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1の4.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

1の4.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(40-76頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U2 神の啓示 聖霊の注ぎ』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「十六節 神のための人間の自由――一 聖霊、啓示の主観的実在」(40-76頁)

 

 教会的な「行為」は、聖礼典(洗礼と聖餐)だけでなく、教会的な「語り」(言葉)――すなわち教会の宣教(説教と聖礼典)における中心的な部分である「説教」(言葉)も、「行為」である(下記の【注】を参照)。そして、教会が、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である限り、また教会の宣教における「説教と、同時にキリスト者の生活全体」が、「第一の来臨(≪誕生・生涯・死と復活≫)と第二の来臨(≪復活されたキリストの再臨≫)との間(≪聖霊の時代≫)にある」限り、その宣教における説教は、説教者「自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、聖書への絶対的信頼に基づく、聖書講解であることの義務を負っている」。したがって、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代的な、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、情報等が不足している≫)と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていない」のである。したがって、バルトは、『説教の本質と実際』で、次のように述べている――キリストの福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、説教者は、「思想、最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさいを、聖書に聴従することの前で、放棄しなければならない」、「聖書は、神の言葉となるところで、……神の言葉なのである」、「説教者にとって彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、徹頭徹尾神の側の真実としてある「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られたということである」、と。言い換えれば、客観的な「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」――すなわち客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」、「死(≪旧約、「律法」、「神の裁きの啓示」、「神の放棄」、「古い世」・時間、「まことの過去」≫)と復活(≪新約、「福音」、「神の恵みの啓示」、「神の選び」、「新しい世」・時間のはじまり、使徒行伝1・3の「キリスト復活四〇日」としての「まことの現在」≫)の出来事」、「啓示ないし和解の実在」そのものと、主観的な「認識的な必然性」――すなわちその客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とする、主観的な「認識的なラチオ性」――すなわち徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という総体的構造において、「聖書は、神の言葉となるところで、……神の言葉なのである」。したがって、その連続性に連帯するという仕方で、「聖書に聴従」し、「聖書によって導かれなければならない」のである。言い換えれば、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、(≪教会の宣教における一つの補助的機能としての≫)神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のである(『バルトとの対話』)。何故ならば、「聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにするのは、聖霊である」(神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」による)からである。もしもそうでないならば、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)ということになってしまうし、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」ということになってしまうし、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神(≪「存在者レベルでの神」≫)から発生した」ものであり、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ということになってしまう(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。したがって、その連続性に連帯した「本文……との対話」を「思惟の型」としたバルトの場合は、彼がただの人間である以上、確かに「誤謬は可能」であるが、しかし、その連続性に連帯した「本文……との対話」以前に、「ある特定の人間学」(前期ハイデッガーの哲学原理)」、すなわち人間学におけるある「一つの思惟の型を前提した」(「第一次化」した、先行させた)ブルトマンの場合、「誤謬は必然」である。

 

【注】
 バルトは、「行為」の概念を、通俗的に、言葉と行為、理論と実践というように二元論的に対立させてはいない。このことは、「当時も(そしていまも)よく理解されていない」。すなわち、神学的領域におけるバルトの言葉(理論)と行為(実践)の関係と構造は、次のように言うことができる――それが教会の宣教の場における現存的な社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、終末論的限界の下で絶えず繰り返し(それに対する他律的服従と自律的服従との全体性において)、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方でなされた「かつて語った(≪三位一体論的――キリスト論的な≫)説教(≪言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という点にある、「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、(≪おのずから≫)それが(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に連続している聖書が≫)呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」という点にある(『バルトの生涯』)。また、人間学的領域におけるマルクスの言葉(理論)と行為(実践)の関係と構造は、次のように言うことができる――「宗教、法、国家という幻想性と幻想的な共同性」、「ある意味でこの幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する市民社会の構造としての経済的なカテゴリー」、「これらの考察の起源にある彼自身の自然哲学」――このように「マルクスの(≪三位一体として≫)完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、(≪言葉と行為、理論と実践というように二元論的に対立させられてはおらず、≫)理論(≪言葉≫)がかれを実践(≪行為≫)のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」という点にある(吉本隆明『カール・マルクス』)。

 

 教会的な「行為」は、説教と聖礼典(洗礼と聖餐)としてあるから、両者の構造として存在する。しかし、聖礼典は、キリストにおける神の恵みの「しるし」、すなわちキリストによって制定された「しるし」であり、その「目的は人間の聖化あるいは義認であり」、その「機能は、……客観的に……特定の人々の奉仕を通して語り告げられて和解が与えられること、証印サレルコトである」。すなわち、「神的しるしを与えることの意味での人間ノ義認あるいは聖化」は、「ひとつの理念に基づいているのではなく」、「われわれの歴史の中に……介入し給う」「創造主の行為として示された」、換言すればそれは、自己自身である神としての対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト中で、「創造主の行為として示された」(「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の起源・根源としての父の、「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事として示された)。このことが、教会の宣教における説教に対して聖礼典の持っている「特質」・「事実所与」である。

 

 イエス・キリストにおける神の自己「啓示」が「神的なしるしを与えること」で「われわれところに来ること全体」は、「目ニ見エルシルシ、外的象徴」、客観的対象としての、自然物そのものであり・またそうあり続ける水、人間化された自然、加工された自然であり・またそうあり続けるパン、ぶどう酒という「自然の領域」における、そして人間によって「遂行された行為」における、「しるし」である。「聖書的な意味でのすべてのしるしを与えること、すべての証人であること、の原型である洗礼者ヨハネ」が、「自分のことを水で洗礼を施す者と言い表している時、キリストとの区別およびキリストとの関係」における自分について「すべてのことを語っている」。「ヨハネ三・五、エペソ五・二十六以下、テトス三・五において、(≪不可視的な≫)聖霊の内的な働きに対し、単純に、直接的に、まさに(≪自然物を介した可視的な≫)『洗礼の洗い』が対置されている時」、また「ヨハネ六・五二―五八において、(≪不可視的な≫)「永遠の生命へといたる」「食し飲むことに対して」、(≪自然物を介した可視的な≫)「全く特定のからだ的な」「食し飲むことが対応しており、対応しなければならないことを知らされる時」――これらのことは、「全く」、隠蔽性と顕現性という「啓示」それ自体が持つ「秩序にかなったことである」。イエス・キリストにおける啓示は、「客観的な恵みの性格を……聖礼典の中で表示されているそういう仕方で、受け取られ、取り上げられることを欲している」のである。すなわち、「洗礼の水と聖晩餐のパンとぶどう酒が問題」ではなく、「ヨハネ六・六三、『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない』ということが問題」であり、「考慮されなければならない」のである。したがって、「洗礼を受けることなしに、神の啓示をうけ、救われるものがいるだろうかなどという問いは、子供っぽい問いである」。「聖礼典の執行が絶対的な、機械的な意味で、救いにとって必要であり、啓示にとって必然である」ということは、「決して語ることができないし、またこれまで教会の中でそのようなことについて真剣に語られたことはなかった」。しかし、そうであるからとって、「洗礼の水および聖晩餐のパンとぶどう酒においては、具体的な、からだ的な、創造的――出来事的な神の支配のしるしをうち立て、認識することは大事である」。

 

 それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「預言者と使徒の権威は、そして彼らを通して与えられる神の受肉した言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉≫)の恵み」は、「洗礼がわれわれに関して語れた客観的な証しとしてわれわれのキリスト教的生活のはじめのところに立っているような仕方」で、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である「キリスト教会のはじめのところに」、それ故に「また神の子供としてわれわれの現実存在のはじめのところに立っている」。「キリスト教会は、また神の子供としてのわれわれの現実存在」は、第二の形態の神の言葉である「預言者と使徒の言葉から」、すなわち「彼らの証言に基づく宣教(≪聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教≫)から……さらにまた、この宣教を通して、神の恵み(≪起源的な第一の形態の神の言葉≫)から……生きるのである」。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「預言者と使徒の言葉によって媒介された」「み言葉を通して生きるこの生命の秩序と保持をしるしをもって表示すべく、われわれは、洗礼および聖晩餐に拘束されている」。「キリスト教会は、また神の子供としてのわれわれの現実存在」は、「それがわれわれの主、イエス・キリストの恵みから……の生であるが故に、われわれの主、イエス・キリストの恵みから……の生である限り、それはただこの生である」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、(≪神の側の真実としてある≫)われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。また、それは、「聖礼典を通して表示されているような……この生である」。この意味で、聖礼典は、「欠かすことができない『恵みの手段』である」。われわれが、「洗礼から……聖晩餐へと通じる道の上にいる……場所」、「信仰ではじめるところの、信仰から信仰にいたらせる(ローマ一・一七)場所」、「自分のことを啓示の受領者として正しく理解する」場所――「このキリスト教会、また神の子供としてわれわれの現実存在」の場所において、教会の宣教の一つの機能としての「神学は、自分の始まりと目標を尋ね求め、またこの場所の法則に従って神学の方法は決められなければならない」のである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力」を持っているからである。神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、信仰の認識としての神認識の出来事、啓示認識・啓示信仰の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、徹頭徹尾「人間自身の業」ではなく、「神の言葉自身」、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注出」・「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいてのみ可能であるからである。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストの出来事(「啓示ないし和解の実在」そのもの)の宣べ伝えを目指すことのない自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における「単なる知識」としての恣意的独断的な教義学(神学)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、その教義学(神学)は、「教義学としては非学問的なものでしかない」のである。

 

 前述した「第一の主張に対して第二の主張が立てられなければならない」。客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊、啓示の主観的実在」(神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)における神の啓示は、次のような人間の現実存在から成り立っている――すなわち、われわれ人間は、「自分たちの存在を、……自分自身から」自己認識・自己理解・自己規定することはできないのであって、啓示の客観的実在(啓示の客観的現実、まことの神にしてまことの人間である「ただイエス・キリストの名だけ」)――この「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠した信仰の類比・関係の類比を通してはじめて、「自分たちの存在」を自己認識・自己理解・自己規定することができるところの人間の現実存在から成り立っている。その時、その人間存在は、「自分自身を、ただみ子の兄弟としてのみ、神の言葉の聞き手および行為者としてのみ」自己認識・自己理解・自己規定できるところの人間の現実存在である。その時、その人間存在は、次のように自己認識・自己理解・自己規定するところの人間の現実存在である――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、(≪神の側の真実としてある≫)われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。

 

 このことが、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)の中での主観的側面としての主観的な「認識的な必然性」(「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」)を前提条件とする客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)という総体的構造における「思惟上の飛躍」である。このことを神学的な「非合理主義」と非難する者たちは、神学における思想的課題がどこにあるのかを知らない者たちである。客観的な啓示の実在(啓示の客観的現実)が「どのように……人間のところにまで来るのかという問いに対する答え」は、すなわち人間的主観に神の恵みの出来事を実現させるものは、「思惟上の飛躍」をさせるものは、客観的な事柄と主観的な事柄とを架橋するものは、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方(聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「聖霊の位格」にあるのである(聖霊は、その神的愛に基づく父と子の交わる中で、「父は子の父」――すなわち「言葉の語り手」であり、「子は父の子」――すなわち「語り手の言葉」であるところの第三の存在の仕方における「行為」・働き・業である)。したがって、人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的な人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」し、生来的な自然的な「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」のであるから、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」)を前提条件とする客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」という総体的構造に基づいて、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる出来事が引き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」(人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念、「最高の実在」、「絶対最高の存在」、「最モ完全ナ存在」、「究極最深のもの」――このような「物自体」)ではなく、その啓示に感謝をもって信頼し固執し固着する啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。したがって、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下における神としての神の「啓示ないし和解の実在」は、天然自然、人間化された自然としての人間的自然、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、様々な人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人種、民族、「国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制」、自然法、民族法等の中にはないのである。「啓示が生起し、神のペルソナが登場し、神の業が出来事として起こる世の領域……自身」は、「神の人格でもなければ神の業でもない」。われわれ人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の授与――それは、「神の自由な恵みのみがなし得ることとして、神の自由な恵みに対し留保されたままであり続ける」のである。したがって、バルトは、教会の宣教、その一つの補助的機能である神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、ただ「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」≫)に対し神が応じて下さるということ(≪神の完全な自由における「祈りの聞き届け」≫)に基づいて成立している」のであると言うのである。

 

 聖霊の業としての「啓示されてあること」は、換言すれば「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とする「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)は、その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(第二の形態の神の言葉である聖書)における「預言者および使徒たち」という「特定の人間の現実存在から成り立っている」のであるが、またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉の教会の<客観的>な信仰告白および教義における聖書に連帯した人々という「特定の人間の現実存在から成り立っている」のであるが、このことは、「啓示されてあること」が、「人間から」ということを決して意味しているのではなくて、すなわちわれわれ人間を起源・根源としているということを決して意味しているのではなくて、「啓示の中での神的行為の『人間に向かって』ということを意味している」のである。したがって、イエス・キリストにおける啓示は、人間的理性や人間的欲求やによる「道徳的あるいは宗教的な企てでは決してない」のである。われわれ人間が、イエス・キリストにおける「神の恵みの出来事の中にとり入れられること」――そのことは、「聖霊の業」(聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)である。

 

 神のその都度の自由な恵みの決断による「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とする「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づく「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事は、人間によってではなくて、「神によって確信せしめられる出来事」、「客観的啓示(≪先行する「存在的な必然性」に後続する「存在的なラチオ性」≫)と主観的啓示(≪先行する「認識的な必然性」に後続する「認識的なラチオ性」≫)の区別」の根拠である。したがって、「主観的啓示は、客観的啓示に、さらに第二の啓示が付け加わってくるという第二の啓示では決してない」のである。「律法の成就」・完了そのものであるイエス・キリストを「律法(≪キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法≫)の目標」としないで、それ故に「律法の目標」を人間的な「自然法」や「抽象的な理性や民族法」や通俗的な隣人愛や革命の過渡的課題や究極的課題を明確に提起しないままなされる社会的政治的な主張や実践等々に転倒させてしまうという悲惨な惨憺たる事態は、「教会と神学の歴史の中でいつも宿命的な問題であった」し、現在でもそうである。

 

 啓示の主観的実在は、神のその都度の自由な恵みの決断による「存在的な必然性」と「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて、「『キリストにあってこの世をご自分と和解させた』ということ(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのものであるイエス・キリスト自身≫)を繰り返し語ることができるだけである」ところの「聖霊の注ぎ」においてだけ成立する。言い換えれば、神の「言葉と並んでの霊ではなく、言葉以外の何ものでも」ない、その神の「言葉を……聞かしめる言葉そのものの霊である」。すなわち、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての聖霊(キリストの霊)である。このように、啓示は、「啓示自身に固有な証明能力」を持っている、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を持っている、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力を持っている、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造を持っている。したがって、啓示の主観的実在における主観的啓示は、「ただ客観的啓示がわれわれの中で繰り返され、刻印され、保証され」、「発見され、承認される」ということにおいて、それ故にそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)として客観的に可視的に存在している。したがってまた、その「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)から「独立した……主題」や方法、すなわち「客観的啓示を宣べ伝える宣教から、(≪「わがまま勝手に」、恣意的独断的に≫)自分を切り放してしまおうとする倫理学、人生論、牧会的配慮は、直ちにそもそも啓示との原則的な断絶を意味する」のである。

 

 先ず以て、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「神の霊と人間の精神の全面的な区別」が強調されなければならない。したがって、われわれは、その人間的主観に実現された神の恵みの出来事を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならない」のである。その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「神の教団」・「イエス・キリストの教団」・「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、その「イエス・キリストと個人関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」・「キリスト者個人のことではない」と理解しなければならないのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)。したがって、われわれは、「まさに(≪啓示の≫)真理そのものの中で、……真理の中にあるわれわれの存在を尋ね求めなければならない」。「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、われわれは、「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ8・一五、ガラテヤ四・五)」ことができるのであり、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、その授与者と受領者との無限の質的差異の下において、「神の子供」なのである。この「神を通して神にある」とは、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「死と復活」の出来事において、「和解せしめられた」ということ、すなわち「永遠から……選ばれ、……召され、……義とされ、聖化されたわれわれの罪は……墓に葬られ、われわれの死は……克服され、われわれの生命は彼とともに神の中に隠され、……われわれは父の家で子供であるということである」。

 

 啓示の主観的実在は、「キリスト教的主題となることはできない」。何故ならば、それは、啓示の客観的実在の中での主観的側面であるからである。したがって、われわれは、両者を、二元論的に対立させることはできない、「われわれは、すべてのわれわれの心配をキリストに委ねなければならない」、「何故ならば彼はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから(Tペテロ五・七)」。「われわれの目、耳、心を開く」聖霊、そういう仕方で「われわれを啓示の実在の中へと含み入れる」聖霊、われわれ人間の理性を更新させる聖霊(この更新された理性は、徹頭徹尾聖霊と同一ではない)は、「キリストを通してキリストにある」のである。このような訳で、「われわれは、神の子の兄弟であり、神の言葉の聞き手であり、行為者」であり、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯するという仕方で、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに対する不可避的な他律的服従とその決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストの福音を告白し証しし宣べ伝える者である。神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた「聖霊の注ぎ」により「われわれ自身の中で神に啓示されてあること」、「キリストとともに神の中に隠された神の子供たちの生、恵みの中での存在が生起する限り」、「われわれ自身が、(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の連続性に連帯した第三の形態の神の言葉として≫)啓示である」。「この意味で、神によって確信せしめられた人間が、教会の実在の客観的側面」を形成しているのである――「教会は、(≪「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とする「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて、≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪神の側の真実としてある「啓示ないし和解の実在」そのものであるイエス・キリストにおける死と復活の出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、したがって、そうでない時には、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。

 

 「(カルヴァン、キリスト綱要)ドノヨウニキリストノ恵ミヲウケルカ」――「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、「まことの神にしてまことの人間であるキリストについてわれわれに宣べ伝えられたことがわれわれのもとに届き、われわれを助け、われわれのものとなるという認識」(啓示認識)・啓示信仰の授与の出来事は、「秘義の中で遂行される」「隠レタ」「御霊ノ……働キニヨッテ起こる」。神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」による「恵みの伝達とはキリストご自身の伝達のことである。ソレデアルカラ」、その「聖霊の注ぎ」による「恵み(≪「啓示ないし和解」≫)の伝達」は、キリストが「われわれをご自身と結びつけ、ご自身と一つにされた平和のきずなである」こと、「キリストとわれわれがもはや二つではなく、むしろ一つであること」、「かれのうちにつながれ(ローマ一一・一七)」て・「接木」されて一つであること、「われわれが彼ト一体トナルということから成り立っている」。言い換えれば、イエス・キリスト自身が、われわれ人間のためにわれわれ人間に代わって、われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(「律法の成就」・完了)ところにある。すなわち、この神の側の真実としてある出来事は、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり・破れた姿の人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬように」、「しかも混淆(≪混合、共労、共働、協働、神人協力≫)されぬように」、「統一し給うた」ということである(『福音と律法』)。「それはちょうど聖霊」は、「父と子が結び合わされている平和ノキズナであり給うのと同様である」(聖霊は、神的愛に基づく父と子の「交わり」の中で、「父は子の父」、「言葉の語り手」であり、「子は父の子」、「語り手の言葉」であるところの「行為」・業・働きである。したがって、このことは、あの総体的構造に基づいた、「福音を信ずる信仰の中で起こる」。

 

 「真に罪なき、従順なお方」イエス・キリストが「水と血によって来給い」、「われわれと連帯責任的となり、われわれのために死に給うたのは(Tヨハネ五・六、なおヨハネ一九・三四参照、昔の教会がこれらの聖句を洗礼および聖餐と結びつけた時、彼らは確かに間違っていなかった)、御霊が(≪「われわれの心の中で」≫)かれについて証しをするためである」。「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊は証しの力を持っている。

 

 今まで述べてきたように、「御霊の業はまさにイエス・キリストの業以外の業ではない」(何故ならば、主観的な「認識的な必然性」としての証しの力を持つキリストの霊である聖霊は、客観的な「存在的な必然性」としてのイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面であるからである)。「イエス・キリストから出てイエス・キリストとひとつにする……イエス・キリストの霊としての御霊」は、「キリストの御霊」である。したがって、「キリストの業は御霊なしには決して起こらないのであり、御霊を通してのほかは決して起こらないのであり、聖霊の交わり(Uコリント一三・一三)の中でしかわれわれの主イエス・キリストの恵みはないし、神の愛は聖霊を通してのほかは、われわれの心の中に注がれる(ローマ五・五)ことがないのである」。

 

 その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「イエスは主である」という「新約聖書の証言」は、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」、「子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰」、「神との出会いであるイエスとの出会いである信仰の出来事」は、キリストの霊である「聖霊の注ぎ」によるのである。この信仰の出来事は、新約聖書において、客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰の主観的実現のことである。救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つこと」である。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。

 

 聖書は、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊について、「多種多様な言い方で語っている」。第一に、聖書は、「神の独り子の中でわれわれに示された」「いつくしみをわれわれに証している限りにおいて」、聖霊を、「子トスル霊」と語っている。このことは、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができる、ということである。第二に、聖書は、聖霊を、「希望〔嗣業〕の印、または担保」、「コノ世ニアッテ遍歴スルモノ、死者ニヒトシイモノであるわれわれに対して、繰り返し生命と信頼を与える希望〔嗣業〕の印、または担保」、と語っている(Uコリント一・二二)。このことは、律法は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のことであるということである、換言すれば「罪と死の法則」としての律法――すなわち「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」――すなわち「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたということである、それ故にルターに「生の不安」を惹起させた「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたということである(『福音と律法』)。第三に、聖書は、聖霊を、「不毛の地をうるおす(イザヤ四四・三、五五・一)、あるいは渇いた人のかわきをとどめる(ヨハネ七・三七)、あるいは汚れを洗い清める(エゼキエル三六・二五)水と呼んでいる」。第四に、「生命の力を回復する油(Tヨハネ二・二〇以下)、あるいは焼きつくす、しかし善き業をなす火(ルカ三・一六)と呼んでいる」。第五に、聖霊は、「ワレワレハモハヤワレワレ自身ニヨッテ働カズ、御霊ノ働キト感動トニヨッテ治メラレルヨウニナルノデアリ、モシワレワレノウチニ何ラカノ善キモノガアッタトスレバ、ソレハ御霊ノ恵ミノ実ニホカナラナイワケデ、モシ御霊ガナイナラバ、ワレワレノモツスグレタ点ハ精神ノ暗愚ト心ノ邪曲デシカナク、そういう生命を……われわれに伝達する」という点にある。「エペソ五・三〇で奥義として記された婚姻の中でだけ」、それ故にわれわれは、「ただ……イエス・キリストの肉の肉であり、彼の霊の霊であって、コウシテカレト一体トナリ、かしらとしての彼についている肢体であるということの中でだけ」、すなわち「タダ御霊ニヨッテノミカレハワレワレト一体ニナリタモウ」のであるから、その「聖霊を通してだけ」、「キリストは救い主としてわれわれのところに来たり給う方である」。

 

 このようにわれわれを「キリストとひとつ」とするところの「聖霊の業」は、「ひとりの内なる教師」として、「真理の教師」として、われわれに対して、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」により、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を授与することにある。「ただキリストだけが、全キ救イである。しかしまさに、キリストの中で完成された救いにわれわれを……あずからせるために、彼自らが、聖霊でもって」、「われわれに洗礼を施さなければならない」、「われわれに福音を信じるようにと光を与えなければならない」、「われわれを新しい被造物、神の宮としなければならない」、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という総体的構造に基づいて、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を授与しなければならない。