≪「高度な神学的正当性」をもって≫)客観的啓示が主観的になるという関心事を代表しようと欲していた」。しかし、その「聖霊キリスト教」が、「歴史的キリストを時代おくれとなったとして」、すなわちナザレのイエスという人間の歴史的形態(「イエス・キリストの名」)を「背後(≪後景≫)に退かせることができると考え」、「その霊の担い手としてのキリストの弟子」(宗教的<人間>)を前景化した時、聖霊は「宗教的人間の霊」として曲解され変質され、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性(≪区別を包括した単一性≫)の認識」(信仰)を解消させてしまった。すなわち、この時、フランシスコ派の聖霊神学は、「人文主義的ルネッサンスの人間論へと通じる」ことになったのである。

 

 16世紀において、「宗教改革者たちはルターを先頭に、さし当りまずこれと同じ戦いに従事している」。「聖ペテロは、ナザレのイエスと呼ばれたこの方に……聖霊を注ぐという神的業を帰している。なぜならば、聖霊を注ぐということは、……ただ神のみがもち給う、大能であるからである」。聖霊は、「キリストの口を通して語られたすべてのことをあなたがたに思いださせ、あなたがを通してさらに先に語ってゆく」。「今後も彼ら、使徒たちがキリストから聞いた(が、しかしまだ理解しなかった)ことが聖霊を通して教えられ思い出させられる」。

 

 さて、聖霊は、なぜ「『証人』と呼ばれているのか」――何故ならば、「聖霊はキリストについて証しするのであって、そのほか誰についても証しをしているわけではないからである」、「聖霊はキリストについて証しする以外のことをしない」からである、「キリストについて証しする聖霊のこの証しのほかには、確実な、永続的な慰めはない」からである、「慰め主と呼ばれ、証人および慰め主であり給う聖霊は、……キリスト教会の中で」、「ほかのものについて説教したり、証しするのではなく」、「ただキリストについて説教し、証しし給う」からである(ルター)。このルターの言葉は、「ただ単に彼の時代の熱狂主義に対してだけに向かられているのではなく、……教皇主義そのものに対しても向けられている」。何故ならば、教皇主義は、啓示の客観的実在、啓示の客観的現実、客観的な「存在的な必然性」としての「キリストなしに」、「キリストと並んで聖霊の現臨と働きを前提し、主張している」からである。すなわち、ルターは、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性(≪区別を包括した単一性≫)の認識」を堅持したのである。したがって、「われわれのために働く聖霊の働きは、聖書、説教、聖礼典に結びつけられており、その働きにおいてそれらのものにてらしてはかられるべきであって」、「決して絶対的に『主観的』な照明、霊の鼓舞、熱狂的感激として理解されてはならない」のである。「聖霊ハワタシガ言ッタコトヲスベテ示スデアロウ、アルイハ思イ出サセルデアロウ(ト彼ハ言イ給ウ)。ソコカラ、彼ハアラタナ啓示ヲ決シテウチ立テハシ給ワナイダロウ、ト結論スルコトガデキル。この言葉ダケデ、ワタシタチハ、サタンガハジメカラ現在マデ、聖霊ノ名ノモトニイツワッテ教会ニ導入シテキタアラユル発明品ヲ、スベテ大胆ニ否認スルコトガデキル。(中略)……福音ヲヨソニシテ、何ラカノ教義ヤ発明品ヲモチ出シテクル霊は、ナベテペテン師の霊デアリ、決シテ神ノ子ノ霊デハナイ。ソレトイウノモ、キリストハ、福音ノ教エニイワバ同調シナガラ、ソレヲ確証スル霊ヲ、約束シテイルカラデアル」(カルヴァン)。聖霊は、「われわれの間に、新シイ王国をうち立てるのではなく、ただ父によって子に与えられた栄光を確立する」のである。

 

 宗教改革当時の「再洗礼派の者たちおよびリベルテンの中にその先祖を持つところの新プロテスタント主義」は、「聖霊から……知る認識と聖霊によって生きる生活を、キリストを信じる信仰の認識と生活に対して独立した主題として対置させる」ことによって、すなわち「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性の認識を放棄する」ことによって、新約聖書的教会から離れていった。すなわち、新プロテスタント主義は、「聖霊はイエス・キリストの霊以外のものではない(≪聖霊は、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面である、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」≫)という認識を放棄」し、「それとともに……生真面目さと敬虔さをもってアラユル夢想トマヤカシニタイシテ、すべての可能な異なる神々……を承認する……門戸を開いてしまった……」。このことの「具体的な記念碑」は、「福音主義の領域で歌われた」霊的な歌、「讃美歌を集めた教会讃美歌集である」。したがって、ここで、霊の意味が問題となる。

 

 ルターは、「一五二四年……『ワルター版合唱讃美歌』の序文の中で……『それによって神の言葉とキリスト教の教えがあらゆる仕方で促進され習練されるため……わたしは……いくつかの霊的な歌を集めた。それは今や神の恵みによって再び明らかになった福音がひろく一般の人々の間に伝わり、われわれも、ちょうどモーセが出エジプト一五章で彼の歌の中でなしているように、(≪啓示の客観的実在そのものである≫)キリストがわれわれの讃美であり歌であることを誇り、パウロがTコリント二章で語っているように、(≪啓示の客観的実在そのものである≫)われらの主、イエス・キリスト以外のものは何も歌ったり語ったりしないためである』」。このように、ルターの場合、啓示の主観的実在の要素としての霊の歌・讃美歌は、啓示の客観的実在の主観化という意味を持っていた。ルターは、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性(≪区別を包括した単一性≫)の認識」を堅持したのである。ルターの歌は、「四つの例外を除いて、自分の手で自由に創作しないで、聖書、あるいは古代と中世の教会で歌われていたものを改作して造られたものである」。何故ならば、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性(≪区別を包括した単一性≫)の認識」を堅持したルターにとっては、「自分独自のものではなく、教会とその信仰が大切であったからである」。したがって、ルターの歌には、「内容的に決定的に」、「抒情詩的性格が全く欠けている」、「主観の動きを前面にうち出す強調がすべて欠けている」。すなわち、「聖書的な単純さをもって理解された」イエス・キリストへの集中、「神の子供たちの教会が語っている」語り、「崇拝、内容的な伝達、信仰告白、罪の赦し、宣教」を内容としている。このことに基づいて、「主観的な啓示の実在の生活、愛、経験、現実が語られてくる」。

 

 17世紀においては、「三位一体の神のみ業としての創造、和解、救済の活劇の代わりに、……別な、もうひとつの活劇」、すなわち<宗教>化という「問題性を含みもった心、魂、われ、われらの活劇」が、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における自己主張、自己表現、自己告白の「活劇が演じられるようになる。人は今や魂がひとりごとを言いながら自分自身と語っているのを聞く。あるいは対話をなしつつ魂が神と、神が魂と、あるいはまたひとつの魂がほかの魂と語っているのを聞く」――何故ならば、生来的に自然的に、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。(≪生来的な自然的な≫)人間は(≪神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たずに、自由に≫)思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも(≪神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たずに、自由に≫)考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」からである(『キリスト教の本質』)。「しかしその時一体人は何を、誰のことを、信じているのであろうか」。その時、人は、ハイデッガーがブルトマン(その学派)を揶揄・批判したところの、自由な人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」をなしているのである(『ハイデッガーの思想』)。「まさにこの自己告白こそがそれから、さらに近代的な、より快活な、より自分を意識している時代の輝きの中で、一八世紀に移りゆくとともに、ますます豊かな、飽満な、動きのあるものとなって行く……」。その時、「預言者、祭司、王という三つの任務を果たされるキリストの神人性」は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、啓示の客観的実在そのものとしての「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性(≪区別を包括した単一性≫)の認識」、あの総体的構造に基づかない、人間的「主体の情熱、感謝、畏敬、讃めたたえ」によって、宗教としての自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教へと、恣意的独断的に曲解され変質させられていく。

 

 「テルシュテーゲやゲレルトの中で成熟した新プロテスタント主義の教会讃美歌を念頭においてこそ、人はそこで起こったことが実際に何であったかを明らかにしなければならない」。何故ならば、「キリストを言い表す告白は確かになおそこにあるが、しかしそれは、……その最も深い根底においては余計なものとなってしまった」からである。すなわち、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての聖霊(≪主観的な「認識的な必然性」≫)が、客観的な「存在的な必然性」としての「イエス・キリストに相対して独立的となってしまった」からである。この時、その聖霊は、「キリストの霊以外の霊であり、それは確かに神秘主義と道徳の霊である」と言えるが、それ故に「古代および宗教改革の教会がみ言葉を聞き信じたところの霊ではない」のである、すなわちイエス・キリストの霊ではないのである。

 

 19世紀、「教会の告白は自分自身に対する告白となり」、「いよいよもって、キリスト教的心情の宗教的誠実さと道徳的真面目さは、……教会讃美歌が計られる……心音……標準」となった。「そのようにして客観的なもの自体を(≪恣意的独断的に≫)主観的なものへと解釈し曲げる」ようになった。「その時事実、近代的――宗教的自己告白の摩擦音の中で、宗教改革的な神讃美は消失してしまう」ことになった。この時、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなく、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神(≪「存在者レベルでの神」≫)から発生」している、それ故にその「対象に即してもまた、『神学(≪キリストの讃美歌≫)の秘密は人間学(≪「存在者レベルでの神」への賛美としての一般的音楽≫)以外の何物でもない!』……」のである。

 

 さて、福音主義教会は、「もともとその発端においては、『霊的な歌』」を、「神の言葉が宣べ伝えられ、聞かれるところの歌として理解した」のであるが、いずれにしても「教会讃美歌の歴史」は、その「内的世俗化」の歩みを示している。そして、その異端性は、教会讃美歌集において「聖霊はイエス・キリストの霊以外の別な霊」、すなわち「名目上は……神の霊、……キリスト教的霊であるが、実際は人間的な誠実さと真面目さの霊、神秘主義と道徳の霊でしかなく、そこで人間は神の啓示の中で実現された神との交わりを……もはや、もっていないで、すべての真面目さやすべての敬虔性にもかかわらず人間が自分ひとりで、自分自身とだけおり、この世の中で希望もなく神もない者(エペソ二・一二)である」という異端性にある。したがって、近代主義的新プロテスタント主義の「外的な世俗化」は、「ただこの、教会讃美歌の変遷の中で明らかとなった内的世俗化の徴候でしかない」のである。

 

 シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間が自分を相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く」。したがって、その時には、「理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」から、「もし君が無限者を思惟するならば、……君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、……君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである」(『キリスト教の本質』)。したがってまた、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教にとっては、「宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的神学者あるいは牧師は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能によって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」、意味的世界、物語世界、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性の連続性に連帯するのではなく、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階において、自己告白、自己主張、「自己表現としての宣教」を企てる。