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25の1.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

25の1.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。
この知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」

 

 「資料批評的な状況」は、そのことは「『神はなぜ人間となられたか』の序の最後の数行からもしきりにうながされる」のであるが、「『プロスロギオン』の各章の初めについている表題も、アンセルムス自身から由来しているという推測を許容して」おり、「『プロスロギオン』二章の表題」は、「神ガマコトニ存在スルコト……と述べている」が、「この脈絡全体においては、esseは、existereのように訳されなければならない」。したがって、「『プロスロギオン』二章−四章においては、最初の導入的な数行を度外視するならば、(≪第一の問題としての≫)神の存在(Dasein)を問う問いが問題である」。『プロスロギオン』においては、「神の存在を問う問い」、第一の問題としての「神の存在(Existenz)の問題(quia esアナタガ存在スルコト)」が、第二の問題としての「神の本質の問題(quia hoc esアナタガコノ……通リノカタデアルコト)と区別され、際立って出ている」。アンセルムスは、「existereあるいはsubsistere〔いずれも存在スルの意〕という意味でのesse〔存在〕という概念」を、「既に『モノロギオン』で知っていたる、ちょうど彼がまた神の存在を既に『モノロギオン』のところで信仰の問題として主張していたように」。このアンセルムスにとっては、「『プロスロギオン』においてはじめて」、第一の問題としての「神の存在の問題は、信仰ノ知解、すなわち証明の対象に……なった」。そして、アンセルムスは、第一の問題としての「神の存在を問う問い」(神の存在の問題)を、「その書物の先端のところ」にある第二の問題としての「神の本質を問う問の前に発言させるという際立った仕方で取り組む」のである(下記の【注】を参照)。

 

【注】
 啓示神学の立場に立脚し、「教義学的な合理主義を明確に否定」し、神学を「一般的真理」としてではなく、「啓示(≪啓示の真理≫)から得られた認識」(信仰)として、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として啓示認識の可能性について考えたアンセルムスにとっては、イエス・キリストにおける神の自己啓示が、自己自身である神としての完全に自由な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である限り、不可避的に、客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示ないし和解」の出来事)と主観的な「認識的な必然性」(その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした、主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊とは同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比として神の言葉の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造・(秩序性)の連続性が問題である。言い換えれば、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、すなわちあの総体的構造における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」が問題である。何故ならば、この問題を明確に提起することができなければ、その教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」≫)から発生した……」ことになり、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ものとなってしまうからである、「(中略)神の意識は人間(≪神学者や牧師等≫)の自己意識であり、神の認識は人間(≪神学者や牧師等≫)の自己認識である」ということになってしまうからである(『キリスト教の本質』)。

 

 そのような訳で、「『プロスロギオン』五章の初めの言葉、『ソレデハ、……アナタハナノデスカ』は、この書物の第二の問題、すなわち神の本質の問題を告げ知らせる」。「vere〔マコトニ〕という副詞は、神的なesse〔存在スルコト〕、すなわちexistereの問題」を、「二重の仕方で表示することができる」。
(1)「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)におけるキリストにあっての神としての神の自己啓示(下記の【注1】を参照)からして、「そもそも神の存在が問題である」。「神はただ単に、(≪主観的な、人間の自己意識・理性・思惟の類的機能における≫)考えの中でそこにいるだけでなく、(≪その≫)考えるに相対して、そこにい給う(≪神の側の真実としてある、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいてそこにい給う≫)」。「まさに神が、ただ単に『内部に』いるだけでなく、また『外部に』も(in intellectu et in re〔理解ノウチト実在トシテ〕)いることによって、神は(人間から見て!)『まことに』(in Wshrheit〔真理の中に〕)、真理からして」、それ故に「現実に存在する」。
(2)「徹頭徹尾、神に特有な存在が問題である」。「神は、ただ単に、……ほかの存在するものが(考えに相対して、独立的に真正な対象性の中で)そこに存在するように存在するだけではない」。「神は、独一無比な、まことの仕方で」、「すなわち、……(≪神とは異なる≫)神と並んで存在するすべてのものの根源および根拠であり、それと共に、何かある存在するものについての考えのすべての真理の根源および根拠である存在者(≪下記の【注2】を参照≫)にふさわしい独一無比な、まことの仕方で存在する」、ちょうど「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方の中での第二の存在の仕方――すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」)が客観的に可視的に存在し、このイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)が客観的に可視的に存在し、そしてその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が客観的に可視的に存在しているように、またちょうどイエス・キリストにおける特別な啓示の真理が、われわれ人間の、その個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所として、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階におけるキリストの福音が、「理念へと、有神論的形而上学へ」と、「われわれに管理されるプログラムへ」と、「鋭さをなくした十字架象徴論へ」と、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所として客観的に可視的に存在しているように。

 

【注1】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
【注2】
 「まさに啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」≫)である」。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 「『プロスロギオン』二章は、『マコトニ存在スル』の第一の可能な意味で、神の存在を証明」し、その「三章は、『マコトニ存在スル』の第二の可能な意味で、神の存在を証明」し、その「四章は、神は存在しないという反対命題の事実を、光をあてて明らかにする」。「したがって、『神ガマコトニ存在スル』ことは、それ自体、『プロスロギオン』二章三章の内容でもって提示することもできるであろう」が、「しかし、アンセルムスは、『プロスロギオン』三章の特別な主題に対して、それ自身の表現を与えているのであるから」、「『プロスロギオン』二章の表題をつけるに際して、彼の念頭にあったものは、『マコトニ存在スル』の……章の内容に対応する第一の意味であったというように受け取ってよい」。「ここでは、先ず第一に、神の一般的な存在が、そもそも神の存在が問題なのである」。「ソコデ、信仰ニ知解ヲ与エル主ヨ、アナタガ私タチノ信ジテイルヨウニ存在シ、アナタガ私タチノ信ジテイルトオリノ方デアルコトヲ、私ニ有益トオ考エニナラレルダケ、私ガ知解スルヨウニ計ラッテクダサイ」。このように、アンセルムスは、「祈りつつ考え、また証明する」。したがって、アンセルムスは、「その方の存在」を、「論理的に前提しつつというだけでなく、また実際的に肯定しつつ、考え・証明する」。したがってまた、「人は、アンセルムスが、まさに神に向かって語りかけつつ、神について語っているということを見過ごしにしようと思うならば、『プロスロギオン』三章において明らかとなってくる証明の先端を看過し、それと共に全体を誤解することになるであろう」。アンセルムスの「証明が記述し、紹介しようとしている知解は、信仰に特有な知解であり」、それ故に「信じられたものからしての、信じられたものの知解である」。したがってまた、それは、「それだからこそ、それを求めて祈らなければならない」ところのあの総体的構造(下記の【注】を参照)に基づいて「人間に贈り与えられるべき知解である」。このことは、『教会教義学 神の言葉』では、次のように述べられている――教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」、と。

 

【注】
 終末論的限界の下でわれわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源・根源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という<総体的構造>に基づいて与えられる――この意味での総体的構造のことである。

 

 「有益トオ考エニナラレルダケという留保」は、「『プロスロギオン』一章の終りのところにあるイクラカデモ知解スルコトと関連しており」、それ故に「学問的なくわだては、神ご自身によって定められた制限、すなわち認識的な探求への制限の中で起こるであろうということを語っていると言ってもよい」。言い換えれば、あの総体的構造に基づいた知解が、「歴史的な時の中で」、歴史的な個々の世紀の中で、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、「以前の者たちおよび後に来る者たちとの関係」性を念頭において、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として「作業する者に……与えられる明瞭さと明晰さの程度は、神的摂理の事柄であるということを指し示す指示が共に鳴り響いている」。このことは、『教会教義学 神の言葉』では、次のように述べられている――「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、そういう仕方で「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるしである」、と。

 

 イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「『プロスロギオン』全体においては、(≪第一の問題としての≫)神の存在と(≪第二の問題としての≫)神の完全な本質が問題である」。「両方のことが、啓示され、信じられたとして前提される」、「私タチノ信ジテイルヨウニ」。信における思想の問題が、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)の立場において、われわれにある・あり続ける内在的な不信を含めて不信を包括し止揚した・克服した信(信と不信を架橋した信)にあるように、神学における思想の問題として自然神学を超えようとし啓示神学の立場に立脚し「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスにとって、あの総体的構造の立場において、啓示の「真理問題は、信仰にとって、両方の側に向かって答えられている」、「まさにそれと共に、真理問題が、考えることに対して立てられている」。「真理は、認識ノ真理なしに……あろうと欲しない」(起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、啓示の真理そのものであるイエス・キリストは、イエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を欲する、またその聖書を徹頭徹尾自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)を欲する。「私ハ信ジマス(credo)は、知解スルタメニという課題なしにあろうと欲しない」。「知解スルこと」は、「ほかの信仰命題のもとで、この信仰命題の必然性」を、「すなわちこの信仰命題の否定が遂行し得ないものであることを洞察することを意味している」。すなわち、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、そういう仕方で「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」(キリスト教に固有な類と歴史性における個々の世紀の個体的自己の成果の世代的総和の現存)は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるという、あの総体的構造の洞察である。「『プロスロギオン』において問題」(問題の全体性)は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「(≪第一の問題としての≫)神の存在と(≪第二の問題としての≫)完全な本質に関しての洞察」にある。

 

 バルトは、「単なる知識」と「認識」(ここで認識は信仰である)とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、キリストの啓示を通して、「神の言葉を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる」時、あの総体的構造に基づいたその「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執し固着する「認識」である(ここで認識は信仰である)。「その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して実在となり、またわれわれ人間も人間的にそれを実在として理解することができる」。何故ならば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいないからである」。神の言葉は、あの総体的構造に基づいて「われわれのところに来る」。したがって、「神の言葉が人間によって信じられる……出来事」、啓示認識・啓示信仰の出来事は、徹頭徹尾「人間自身の業」ではなく、神の言葉自身の業」(起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動)、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいてのみ可能なのである。すなわち、「言葉を与える主は、同時に、信仰を与える主である」。したがって、あの総体的構造に基づいて、「教会に宣教を義務づけている」聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である「啓示ないし和解の実在」そのものとしてのイエス・キリストの啓示の宣べ伝えを目指すことをしない自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞し循環している「単なる知識」としての「形而上学的な教義学」は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は教義学としては非学問的なのである」(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 「ソシテ、確カニ、アナタガソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カデアルコトヲ、私タチハ信ジテイマス」――「この命題でもって」、「『プロスロギオン』において与えられべき二つの証明の、ほかのところで得られた信仰命題として与えられた前提が導入される」。「祈りつつ語りかけられているアナタを代表する定式的表現は、(≪キリストにあっての≫)神を知解しようと欲する信仰者に啓示されたところの神のを言い表す定式的表現である」。この「定式的表現の中に」は、「神の本質についてのいかなる言明も……隠されていない」、「ましてや神の存在についてのいかなる言明も隠されていない」。「この定式的表現」は、「全くただ、……信仰者の考えることに対して、(≪キリストの≫)啓示を通して……刻み込まれた、神より偉大なものを考えることを禁じる禁止命令」、それ故に「それより偉大なものと並んでの『神』を考えることは、直ちに、実在の、すなわち(≪キリストによって≫)啓示され、信じられた神を考えることであることやめてしまうであろうという刑罰をともなった禁止命令を言い表している」。キリストにあっての「神は、信仰ノ知解を尋ね求める者にとって、徹頭徹尾、ソレヨエイ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カであり給う」。したがって、「この対象が啓示されることに対応するこの禁止命令を承認することなしには、この対象は、すべての知解にとって消え失せる」のである。したがってまた、その時には、「神(Deus)という同じものであり続ける言葉でもって、違う何かについて語られることができるだけである」。(その時には、フォイエルバッハによれば、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」し、「神の意識」は神学者や牧師等の「人間の自己意識であり」、「神の認識」は神学者や牧師等の「人間の自己認識である」し、それ故に「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて」、生来的な自然的な神学者や牧師等の「人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……」ものである、すなわち生来的な自然的な神学者や牧師等の人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」から発生したものである。それ故にまたその「対象に即してもまた、(≪その≫)『神学(≪総括的に言えば、自然神学≫)の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、換言すればその神学の秘密は、あの総体的構造に基づいて成立する啓示神学ではなく、神学者や牧師等が恣意的独断的に「わがまま勝手に」キリストの特別啓示を後景へと退け、キリストの特別啓示から独立した一般的啓示の神学、総括的に言えば自然神学以外の何物でもないものである。バルトが、『バルトとの対話』や『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で述べているように、あの総体的構造に自覚的でない時には、換言すれば「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」ということに対して自覚的でない時には、また神学も理性的な知的営為ではあるが「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ということに対して自覚的でない時には、必然的に、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すこととになるのである、それ故に当然にも自由な学問・研究の場である大学の人文科学系の領域の「すべての大学社会の神学」は、それが神学大学の神学であれ、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返さざるを得ないから、啓示神学から遠ざかるほかはないし、それ故にまたその神学は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」神学である以外にないのである)。あの総体的構造に基づいて「信じられた神」(「ここで論じられている唯一の神」)は、「この名(≪「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)を持っている」。「そのような訳で、(≪アンセルムスは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)この(≪第一の問題としての≫)神の存在と(≪第二の問題としての≫)完全な本質を、……『プロスロギオンにおいて証明しようとするのである』」。