13の4『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」
13の4『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(359-374頁)
再推敲・再整理版です。
「一 神の隠れ」
「源泉と規準」は、あの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「啓示ないし和解の実在」そのもの)であるが、それ故に具体的にはそのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒のたちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)であるが、「この源泉と規準でもって」、神の本質、すなわち「神ガ何デアルカトイウコトハ、神ヲ除イテハ誰モ自分ノ言葉デ説明スルコトハデキナイ」という「外的な限界」が言われており、それ故にイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「定義ハ名ニ従ッテハ与エラレ得ルガ、本質ニ従ッテハ決シテ与エラレ得ナイ」という「すべての人間的な語りの内的な限界」が言われている。「神の隠れについての命題」が、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして「われわれの神認識の内的限界を言い表すことによって、それはまた、われわれの神認識の外的限界を言い表している」。したがって、われわれは、キリストにあっての「神に相対して」、生来的な自然的な「(……固有な)直観、概念、言語の能力を持たないがゆえに」、換言すれば生来的な自然的なその知覚作用、その対象了解、その感情作用、その概念構成、その言語表現の能力によっては神を把握することが全くできないが故に、終末論的限界の下でわれわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源・根源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という<総体的構造>に基づいて与えられるということを承認し確認するのである。われわれは、徹頭徹尾神の側の真実としてある信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の源泉としてのその総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟」(啓示と信仰の奇蹟の出来事)という概念と命名を、近代主義者たち等々が拒否するとしても、その総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟」(啓示と信仰の奇蹟の出来事)という実体を想定せざるを得ないが故に、承認し確認するのである(下記の【注】を参照)。
【注】
吉本隆明は、『思想の基準をめぐって』で、人間の固有性について、「根源的にそして単純に答えられるべき」だとして、「脳髄が脳髄について考える」個体の内部過程と、「生理過程から、対象の形や色や全体像が構成され、<この対象は茶碗だ>とか<この対象は森だ>とか了解される」個体の知覚作用を例にとって、次のように述べている――第一に前者の認識が成立するためには、「生理(自然)過程の信号、反応、刺激、伝播」という「自体的な識知」、「生理過程の<変容>」と、脳髄が脳髄を生理過程の外部から認識する「対象的識知の過程」が必要である。第二に後者の認識が成立するためにも、まず「対象物から眼に到達する光作用」に対して、「生理過程として網膜の背後にある色彩、明暗、形態を弁別できる諸神経の刺激の継続と強弱」・「刺激の質量」という「自体的な識知」、「生理過程の<変容>」と同時に、そうした「対象物からうけとる神経刺激」という生理過程の外部に出て、「対象物を全体的に構成し了解する」「対象的認識の過程」が必要である。これら前者と後者における後者の「対象的認識の過程」は、「生理(自然)過程にとっては絶対的な自己矛盾である」から、人間に固有な「心的領域あるいは観念という概念を疎外する以外に、そのような自己矛盾を包括し止揚することはできない」。したがって、ここで疎外とは、疎外の止揚ということである。したがってまた、「生理学が<観念>という概念と命名を拒否する」としても、「<観念>という言葉でいいあらわされるものと、おなじ実体を想定せざるを得ない」のである。このような論理的に客観的な正当性と妥当性とを持った「概念と命名」は、恣意的独断的なただ単なる抽象的な空論ではないのであって、その「概念と命名」も観念ではあるが、リアリティを獲得した観念なのである。この概念と命名によれば、確かに第一次的に唯物的であるとしても、そういう仕方でいったん疎外され生み出された観念は、その観念自体の固有な自己展開過程と自己増殖過程(時間累積)を持つということになり、観念論か唯物論かという党派的思想を包括し止揚することができるのである。このように、一面だけを拡大鏡にかけて全体化された生理学的<知識>を紙一重で超えた人間学領域における吉本の思惟と語りは、人間学における思想(思想家)としての思惟と語りであると言うことができるのである。
聖書的啓示証言に即して「このことが確実であるとするならば」、「われわれは……われわれをその啓示を通して神を信じる信仰へと呼び覚まし給う神について、語ることができる」し、「語ることがゆるされる」し、「語らなければならないということを確認することができる」のである。このような訳で、このキリストにあっての神は、あくまでも、あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「われわれによって直観と概念を用いて把握することができるし、把握することがゆるされるし、把握しなければならない」のである。この時、「啓示と信仰の奇蹟の中で(≪それに後続して≫)彼は神の前に立っており、(≪常に先行する≫)神は彼の前に立ち給う。彼は(≪そういう仕方で≫)神を認識し」、それ故に聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「神をその不把握性の中で把握するのである」。この神の不把握性の中での信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)については、「神ハ定義サレ得ナイということを知っていた一三世紀から由来している偽アウグスティヌス文書『神ニ向カッテノ魂ノ独語』(一三章)でなした美しい記述の中で明らかにすることができる。……三位一体ヨ。(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神、自己自身である神、ご自身の中での神としての≫)アナタハ確カニ、タダアナタニトッテダケ完全ニ知ラレ給ウ。(≪自己自身である神、ご自身の中での神としての神≫)聖ナル三位一体、……ソレハミ使タチノ目ヲモッテスラ、語ルコトモ、思ウコトモ、理解スルコトモ、認識スルコトモデキナイノデアル」。だからと言って、「われわれは神について沈黙すべきであるし、沈黙することができるのであろうか。決してそうではない」。「ワタシハ沈黙シナイデショウ。何故ナラバアナタハワタシヲ造リ、照ラサレマシタカラ。アナタハワタシヲ見出シ、ワタシヲ知リ給イマシタ。ソシテワタシハアナタヲ見出シ、アナタヲ知リマシタ。何故ナラバアナタハワタシヲ照ラサレマシタカラ。……ワタシハアナタヲアナタノ中デ知リマシタ。アナタガアナタニトッテアリ給ウ通リノ仕方デワタシハアナタヲ知ッタノデハアリマセン。タダアナタガワタシニトッテアリ給ウヨウナ仕方デ(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、その内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示であるという仕方で≫)、ワタシハアナタヲ知ッタノデス。スナワチ、アナタナシデハナク、タダアナタノ中デデス。何故ナラバアナタハワタシヲ照ラス光デアリ給イマスカラ。アナタニトッテアリ給ウママノ仕方デ、アナタハタダアナタダケニ知ラレ給イマス。アナタガワタシニトッテアリ給ウママノ仕方デ、アナタノ恵ミニヨッテ(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟」・出来事に基づいて、≫)、アナタワワシニ知ラレ給イマス」。すなわち「上方カラ大キナ声デ、(≪後続する≫)ワタシノ内ナル耳ニ(≪常に先行する≫)アナタハ叫バレタ。ソシテワタシノツンボヲ破リ給ウタ。ソレデワタシハアナタノ声ヲ聞イタ。ソシテアナタハワタシノ迷妄ヲ照ラシ出サレタノデ、ワタシハアナタノ光ヲ見、マタソレデアナタガワタシノ神デアルコトヲ知ッタ。ソノタメニワタシハアナタヲ知ッタト語ッタ。ワタシハソレデアナタガワタシノ神デアルコトヲ知ッタ。ソシテマコトノ神デアルアナタトアナタガ送リ給ウタイエス・キリスト(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを≫)ヲ知ッタ」。
そのような訳で、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の「神の隠れ」とは、「そのような方としてただご自身にとってだけ知られ給い、したがってまたただ(≪神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定として≫)ご自身にとってだけ直観と概念を用いて把握することができ、ただご自分ひとりだけが正しく、換言すればまことにご自分について語ることができるところの」、「ひとりのまことの神、われわれの創造主、和解主、救済主は、把握できないということである」。したがって、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、自己自身である神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方においてだけ、それ故にイエス・キリストにおいて啓示されたイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体においてだけ、その内在的本質である聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を与えられるのである。このような訳で、「ご自身をその被造物に対し、啓示されることは、結局ただ神ご自身の可能性の中にある」のである。「神は、ご自身を通して自分を啓示(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)し給うたし、啓示し給う」。聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神は、「み子の中で、すなわち神が人間となること(≪その内在的本質の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)によって、聖霊を通して、すなわちすべての肉の上に聖霊が注がれることを通して(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟」・出来事に基づいて≫)、自分を啓示し給うたし、啓示し給う」。したがって、「われわれが、神を隠れた神として認識し、告白するならば、まさにそのことは、神の啓示の恵みに対してわれわれが感謝する讃美の最初の業である」。このように、神の側の真実としてのみある、神の側からの「純粋な贈り物」、「神の啓示に対して、われわれが(≪決して、神との混淆・混合・共労・共働・協働、神人協力をもってではなく≫)ただ感謝の讃美をもって出会うということができるだけであるということ」は、「この啓示の本質に含まれている」。「まさにわれわれがその啓示ゆえに神に感謝することによって、われわれは神をその隠れの中で誉め讃えるであろう」。そして、「まさにそのことをなすことによって、われわれは……われわれがその方を既に認識したということ、あの奇蹟(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟」≫)は既に出来事となって起こっているということ、われわれに対してあの純粋な贈り物」は、すなわち神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」、それ故に「啓示ないし和解の実在」そのものであるイエス・キリストによって成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)は、「既になされ、われわれはそれを既に受け取ったということを告白するのである」。「まさにわれわれが(≪神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟」・出来事に基づいて≫)神の隠れを認識することによって、われわれはその啓示の恵みを通して神ご自身を認識したのである」。キリストにあっての神は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ということを認識したのである。
そのような訳で、われわれは、常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに「耳を傾け、感謝し、また感謝し続けるのである」。「まさに啓示の中でこそ、まさにイエス・キリスト(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、その第二の存在の仕方であるイエス・キリスト≫)の中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」のである。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、「直接見てとる観照に対してではなく、(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟」・出来事に基づいて与えられる≫)信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」のである。その内在的本質の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における「言葉は肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。すなわち、それは、あの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性である。まさにここに、あの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・共生)という連関における神の言葉に対する奉仕への「命令と許可がある」。「神の啓示は、神が被造物に合わせて身をおとし給うことである。この卑下が神の言葉の中で、その聖霊を通して現実のこととなることによって」、「われわれは、(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟の出来事」に基づいて与えられる≫)信仰の中で、(われわれ自身の無能力を顧慮することなしに、ただ神ご自身の能力にだけ信頼を寄せつつ)神の啓示に対して人間的な直観と概念を用いて、したがって人間的な言葉を用いて、応答して行こうとする企てをなし、繰り返しなして行くことがゆるされ、また命じられているのである」。
「何人モ正確ニ父ナル神ニツイテ語ルコトハデキナイガ、シカシナガラ、父ナル神ニツイテノアル知識ハ、目ニ見エル被造物ヲ手段ニシテ得ラレルコトガデキル(オリゲネス)」、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」、その「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」、「三位一体の痕跡」、人間の理性に内在している神概念の「想起(記憶)、知解、愛」(アウグスティヌス)――この「教会の教父たちの論じた神の相対的な直観性と概念性というこれらすべての言明が含みを持っている問題性」は、その最初からキリストにあっての特別な啓示から独立した、生来的な自然的な人間の理性、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、その一般的な存在の類比に依拠したその「顕著な一般性」、その「自然神学」、その「自然的な啓示」の立場にある。したがって、「彼らの言明がこのような意味を持っている限り、われわれとしては彼らの言明を受入れることができないことは明らかである」。ただ、「グレゴリオス・エリベリタヌス(四世紀)」は、「例外として」「最も洞察に富んだ仕方で、……次のように述べている。アナタガ彼ニツイテ語ッタスベテヲ、彼ノミ業ノ成果オヨビ効能トゴ自身ノ聖礼典ノ執行トアナタハ呼ブデアロウ」。すなわち、「アレキサンドリアのクレメンス」が述べている通り、「『神のみ子を通しての神認識の恵み』(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟の出来事」に基づいて与えられる人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)、換言すれば『イエス・キリストの偉大さ』であることができるだけである」。イエス・キリストにおける神の自己「啓示は、神の創造の領域の中で起こる」のだが、「それは創造(≪神の起源的な第一の存在の仕方≫)そのものの力からして起こるのではない」(それは、次の理由による――「創造された世界における神の愛」と「われわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛」との間にはその存在の仕方における差異性があり、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」、すなわちその第二の存在の仕方における子なる神の存在としての「新しい神の業」である「和解ないし啓示」は、起源的な第一の存在の仕方における父なる神の存在としての神の業である「創造の継続」や「創造の完成」ではないからである。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」であるからである。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序に、キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者・言葉の「語り手」・創造者≫)と子(≪啓示・語り手の「言葉」・和解者≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父に先行することはできない」のである。しかし、この従属的な関係は、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、その内在的本質の差異性を意味しているのではなく、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における存在の仕方の差異性を意味しているのである)。キリストにあっての神が「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」として「直観と概念を用いて把握できるものとなるのは、イエス・キリストご自身の出現と関連(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の奇蹟の出来事」と関連している≫)している神ゴ自身ノサクラメントノ配剤の中でのことである」。われわれは、「その命令に対して服従して行かなければならない」。
そのような訳で、「われわれの無能力を……高く評価しようとするならば」、また「われわれの無能力を引き合いに出して、……(≪あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として≫)直観と概念を用いて神を把握しようとすることをやめてしまうならば」、換言すれば「神秘主義的な神学の道……におもむこうとするならば」、「そのことはその結果において、イエス・キリストを否定し、聖霊を汚すこと以外の何ものも意味しないであろう」。あの神の側の真実としてある総体的構造に基づいた「人間に与えられた能力」、「われわれが為す直観と概念を用いて把握する働き」、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指す歩みは、キリストの「啓示に基づいて、……換言すれば神の存在と本質に向かってなされる運動において、妨げられてはいない」のである。このような訳で、キリストの「啓示に基づいて為される人間的な直観と概念を用いて把握し語る働きに対して、原則的な懐疑をもって臨み、はじめからそれとして、そのなし得る能力に関して、したがって真理内容に関して不信頼をもって接しようとすることは意味がないことである」。したがって、「われわれは、……神についての人間的な表象と人間的な言葉が、それとして、そもそも人間と共に、神の裁きの下に立っているということ、そのような人間的な表象と言葉が、そのままでは、神の実在をただしるし的にだけでも描写して行く能力を持っていないということ、神の隠れの剣がそれらすべての表象と言葉の頭上にかかっているということを決して忘れはしない」としても、キリストの啓示を通して与えられる「神についての人間的な表象と人間的な言葉そのものを嫌疑の対象として、過小評価することはしないのである」。したがってまた、「われわれ自身の無能力さの告白」は、あくまでもキリストの啓示から規定されてくる「副次的、派生的な告白」であるから、肝要なことは、われわれが、あの総体的構造に基づいて「キリスト教的ニ告白スル言明(≪キリスト教に固有な言明≫)をなすようにとの命令と許可が与えられている」という点にある。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員すべて)における「神学の即事性」は、「常にただ祈りつつ」、「それが啓示の注釈を自分の唯一の課題とすることから成り立っている」、換言すればそれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、それ故に「わがまま勝手に」恣意的独断的に「例示する」のではなく、あの総体的構造に基づいて個々の世紀の個々の個体的自己の信仰的成果(深化と豊富化)の世代的総和として「別の言葉で同一のことを言うこと」、すなわち「解釈すること」を「自分の唯一の課題とすることから成り立っている」のである(何故ならば、「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である」からである、「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」)。
「われわれは、神認識の出発点についてのわれわれの考察を、アウグスティヌスの言葉でもって結ぶことにする、神ハ、何者モ神ニツイテフサワシク語ルコトガデキナイニモカカワラズ、身ヲオトシテ、人間ノ口ヲモッテノ礼拝ヲ受ケ入レ給イ、ワレワレガ自分タチノ言葉ノ媒介ヲ通シテ、神ヲ讃美シ喜ブコトヲ欲シ給ウ」。このことを、そのキリスト教に固有な深化と豊富化という問題に引き寄せて言えば、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教の思惟と語り、その一つの補助的機能としての神学の思惟と語り、われわれの思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであり、それ故に純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求めるあの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して行くその思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」のであるから、それ故にその出発点は、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(通俗的な意味での隣人愛ではなくて、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のこと、すなわちイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着せよ、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるためにキリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えよという神の命令・要求・要請のことである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すという点にある。