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24の1.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

24の1.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「二 神の存在を問う問い」
 アンセルムスの『モノロギオン』から『プロスロギオン』への探究の前進性は、「神の存在を問う問い」、「神の存在(Existenz)の問題(quia esアナタガ存在スルコト)」が、「今や特別な問題として」、「神の本質の問題(quia hoc esアナタガコノ……通リノカタデアルコト)と区別され、際立って出てくる」という点にある。イエス・キリストにおける神の自己啓示が、自己自身である神としての完全に自由な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」において、その内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である限り、先ず以ては客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示ないし和解」の出来事)と主観的な「認識的な必然性」(その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)の問題を先行させなければならない。さらにそのことを前提条件として、客観的な「存在的なラチオ性」(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉(「啓示ないし和解の実在」そのもの)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)と主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊とは同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)の問題を扱わなければならない。アンセルムスは、「existereあるいはsubsistere〔いずれも存在スルの意〕という意味でのesse〔存在〕という概念」を、「既に『モノロギオン』で知っている、ちょうど彼がまた神の存在を既に『モノロギオン』のところで信仰の問題として主張していたように」。アンセルムスにとっては、「『プロスロギオン』においてはじめて」、「神の存在の問題は、信仰ノ知解、すなわち証明の対象に……なったのである」。アンセルムスは、「神の存在を問う問い」(神の存在の問題)を、「その書物の先端のところ」にある「神の本質を問う問の前に発言させるという際立った仕方で取り組む」のである。何故ならば、すでに述べたように、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)におけるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における第二の存在の仕方(「啓示ないし和解の実在」そのもの)である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態(「イエス・キリストの名」)において、その内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示だからである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 「『モノロギオン』において、『存在』(Existenz)の意味が、一つには、……essentia〔存在、本質〕、esse〔存在、存在スルコト〕、existens sive subsistens〔存在、存在シテイル〕という三つの単語が互いに比較され」、「それらは、ちょうどlux〔光〕、lucere〔光ルコト〕、lucens〔光ヲ放ッテイル〕が互いに関係しているように互いに関係していると語られることによって明らかにされている」。このことは、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体、換言すれば「啓示者(≪言葉の語り手≫)、啓示(≪語り手の言葉≫)、啓示されてあること(≪イエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊の中で、父は「子の父」・「言葉の語り手」であり、子は「父の子」・「語り手の言葉」である≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造者なる神、和解者なる神、救済者なる神」に対応していると言うことができる。何故ならば、「essentia〔存在、本質〕は、対象の存在の力アルコト(Machtigkeit)を、esse〔存在、存在スルコト〕は、(≪客観的な「存在的な必然性」がそうであるように≫)対象の存在の実在性を言い表している」と「解釈することがゆるされるであろう」からである。「しかし、対象は、それがそこに存在する(da isut)限り、すなわち……ただ単に人間の考えにとって対象であるというだけでない限り、(≪客観的な「存在的なラチオ性」がそうであるように≫)existens sive subsistens〔存在、存在シテイル〕と言われる」。

 

 「essentiaとesse」は、対象的意識の段階においては「その対象が考えられる限り、その対象は存在していると考えられるのだから」、「それのそこ存在(Da-Sein)が確かに人間的な思惟の行為においては前提されているが」、その「思惟行為(Denkakt)は、その前提に関して、(≪対象的意識が対象化したところの内在化された対象を対象として対象化し、さらにその内在的な対象化された対象を対象として対象化し、さらにもっとその内在的な対象化された対象を対象として対象化……するという類的機能を持った自己意識の段階においては、≫)単なる仮設、創作、虚偽、誤謬の性格を持っていはしないだろうかについては決定されていない対象も持つことができる」。そこにおいては、「該当する対象は、ただこの思惟行為の前提としてそこに存在するだけであり」、それ故に「それは、いかなるそこ存在(Da-Sein)も持っていないということ」、「換言すればおそらくその存在の力と実在性(Wirklichkeit)については、それ自身、首尾一貫した意味深い発言がなされ得るかもしれないが、現実には存在しないということを意味するであろう」、ちょうど終末論的限界の下で(Tコリント13・8以下)絶えず繰り返しその途上性において、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める時には、「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ」――すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯しないならば、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないならば、終末論的限界の下でのその途上性における純粋な教えとしてのキリストにあっての神(対象)は「現実には存在しない」ように。それに対して、「existensあるいはsubsistens〔存在、存在シテイル〕」は、「一つの対象を、考えられていることの内的領域から(その対象は、そもそもそれについて語られる限り、またそこに身をおいているのであるが、その内的領域から)『外に出ている』として、すなわちその存在の力あること(Machtigkeit)、その存在の実在性そのそこ存在(Da-Sein)についてのすべての思惟に相対して、『対自的に存在している』として、独立的に(もっともあの思惟することに対して閉ざされていないのであるが)存在するとして特徴づける」。言い換えれば、「その対象は、そこ存在(Da-Sein)を持っているのであり、その存在の力あること(Machtigkeit)と実在性(Wirklichkeit)については、おそらくほとんど、あるいは全く何も語られることができないとしても、それは、現実存在している(existiert)」のである、すなわちそれは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)の中において、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義の中において「現実存在している(existiert)」のである。

 

 さて、「『プロスロギオン』において、アンセルムス」は、「一方ハ、モノガ理解(知解)ノニウチニ存在スルのであり、他方ハ、モノガ存在スルコトヲ理解(知解)スルのである。第一のesse〔存在、存在スルコト〕は考えられていることの外でモノ(res)が存在していないというその非存在(Nicht-Dasein)と結びつけられ得るのである」、「第二のesseは、第一のesseにつけ加わってくるべき考えられていることの外部での事物の存在のことである」という区別をしている。すなわち、「理解ノウチニ持チ、マタ……存在スルコトモ理解シテイル」と述べている。さらに「もっと鋭い響きを立てている」アンセルムスの「第二の区別」は、「対象は、タダ理解(知解)ノウチダケノ存在か、あるいは理解ノウチト実在トシテノ存在を持っているか」という点にある。「一方において、事情によっては、ただ考えられただけの対象の規定としての存在の力あることと存在の実在性は、他方においては、現実の存在(Dasein)は、アンセルムスによれば、明らかに事実、内的な円が外的な円に関係するように関係している」、ちょうどわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者が、客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)にあるように。「存在が、存在の力を持っており、また存在の実在を持つとして考えられるところ、そこでは、その対象は、たとえただ単に仮説的、創作的、虚偽的な仕方においてであれ、また存在するとして考えられる」。「しかし、その対象が、ただ単に存在するとして考えられるだけではないということ」、それ故に「その対象の存在は、仮説でも、創作でも、虚偽でも、誤謬でもないということ、そのことは、その対象の存在の力あることと存在の実在性のことを考えるということでもって、一緒に考えられていることではなくて」、そのことは、「特別に考えられなければならず、またいやしくも理解され・証明させられる時には、特別に理解され・証明されなければならない」。「この特別な考えと証明を問う問い」が、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」ではなく、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)における神としての「神の存在を問う問い(Existenzfrage)である」。この時、「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスと共にバルトも、客観的なイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が生じてはならない」し、徹頭徹尾「人間精神とは同一ではない」ところの客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、すなわち客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ性」(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)と主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊とは同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)という総体的構造を念頭において、「神の存在を問う問い」に向かっているのである。

 

 バルトは、『ローマ書』で、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨」を、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>に置いている。また、『教会教義学 神論』では、イエス・キリストにおける「神の自己啓示によれば、神は、神とは異なる実在の内部で、神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」、「よく注意せよ。それは、神の現実存在」を、それ故に神とは異なる「実在全体」(具体的には、個体的自己としての全人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能全体)が対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」の存在では決してなく、徹頭徹尾「自ら証明する自由」における「存在者の存在」――すなわち「神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」と述べている。言い換えれば、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において、「神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性において、「神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」。したがって、バルトは、人間学的領域で人間に内在する神的本質、神の人間化あるいは人間の神化の原理(人間中心主義的に、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を止揚してしまう「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念」)を発見したヘーゲルの哲学においては、その神やその啓示は、人間自身の自由な自己意識・理性・思惟が「捕えた虜囚」でしかなくなってしまうから、「受け入れ難く耐え難い」と述べ、また「ヘーゲルの哲学的手法に対して」「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」(下記の【注1】を参照)、「神の自由を認識していないという事態にある」(下記の【注2】を参照)、と述べている。そして、バルトは、「われわれは、(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す≫)シュライエルマッハー以外の他の人々(≪モルトマン、ブルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、ベルトルート・クラッパート、ルドルフ・ボーレン、滝沢克己、八木誠一等々≫)の所でも、……このヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」と述べている(『ヘーゲル』)。

 

【注1】
 この混淆においては、次のような事態が生じるのである――「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とすべき第三の形態の神の言葉である教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にその思惟と語りの在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さる(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」、と。もしもそうでないならば、その神は、神としての神ではないであろう。

 

【注2】
 神としての神の自由は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>と共に、「自己自身である神の自由」としての「自存性の概念(≪神の自由の概念の積極的側面≫)」(自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な自存性の概念)と「神とは異なるもの(≪天然自然や人間的自然を含めて具体的には人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪神の自由の概念の消極的側面≫)」との全体性・総体性において定義されなければならない。その積極的側面を「強調」しつつ、その積極的側面と消極的側面との全体性・総体性において定義されなければならない。何故ならば、「世界に対する神の関係」としての「神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念」に「言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(下記の【注】を参照)、その神の「外に向かって」のわれわれのための神としての外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)において、その内在的本質の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。

 

【注】
 自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない)の起源・根源としての父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は父が起源・根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が起源・根源である。したがって、内在的本質における神の完全さおよび自由さは、その存在の仕方における完全さおよび自由さなのである。この「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源・根源としての父は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示するのであるが、その内在的本質からすれば、父だけが創造主なのではなく、子と聖霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。