2の3.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』
2の3.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(120-146頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「十六節 神のための人間の自由――二 聖霊、啓示の主観的可能性」(120-146頁)
神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での主観的側面である「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて、「神の言葉が人間にとって避けることができない仕方で主人となる」ことからして、「神の啓示が人間の身に及ぶということが人間の自由の中で可能となる」のである。「啓示の主観的可能性」、われわれの「神に向かっての自由」・「神の言葉に対する自由」・「神の言葉に向かっての自由」・「神の言葉のための自由」は、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という総体的構造(区別を包括した単一性、「単一性と区別」)に基づいて成立している。したがって、「啓示の主観的可能性」、われわれのその「自由」は、あの総体的構造における「イエス・キリストの中に尋ね求めなければならない」。したがってまた、われわれは、それを、「われわれのところで、われわれの中で、尋ね求めてはならない」のである、「われわれの自然的な自由および力強さにおいて尋ね求めてはならない」のである、総括的に言えば生来的な自然的な身体と精神を介して普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、人間化された自然を含めた宇宙・天然自然の外界)との相互規定的な対象的活動を行うわれわれの人間の中に、その個体自己の成果の世代的総和とその時間累積としての世界や歴史の中に尋ね求めてはならないのである。したがってまた、われわれは、われわれ人間の啓示に対する「認識能力と力について語ってはならない」のである。何故ならば、あの総体的構造からして、「啓示の客観的および主観的実在は、神の実在であるように、啓示の主観的可能性もその神の可能性(≪神の側の真実としてある「神的可能性」≫)であるし、そうあり続ける」からである。「事情がそうであるとすれば、この可能性(≪神の側の真実としてある「神的可能性」≫)にあずかる人間の参与」は、すなわち「啓示の主観的な可能性、つまり神の言葉に対するわれわれの自由」、「神の言葉のためのわれわれの自由」は、「われわれがわれわれ自身であるというわれわれの自己同一性(≪人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は人間である・人間であり続ける≫)の除去を少しも意味しない」のである。徹頭徹尾、キリストにあっての神としての神は<神>であり、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、われわれは<人間>であるという、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『ローマ書』)神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>は堅持されるのである、堅持されなければならないのである――「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」「シュライエルマッハー」等々(『ヘーゲル』)「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。したがって、神の側の真実としてある「神的可能性にあずかる人間の参与」は、すなわち「啓示の主観的な可能性、つまり神の言葉に対するわれわれの自由」、「神の言葉のためのわれわれの自由」は、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、「自然的人間」が、「啓示に対し力を持っているということではない」し、「超自然的な要因と力の魔術的な突入のそれでない」し、「恍惚とか忘我脱魂状態のそれでもない」のである。
この神の側の真実としてある「神的可能性にあずかる人間の参与」は、「われわれがわれわれ自身であるというわれわれの自己同一性の除去を少しも意味しない」それであるから、その現にあるがままの「われわれ自身の体験と行為、われわれがわれわれの人間的な現実存在と呼ぶわれわれの自己規定のあの行為の中で、遂行されるということを、徹底的に理解することができるし、理解すべきである」。したがって、この「神的可能性にあずかる人間の参与」は、ある人にとっては「絶望の状態の形をとって遂行され」るかもしれないし、ある人にとっては「正常な生活感情の中で遂行されることもありうる」のである。このような訳であるから、この「神的可能性にあずかる人間の参与」は、生来的な自然的な「肉体的――精神的現実存在そのものの全人間……すべての彼の状態と態度――(≪「わたしがわたしの……自己性の中で聞く、あるいは聞かない、召される、あるいは召されない、選ばれる、あるいは拒否される、裁かれる、あるいは恵みを施される……」、「絶望の状態」にある、あるいは「正常な生活感情」にある、ある資質・職業・生活・感情・信条・思想・意志・構想を持っている等々≫)――の可能性の中にある人間が神と直面させられる出会いの可能性である」。
さて、この「神的可能性にあずかる人間の参与における謎」は、「一体どの程度までこれこれの印象がわれわれの召命であり、これこれの発見がわれわれの霊的覚醒であり、これこれの決断がわれわれの回心であり、これこれの確信がわれわれの信仰であり、これこれの感情がわれわれの愛であり、これこれの待望がわれわれの希望であり、したがってわれわれのとる態度の中でこれこれのものが神のみ前でのわれわれの応答責任であり義認であるかを決して語ることができないという点にある」。この「神との関係の中にある人間の困窮した姿を知っている」のは、あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えられた「ただ神の子供だけ」である。この「ただ神の子供だけ」は、「自分たちが事実神のみ前に立っていること、しかしながら自分では到底神の前に立ち、立ち続けることができないことを知っている」。何故ならば、この「ただ神の子供だけ」は、自分が「神に敵対し神に服従しない」ということを、自分が「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」ということを、自分が「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等≫)によっては』全く信じることができない」ということを、自分ではどうすることもできない自分自身にある内在的不信、内在的罪を、「神に対する人間的反抗」を、「罪深い堕落した人間」を、そのような人間の世界と歴史を、あの総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、自己認識・自己理解・自己規定させられ自己認識・自己理解・自己規定しているからである。バルトは、『証人としてのキリスト者』で、トータルな革命の過渡的課題と究極的課題とを明確に提起でき得ていない最終的に離脱した生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やが対象化した宗教的社会主義は、「人間の困窮と人間に対する助け」とを、「聖書が理解しているほどには、真剣に理解」せず、「深く理解」していなかったと述べている。このような訳で、「ただ神の子供だけ」は、「神の啓示の実在」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「彼ら自身の内部で、否定すべくもなく登場している啓示の主観的実在(≪人間が人間的に所有する人間の人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に直面」する時、そのことが、「自分にとって謎とならざるを得ないのである」。何故ならば、「ただ神の子供だけ」が、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方である神的愛に基づく「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊の秘義の中をうかがい見ることができないばかりでなく、なかんずく、うかがい見ることがゆるされない」し、その「謎は解き明かすことができない」ということを知らされるからである。したがって、われわれは、ただ次のように告白しなければならない――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(≪ローマ3・22.ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解して≫)(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある≫)われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
このことは、神の「恵みの秘義、……人間のところに新しくきた神の言葉の秘義」――「イエス・キリストの秘義」である。「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神が、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方において「人間となられたこと(≪客観的な、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、イエス・キリストの「啓示の出来事」・その死と復活の出来事、「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉、「存在的な必然性」――この「存在的な必然性」は、区別を包括した単一性において、その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」、「認識的な必然性」を包括している≫)に基づいて、……人間が神を持つということ」が、「イエス・キリストの秘義」・「神の言葉の秘義」である。和解主としてのイエス・キリストは、「神ご自身」(自己自身である神)として、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としているから、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまこと人間イエス・キリストにおける「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者として、われわれに出会うところの人間である」ことは、「啓示および和解として現実に有効」なのである。区別を包括した単一性におけるまことの神にしてまことの人間という啓示の弁証法、「矛盾」は、「イエス・キリスト、(≪その内在的本質の受肉ではなくて、その第二の存在の仕方における言葉の受肉としての≫)肉となった神の子」において、「上から、神から」、「ひとつにまとめて保たれている」のである。また、それと共に、その「矛盾は、イエス・キリストが神の言葉として」、「われわれのところに来る時に、下に向かって、人間に向かっても、ひとつにまとめて保たれる」のである。このまことの神にしてまこと人間「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。このような訳であるから、「ここでは見かけだけの克服があるのではなく、まことの、現実の克服、死人からのキリストの甦えりの実在による克服がある」のである・「矛盾の中で生きる生は、既に、和解の中での生である。よく理解せよ。矛盾と抗争はそこでは、霊と肉との間、新しい人間と古い人間の間、われわれの目の前にあることと神のみが見給うことの間でなされ、起こっている」・「われわれの心と意識は抗争のさ中にあって、しかもすべての思いにまさる神の平安によって守られている」。
「われわれは、神の啓示に対する人間的な自由を積極的に記述してゆこうとするこころみによって、二つの概念に到達した」。すなわち、起源的な第一の形態の「神の言葉」自身の出来事の自己運動に基づく「神の言葉のための自由」という二つの概念は、あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリスト(≪客観的な、イエス・キリストにおける「啓示の出来事」・その死と復活の出来事、「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉≫)の中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということである」。「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものである「イエス・キリストが、人間にとって主人」、「教師、指導者、主となる」ということである、「しかも有無を言わさぬ仕方で主人」、「教師、指導者、主となる」ということである。したがって、この自由は、「神の支配(≪「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「神の自由と主権」≫)の下に立つ自由ことであり、キリストの奴隷となることであり」、それは、「神の言葉に向かっての自由・神の言葉のための自由の唯一の可能性として、理解されなければならない」。「神的な啓示されてあることの奇蹟、ひとりの人間の中でのキリストの甦えりの力(≪人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)は、実にこの出来事(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」≫)から成り立っている」。「この出来事の中で、人間が神のこの可能性にあずかるものとなるということ、神を通して神に向かって自由となるということが生起する」のである、換言すれば聖霊の業である「啓示されてあること」としての、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「啓示されてあること」に対する他律的服従とその決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(通俗的な意味での隣人愛ではなく、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えのことである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すということが、すなわち「神を通して神に向かって自由となるということが生起する」のである。
そのような訳で、あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、「人がもはや回避することのできない(≪不可避的な≫)向かい合って立つものを見出したということである」。「人が繰り返し自分自身とだけいる孤独の中に引き下がることができるということ」は、「彼の最も深い源泉」であり、「救助手段」であり、「慰め」でもあるが、しかし、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事は、「われわれに対しいずれにしても神の言葉に関して」は、「この退却を、原理的に不可能とする」のである。すなわち、われわれが、その「啓示と信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つ」時、われわれは、そのことが、われわれにとって、「自分が欲しているところのものであるかもしれない」しそうでないかもしれない、またそのことを「喜んで持つかもしれないし」そうでないかもしれない、またそのことに「ふさわしいかもしれないし」そうでないかもしれないにしても、「いずれにせよその時、われわれの生活の中に」、「われわれに語られた言葉のどのようにしても追い払うことができないともなる現臨が並行的に生起している」のである。言い換えれば、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、われわれ人間に対して、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する」のである、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」のである、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪審判≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」のである。この時、われわれは、「聖霊を受けることによって決して別人になるのではない」、その「現にあるがままのものとして」存在する――「聖霊は、人間精神と同一ではない」から、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊によって更新された人間の理性も聖霊と同一ではないのである、あくまでも人間的理性であり続けるのである(『教義学要綱』)、「人間の人間的存在が(≪その現にあるがままの≫)われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」、ただ「しかし、それと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、この自己認識・自己理解・自己規定は、あの総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通してやってくるのである(『福音と律法』)。
あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つ」時、われわれは、「すでに来たり給うた、また再臨(≪終末、「完成」としての復活したキリストの再臨≫)し給うイエス・キリストにおいて起こった和解との対話」、「彼にとって明らかとなった聖書的真理のひとつの要素との対話」、「あるいは〔その者の中で〕教会が彼に出会ったひとりの人間との対話、あるいはまた全くただ彼が洗礼を受けたという事実との対話」、「彼に相対して立ち、出会う神の言葉の……何らかのしるしとの対話をなしつづけなければならない」のであるが、そのことは、生来的な自然的な「彼の意志や行為の遂行とは全く独立した」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づた「神の子供の新しい生、神の啓示を受け取るというその可能性を持った神の子供の新しい生である」。あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいた「神の言葉に向かっての自由」、「神の言葉のための自由」は、「イエス・キリストにとどまること(ヨハネ第一の手紙三・二四)」、「み言葉の中に、愛の中に、神の中に、われわれ自身が『とどまること』である」。「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、とおくからわが思いをわきまえられます。(中略)わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます(詩一三九・一−一〇)」――「このことをともに祈ることのできる人は、まさにそれでもって神を通し、神に向かって自由であるだろう」。これらのことが、「哲学的にではなく、具体的に神学的に、理解されなければならない神の遍在のことである」(区別を包括した単一性としてある、神の自由の様々な完全性としての「神の単一性と遍在」における「遍在のこと」である)。
あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、われわれが、「回避することのできない唯一無比の「支配」・「法廷」(・原理・審判者・規準)としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、「神の子あるいは神の言葉を、見出したということである」。われわれが、「神の言葉に向かっての自由」、「神の言葉のための自由」を与えられる時、それは、あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいたそれであるから、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、「人がみ言葉の下に立つことをのみ意味している」のである。そうした「関係の現実性が問題である」。したがって、「彼は聖霊を受けることによって」、「自分自身の中で他のものになったわけではなく」、神の側の真実としてあるそうした「関係の現実性」において、「全く別のものとなったのである」。すなわち、彼は、神との「混淆」・「混合」・「共労」・「協働」・「共働」・「協力」者となったのではなく、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、「み言葉の下に立つ」者となったのである、換言すれば人間の側からの「全くの……協力と協働なしに、……神に向かっての自由が、神の啓示を聞くという可能性」が、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて生起したのである。
「人はここで(中略)旧約聖書および新約聖書の中に出てくる神と人間との基本的関係は、……神の優越性の確立を通して造り出されるということについて、よく考えなければならない……」。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>は堅持されなければならない。「議論の余地のない仕方で」、「ヤハウェは人間を支配し給う」という、この「地盤の上で、それから啓示の出来事全体が生起する」のである。この基本的な関係において、「神の側から(≪神の側の真実としてある≫)和解、恵み、救助、あるいはまた裁き、刑罰が、そして人間の側からは信仰と不信仰、従順あるいは不従順などということ……が起こる」のである。すなわち、この「優越と服従」という基本的な関係においては、「ただ単に神の現実存在だけでなく、また人間に対し高くぬきんでてい給う神の崇高さが、全く無問題的に(中略)つねに既に、……すべてのことの前提とされている」のである。この場所において、あの総体的構造に基づいて「預言者と使徒たち(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉≫)は啓示される神を見、聞き、また啓示される神の証人」となったのである。そして、第三の形態の神の言葉である教会が、この第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「彼らの証言を聞き」、「啓示を聞いて悟る」時、それは、キリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代における「神の子供たちの新しい生のはじまりである」。このような「関係の中で、人間は、神によって自分に語られていることを聞くべき耳をもつのである」。
あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、「言い逃れや弁解の余地もない命令……のもとに立たされることを意味する」。われわれは、人間による様々な命令に対して、自分の資質や職業や生活や感情や信条や思想や意志や構想によって、「全面的にあるいは部分的に」聞いたり・聞かなかったり、従ったり・従わなかったり、肯定したり・否定したり、疑ったり・疑わなかったりすることができる。また、そのような命令を「聞いていなかった」とか「理解しなかった」とか主張することができる。すなわち、その「命令」に対して、否定的な「言い逃れや弁解の余地を持っている」。しかし、あの総体的構造に基づいて生起する命令(神の人間に対する要求・要請)は、「徹頭徹尾……彼ら自身が全面的に命じられているから言い逃れや弁解の余地もないということを意味している」。このことは、『福音と律法』においては、次のように述べられている――「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉、福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「全面的に」、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、「イエス・キリストにのみ固着せよ」という福音を内容とする福音の形式としての律法(神の人間に対する命令・要求・要請)が建てられる。何故ならば、この律法(神の人間に対する命令・要求・要請)がなければ、われわれ人間は、キリストの福音を現実的に所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」、「神の恩寵を証しするものという事実において、福音を内容とする福音の形式である」、と。
そのような訳で、われわれ人間に向かって語られる神の言葉は、「徹頭徹尾、彼の存在(≪その存在・その思考・その実践≫)にかかわり、つき当たってくるのである。彼らの存在が神の言葉の前にあっての存在、神の言葉と共なる存在、神にかなったものであるということ、彼らが神をおそれ、愛すべきであるということ、そのことが神の言葉の命令の内容である」。人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間はただの人間でしかないのであるから、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神言葉)、すなわち「真に罪なき、従順なお方」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもない。福音を内容とする福音の形式としての律法(神の人間に対する命令・要求・要請)は、「福音の中核」であるイエス・キリスト自身が「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うた(≪「律法の成就」・「律法の完成」、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和≫)という事実から考えられなければならないから」、そのイエス・キリストに対する素直な感謝もった信頼と固執と固着、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにあるのである。このことは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」。
この神の命令は、われわれに対して、われわれが、その「神の言葉の命令を決して成就することはないこと」、「つねに履行しないことをも認識させる」し、そして「事実、全く成就することができない時」に、その命令が、われわれに対して、われわれの「罪の負い目をあらわにするものであることをも認識させる」のである。すなわち、「彼に語られた言葉との関係の中に彼が現に立ち、その関係の中で現に進み行くこと」は、神の側の真実としてあるあの総体的構造に「拘束されること、束縛されること、支配されることから成り立っている」。したがって、われわれは、「不服従の中でのみ……服従へと召され、要請され、要求されている」のである。『福音と律法』によれば、主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)としてのイエス・キリストにおいては、福音と律法は二元論的に対立しておらず、律法は、福音を内容とする福音の形式である。それは、第一に、「罪と死の法則」、「汝斯く斯くなるべしという要求」から、「生命の御霊の法則」、「汝斯く斯くならんという約束へと回復せしめられた」それである。それは、第二には、「遂行せよと求める要求」から、「信頼せよと求める要求へと回復せしめられた」それである。したがって、われわれ個体的自己としての全人間・全世界・全人類は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得るだけである」。また、われわれ人間の「不信仰(≪無神性≫)の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、(≪あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)われわれ自身の中においても現実となるため」に、われわれ人間に「力と愛と慎との霊を与え給う出来事」であるということである。ここで、「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し「固着」させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる霊」、「律法の成就」・「律法の完成」そのものである「イエス・キリストに対する愛の霊」のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して、恣意的独断的な「わがまま勝手な」「自己主張をして破滅することを防ぐ霊」であり、「人間が神を救い主として神を見・神に聞くように促す霊」である。われわれは、イエス・キリストにおいて、「不服従の中でのみ……服従へと召され、要請され、要求されている」――このことの根拠・源泉は、「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造にある。したがって、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通しての「彼の人間的な自己規定(≪・自己認識・自己理解≫)を完全に保持しつつ、実証しつつ」、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて成立する「啓示の主観的可能性」、われわれの「神に向かっての自由」・「神の言葉に対する自由」・「神の言葉に向かっての自由」・「神の言葉のための自由」によって、「彼は神に対して自由であり、神の啓示を聞く能力がある」と言うことができるのである。
そのような訳で、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ(ローマ一・一)の、その神の御心・神の御旨を通した(Tコリント一・一等)服従関係」において、「すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと(ローマ一・五)任命された使徒職の行使」は、徹頭徹尾、不可避的な、「強制のもと」でのそれであり、「イエス・キリストによって捕えられている(ピリピ三・一二)」それであり、「イエス・キリストの囚人(ピレモン一、エペソ三・一、Uテモテ一・八)」としてのそれであり、「そうせざるを得ない」というそれである。そして、それは、「わたしがすでにそれを得たとか言うのではなく」「捕らえようとして追い求めている(ピリピ三・一二)」それであり、終末論的限界の下での途上性におけるあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関においてのそれである。したがって、第三の形態の神の言葉である教会の途上性は、「教会に宣教を義務づけている」イエス・キリスト自身を起源とした第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、絶えず繰り返し教会となることによって教会であろうとするそれである。その時、教会は、終末論的限界の下でのその途上性において、キリスト教に固有な個々の世紀における個体的自己の成果(深化と豊富化)の世代的総和を時間累積して行くことができる。したがって、ただ単なる外在的な建物を擁し国家の法的言語によって規定されたただ単なる一つの宗教的制度としての宗教的組織としての教会であるならば、その教会は、あの総体的構造に基づいたキリスト教に固有な教会ではなく、ただ単なる人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない一つの宗教団体、宗教組織に過ぎない。神の側の真実としてあるキリスト教に固有なあの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、「もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである(Tコリント九・一六)」。
さて、「罪から解放された」・「和解された」人間の、「聖霊に対してもっている関係」は、「神の子として導かれること(ローマ八・一四)である」が、「罪から解放された」・「和解された」人間の、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」による「律法の成就」・「律法の完成」、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」に対してもっている関係は、その義の「僕となること」、その義に「仕えること」、「神の奴隷」となることである(ローマ六・一八、二二)。福音書におけるイエスの指示の主調音――すなわち「イエスとイエスに属するものの間の関係の類型」は、「直接的・命令調的な自明性における主人と奴隷の関係にある」。したがって、われわれは、聖書において、「僕が命じられたことをしたからといってそれは当り前のことであるから」、「神の子供たち」は、「命じられたことを皆してしまった時、『わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたにすぎません』と言いなさい(ルカ一七・七−一〇)という神の言葉を聞くのである」、また「彼らが聞くということは実際にひとつの命令を聞くこと、それであるからそれ自体服従であり、それとして必然的に言葉を行うこと(ヤコブ一・二二)であるという神の言葉を聞くのである」。ここで、言葉と行為は二元論的に対立していない、ちょうどイエス・キリストにおいて福音と律法が二元論的に対立していないように、律法はキリストの福音を内容とする福音の形式としてのそれであるように。バルトにおいても言葉と行為は二元論的に対立していない――それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った(≪言葉としてのキリストの福音の≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪このおのずからは、その説教の言葉が「必然的に」と言ってよい≫)実践に、決断に、行動になって行った」(『カール・バルトの生涯』)。
ここで、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請、誡命)は、「旧約聖書的」な特殊性におけるそれではなく、三位一体論的――キリスト論的に理解されたそれである――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、「復活へと向かっている」。このキリストの復活(「成就された時間」、「まことの現在」)は、「新しい世(≪・時間≫)のはじまりである」。したがって、われわれは、「ローマ人への手紙およびガラテヤ人への手紙の中で、パウロによって戦われたユダヤ人の律法と混同しないように、注意しなければならない」。「それに対してイスラエルの律法は、すべての命令の前に、第一の命令として、おそれられ、愛されるべき方としての命令者なる神を登場させている、『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である』(出エジプト二〇・二)。パウロが自分のことをイエス・キリストの僕、イエス・キリストによって捕えられ、拘束されているものとして理解し、その特徴を言い表した時、パウロはいま述べたこの律法のもとに立っていたのである」。パウロは、「この、いのちの御霊の法則(ローマ八・二)のもとに、……また新しい契約の信者たちも立っているのも見た」のである。われわれは、「事実、神の啓示にあずかる人間的な参与の可能性全体」を、先ず以て、「福音と律法」について、福音と律法を二元論的に対立させて<律法>と<福音>(律法→福音)という順序の下で理解した「宗教改革者的弁証法」(その典型はルターの『キリスト者の自由』の思惟と語りにある)においてではなく、イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立していないのであるから、<福音>と<律法>(福音→律法)という順序の下で理解しなければならないのである。すなわち、律法を、福音を内容とする福音の形式として理解しなければならないのである、換言すれば、「正しく理解された神的律法という概念において、理解しなければならない」のである。イエス・キリストにおける神の福音の中で「正しく理解された神的律法という概念における神の律法」は、区別を包括した単一性として(「単一性と区別」として)、「それがわれわれ人間に対して語られる時」、「ただ単に裁きや威嚇であるばかりではなく、それはまた慰め、希望、喜び、助けであり、そこで神が……われわれを救うために神がご自分をわれわれと結びつけ給う行為によって、神が恵みをもって現臨・遍在(≪父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において遍在≫)し給う」ということである。
あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、われわれが、「最後的な、最も深い責任のなさの中で存在することを認識させられるということを意味する」。主観的な「認識的な必然性」、信仰の出来事としての「聖霊の注ぎを通して……(≪「存在的な必然性」、客観的な啓示の出来事としての≫)言葉の下に、言葉の命令の下に、おかれたということ、そのこと」は、「われわれが、現にあるところのものとして」、「神の言葉自身(≪起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動≫)がなし給う業を通して担われ、守られるところの奉仕へと向かわせる」のである。この時には、そのベクトルの必然性において、「神の意識は人間の自己意識」へと向かってはいないし、「神の認識は人間の自己認識」へと向かってはいないし、「神の啓示の内容は、……人間的理性や人間的欲求やによって規定された神」(「存在者レベルでの神」)へと向かってはいないし、それ故にその「対象に即してもまた、『神学……は人間学』」へと、自然神学へと向かってはいないのである、すなわち啓示神学へと向かっているのである。この啓示神学へと向かう啓示神学も、それがその現にあるがままの現実的なただの人間がなすそれである限り、「誤謬は可能である」から、イエス・キリストにおける神の福音の中で「正しく理解された神的律法という概念における神の律法」は、区別を包括した単一性として(「単一性と区別」として)、「それがわれわれ人間に対して語られる時」、「ただ単に裁きや威嚇であるばかりではなく、それはまた慰め、希望、喜び、助けであり、そこで神が……われわれを救うために神がご自分をわれわれと結びつけ給う行為によって」、そうした「われわれの不適正にもかかわらず」、「神が恵みをもって現臨・遍在(≪父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において遍在≫)し給う」ということである。あの総体的構造における「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば。キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)が客観的に可視的に存在している、そのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)が客観的に可視的に存在している、その聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が客観的に可視的に存在している。
そのような訳で、「心配事」、「思いわずらいによってまさに圧倒されそうになっている時にも、いや、まさにそのようなときにこそ」、「最後的な、決定的な問いにおいてこそ、彼は心配から全く自由である」。したがって、われわれは、「あなたのみ心が行われますようにとの……祈りを祈ることができるだけであり、またそのように祈るべきである」。このことから、「わたしがわたし自身およびほかの者たち、教会と世のためになすことができるすべてが成り立っている」――われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」、すなわちわれわれが、「そうした人々に呼びかけることができるのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、「啓示ないし和解の実在」そのもの・起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」、それ故にわれわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」(『証人としてのキリスト者』)。「わたしおよびほかの者たちの罪の重荷は、……全面的に、イエス・キリスト、神の言葉に負わされているが故に、私に負わされていないのである」。「イエス・キリストが、あなた方のために配慮し給うということを、われわれは知っているし、語るし、確認するし、証しするし」、そこにおいて、われわれは、「実際的な生活を生きる」のである。「まさにこの自由、この、最後的な責任のなさの中で、われわれはそれからまた自明的に、神の啓示を聞く自由を持つのである」。聖書的人間、啓示の受領者であり啓示の証人の態度は、神の側の真実としてある「福音それ自身が神の力であり、しかも救いを得させる神の力であるが故に」、われわれ人間の「動力を徹頭徹尾必要としない故に」、「くびきは負いやすく、その荷は軽い(マタイ一一・三〇)」のである。このような訳であるから、「彼らは実際、神がなし給うことをなそうとは欲しないのである。彼らはただその場(≪あの総体的構造における神の現臨の場≫)に居合わせようと望んでいるだけである」。
あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、「ひとつの特定の教化と指導のもとに服従させられるようになるということを意味している」。何故ならば、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいてキリスト教に固有な「ひとつの特定の教化と指導のもとに服従させられる時」には、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「教化と指導のもとに服従させられるようになる」からである。「ここで主人は肉(≪その内在的本質の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における言葉の受肉としての肉≫)をとった永遠の言葉である」。したがって、「われわれ(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の言葉≫)は永遠の言葉ではない」。イエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である全く人間的なわれわれの言葉は、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下における人間が人間的に所有する人間の言語を用いての人間の言葉である。したがってまた、信仰の出来事としての「聖霊の注ぎとともに現実のこととなる、神の言葉(≪啓示の出来事≫)を通しての人間の教化と指導」において人間は、「彼が現にあるところのものであるし、あくまでもそのようにありつづける」のである。すなわち、その現にあるがままの現実的な人間存在における「人間にとって、その一般的および特別な仕方での彼自身の存在、思惟すること、意志すること、感じることが決して失われてしまうわけではない」。しかし、信仰の出来事としてのあの総体的構造に基づく「聖霊の注ぎ」によって「まさに神の前にあって罪人としての彼自身の存在が、神の言葉に服従せしめられ、したがってこの言葉を通して教化形成され、導かれ」・「服従させられる時」には、「彼の教化と指導は完全なものとなることが実際に起こる」のである。
そのような訳で、あの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「われわれは、……永遠の言葉に服従したことによって、ただ単に肉であるだけでなく、肉の中で神の子供」、「あの長子」イエス・キリストの「兄弟である」。聖霊は、教会をあの総体的構造に基づいた「み言葉の奉仕へと向かわせる」、また「聖霊はみ子の霊であり、それ故に子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、……神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる」。また、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たち」は、受領者と授与者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、「神の子供である」。このことが、「われわれの存在が言葉の下に服しめられる服従の出来事である」。ここにおいて、われわれは、「霊から」、「新しい誕生から」、「神の言葉に向かう方向性を持つ」のである。このことは、神の側の真実としてあるあの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいた出来事であるから、「われわれ人間の何らの功績によらず」、また「われわれ人間の側からの貢献や協働(≪・共労・共働・協力≫)なしに」、それゆえに神の側から・神のその都度の自由な恵みの決断によって、「必然的に、不断に、抵抗すべからざる仕方で、起こる」のである。したがって、このことは、「イエス・キリストご自身(≪客観的な啓示の出来事、「存在的な必然性」≫)の否定および拒否」においては、それ故にその啓示の出来事の中での主観的側面としての「イエス・キリストご自身の霊である聖霊(≪信仰の出来事、「認識的な必然性」≫)の不在」においては、「否定され、妨害され、不活発にされ」・「起こらない」のである。イエス・キリスト(≪客観的な啓示の出来事、「存在的な必然性」≫)がキリストの霊である「聖霊の注ぎ」において「現臨しつつ行動し給うところ、現臨しつつ行動し給う限り」、イエス・キリストは、「まだ肉の中にあり、まだ罪人として歩んでいる人間を教化し、導き給う。……それは厳格に隠された教化形成であり、隠された指導である」。この「聖霊の注ぎ」による「イエス・キリストの行動」は、「人間の生活がキリストにかなったものになるということを目標としている」。しかし、この「キリストにかなう」ということは、キリストが「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であり、われわれ人間はあくまでもただの人間である限り・あり続ける限り、「第二のキリストである人間になるということではない」。すなわち、「キリストにかなっているということ」は、われわれ人間が、その人間性全体において、「キリストの故に、キリストにおいて、神の子供であり、それ故に」、「キリストに方向づけられている人間であることを意味している」。このことは、「聖霊の業」であるが、われわれは、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としてのその「聖霊の注ぎ」(信仰の出来事としての「聖霊の注ぎ」)によって「そのように方向づけられることにおいて、神の啓示を聞き、受け取ることができる」のである。
この「方向づけについての決定的な新約聖書的概念」は、「自分勝手な」恣意的独断的な「模倣とは全く別な方向を指し示している」ところの、すなわち常に先行する「イエスの招きによって条件づけられている」・「メシア的な賜物」であるところの、常に先行する「イエスのあとに(≪常に後続して≫)従うという概念にある」。したがって、イエスとの混合・共労・共働・協働・協力という点にはない。そして、この常に先行する「イエスのあとに(≪常に後続して≫)従うという概念」は、神の側の真実としてあるあの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して行くということを意味している。
そのような訳で、「主よ、あなたに従います。しかし、先ず家族にいとまごいに行かせてください」は、「神の国に適さないことを直ちに暴露してしまうのである(ルカ九・六一以下)」。イエス・キリストの「死と復活にあずかる参与」、常に先行する「イエスのあとに(≪常に後続して≫)従うという概念における方向性」は、人間の神との混淆・混合・「共労」・「共働」・「協働」・協力への方向性を決して許さないのである。すなわち、信仰の出来事としてのあの総体的構造における「聖霊の注ぎ」によって、イエス・キリストの「死と復活にあずかる参与」、常に先行する「イエスのあとに(≪常に後続して≫)従うという概念における方向性」においてはじめて、「彼は……弟子となるし、イエスによって教えられ、学ぶことができる」のである。
常に先行するイエスが残された「模範を耐え忍んで走りぬくために」、われわれは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」への方向性を「かなぐり捨てて」、「信仰の導き手であり、またその完成者と呼ばれる(ヘブル一二・二)」イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着して行く方向性の道を歩む必要がある。したがって、「洗礼から……理解された教会の宣教」は、「僕のかたちにおいて、キリスト者が、不一致から、(≪常に先行する≫)キリスト・イエスにおける一致へと戻る(ピリピ二・一−一一)方向性を、指し示す必要がある」のである。あの総体的構造に基づいたあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指す道を指し示す必要がある。
神の側の真実としてあるあの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、「最後に、総括」的には、われわれ人間が「自分自身の事柄を持たず」、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの事柄を自分自身の事柄として持つということ……を意味している」。すなわち、起源的な第一の形態の「神の言葉(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事、「存在的な必然性」≫)が聖霊の注ぎ(≪その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事、「認識的な必然性」≫)を通して主人であるところの関心事と事柄」は、起源的な第一の形態の「神の言葉であり、われわれに対してなされた神の業である」。あの総体的構造に基づいてそのようなものとして、「神の言葉が……聞かれるところ、そこでは」、われわれの「自己主張と自己救助の意志、われわれの自己保持、自己義認、自己表示のための心労は、確かにまだ依然としてそこに存在しており、働いているが、しかし原則的には打ち砕かれ、その生命力において粉砕されてしまったのである。そのような意志は、いずれにしても、神の言葉に相対してはもはや……原則的には……存在することはできない」のであり、「徹底的に粉砕され相対化されてしまったのである」。総括的に言えば、<宗教>としての自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「原則的には……存在することはできない」のである、「粉砕されてしまった」のである。
啓示の主観的可能性について、「第四福音書によれば、洗礼者ヨハネが語ったいくつかの言葉によって総括することができる」――「人は天から与えられなければ、何も受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言っことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。花嫁を待つものは花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える。……そのあかし(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身、それ故に具体的にはそのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」≫)を受け入れる者は、神がまことであることを、確かに認めたのである。父はみ子を愛して、万物をその手にお与えになった。御子を信じる者は、永遠の生命をもつ(ヨハネ三・二七−二九、三三、三五以下)」。