13の3『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」
13の3『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(340-359頁)
再推敲・再整理版です。
「一 神の隠れ」
われわれは、「昔の教会と神学の中で、神の不把握性について語られていることに対して、批判的に評価し、またはっきりと言葉に出して補充し、正さなければならない」。「神ハ自ラ存在シ、自ラ生起シ、自ラ保持シ、不可視的デ、把握デキズ、不死デアルトイウコト、コレラハスベテ神ノ光栄ノ承認、ワレワレノ意味ノ暗示、ワレワレノ思想ノ概略デアルガ、言葉ハ、神ガ実際何デアリ給ウカヲワレワレニ告ゲルノニ無力デアリ、言葉ハ真実ヲ言イ表ワスコトガデキナイ。……カクテ神ヲ告白スルワレワレノ告白ハ、言語ノ欠陥ノ故ニ挫折シ、ワレワレガ考エウル最上ノ言葉ノ結合モ、神ノ真実ト偉大サヲ示スコトハデキナイ(ヒラリウス)」――先ず以て、このように、ヒラリウスが「神自身の不把握性の概念に言及しつつ語ったということに、人は注意せよ」。「同じように、アウグスティヌスによれば、神ハ『語ルコトガデキナイ』トイウコトサエ語ラレルコトハデキナイ。ナゼナラバ、ソノヨウニ語ルコトハ既ニ神ニツイテ何カヲ語ッテイルコトデアルカラデアル」。このような訳であるから、「神の隠れ」は、「肯定的神学から否定的神学へと移って行く道の上でも、決して否定されたり、回避されたりすることはできない」。このことに対応して「古プロテスタントの正統主義も……神のすべての定義は正確ニ言エバ、ワレワレニ示サレテイル限リデノ、神ヲ言イ表ワスアル言イ方デアル、ナゼナラバ神ハ定義サレルコトガデキズ、神ヲ完全ニ定義スルタメニハ、神ゴ自身ノ論理ガ必要ダカラデアル……ということを知っていた」。これらすべてが、「神の啓示の恵みの中での神認識の内容充実と充満について語られているならばまことに結構なことであった」が、しかしその「文脈は、ほとんどの場合、これと違った方向を指し示していた」のである。「ただ、カンタベリーのアンセルムスだけ」は、「教義学的な合理主義を明確に否定」して、それ故に啓示神学(下記の【注1】を参照)に依拠して、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源・根源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という<総体的構造>に依拠して、「ほとんどすべての昔の神学において為されているよりももっとはっきりと」、「一方において神の隠れ」を、「まさに人間に対し現臨し給う神の栄光の賓辞として記述」し、「他方においてその神の隠れ」を、「人間に対し現臨し給う神に対し人間が罪深い仕方で心を閉ざしていることとの関連の中で記述」し、「神の啓示の恵みの事柄との美しい近さの中で語っている」――「(中略)ワレハ汝ノウチニ動キ、汝ノウチニ在リ、シカモ汝ニ達スルコトガデキナイ。汝ハワガウチニ在リ、ワレヲ囲ンデアリ給ウガ、私ハ汝ヲ感知シナイ。(中略)……主ナル神ヨ、汝ハ言イ表ワシ難キ汝独自ナル仕方デ、ソレラヲ汝ノウチニ持チ給イ、シカモ汝ニヨッテ創造セラレタ実象ニハ、ソレゾレ感覚サレ得ル仕方デ、ソレラヲ与エ給ウタ……。シカシワガ魂ノ感覚ハ、罪悪ノタメニ長キニ亙って疲弊シ、タメニ梗塞セラレ、遅鈍ニセラレ、阻害セラレテシマッタノデアル」。
【注1】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)において、その内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示である。人間学的神学者(哲学的神学者、総括的に言えば自然神学者)の八木誠一は、区別を包括した単一性における、その内在的本質も、またその外在的な存在の仕方も後景へと退け排除してしまって、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」(『イエス』)と述べている(同様に、滝沢克己も、その内在的本質は後景へと退け排除してしまった。しかし、あくまでも滝沢自身が哲学的に対象化し客体化したあの未だ区別や分節化がされていない未分化のまま一切が包摂された総合状態・無規定の状態・形や色もない「無」性状態、それ故に一切の区別や規定や分節化の源泉であるところの自然や宇宙の概念と同質の「根本的事実」・「インマヌエルの事実から生成された生ける徴」としてであるが、その存在の仕方だけは保存させている――『カール・バルト研究』および「1982年南山大学主催滝沢克己講演後討論会」)。しかし、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、区別を包括した単一性において、「人の子」語句について、次のように述べている――「『人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか』(マタイ一六・一三)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は『あなたは生ける神の子キリストです』と答えた。『メシヤの名』に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べているというように理解した方がよい」。内在的本質である神性の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における言葉の「受肉」・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄や神性の減少を意味しているのではなく、神的姿の隠蔽・覆い隠しを意味している」。
そのような訳で、「いずれにしても、(≪人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等に依拠した≫)何かひとつの隠れが問題なのではなく」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした、キリストにあっての神としての神の「あわれみ深い、聖なる神の隠れが問題である」。「われわれは、最後にもう一度、教理史のはじめに戻って、殉教者ユスティノスが、まさにキリストの名を、未知ナ意味ヲ含ンダ名(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」≫)であるとその特徴を言い表したことを確認する」(前述した【注】を参照)。「われわれは、この事柄について伝承が語っていることを、……われわれの立場として受入れる」。このような訳で、「われわれは、神の隠れについての命題」を、「イエス・キリストにあっての神の啓示の中で、人間に対して、それと共にまた人間が直観と概念を用いて把握する働きに対して下される裁きの判決として」、あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の可能性以外の「固有な可能性が拒否される裁きの判決として」、「真理性と効力を言い表す告白として理解する」。言い換えれば、「ただ神の恵みによって(≪あの総体的構造に基づいて≫)人間に与えられ提供される(≪人間が人間的に所有する人間の≫)信仰の認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)だけ」が、それ故に終末論的限界の下で、それ故にまたキリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代におけるキリスト教的な生と生活のその途上性の下で、あの総体的構造における聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「信仰の(直観と概念を用いてする)把握だけが残されるという恵みの判決として」、「真理性と効力を言い表す告白として理解する」。このことでもって、われわれは、「既に、神の隠れについての命題の積極的な意味へと突き進んだのである」。何故ならば、「人が実際に神の裁きを告白するところ、そこでは人はまた(≪区別を包括した単一性において≫)神の恵みに対しても告白しているからである」。したがって、「神の隠れについての命題」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「われわれの現実の神認識の出発点として」、「われわれの(神についての)無知ではなく、むしろ神についての知識の基本的かつ決定的な規定として、理解されなければならない」。言い換えれば、「神の隠れ」は、「神についてのわれわれの知」が、先行する「神の啓示の中で、また(≪あの総体的構造に基づいて与えられる≫)神を信じる信仰の中で既にはじまったが故に、われわれの中ではじまることはないということを語っている」のである。このような訳で、「神の隠れを言い表す告白」は、(≪あの総体的構造に基づいた≫)「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」イエス・キリストにおける神の自己啓示に対する告白、すなわち「神についてのわれわれの知のはじまりの告白である」、それ故に「われわれ自身の無能力さ(≪神の不把握性、終末論的限界、究極的限界≫)」の告白は、その「啓示から規定されてくる副次的、派生的な告白である」。したがって、「神の隠れを言い表す告白が強調したい点は、先ず第一に」、「謙遜ではなく」、「決定的に感謝であると言うことである」。われわれは、その区別を包括した単一性において、「神がわれわれに対してその罪を赦し給うこと(≪神の恵み≫)によって、……われわれがどうしても罪人であること(≪神の裁き≫)を認識する」のである。
「神がそのみ言葉の中で(≪それ故に、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造の中で≫)、直観と概念を用いてご自身を把握(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)し給うことによって」、換言すれば内在的な自己自身である神の(下記の【注2】を参照)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体であり給うことによって、「われわれにとってそれ以外の仕方ででは神は直観と概念を用いて把握されないこと、したがってわれわれ自身では(≪あの総体的構造に基づかないでは≫)神を直観と概念を用いて把握することができないことを認識する」のである。このような訳で、「われわれが何の留保もなしに神の隠れを告白する時にこそ、確かにわれわれは、神を現実に、確実に、認識しはじめている」のである。何故ならば、そうでき得ているその時には、あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が与えられているであろうからである。あの総体的構造に基づいた「まさにまことの神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中でこそ、……その隠れの中にいます神を把握することが、把握デキナイモノヲ把握スルコトが問題である」から、「もしもわれわれが(≪あの総体的構造に基づいて≫)神をその隠れの中で把握し、直観と概念を用いて把握するとすれば、われわれはまさにそれと共にまことの神認識をしているのである」。
【注2】
自己自身である神(ご自身の中での神)としての、自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の起源・根源としての父は、「子として自分を自分から区別する」し、「自己啓示する神として自分自身が根源である」、それ故にその区別された子は、父が起源・根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は、父と子が起源・根源である――この神は、「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」のであるが、この神が「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とすることからして、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。それからこの神は、その区別を包括した単一性において、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質・業・働き・行為・行動・活動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)を持っている。
「主を恐れることは知識のはじめである(箴言一・七)」――「人は、……この言明(≪「主を恐れること」は「知識のはじめである」という「必然的な方向転換」の言明≫)の中に含まれている四つの概念のいずれをも、同じ重要さを持つものとして聞き理解しなければならないであろう」。「ワレワレハソノ方ヲ表現デキナイ、……実ニ全被造物ニトッテ見エナイ方、タダミ子ト聖霊ニヨッテノミ知ラレ給ウ方ト呼ブコトニシヨウ(クリソストムス)」、「ナゼナラバ、理解ヲ絶シタモノハ……何人モ、彼ガ探求シテイタモノガドンナニ理解ヲ絶シタモノデアルカヲ見出スコトガデキタ時、何モ見出サナカッタト考エテハナラナイヨウナ仕方デ……探求サレナケレバナラナイカラデアル(アウグスティヌス)」。したがって、「神ハ定義サレルコトガデキナイから、……神学と宣教は沈黙しなければならないという結論を引き出すとしたら、それは重大な誤解である……」。何故ならば、「神ハ定義サレルコトガデキナイ」ということは、その告白を「正しく理解するならば」、前述したようにあの総体的構造に基づいて、イエス・キリストにおける「神の啓示(【注1】を参照)を公に認める告白」だからである。したがってまた、「神ハ定義サレルコトガデキナイ」ということから、「神の本質のすべての規定の除去あるいは相対化をなす『否定的』神学」の構成を目指すことも「誤解である……」。したがってまた、「神ハ定義サレルコトガデキナイ」ということから、「シュライエルマッヘル」のように、教会が「敬虔な人間の主観的な感覚と体験の基礎にある『絶対依存』の感情(≪敬虔心≫)の神学と宣教」、「敬虔な人間の自己説明」・「自己表現」としての「名目」的な「神認識」(宗教)、「実在の神ではない神の認識」(宗教)、人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」の認識(宗教)を目指し、あの総体構造に基づいて「神ご自身を直観と概念を用いて把握しようとする」のではなく、それ故にあの総体構造に基づいて「神ご自身を直観と概念を用いて把握することを断念しようとする」ならば、「そのことも誤解である……」。これらすべての「誤解」は、「神秘主義的神学の変種がなす誤解である」。したがってまた、あの総体的構造に基づいて「隠れの中での実在の神を尋ね求めようとしない教会の宣教の試み」、その一つの補助的機能としての「神学の試み」、そのような試みには、その最初から「参与しない方がよいのである」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、われわれは、あの総体的構造に基づいて、「実在の神をその啓示の中で認識することによって、神をその隠れの中で認識する。またまさにそのことをなすことによってこそ、われわれは、実在の神をその啓示の中で認識するのである」。「われわれが自分からして直観と概念を用いて把握することのできる神であるならば、その神は、キリストにあっての実在の神ではないことになろう」――この時には、「もし君が無限者を思惟するならば、……君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、……君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」(『キリスト教の本質』)、キリストにあっての神としての神ではなく、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」でしかないだろう、ハイデッガーから、客観的な正当性と妥当性とをもって、ブルトマンがそうされたように、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と「揶揄」されてしまうだろう。
あの総体的構造に基づいて、「われわれの直観と概念を用いての神認識」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)、「われわれの人間的な言葉でもって神について語る働き」は、起源的な第一の形態の「神の言葉に対する奉仕に……用いられるものとしてある」、換言すればそれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行く「奉仕に……用いられるものとしてある」。この時、その思惟とその語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」から、また「あくまでもわれわれの知覚の表象、思惟の表象、言葉の表象は、神の表象ではなく、また神の表象であることはできないのであるから」、その思惟と語りが「神の表象となる」ということは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」のである。「そのようなわけで、あくまで神が隠れてい給うという事情は変わらない」。このことは、「神を、われわれからしては把握することはできないということを意味している」。言い換えれば、あの総体的構造に基づかなければ、われわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を所有することはできないということを意味している。「神ヲ知ル者タチカラ神ニ何カガ増シ加ワルノデハナク、ムシロ神ヲ知ル者ニ神ヲ知ル知識カラ増シ加ワルノデアル(アウグスティヌス)。それであるから、神についてのわれわれの語りは、知識ノ無分別ナ表白デアルヨリ、無知ノ敬虔ナ告白でなければならない。われわれが既にポラーヌスから聞いたように、ただワレワレニ対シテ示サレテイル限リデノ神ノアル仕方デノ言イ表ワシ方が問題であることができるだけである」。「源泉と規準」は、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)であるが、「この源泉と規準でもって」、「神ガ何デアルカトイウコトハ、神ヲ除イテハ誰モ自分ノ言葉デ説明スルコトハデキナイ」という「外的な限界」が言われている、またイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「定義ハ名ニ従ッテハ与エラレ得ルガ、本質ニ従ッテハ決シテ与エラレ得ナイ」という「すべての人間的な語りの内的な限界」が言われている。「知恵トイウ名ハ、ワタシニハ、万物ガ無カラ造ラレタ方ヲ示メスノニ十分デナイシ、……本質トイウ名モ、唯一ノ至高性ニヨッテ万物ヲ遙カニ越エタ方、本性カラノ特性ニヨッテ全ク万物ノ外ニ立ツ方ヲ表現スルノニ十分デナイ(カンタベリーのアンセルムス)」。
いずれにしても、「神の隠れの危機的行きづまりは不可避的な課題である」から、すなわち「『単純な』思惟と語りに逃れられない課題である」から、われわれは、啓示の「真理についての直観と概念を用いて把握し、(≪啓示の≫)真理の言葉を自分のものとしてゆくためには、ただ聖書的な直観と概念の世界を再発見し、聖書的な言葉を取り上げさえすればよいというわけで決してはない」。言い換えれば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、不可避的な歴史的現存性のただ中に生誕したわれわれは、その歴史的現存性に強いられて生き生活して行かなければならない限り、恣意的独断的に「例示するのではなくて」、その現存する歴史的現在の中において、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「別の言葉で同一のことを言う」という仕方で、それ故にキリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して行くという仕方で、その終末論的限界の下での途上性において、固有な時代性を刻印(深化と豊富化の刻印)していかなければならないのである。何故ならば、そういう仕方でしか、個々の世紀の個々の個体的自己の信仰的成果(深化と豊富化)の世代的総和は、キリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)の連続性に連続させて行くことはできないからである――「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、「ただ聖書的な直観と概念の世界を再発見し、聖書的な言葉を取り上げさえすればよいという聖書主義的な正統主義は誤謬であって、既に教父たちは、すべての人間的な語りのあの内的な限界を考慮に入れなくてもよいというような根本言語」も、また「『単純な』思惟と語りへと逃れればよいというような最も単純なキリスト教的な根本言語もない」ということを認識し自覚していたのである。「すべての証人、また聖書的証人の概念の中には、人間的な言葉を用いて神の言葉を証しし、その限り神の言葉を語る人間であり、したがってその者の人間的な言葉はそれとして、神の隠れそのものによって、ちょうどすべてのほかの人間の言葉と同じように、突き当てられており、したがってまたそれらの人間的な言葉がほかの人間の口を通して繰り返される時でも、神の隠れの危機的行きづまりから逃れられない人間であるということが含まれている」。もしもそうでないならば、「その時、われわれの認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)」は、常に先行する「神の啓示の反映であることをやめ」(あの総体的構造に基づいたそれであることをやめ)、それ故に逆に、「神の啓示が、われわれの認識(≪人間的な余りに人間的な、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」≫)の反映となり始めることになる」――このことは、「われわれが直観と概念を用いて神ヲ把握する働き、われわれの人間的な言語に帰せられるすべての固有な起源的な能力」が、キリストの啓示とは独立した「第二の源泉と規準」となることを意味し、換言すれば具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないで、人間の知力・感性力・悟性力・意志力・想像力、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、思想傾向、主義、法的政策的な言語(国家の言語)、特定の人種や民族等を「第二の源泉と規準」として、それ故にそのような「わがまま勝手な絶えざる発展」は、「最後」的には、人間的なそれら自身が、「本来的な、唯一の源泉として現われてくることになる」のである。「その時には、(≪「たとえ……イエス・キリストにあっての神の啓示の忠告に少なくとも恭順な態度で注意深く耳を傾けることをなおざりにはしないにしても、結局は」≫)哲学あるいは世界観が、あるいは神話が、決定的に、実際的にわれわれの神認識の内容を決定することになる」のである。したがって、その時には、まさに「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神(≪神としての神ではない、「存在者レベルでの神」≫)から発生した」ものとなり、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものとなるのである。