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13の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」

13の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(327-340頁)
再推敲・再整理版です。

 

「一 神の隠れ」
 バルトは、次のような定式化を行っている。
 神はただ神を通してだけ認識され給う。そのようなわけで、われわれは、神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる直感および概念の力によって認識するのではない。しかしわれわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような試みをすることなしに、認識するのではない。この試みが首尾よく成功するということは、したがってわれわれが為す人間的な神認識の真実性は、直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営みが神ご自身を通し、恵みの中で、神の真理へと参与させられ、取り上げられ、定められたということから成り立っている(327頁)。

 

 このことは、次のように言うことができる。
「神はただ神を通してだけ認識され給う」。何故ならば、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」としての神ではなく、イエス・キリストにおいて自己啓示された神としての神は、自己自身である神として自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」・「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」だからである。したがって、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、それ自身としては、神の不把握性の下に存在させられている、終末論的限界の下に存在させられている(Ⅰコリント13・8以下)。「そのようなわけで、われわれは、神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる(≪生来的な自然的な人間の≫)直感および概念の力によって認識するのではない」(下記の【注】を参照)。「しかし、われわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような試みをすることなしに、認識するのではない」。その「試みが首尾よく成功するということ」は、それ故に「われわれがなす人間的な神認識の真実性は、直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営みが神ご自身を通し、恵みの中で、神の真理へと参与させられ、取り上げられ、定められたということから成り立っている」。そのことは、先ず以て、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方」(働き・業・行為――子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ということから成り立っている。すなわち、そのことは、イエス・キリストにおける啓示が、その「啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力を、その「存在的な必然性」の中での主観的側面としての「認識的な必然性」(神のその都度の自由な恵みの決断による、客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を包括した「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という総体的構造を持っているということから成り立っている。したがって、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼して」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに対する不可避的な他律的服従とそうした決断と態度という自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」として「隣人愛」(通俗的な意味での隣人愛ではなく、「律法の成就」・完了そのものとしてのイエス・キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ、教会」を目指して行かなければならないのである。しかし、その教会の宣教の思惟と語りが、その一つの機能としての神学の思惟と語りが、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯した「キリスト教的な思惟と語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間(≪教会指導層、聖職者・牧師・神学者たち≫)の決定事項ではないのである」、それ故に教会の宣教の思惟と語りは、その一つの補助的機能としての神学の思惟と語りは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」のである。

 

【注】
 生来的な自然的な人間は、対象的意識の段階において、意識された現実(現実の意識、抽象性と具象性の総体)として、ある対象を知覚作用により対象化するのであるが、その人間は、その<内在化>された対象(対象了解された対象、意識された現実)を空間化するという感情作用(内観作用)を持つだけでなく(それ故に、「感情作用は、<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりのないものである」)、自己意識の段階において、その<内在化>された対象(対象了解された対象、意識された現実)を時間化(抽象)する、概念的対象として対象化する、さらにそれを繰り返す……という概念化(概念構成)作用も持っている。釈迢空(折口信夫)は「葛の花/踏みしだかれて、/色あたらし。/この山道を/行きし人あり」を「自歌自註」して、「もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訣ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するような表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱うべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌った」と述べている。「歌」は上の句から下の句の方へと意味が流れ下ると言われているのであるが、折口の情緒性にとっては、「紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処」に、「色あたらし。」と「切れ目」を入れざるを得ないほどの「新しい感覚」を体験したのである。このことは、内在化された対象を時間化(抽象)するという概念化(概念構成)へと向かわず、内在化された対象を空間化するという感情作用(内観作用)で終わらせたということであろう。この釈迢空の詩歌の在り方に対して、西欧近代を人類史の頂点として自由の精神を原理としたヘーゲルの芸術美は、次のようなものである――「芸術美は精神からうまれ、くりかえし精神からうまれる美であって、精神とその産物が自然とその現象よりすぐれているのに見合って、芸術美も自然の美(≪世界史的段階で言えば、農耕を経済的基盤とし自然を原理としたアジア的段階におけるそれ≫)よりすぐれているのです。……精神こそが一切をそのうちにふくむ真の存在であって、すべての美は、すぐれた精神とかかわり、すぐれた精神のうみだしたものであることによって、はじめて本当に美しいといえるのです」(ヘーゲル『美学講義 上巻』長谷川宏訳、作品社)。 
 さらに、吉本隆明に依拠して言えば、個体の意識構造(内部構造)は、自己身体がここ(空間)にあるという意識、自己を自己として関係づける意識、自己の自然的な生理的身体を内在的に関係づける意識、空間的な自己意識としての「自己関係づけ」と、自分の身体が現(時間)にあるという意識、自己を自己として抽象する意識、自己の自然的な生理的身体を内在的に抽象化する意識、時間的な意識としての「自己抽象づけ」との構造としてある。したがって、知覚や感覚に依拠した自己了解や自然了解、「自己対象了解」や「自然対象了解」を「人間の存在本質の根本におくことはできない」のであって、「人間の存在本質の根本」は、「自己関係づけ」と「自己抽象づけ」の構造において、換言すれば個体の意識構造(内部構造)において、「個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて対象的に関係づけられる」という点にあるのである。すなわち、「人間の存在本質の根本」は、「自己関係づけ」と「自己抽象づけ」の構造において、換言すれば個体の意識構造(内部構造)において、対象を(自然としての、生理的な自己身体、性としての他者身体、人間化された自然を含めた宇宙・天然自然としての外界を)対象的に関係づけることができるという点にある。この人間個体は、様々な観念的諸生産物を創出する。ところで、自己関係づけの度合いは、知覚の拡がりや延長という自己関係づけの度合いである「空間化度」によってはかられ、自己抽象づけの度合いは、「了解性」によってはかられ、「了解性」は「時間性」によってはかられる。したがって、「認識の了解性の度合い」(抽象の度合い・抽象度)の差異は、時間化度の差異による。また、「了解性」が時間性である根拠は、「人間はさまざまな体験や感覚のみがき方」をし、そうした時間累積の果てに「現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」という点にある。すなわち、その原始・未開から現代までの歴史的な時間累積(歴史性)にある。したがって、古代人と現代人において、感官に映る対象は同じであっても認識の度合に差異が生じるのは、時間化の度合の差異、歴史的な時間累積の度合の差異、すなわち了解性の度合の差異によるのである。したがってまた、古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識し、現代人はその岩石を単なる自然物であると認識する場合のその差異性の根拠は、古代から現代までの歴史的な時間累積(歴史性)の度合の差異、了解化の度合の差異、時間化の度合の差異にある。このように、「人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には空間および時間に分割されるほかはない」のである。

 

 さて、「どの程度まで神は認識されるのか」、「どの程度まで神は認識可能であるのか」――この問いに対する「原則的な答え」は、前述したように、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」という点にある。まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「神の啓示こそが、神の認識可能性である」という点にある。このことからして、われわれは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの客観的な「存在的な必然性」とその「存在的な必然性」の中での主観的側面としての「認識的な必然性」(啓示と信仰の出来事)を前提条件とする「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に「感謝し、また感謝し続ける」のである。したがって、「この原則的な答えの地盤の上で、また枠の中で、われわれは今、実際的な答えを与えなければならない」。「われわれは、そのことを、神認識の限界(≪「境界」≫)を明確にしてゆくことによって、なす」ことになる。「限界づけられた神認識」、信仰の認識としての「神認識の道」、啓示認識・啓示信仰の道は、「まさに神認識に基づき神認識を生み出す限り提示されたキリスト教の教説自身である」、まさに神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」とその「存在的な必然性」の中での主観的側面としての「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づくそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯して行く道にある。何故ならば、その時、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」と言うことができるし、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるしである」と言うことができるからである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 「神の隠れ」における「神認識の限界は、神認識の出発点、始まる点である」。カルヴァンが「その教理問答のはじめのところで、人生ノ主ナ目的は、人間ノ生ノ源デアル神ヲ知ルコトであると言っている時」、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯した純粋な教えとしての「人間ノ生ノ源デアル」キリストにあっての神を知ることであると言っている時、「そのことは誇張を意味していないし、また主知主義的な視野の狭さを意味していない」。何故ならば、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」とその「存在的な必然性」に包括された主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての「神認識(≪啓示認識・啓示信仰、人間的主観に与えられた神の恵みの出来事≫)なしには、いかなる教説もない」からである、「換言すれば、(≪第二の形態の神の言葉である≫)聖書の中に証しされた(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)啓示と和解(≪イエス・キリスト自身≫)のいかなる宣べ伝えもない」からである、その「教説なしにはいかなる(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした≫)教会もないし、神の子供たちの生もないし、人間によって神に栄誉が帰せられることもないし、人間にとっていかなる救いもない」からである。「教会とその信仰告白(≪教会の宣教とその<客観的>な信仰告白および教義≫)の根拠」であり、「教会の中での教会を通した神との交わりの根拠」であり、そのような仕方での「自分自身の救いと神の栄誉のために召されたすべての者の信仰の根拠」は、教会に宣教を義務づけ、また教会の宣教(その一つの補助的機能としての神学)の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書である。「客観的および主観的に神ご自身を通して基礎づけられた……神認識」――すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての「神認識」(啓示認識・啓示信仰)は、神的愛に基づく父と子の「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの働き・業・行為としての「聖霊を通しての父と子である神の認識」は、「われわれの身に起こる神の愛とわれわれから期待されている神の讃美の……唯一の基礎」である。したがって、三位一体の教説は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である(もしも「教会の宣教の批判と訂正が、常に、この三位一体論に即して行われないならば、その教会の宣教は、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論に埋没して行く以外にないであろう)。言い換えれば、「われわれに対して働きかけ給う神の行動全体の中に含まれている神の意図」は、換言すれば「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子――啓示・語り手の言葉・和解者、聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体の中に含まれている「神の意図」は、「また……それと並んでわれわれはそのほかの定めを全く持っていないわれわれの定め」は、「事実、われわれが(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて≫)神を認識するということである」。

 

 そのような訳で、主要な問題は、「われわれがそのことを強く強調すればするほど、……(≪キリストにあっての神としての≫)神は、神を通して認識されるということがわれわれにとって明瞭でなければならない」という点にあるのである。したがって、主要な問題は、「人間的な力の中で遂行される何らかの企て」、「また、何らかの人間的な」、それ故に「相対的な……結局は(≪聖書から≫)……攻撃され得る……企てが問題ではない」が故に、「われわれは、先行する節で、繰り返し……相対的な確実性ではなく」、神の側の真実としてある「絶対的な、完全な、議論の余地のない確実性、神ご自身の確実性を持つ認識が問題であるということを確かめた」のである、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」という点にあることを、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」という点にあることを、あの総体的構造という点にあることを確かめたのである。このような訳で、信仰の認識としての「神認識の出発点」は、「神ご自身を通して神ご自身と関わらなければならないという」点に、今まで述べてきたように神の側の真実としてあるあの「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」しなければならないという点に、「そのようにしてそれは現実の神認識であるという」点にあるのである。「それであるからJ・ゲルハルトは、ミ言葉ニ従ッテ、願イ求メラレタ神認識を、……完全な認識であると述べ、その完全サを、それが救イニトッテ十分であることの中でみてとっている。事実、それがわれわれの救いにとって十分であるということ」が、すなわち「われわれが実際に……神ご自身と関わりを持つようになる出来事から成り立って」いることが、「この認識の力である」。何故ならば、「われわれの救いを造り出すところのもの、教会と神の子供たちの生を基礎づけるところのもの」――それは、「神ご自身以下のものではないし、神ご自身以外のものではないからである」、「ただ単に神についての言葉ではなく」、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて「(神ご自身が語り給う、またただ神ご自身だけが語り給うことができる)真理の言葉としての和解の言葉が公に聞かれるようになること」だからである。このような信仰の認識としての「神認識の中で神ご自身と関わる神認識の完全性」は、「現実の、換言すれば真実な神認識である」。このように、信仰の認識としての「神認識(≪啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)においては、神的な確実さの中で、神ご自身を通して神ご自身と関わらなければならないということ」が、「この出来事の出発点として……正確に……精密に規定されなければならない」のである。この出来事の主体は、「父なる神と子なる神の愛の霊」、「聖霊を通して父なる神および子なる神である」から、すなわち聖霊は神的愛に基づく父と子の「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの働き・業・行為であるから、われわれは、あの総体的構造における「聖霊の注ぎ」に基づいて与えられる信仰の認識としての「神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)について語っている」のである。

 

 そのような訳で、われわれ人間は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「後に従う」「副次的な……主体として(≪不可避的な他律的服従とそうした決断と態度という自律的服従との全体性において、あのイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の連続性に連帯する主体として≫)、共に取り上げられている」のである。このように、われわれは、「高所での……出来事の啓示」と共にその「出来事にあずかるわれわれの参与」、その「啓示に基づく(≪あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)」「人間的な神認識(≪人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰≫)について語っている」。したがって、「われわれは、ただ単に高所において、神的な三位一体の秘義の中で、演じられている出来事についてだけ語っているのではない」、換言すればわれわれは、人間的な言語を介在させた「人間的な認識の性質と手法」を「除去」しない、「破壊」しない、「変更」しないのである。何故ならば、「そもそも人間的な認識は直感と概念を用いて遂行される」からである。したがって、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「明らかに神をそれ以前に、直観と概念を用いて把握することが」できる、「換言すれば、知覚し思惟することができる」、「神について、人間的な言葉を用いて語ることができる」、それ故に生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「存在者レベルでの神」を、「偶像」を「造り出すことができる」、「受け取ることができる」。したがってまた、同じ人間であるフォイエルバッハやハイデッガー等は、客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的な原理的なキリスト教批判をなすことができる――「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻 宗教の本質にかんする講演 下』)。「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯した「本文……との対話」を「思惟の型」としたバルトとは違って、その連続性に連帯した「本文……との対話」以前に、「ある特定の人間学」(「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」としての前期ハイデッガーの哲学原理)」、すなわちまさに人間学におけるある「一つの思惟の型を前提した」(「第一次化」した、先行させた)ブルトマンにおける「『いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)。したがって、このことが、「われわれ」の「吟味しなければならない」ことである。

 

 聖書的啓示証言によれば、キリストにあっての神としての神は、聖性・秘義性・隠蔽性・「隠れ」において存在している限り、それ故にその「神はただ神を通してだけ認識され得るのであれば」、「われわれは、……昔の教会と神学全体の洞察」について、「それとしての人間的な認識能力そのもの」について、「われわれの直観と概念でもって把握する」「固有な可能性について、語ることはできない」のである。信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の出来事は、「神の隠れ……の中で、神がご自身からしてご自分とわれわれ人間との間の交わりを設定し、造り出して下さらない限り……起こることではなく」、それ故にそのことは、われわれ人間の側から「われわれの能力を実行に移すだけで起こることではなく」、「あくまでも神のみ心に適う適意の奇跡(≪神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいて起こる奇跡≫)なのである」。すなわち、聖性・秘義性・隠蔽性・「隠れ」において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における三位一体の「神は、われわれにとって遠く、見知らぬものであり給う……」のである(イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、その「三位相互内在性」における内在的な本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示である)。このような訳で、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「われわれの直観と概念を用いて把握する働きをもってしては」、キリストにあっての神としての「神を把握することはできない」のである。したがって、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、その人間の直観と概念を用いて把握する働きによって「把握するところのもの」――それは、その人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」、偶像に過ぎないものであり、それ故にキリストにあっての神としての「神ではなく」、キリストにあっての神としての「神とは違う実在」なのである。このことは、「ただ単に、われわれがはじめから神の啓示と関わりを持たない時に」、「われわれの企てが神の啓示を信じる信仰と無縁な恣意的な企てである時に」、「あてはまるだけではない」。「まさにわれわれが神の啓示と関わらなければならない時にこそ」、それ故に「信仰の中で神の啓示に応答しつつある……まさにそのような時にこそ」、われわれは、「自分自身から神との交わりを持ち」、「神を直観と概念を用いて把握し」、「神認識を遂行してゆく能力を持ってはいない」ということを認識・自覚させられ、「まさにその時にこそ、……神認識は確かにわれわれの業ではない」にしても、「それだからといって、われわれの業を通して行われ、われわれの業の実として行われるのではないということが明らかになってくる」のである。「まさにその時にこそ、……神はただ神を通してだけ認識されるし、ただ神を通してだけ認識されることができるという(≪啓示の≫)真理が(≪あの総体的構造において≫)有無を言わさず命令的に、決定的に、われわれの前に輝き出る」のである、それ故に「まさに(≪あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰の中でこそ、われわれは神を絶対的な依存の中で、純粋な、後の続く随従と感謝の中で認識する」のである、その時にこそ「われわれの神認識」を「全く真剣な意味で、神の隠れについての認識でもって始める」のである。したがって、われわれは、「われわれの直観と概念を用いて神の啓示に応答してゆこうとするわれわれの試み」を、「ただ不十分な手段を用いてする試みとして、ただ無益な僕のする業として判定」し、それ故に「この試みの成功を、……われわれの神認識の真実性を、いかなる場合にもわれわれ自身に、……われわれの直観と概念を用いて把握する能力に帰することをしない」のである。何故ならば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しない私たち人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉』)からである、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした身体的修行等≫)によっては』全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)からである。

 

 さて、「神の隠れについての命題」は、「一般的な人間的認識についての理論の脈絡の中に立ってはいない」ということに、すなわち「そのような一般的な認識論の対立する命題に照らしても、また見かけ上同じ方向をとって述べているように見える命題に照らしても、測られてはならないということ」に、「人は……注意せよ」。先行する神の用意に包摂された人間の用意ができているところのイエス・キリストの啓示についての信仰の認識としての神認識における啓示神学も理性的な知的営為ではあるが、その啓示神学は、「哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、哲学的試みが終わるところから始まる」ものであるから、それ故に「方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ものであるから(『バルトとの対話』)、すなわちイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づくものであるから、われわれは、そのような人間的認識としての信仰の認識としての神認識に取り組んでいるのであって、一般的な人間的認識としての「ただ単なる知識」としての「神認識と取り組んでいるのではない」。すなわち、われわれは、イエス・キリストにおける「啓示の中での基礎づけを通して区別された神認識と取り組んでいる」のである。したがって、客観的なイエス・キリストにおける神の自己「啓示」が、その「啓示の中で認識される神とは異なるほかのいかなる神をも考慮に入れないようにわれわれを強いる限り」、「神の隠れについての神学的命題」は、「最高存在についてすべての知覚と理解の働きでもってとらえることができない」し、「すべての経験と思惟のすべての範疇を超えた」、「『純粋な』非対象的な」「理性理念として理解されなければならないと主張するプラトン的命題、あるいはカント的命題」は、「邪道」であり、それ故にそのような命題は、「人を邪道に導くもの」でしかないものであると規定するのである。すなわち、「理性理念」を、キリストにあっての神と「同一」ではないものとして規定するのである。イエス・キリストにおける「啓示の中で人間に出会い給う神」、キリストにあっての神としての「神は、決して非対象的なものではない」。このイエス・キリストにおいて自己啓示された、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、客観的な対象として存在している(イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方――すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、その「三位相互内在性」における内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示である)。「それどころか(≪その第二の存在の仕方は、≫)すべての対象性の総内容である」。この「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である子(イエス・キリスト)の中で「創造主として、われわれの父として自己啓示」したのであるから、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。

 

 「この神が、人間に対し隠れた方として出会い給う時、この神の隠れ」は、「ただ単に人間的な知覚し理解する働き」・「行為」と、「その志向する行為」・「働き」に「妥当する」、それ故に「それは、われわれ自身に対して妥当する」。したがって、「神の隠れ」は、「人間的な自己認識の最後の言葉の内容」ではなくて、「一般的な認識論の命題へと変えることができない神ご自身によって措定された神認識の最初の言葉」なのである。したがってまた、われわれが、「神は隠れてい給うと言う時、われわれについて語っておらず、ただ神の啓示によって教えられ、(≪「隠サレタ」≫)神について語っている」のである。イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。「神の隠れは信仰命題である」。何故ならば、「信仰の中でこそ」、「神認識を遂行しつつ」、すなわち「実際に直観と概念を用いて神を把握しつつ」、「われわれは、神を認識し、直観と概念を用いて神を把握すること」を、人間的認識の業(行為)や人間的認識能力に基づく業(行為)としてではなく、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づく「ただ神的な適意の奇跡の業として理解することができる」からである。したがって、われわれは、われわれがそのような「信仰の中でだけ」、すなわち「ただ(神の啓示の中に基礎づけられているが故に)現実の神認識の中でだけ」、「神を認識することによって」、「われわれは神の隠れ(≪聖性・秘義性・隠蔽性、それ故に神の不把握、それ故に人間の神認識における終末論的限界≫)を認識する」。このような訳で、「神認識の出発点」は、「われわれの知覚と推論的な思惟が不可能である」という人間的認識、人間的認識能力の「洞察の目標点と同一ではない」。「神の隠れは(≪神としての≫)神の隠れである」。それは、「まさに神認識がそれとして形をとってはじまるところの神の性質である」。「神の隠れについての命題をわれわれの口にのぼらせるもの」は、「空間と時間についてのあるいはわれわれの思惟の範疇についての反省」ではなくて、「全くただ神の存在と行為(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)についての(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書的な証言と(≪その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である≫)教会的な(≪<客観的な教義および>≫)信仰告白の偉大な肯定である」。「われわれは、この命題でもって……神を認識することによって、……われわれはそのような能力」を、「われわれの認識の働き」、「われわれ」の認識能力に帰することができないということを、換言すれば「そのような能力をただ神にのみ帰することができるということを告白するのである」。「われわれをこのように告白するよう促し、強いるであろうものは、ただ神のみであり、しかも神の啓示と啓示を信じる信仰である」。このような訳で、人間の側からする「われわれの認識の働き」・「われわれ」の認識能力の「限界づけ」における「真剣さ」の欠如性は、イエス・キリストにおける「神の啓示に相対して」、「結局は(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に停滞することにおいて≫)自分自身に神を認識してゆく能力を帰して行こうとする」ことの中で、「あたかもそれがわれわれにとって自由に処理することができる相手であるかのように関わろうとすることの……中で、暴露される」のである。

 

 「神の行為」(自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父、第二の存在の仕方である子、神的愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)について、「詩篇一三九・六で……『あまりに不思議で、わたしには思いも及びません、これは高くて達することはできません』と言われている時」、「あるいはヨブ三六・二六で『見よ、神は大いなる者にいまして、われわれは彼を知らない』と言われている時」、「またパウロが神を『見えない』方と呼んでいる時(ローマ一・二〇、コロサイ一・一五、Ⅰテモテ一・十七)」、「これらの箇所の近いあるいは遠い文脈からして、そこでは決して人間自身によって措定された目標点について語られておらず、(≪神の側から≫)神によってその啓示の中で措定された出発点について語られているということを確かめることができる」。自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(業・働き・行為――すなわち、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉)において顕現されたのであるから、そのご自身の中での神としての「三位相互内在性」における内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性は隠されたままなのである(イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方――すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、その「三位相互内在性」における内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示である)。「御子は、見えない神の姿であり(≪形態、第二の存在の仕方、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」であり、イエス・キリストは「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」であり≫)、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(コロサイ1・15)。バルトは、『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』で次のように述べている――「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ一六・一三)と聞かれ、ペテロ(教会の客観的な信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方が良い、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における言葉の「受肉」、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、その内在的本質である「神性」の「放棄」や「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」、「覆い隠し」を意味している。このような訳で、聖書的啓示証言における「神の隠れ」の概念と、人間学的な認識論上の「理解を絶したもの」、「近づき難い」「まことの最高存在」等という「神の隠れ」の概念との差異についての認識と自覚は重要なのである。

 

 さて、「神の本質を言い表すものとして『解明し難い』という概念」は、「キリスト教の領域においては最初にクレメンス第一の手紙(三三・三)、それからアテナゴラスの著述の中で出てくる」。「神はスベテノ本質ト人間ノ思イヲ越エタ方である(アタナシウス)」、「ワレワレハ神ニツイテ語ルガ、モシ汝ガ理解シナイトシテモ何ノ不思議ガアロウカ。モシ汝ガ理解スルナラバ、ソレハ神デハナイカラデアル(アウグスティヌス)」、「ソレ故ニ主ヨ、汝ヨリ偉大ナモノガ考エラレナイバカリデナク、汝ハ人ガ考エルコトガデキル以上ニ偉大デアリ給ウ、とカンタベリーのアンセルムスは書いている」。ここで、「神が考えられないということ(≪神の不把握性≫)はまさに神の積極的な偉大さとして考えられており、人間的な欠陥(≪人間の生来的な自然的な認識、認識能力の欠陥≫)に帰せられていないことに、人は注意せよ」。「アンセルムスは言う。神学においては、(神ヲ)理性的ニ理解スルコトハ理解デキナイコトデアルトイウコトが問題である」。「教義学的な合理主義を明確に否定した」アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく「啓示から得られた認識」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)――この聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義から啓示認識の可能性について考えたのである、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて啓示認識の可能性について考えたのである(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。さらに、「一二一五年の第四ラテラン公会議で、理解デキナイモノということが神の性質としてはじめて教職の表現として出てくる。……トマス・アクィナスのところで、神ヲ認識スルコトハ知的ナ被造物ニハ不可能デアルということを読む」。「この言葉は、神を言い表す表現としてそのまま一六世紀および一七世紀において、一連の改革派の信仰告白書の中に移って行く……(フランス、ベルギー、スコットランド、ウエストミンスター信仰告白)」。何故ならば、聖書的啓示証言に出てくる「『目に見えない』神という表現を考えるならば、事情は当然そうでなければならなかった」からである。

 

 しかし、聖書的啓示証言に出てくる「目に見えない」「神との関係づけ、それと同時に信仰命題として」、この「『目に見えない』神の命題の性格」は、「古代においても、中世においても、近代においても、少なくともある種の靄の中に覆われていた」。すなわち、「神は解明シ得ナイモノデアル(≪神の不把握性≫)という命題の意義と結果が、結局、昔の教義学においてはそれほどよい実りを結ぶようにならなかった」のである。言い換えれば、「神の不把握性」について、「昔の神学の中で」は、「プラトンおよびプロティヌスから理解しようとしたのか、それとも詩篇一三九篇とパウロから」――すなわち「それとしての神の啓示を確認している信仰命題として理解しようとしたのか」、「最後のところで明瞭ではなかった」。したがって、「われわれは今」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に即して「大事な実際的な意味を持つようになる」自己自身である神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「神ノ不把握性という立場」に立脚するのである。