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25の2.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

25の2.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」

 

 「シカシ、『愚カ者ハ心ノウチデ、神ハ存在シナイト言ッタ』ノデアルカラ、アルイハ、ソノヨウナアル本性ハ存在シナイノデアロウカ」――「この問いでもって、アンセルムスは、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、先行させるべき第一の問題としての≫)神の存在の問題へと立ち向かう」。「まず第一に、一般的な意味で、神が、(≪主観的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して≫)人間の考えることの中でもつことができる存在に相対しての、、(≪神の側の真実としてある客観的な≫)神の存在の独立性の問題へと立ち向かう」。ここでも、「est(≪存在スル≫)」は、「esistit〔存在スル〕を意味している」。すなわち、「神はただ単に、(≪主観的な、人間の自己意識・理性・思惟の類的機能における≫)考えの中でそこにいるだけでなく、(≪その≫)考えるに相対して、そこにい給う(≪神の側の真実としてある、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断、あの総体的構造に基づいてそこにい給う≫)」(下記の【注1】を参照)。「まさに神は、ただ単に『内部に』いるだけでなく、また『外部に』も(in intellectu et in re〔理解ノウチト実在トシテ〕)いることによって、神は(人間から見て!)『まことに』(in Wshrheit〔真理の中に〕)、真理からして」、それ故に「現実に存在する」。また、「神は、ただ単に、……ほかの存在するものが(考えに相対して、独立的に真正な対象性の中で)そこに存在するように存在するだけ」でなく、「神は、独一無比な、まことの仕方で」、「すなわち、……(≪神とは異なる≫)神と並んで存在するすべてのものの根源および根拠であり、それと共に、何かある存在するものについての考えのすべての真理の根源および根拠である存在者(下記の【注2】を参照)にふさわしい独一無比な、まことの仕方で存在する」、ちょうど「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方の中での第二の存在の仕方――すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」)が客観的に可視的に存在し、このイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)が客観的に可視的に存在し、そしてその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が客観的に可視的に存在しているように、またちょうどイエス・キリストにおける特別な啓示の真理が、われわれ人間の、その個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所として、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階におけるキリストの福音が、「理念へと、有神論的形而上学へ」と、「われわれに管理されるプログラムへ」と、「鋭さをなくした十字架象徴論へ」と、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所として客観的に可視的に存在しているように。「ソノヨウナアル本性」は、「実在のもの、この名(≪「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)の対象ということである」。

 

【注1】
 終末論的限界の下でわれわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源・根源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という<総体的構造>に基づいて与えられる――この意味での総体的構造のことである。

 

【注2】
 「まさに啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」ではなくて、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」≫)である」。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 そのような訳で、「この名(≪「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)をもっている対象」は、「実在の対象ではないのであろうかという問い……の主辞の中にも、賓辞の中にも、存在の概念が含まれている」。信仰は、「この問いと……取り組むのではないが、信仰の(≪純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神を尋ね求めて、知解を求めて≫)考えることが、この問いと取り組むのである」。何故ならば、「『神は実在の対象ではない』という主張は可能であり、現実のものだからである」。「アンセルムスが、ここで、ウルガタ訳の詩篇一三・一からとっている、愚カ者ハ言ッタという完了形は、この主張が出来事となって起こっている点を強調している」。その主観的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的能を駆使した「異議」、「問い」は、「信仰の考えることにとっても、……リアルである」。すなわち、その時、「不信者がはっきりと『否』と語るところ」で、「信仰者は、(≪その否に対して、≫)……はっきりと『然り』と語らなければならないということ」である。言い換えれば、その時、信仰者は、人間の「精神の外にある」「神の存在についての信じられた命題を、必然的なものとして考えるよう呼び出されているということである」。したがって、「あの異議申し立てからして」、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)とそれを前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造というものを承認し確認しない限り、神は、「ただ単に考えの中でだけ存在するとして考えられるということ……が続いてくるように見える」。したがってまた、その時には、その「神の独立的な存在」は、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」の「独立的な存在」として、「仮説として、作りごととして、虚偽あるいは誤謬として、理解されることができるということが続いてくるように見える」。したがってまた、その時には、問いとしての「ソノヨウナアル本性ガ存在スルという命題を、……積極的な言明として理解する事実的な必然性はない」ということになる。したがってまた、その時には、「その命題」を、「そのように理解する者たちに対して」、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして(下記の【注】を参照)、その命題の「理解の、……事実的な、外的な必然性を、……事柄的な、内的な必然性を示すことによって」、「回復させ、そのようにしてあの事実的に可能な異議の申し立てを、事柄的に間違っているとして示し、斥け捨てるという課題が与えられている」、換言すればあの総体的構造を明確に提起するという仕方で、「ソノヨウナアル本性ガ存在スルという命題」を「回復させ、そのようにしてあの事実的に可能な異議の申し立てを、事柄的に間違っているとして示し、しりぞけ捨てるという課題が与えられている」。

 

【注】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。

 

 アンセルムスは、「神ハ存在スルという命題を、ただ単に論理的な可能性としてだけではなく、信仰の命題として資格づけられてものとして理解するように」、「直ちにまた、反対命題、神ハ存在シナイを、ただ単にあの命題に対立している論理的な可能性としてというだけでなく、むしろ不信仰の反対命題として資格づけられたものないしは資格を剥奪されたものとして理解する」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続しないで、「神は存在しないという者は愚カ者である」、ちょうどハイデッガーが、聖書「本文と自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型(≪「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」としての前期ハイデッガーの哲学原理≫)を前提として」、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」を目指したブルトマン(ブルトマン学派)に対して、そのような試みは、「結局のところ」キリストにあっての神としての「神を見失うこと」になるから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と客観的な正当性と妥当性とをもって「揶揄」・批判したように。「詩篇をウルガタ訳で読んだ」アンセルムスの言う「愚か者nabal」が「欠けている点」は、「知的な才能や学識」ではない。「彼は利口な人間である」。学業的な優等生であるかもしれない。「しかし、(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を最大限に駆使する≫)彼は、根本からして転倒した、破滅的な原則に従っている」利口な人間である。「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者である(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。何故ならば、アンセルムスの言う「愚か者nabal」は、「恐れること」は「知識はじめである」というあの総体的構造への「必然的な(≪知識の≫)方向転換」の重要さを理解しないからである(『教会教義学 神論』)、それ故にキリストにあっての「神から離反しているからである」、キリストにあっての神から必然的に離反して行くからである。アンセルムスもバルトもただの人間である以上「誤謬は可能である」が、あの総体的構造への「必然的な(≪知識の≫)方向転換」の重要さを理解しない者は、「誤謬は必然である」。また、「『プロスロギオン』三章の終りに出てくる……愚鈍デ愚カ者」の「愚かなゆえん」は、「その同じ章によれば、……(≪神とは全く異なる≫)被造物としての自分自身を創造者の上におくことを意に介さない(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持っていない≫)ということから成り立っている」。「愚鈍デ愚カ者」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、第一の問題としての神の存在を問う問い(神の存在の問題)を先行させないところの、第二の問題としての神の本質を問う問い(神の本質の問題)、すなわち「神ガ何デアルカヲ理解シテイル者ではない」――「それだからこそ、彼は、制限、無教養からしてではなく、神は存在シナイと考えることができるのである」。「アンセルムスは、愚カ者をして、結局、その者の反対命題の手に負えない動機を念頭に置いて、ただそのままほっておき、この反対命題を最後の審判の日まで繰り返させることができるだけである」。アンセルムスは、「愚カ者を名ざすに当たって」、「神が、ひとりひとりの者」を、「(神的な義に相応する)……それ自体救われていない人間の本質に放任することの中で、しるぞけ捨てるために、(≪「解放しない」まま≫)ほっておき給うことができる」という「()人類と同一な)アウグスティヌスの滅ビノ大衆のことを考えていたに違いない」、「愚カ者ハ心ノウチニ『神ハナイ』ト言ウ。彼ラハ腐レハテ、熱ヲ入レテ憎ムベキコトヲナシ、善ヲ行ナウ者ハヒトリモイナイ。主ハ天カラ人ノ子ラヲ見オロシテ、賢イ者、神をタズネ求メル者ガアルカナイカヲ見ラレタ。彼ラハミナ迷イ、ミナヒトシク腐レタ。善ヲ行ナウ者ハナイ、ヒトリモナイ……」――ここでは、「注目に値することであるが、パウロがローマ3・9で、ユダヤ人とギリシャ人に共通な逸脱全体を証明するために引用しているその同じ個所が問題である」。

 

 「信仰者」は、自分自身が、生来的自然的には、「暗々裡にあの愚か者との人間的な連帯責任性を承認」しなければならない人間であり、すなわちあの「愚か者」と同じように、「神に敵対し神に服従しない」人間であり、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」人間であり、日々瞬間瞬間神から遠ざかり遠ざかり続けている人間であり・罪を新たな罪を犯し続けている人間であり、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』全く信じることができない」人間であって、それ故に徹頭徹尾神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えられた信仰者として、「愚か者とは違ったふうに考えることによって、……神の恵み(≪キリストにあっての「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造≫)を、この連帯責任性を突き破り、除去する唯一のものとして承認する」。この徹頭徹尾神の側の真実としてある「上からの……突き破りを念頭」に置いた「信仰者の命題」と「愚か者の命題」は、「ただ単に論理的な対立としてだけでなく、先ず第一に、とりわけ二つの存在様式の代表指数として、また最後的には、根本的に違った仕方として述べている神ご自身の二つの判決の表現として相対して立っている」。「愚カ者の異議の申し立てを通して」、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、先行する第一の問題としての神の存在と第二の問題としての神の本質の問題をその全体性において尋ね求め「知解しようと欲する」アンセルムスにとっては、「神の存在についての信仰命題の事柄的な、内的な必然性を問う問いは、……新しいものではない」。アンセルムスの「知解ヲ求メル信仰そのもの」が、「自分に対して、……『私タチガ求メテイルモノハ一ツデ同ジデスカ』という問いを立てる」のである。「信仰者」は、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(通俗的な意味での隣人愛のことではなくて、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えのことである)という連関において「考えつつ」、「常に繰り返し、愚カ者とあの人間的な連帯責任性の中にいるのであり」(下記の【注1】を参照)、「信仰者にとって、愚カ者の異議申し立ては、(≪生来的な自然的な≫)自分自身の課題(≪愚カ者の問題、自分自身にある内在的な不信の問題、異端の問題、自然神学の問題、それ故に徹頭徹尾神の側の真実としてのみある不信を包括した信の問題≫)を思い出させるものであり」、「信仰者は、愚カ者に対して申しひらきをすることを拒むことはできない」。「信仰者と愚カ者自身の間に、最後の審判の日まで、いかなる折り合いをつける了解もないとしても」、「具体的ニハ、今日の愚カ者」は、愚カ者を「信仰の答えにあずからせることは、今日既に命じられているものでなければならない明日の信仰者であり得るであろう」。何故ならば、われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」からである。すなわち、われわれが、そうした人々に呼びかけることができるのは、ただの人間である「私がその人をその中に置くことによってではなく」、「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする、その「外に向かって」の「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「イエス・キリストがすでにその人をその中に(下記の【注2】を参照)置いてい給う」からである。したがって、われわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである(『証人としてのキリスト者』)。

 

【注1】 
 したがって、「人間的な連帯責任性」の中における「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」は、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会教会自身に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のである」(『福音と律法』)。

 

【注2】
 徹頭徹尾神の側の真実としてある、それ故に客観的現実・「成就と執行」・「永遠的実在」としてある、それ故にまたあの総体的構造に基づいて与えられた信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)において、主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのものの中に、ということである。新約聖書によれば、「神の恵みの賜物である聖霊を受け・満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すればわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある客観的現実・「成就と執行」・「永遠的実在」として<すでに>ということである。