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24の4.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

24の4.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「二 神の存在を問う問い」
 われわれは、「神が存在するということは、神の本質から開示されることはできないということ……を見た」。何故ならば、「神は何であり給うかという問いに対するすべての答えに相対して、神は存在し給うかという問いは、特別な(信仰の確信にとっては解決されたとはいえ)未解決な問いである」からである。したがって、アンセルムスは、「特別な考えと証明を問う問い」において、「神の本質を問う問い」ではなくて、先ず以て「神の存在を問う問い」(神の存在の問題、神の存在証明の問題)に向かったのである。何故ならば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)の中でのイエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのために神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「ナザレのイエスという人間の歴史的形態(「イエス・キリストの名」)において、その「三位相互内在性」における内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示であるからである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、「神の存在証明に際して前提された神概念(≪「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ」≫)は、神の本質についての偽装された教えであるということはできない」。ここで、「神に帰せられた存在ということでもって、……何が言おうとされなければならないかが探究されなければならない」。「存在(Existenz)ということは、一般的に、対象の……それが存在するとして考えられるということを度外視しての存在(Dasein)ということを意味している」。「対象およびそれが考えられていることの(≪客観的に存在している≫)真理が、その対象が、現実存在しているということを条件づけている」。「まさに、(≪客観的に存在している≫)真理が、その対象の存在その対象の存在がまことに考えられているということを条件づけている」。主観的な思惟の「対象が、先ず第一に(≪客観的に存在している≫)真理の中にあるが故に、(≪客観的に存在している≫)真理の中にある限り、それはそこにあり、また存在するとしてまことに考えられる」。

 

 このことは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的「存在的な必然性」)を起源・根源とするところの、主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯して、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるしである」ということである(『教会教義学 神の言葉』)、それ故に説教は、説教者の主観的な恣意的独断的な「自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、聖書への絶対的信頼に基づく、聖書講解であることの義務を負っている」のである(『説教の本質と実際』)。したがって、思惟の「対象そのものの中で、またそれそのものを通してではなく」、「あの第三の包括的な円(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、神の恵みの出来事を人間的主観に実現させるところの、主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」の前提条件である主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」としての第三の包括的な円≫)の中で、(≪一般的真理ではなく、キリストにおける啓示の≫)真理そのものの中で、(≪啓示の≫)真理そのものを通して、対象の存在について、その対象の存在が考えられていることの真理について、決断(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」の中での神のその都度の自由な恵みの決断≫)が下される」。「この決断する(≪キリストにおける啓示の≫)真理が神である」。「そして、その神の存在について語られるべきである」。すなわち、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるキリストの啓示の真理の中で明らかにされたところの、父、子、聖霊なる神の自由な愛の行為の出来事全体としての神の存在について語られるべきである。「確かに、またここでも、まことに神の存在」が、「神が考えられているということを度外視して、神の存在(Dasein)が問題である」。「神は(≪一般的な真理ではなく、キリストにおける啓示の≫)真理であり給うが故に、明らかに傑出した意味での存在(Existenz)が問題であり、あの第二の中間的な円(≪主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」としての第二の中間的な円≫)の中での対象の真理を通して条件づけられた存在スルコト(existere)が問題ではなく」、「すべてのそのほかの存在スルコト(existere)を条件づけ基礎づける、いや造り出す(≪キリストにおける啓示の≫)真理そのものの存在スルコト(existere)」が、「すべての相対して立つ対象性の、すべてのまことの外にあることと、まさにそれと共に、すべてのまことの内にあることの徹底的な起源」が「問題である」。

 

 キリストにあっての神は、「存在する時には」、「本来的に先ず第一に、ただそのものだけが存在する者としての神にふさわしい独一無比な仕方(≪自己自身である神として自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な仕方≫)で存在し給う」――「コノ霊ハアル驚嘆スベキ独特ナ仕方、マタソレ独自ナ驚嘆スベキ仕方デ存在イシテオリ、アル意味デハソレノミガ存在シテオリ、他ノモノハイカニモ存在シテイルカノヨウニ思エテモ、ソレト比較スル時、ソレラハ存在シテイナイ」、「ソコデ、アナタノミガスベテノモノノウチデ最モ真実ニ、ソレ故スベテノモノノウチデ最大ニ存在ヲ持ッテオラレマス。ケダシ、ホカノモノハ何デモソノヨウニマコトニ存在セズ、ソレ故ヨリ少ナク存在ヲ持ツカラデス」、「アナタハスベテノモノノウチデ至高デ、タダヒトリ己レヲ通シテ存在スル……方ノホカノ何デショウカ」、「ソレ故ニ、タダソノモノダケガ真実ニ存在スルトイウホドニ卓越シ、独自デ、ソノモノト比ベテハ、スベテノ存在ガ無デアルヨウナ、アノ方……」、「アナタハマコトニ真実ニ存在シテオラレマス。ソシテ、アナタナイシデハ、他ノ何カガ存在スルトイウコトハアリマセン」。「神の外にあるもの、それは、その存在を、神の恵みを通して持っており」、自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」のその「失われない差異性」の中での起源的な第一の存在の仕方(働き・業・行為、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストの父なる「神を通して無から造り出されたのであり」、「またその創造の後においても、ただ神の同じ恵み深い創造的な行為を通してだけ」、換言すればその第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である起源的な第一の形態の神の言葉であり・「啓示ないし和解の実在」そのものである子としてのイエス・キリスト自身を通してだけ、「無の中への堕落から守られている」――「ソモソモ、全被造物ハ無償デ創ラレタカラ、恩寵ニヨッテ存在シテイル」、「アノ最高ノ本質ガ自分ダケデ、コレホド……諸物ノ全体ヲ自己自体ヲ通シテ無カラ創ッタ」、「神ガ創造(≪あの起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父の働き・業・行為、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての創造≫)シナケレバ、ドノヨウナ本質モ存在シナイノミデナク、神ガ(≪あの第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身の働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、和解において≫)保持シナケレバ、創造サレタモノハ少シデモ存続デキナイノデアル」、「何モノモ創造的、現存的本質(≪あの起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父の働き・業・行為、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、創造≫)ヲ通シテノミ創ラレ、同ジクコノ本質ノ保存的現存(≪あの第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身の働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、和解≫)ヲ通シテシカ何モノモ存続シナイコトハ必然的ナコトデアル」、「ホカノモノハスベテ最高ノ本質の現存ニヨッテ」、換言すれば「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、神的愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体によって、「無ニ陥ラナイヨウニ支エラレテイル」。

 

 そのような訳で、「神の意志と行為を度外視しては、神でないすべてのものは存在しないであろう」。神の意志と行為による「それらすべてのものの存在」は、「神的な思惟の意図の中に閉じ込められてしまっているであろう」――神でないそれらすべてのものの存在は、「……(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする≫)創ッタ者ノ理性トノ関係ニオイテハ、ソレヲ通シ、ソレニ従ッテ創ラレタノダカラ、(スナワチ、創造以前ニモ)無デハナカッタ」。神でないそれらすべてのものの存在――「それらすべて」は、「それ自身においては、自分自身からしては、存在の可能性すら持っていない」。すなわち、「それらすべて」は、「その存在の可能性」を、「神からして」、「ただ神からしてだけ持つ」、換言すれば自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち父、子、聖霊なる神の自由な愛の行為の出来事全体としての神の存在からしてだけ持つ――「ダカラ、存在スル前ハ(スナワチ、世界ハ)全ク何モ出来ナカッタ。……一方、世界ヲ創ル力ヲ持ッテイタ神ニトッテハ可能デアッタ。コウシテ、世界ガ出来ル前ニ」、自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における起源的な第一の存在の仕方、すなわち父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事であり、啓示者であり、言葉の語り手であり、創造者である「神ガ世界ヲ創ルコトガ出来タカラ世界ハ存在スルノデ」、「世界自身ガソレ以前ニ存在シ得タカラデハナイ」。また、「それらすべて」は、「存在を、神の言葉を通して持つ」、換言すれば「それらすべて」は、「存在」を、自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉であり、啓示そのものであり、語り手の言葉であり、和解者であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を通して持つ――「最高ノ実体ハ、マズ自分ノウチデ全被造物ヲイワバ言イ表ワシ、ソノ上デ前述ノ内的表現ニ従イマタソレヲ通シテ創造スルコトハ確実デアル」。「それらすべて」は、「ただ神の言葉の中でだけ存在を持つのであって、それ以外の仕方では、存在を持っていない」。「それらすべて」は、「それが……神の言葉の中で、神の言葉を通して存在することによって存在するのであり、あのところであるところのものである」――自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方としての「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身としての「言葉ノウチニ、存在ノ真実ガ認メラレル」、「最高ノ霊ソノモノガ自己自体ヲ表現スル時、創ラレタモノスベテヲ、ソレハ表現シテイル。何故ナラ、ソレラガ、創ラレル前モ、スデニ創ラレテシマッテイル時モ、マタ破毀サレアルイハ何ラカノ形デ変形シタ時モ、常ニソレラハ、最高ノ霊ノウチニ存在シテイル。タダシ、ソレラ自身トシテデハナク、最高ノ霊自体デアルトコロノモノトシテデアアル。ソモソモ、ソレラ自体トシテハ、不変ノ理性ニ従ッテ創ラレタ可変的本質デアルガ、最高の霊ノウチニオイテハ、本質(das Wesen)ソノモノデ、マタ第一ノ存在ノ真理デアル」――何故ならば、それは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)であるからである。このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力を、換言すれば神的愛に基づく父と子の交わりとしての「父ト子ヨリ出ズル御霊」であり、それ故にその「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの「行為」であり、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)という総体的構造に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を持っている。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれには、客観的な「存在的な必然性」に包括された主観的な「認識的な必然性」とその両者を前提条件とする客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」を必要とする。何故ならば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、「神に敵対し神に服従しない」し、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」からである、それ故に徹頭徹尾神の側の真実としてあるキリストにおける啓示(啓示の真理)を、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』全く信じることができない」からである。「君ハイツカ、アルイハドコカニ、最高真理ノウチニ存在シナイモノ、マタ存在スルカギリソノ存在ヲ最高真理カラ受ケテイナイヨウナモノ、アルイハ最高真理ノウチニオケルソレトハ違ウモノデアルコトガ可能デアルヨウナモノガ存在スルト考エルカネ。……存在スルモノハスベテ、ソレガ最高真理ノウチニオイテ存ルトコロノモノト変ワラナイカラ、真ニ存在スルト絶対的ニ結論スルコトガ出来マス」。「まさにそれだからこそ、それらすべて」は、「結局世間で行われる普通の道を通って存在するとして知られることができるのであるが」、「しかし、存在するとして証明されることはできない」――「事実、何カガ存在スルコトヲ知ッテイナガラ、存在シナイト考エルコトハ出来ル」。アンセルムスは、「そのような仕方で……語っており」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたアンセルムスが「証明しようとしている神の存在」は、換言すれば「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の愛の行為の出来事全体としての「神の存在」は、「すべてのほかの存在(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」としての存在≫)と区別される」。

 

 『モノロギオン』は、「ただこの脈絡の中でだけ理解し得る言葉(≪「ソレユエ、コノ霊ハ真ニ神デアルダケデナク、表現ヲ超エテ三位デ一ツデアル唯一ノ神デアル」≫)でもって、終わっていた」――「この独一無比なるものの独一無比なる、また独一無比な仕方で証明し得る存在を証明すること」が、アンセルムスの「関心事」、「切迫性」である。言い換えれば、神の側の真実としてある、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造を明確に提起することが、アンセルムスにとっての関心事であり、切迫性である。この意味でアンセルムスは、中世において、近代以降におけるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーによる客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判を包括し止揚し得る水準を獲得し得ていると言うことができる。したがって、「神の真理を認識するためには、神は、すべてのそのほかの事物が存在するような仕方で存在し給うという認識が欠くことができないものであるという理由で、この存在の証明が要求されているのではない」。「もちろん、神は、またこの仕方で存在し給う」が、「しかし、神は、ただ単に、そして主なこととして、この仕方で存在されるのではない」。前述したような仕方で存在し給う。

 

 アウグスティヌスは、「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」を通して(「信仰の類比」・「関係の類比」を通してではなく、「存在の類比」を通して)、すなわち「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りを行うのであるが、それに対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」、それは、ただ単なる人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能によって対象化され客体化された「人間自身の内在的に理解された宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論でしかない」、それ故にそのような三位一体論は、「人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話である」と根本的包括的な原理的な批判を行っている(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、バルトは、『カント』では、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」と述べている。また、アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであった。しかし、アウグスティヌスとは違って、アンセルムスは、第一に、「存在的なラチオ性」としての第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに「教えられつつ語るのであって、われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」、それ故にアンセルムスは、第二に、客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」は、「啓示、恵み、信仰(≪主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」≫)を前提条件としていた」。「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスは、そのような仕方で、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」のである。

 

 「神の存在は、ただ単に独一無比な存在であるだけでなく、本来的に、第一に、唯一の、すべてのそのほかの存在を徹頭徹尾基礎づけている存在であり、まさにそれだからこそ、またただそれだけが、厳密な意味で証明し得る存在である」。神は、「また、すべてのそのほかの事物が存在するような仕方で存在するとしても、同時に神は先ず第一に、本来的に、ただ神にのみ固有な仕方で存在し給う」、ちょうど「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方――すなわち起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「啓示ないし和解の実在」そのものであるまことの神にしてまこととの人間イエス・キリスト(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」)において自己啓示されたように、またその神は、キリストの啓示において明らかにされているように、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体として存在しているように、またその神は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)の中において存在し、それからその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会のCredoとしての<客観的>な信仰告白および教義の中において存在しているように。「神の存在が思惟することに対して、神への信仰を通して課題として課せられているということを前提するならば、神の存在はどうしても認識され証明されなければならない」。すなわち、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、あの他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求め続けなければならない、そういう仕方で神の存在はどうしても認識され証明されなければならない。「それは、(≪存在の類比に依拠したガウニロとは違って、≫)すべてのそのほかの存在の認識が、この存在の認識と共に立ちもすれば倒れもするという理由からだけでなく」、「ただここでだけ、……存在そのものの問いが立てられているという理由からしてである」。その時、例えばバルトに出来事として起こったように、最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されていない」という認識の転換が起こるのである(『証人としてのキリスト者』)。また例えばアウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造することによって時間を持つ」のであるが、彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」、「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」であり、それは、「実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」(「まことの現在」)、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」であるという認識の転換が起こるのである、それ故にその時には、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」(「まことの現在」)の前の時間・世界は、すなわちキリストの十字架の死以前の時間・世界は「まことの過去」であり、キリスト復活から終末(復活されたキリストの再臨、「完成」)までの聖霊の時代における時間・世界は「まことの未来」であるという認識の転換が起こるのである。また例えばあの総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、われわれの「神に対する人間的反抗」、「罪深い堕落した人間」、そのような人間の世界を、そのような人間の歴史をそのあるがままに認識することができるという認識の転換が起こるのである。総括的に言えば、われわれ人間の、その個と現存性――類と歴史性との生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけであるという認識の転換が起こるのである。したがって、その時には、イエス・キリストにおける啓示の場所は、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるという認識の転換が起こるのである。「この存在を問う問い」は、「真理問題が立てられなければならないことが確かである限り、……立てられなければならない」。「したがって、『プロスロギオン』二章の表題、神ガマコトニ存在スルコト、の第二の可能な意味」は、「それ自身がすべての存在することの根拠である限り、(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」としての存在者ではなくて、≫)独一無比な真理の中で存在するところの存在者が問われなければならないということである」。すなわち、神の側の真実としてある、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という総体的構造が明確に提起されなければならない。

 

 そのような訳で、バルトについて言えば、自由な学問・研究の場である大学の人文科学系の一部門に過ぎない「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)における知識の自然過程に終始する単なる学業的知識としての神学(総括的に言えば、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す神学)ではなくて、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源・根源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯したバルトは、またフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判を認識し自覚したバルトは、ただ単なる知識としての学業的な知的関心からではなく、アンセルムスと同じように、その問いに強いられて不可避的に、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』に引き続いて『教会教義学 神の言葉』を著わさざるを得なかったのである。