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1の3.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

1の3.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(40-76頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U2 神の啓示 聖霊の注ぎ』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「十六節 神のための人間の自由――一 聖霊、啓示の主観的実在」(40-76頁)

 

 バルトは、次のように述べている。
(4)「われわれの第一の主張」は、「その主観的な実在の中での神の啓示は、啓示の客観的な実在の特定のしるし……から成り立っているということである」。すなわち、それは、「その主観的な実在の中での神の啓示」は、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる、人間が人間的に所有する人間の理性と言語を用いての信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の実在の中での神の啓示は、「啓示の客観的な実在の特定のしるしから(≪「客観的な特定のしるし」、「啓示の客観的な秘義の奇蹟」から≫)」、換言すれば客観的な「存在的な必然性」――すなわち、自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神(自己自身である神)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)である客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」と主観的な「認識的な必然性」――すなわち、その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的・可聴的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性から「成り立っているということである」。したがって、われわれは、この第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、審判者、支配者」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、その連続性に連帯する時に初めて、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)において、その内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を得ることができるのである。そして、そのイエス・キリストを通して、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体を認識することができるのである。そしてまた、その「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするイエス・キリストを通して、父だけが創造主なのではなく、子と聖霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるということを認識することができるのである。

 

 このような訳で、そのことは、「人間学の後追い知識」として、ヘーゲルの歴史哲学に依拠して神学を展開したモルトマンのようにして認識することができるわけではないのである、またそのことは、「人間学の後追い知識」として、資本主義を経済的基盤とし自由を原理とした西欧近代を人類史の頂点とする歴史哲学を展開し、「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念」を発見したヘーゲルの哲学や「近代の未完のプロジェクト」の完成を目指したユンゲル・ハーバーマスに依拠して神学を展開したエーバーハルト・ユンゲルのようにして認識することができるわけではないのである、またそのことは、「人間学の後追い知識」として、「本文と彼自身との対話だけでなく」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として対話するという仕方ではなく、「ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型(≪前期ガイデッガーの哲学原理に依拠した新約聖書の釈義の型≫)を前提にして」(第一次化して)神学を展開したブルトマンのようにして認識することができるわけではないのである。したがって、「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(すなわち、人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」ではない、神として神を見失うことではなかろうか)というハイデッガーの「揶揄」・批判は、根本的包括的な原理的な「揶揄」・批判であって、客観的な正当性と妥当性を持っているのである。このような神学の行き着く先は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を後景へと退けることであるからあるいは除外することであるから、その行き着く先は、徹頭徹尾第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」そのもの)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという立場に立脚しないところでの、まさに「人間学の後追い知識」としての人間学的神学、宗教哲学、革命の過渡的課題と究極的課題を明確に提起しないところでなされる社会的政治的な主張や実践、党派性・党派主義・党派的多元主義である。したがって、バルトは、次のように述べている――われわれは、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの(『福音と律法』)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのものである、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神(自己自身である神)の、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(「啓示ないし和解の実在」そのもの)――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪ある、教派、学派、思想傾向、文化的傾向、主義、人種、民族、社会構成や支配構成、時流や時勢≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)、と。私の知る限り、カール・バルトを「新正統主義」や「アメリカ新正統主義」のどれにも属していない神学思想として展開している神学思想史の本は、W・E・ホーダーンの『現代キリスト教神学入門』(布施濤雄訳、日本基督教団出版局)だけである。それに対して、総花的な神学思想史を展開したA・E・マクグラスは、『キリスト教神学入門』において、バルトを、「新正統主義」に分類している。したがって、マクグラスが、ある誰かと誰かのバルト解説書を読んだだけで、あるいはバルトの主要著作を読み理解しないままに、「新正統主義」に分類したことは明らかなことである。したがって、マクグラスのバルト理解は、バルトの『シュライエルマッハー選集への後学』の訳者の蘇光正が、「私が今ここで述べたいと思うことは、ただ一つ、バルトの研究者たちの間でその解釈が大きくわかれ、したがって大きな注目を浴びている……『第三項の神学』(≪聖霊の神学≫)という発言についてである」が、「これをバルトの『転向』と誤解する者」は、「明らかにその前後の数ページだけしか読んでいないのである」という水準のそれであると確信する(J・ファングマイアー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)。マクグラスと違って、ホーダーンは、次のように述べている――カール・バルトは、今後も、キリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学(それぞれの時代における個体的自己としての全人間、すなわち類とその類の時間累積)の連続性において、「多くの示唆を与えてゆくことだろう」。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為)である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(イエス・キリストの名)において、その内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示であるから、それ故に「神の存在を問う問いを、ただ単に本質を問う問いから分けただけでなく、神の本質を問う問いの前に、第一の問いとして探究した」(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)アンセルムスに連帯して、「『キリストにある神の業』を主題に、神学をたてようとの彼のたゆまぬ努力と、喜びにみちた信仰の表現は、今後長きにわたって多くの弟子たちを育ててゆくことだろう。神学的にはすでに、バルトの全盛時代は終わったと主張する人々は、やがて自分がいかに未熟であったかを思い知らされることであろう」。

 

 このように、われわれは、啓示の客観的なしるしにおいて、「われわれの世界」・「われわれの自然と歴史の世界」の中で起こる、啓示の客観的な実在(啓示の客観的現実)であるところの、「特定の出来事、関係、秩序のことが理解されなければならない」。「啓示の客観的な実在からして、それであるから(≪内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方における≫)言葉の受肉からして、〔特別な〕存在と意味をもっている」ということが理解されなければならない。このことは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的な可能性として客観的に可視的・可聴的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性において、神の言葉が、「それらの出来事、関係、秩序を通して、この世界の中でさらにひき続いて語ってゆこうとしているということ、……この世界のさらに続いての空間と時間の中で、知覚され聞かれることを欲しているということである」。すなわち、「それらの出来事、関係、秩序を通して、神の言葉は、この世界において、『広がってゆこう』としている」ということである。言い換えれば、その「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性(「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である――イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」)において、「神の言葉」は、「人間によって聞かれ、同時に人間を義とし、聖化する言葉となることを欲している」「道具」、「それを通して神の言葉が、それの内容である神の恵み(≪「啓示ないし和解の実在」≫)を、人間の身に対して執行しようと欲している」「道具」である。そして、その「道具の機能」は、「啓示の客観的な実在を被造物的な実在の中に隠すこと」・隠蔽すること(「超越的な視野」)と「あらわにすること」・顕現すること(「世界内在的な視野」)にある――「真に罪なき、従順なお方」(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)である、「神の神性において(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>において≫)、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」(『神の人間性』)まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。このことは、「肉となった神の言葉そのもの」が、その起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を持って、「啓示に固有な証明能力」を持って、神のその都度の自由な恵みの決断による「存在的な必然性」と「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造を持って、「啓示を指し示」し・「啓示を証し」(自己証明)しなければ、「本来的に啓示に対して全く聞く耳も・見る目も持っていない」われわれ人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を持つことは全く不可能であるということを意味している。したがって、啓示の秘義の奇蹟・「しるしを受けとってそれを理解する能力」は、「神的意志の全能を通して(ご自分を世に向かって告げ知らせ、世界をご自分と和解させ給う神の意志の全能を通して)、したがって、それ自身、啓示に対して能力をもたない人間の性質をキリストにあって取り上げ、ご自分を通して啓示に対して能力あるものになし給うたあの同じ恵み深い意志の全能を通して、そのようなものになるし、そのようなものであるところの神的な制定と任命……に基づいている」。したがって、「神は、われわれを神の啓示のしるしに結びつけ給うたが、しかし、ご自身を啓示のしるしに結びつけ給いはしなかった。それらのしるしは、神的尊厳さと栄光の証言であるが、決して神的尊厳さと栄光の制限ではない」。このことは、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」が、すなわち神性を内在的本質とする第二の存在の仕方における神の言葉の「受肉」・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」が、決して「神性の放棄」や神性の「減少」を意味していないことと同じである。

 

 このような訳で、「神の言葉の道具はただ」、その「神の言葉に基づいて神の言葉を通してだけ」、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯する、その「神の言葉への奉仕」においてだけあるものである。ここにおいて、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教(説教と聖礼典)、その一つの補助的機能としての神学は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの、「啓示の客観的実在」、啓示の客観的現実)から、具体的にはそのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉であり・教会に宣教を義務づけている聖書から、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることにおいて、「指示と約束を受けとることができる」のである。

 

(5)聖書によれば、神の啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて、その「語りと行動の主体であり続け給う限り」、神が常に先行して「人間に向かって語り、人間に対して働きかけるために」、「間接的」には被造物的な「場と枠の中で」で、被造物的な道具・「仲介者および手段を用いられるとしても」、存在的にも認識的にも三位一体論的――キリスト論的に、「直接的」に、「人間のところに来る」のである。何故ならば、聖書によれば、「世界の中での神的なしるし」(民の選び)は、常に神が先行するという仕方で、「他の民との交換可能な偶有性と事実性をもっている」中で、「それとして選ばれ、うち立てられている」からである――「すべてのそのほかのしるしを包含しているイスラエルの民の選びのしるし」が、そうである。このイスラエルの民の選びは、「客観的な啓示、受肉、と同一ではない」が、それは、「包括的な仕方で、客観的啓示、受肉」・「イエス・キリストの出現に対応している」。何故ならば、神の啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて、現存する「歴史的な場所」で生き生活するわれわれ人間に啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示の主観的実在)を授与する限り、その「イスラエルの民の選びは客観的な啓示に属している」からである。すなわち、「他の民との交換可能な偶有性と事実性の中でのイスラエルの選びこそがまことのしるし」――「包括的」なしるしである。それは、「キリストの中で結ばれた、神と人間の間の契約の顕示である」。「イエス・キリストは、アブラハムの約束されたすえであるというまさにこのしるしこそがイエス・キリストの出現を指し示している。(中略)最後にイエス・キリストはまさにユダヤ人のメシヤとして来たり給うた」。「そのような神の子はご自分に属する者たちを世のただ中にあって、世のただ中から……選び、召し、義とし、聖化し給う」。

 

 「近東のほかの諸民族も割礼という同じ儀式を知っていた」から、「他の民との交換可能な偶有性と事実性の中でのイスラエルの民」は、「割礼のしるしによってほかの民から分けられ、区別され」た。この場合、問題は、その儀式にあるのではなく、その「割礼のしるし」が、「イスラエルの民の下で、この儀式という手段を通して、キリストにあって遂行されるべき裁きとキリストにあって来たるべきその恵みを、約束し給う契約の主(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする主≫)の自由な決断によったものである」という点にある。割礼は、「神的な命令および約束のしるし」として、それは、「まことのしるしである」。それは、「キリストの中で結ばれた、神と人間の間の契約の顕示である」――「福音書の中では、すべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間(「まことの過去」)は、復活へと向かっている、それ故に「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」、「成就された時間」、「まことの現在」は、「新しい世」・時間のはじまりである、すなわちキリスト復活からその復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代は「まことの未来」のはじまりである。

 

 常に先行する神のその都度の自由な恵みの決断により、神に選ばれたイスラエルの民の中で、神に「特別に選ばれた神の人たち」の、その「民に向かって神からくる救いと災い、災いと救いを告げ知らせつつ神の言葉を語る」「預言者の現実存在と活動もまた、キリストの中で結ばれた、神と人間の間の契約の顕示であるまことのしるし」である。このことは、生来的な自然的な人間の「理性や力」によっては聞き・認識し・語ることができないことであり、あくまでも「神の言葉そのものが、……人間の世界のただ中で、……人間的歴史的状況の中に語り入れられ」・「聞かれる」時、すなわち「キリストにあっての神の言葉の受肉(≪その内在的本質である「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)を知る時に(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて啓示認識・啓示信仰を授与される時に≫)、語ることができる」ことである。したがって、そのような人間としての「彼らの存在と彼らの言葉」は、神の言葉の受肉における啓示の客観的実在そのものではない。言い換えれば、それは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、常に先行する神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造においてなされる被造物としての「人間の口でもって語られる『主かく言い給う』が存在する」ところのそれである、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的・可聴的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯することを通してなされる被造物としての「人間の口でもって語られる『主かく言い給う』が存在する」ところのそれである。「旧約聖書がわれわれに向かって預言者の現実存在と活動を神の啓示として証しするとき、旧約聖書は明らかに包括的にこう言っているのである」。したがって、「旧約聖書のもろもろの形態概念」(しるし)である「王、祭司、律法、犠牲、幕屋、神殿、聖なる国」もそうである。

 

 「他の民との交換可能な偶有性と事実性の中でのイスラエルの民」のように、他のものとの交換可能性を持っている「世界の中での神的なしるし」、旧約聖書における「しるしの世界全体」は、「福音書の中では、すべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」ように、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間(「まことの過去」)は復活へと向かっているように、それ故に「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」、「成就された時間」、「まことの現在」は、「新しい世」・時間のはじまりであるように、「キリストの出現とともにいわば一撃のもとに消え失せてしまった」「『きたるべき良いことの影』(ヘブル10・7)として認識され」、「古いしるしの世界全体の代わりに」、「使徒、宣教、洗礼、聖餐をもった教会が登場してくる」のである。何故ならば、これが、教会の客観性、可視性についてのすべてのことだからである。言い換えれば、教会は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的・可聴的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉なのである。この意味で、教会は、キリストにあっての「神のみ手にある道具」である。このしるし・道具の現存は、「キリストにあって世と人間が神のみ手の中におちたという神の支配の樹立を意味している」。したがって、それは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す人間自身による「宗教的な人間支配の樹立を全く意味していない」のである。何故ならば、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト(「啓示ないし和解の実在」そのもの)が、われわれ人間に対して、そのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、われわれは、「神の支配のもとに入ることを承認し確認する」からである、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」からである、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」からである。その時、イエス・キリストにおける啓示こそが、われわれ人間の、その個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である、自然神学あるいは自然的な信仰神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所である。

 

 「キリストの出現それ自身」、すなわち「この世界の中で人々の耳の前で鳴りひびいたイエスの言葉、……目の前で起こったイエスの行為は、受肉した言葉(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示ないし和解の実在」、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)のことを語る言葉である」。「またキリストの出現以後の(≪イエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした≫)教会も、いうまでもなく世界の中にあるのであり、それとしてしるしを与えることを必要としつづけている人間から構成されている」。したがって、そうした仕方で「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯する第三の形態の神の言葉である「教会はキリストではない。教会はキリストの全権、すなわち、永遠の言葉そのものの無比な全権をもっていない。教会はまたキリストの行為をなすようにとの全権を委任されていない。使徒行伝によれば、はじめなおしばらくの間、キリストの弟子たちの間でも力を発揮して働いていた預言と奇蹟の行為は、明らかにただ、キリストご自身の出現と反映」であって、それ故に「間もなくやんでしまわなければならない反映でしかない」。「しかしやんでしまうことのないものは、十字架につけられ、甦えり給うた方によってなされた十二使徒の召命、委任、派遣であり、キリストについての彼らの証言に基づいてさらに先へと続けられてゆく」、すなわち「キリストについての説教、洗礼を施すこと、聖晩餐を祝うことによってキリストが宣べ伝えられること」――この教会の宣教(説教と聖礼典)、「教会の業」を通して「すべての国民から集められるところの民、である」。これが、「新約聖書の新しい、単純化され、集中されたしるしの世界である」。したがって、キリスト教会は、「それ自身の現実存在と歴史を持っている限りその歴史の中にある」のであるから、「新約聖書のこのしるしの世界に属している」。したがってまた、「常に繰り返しあの起源的な、十二使徒の召命、委任、派遣とともに与えられたしるしでもってはかられ、そのようなしるしの前で自分が正しいものであることを実証しなければならない」もである。言い換えれば、キリスト教会は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり、啓示の主観的可能性として客観的に可視的・可聴的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(通俗的な意味でのそれではなく、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないのである。そのような仕方で、神の言葉は、「世代から世代にわたって、繰り返し新しく認識され、理解される」のである。そのような仕方で、神の言葉は、深化され豊富化されたキリスト教に固有な類として、キリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)に時間累積されて行くのである。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である「教会の実在、啓示の主観的実在」は「信仰共同体的」であると言われるのであるが、その「啓示の主観的実在」の場所である可視的な可聴的な第三の形態の神の言葉である教会は、「厳格に」このような「客観的な側面を持っている」のである、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的・可聴的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯すべき第三の形態の神の言葉という「客観的な側面を持っている」のである。したがって、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であると言うのである。

 

 さて、サクラメントの概念は、「起源的には(例えばテルトゥリアヌスおよびキプリアヌスの用語法の中で特に……)……後代におけるよりももっと包括的な意味」を、すなわち教会において、人間に対して授与された啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在、信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示「信仰の秘義そのもの」を、それ故に「われわれが(≪「人間に対して提供された」秘義の奇跡、≫)しるしを与える」という包括的な意味を言い表していた。「サクラメントハ人間ヲ聖化スル聖ナル事柄ノシルシデアル(トマス)」、「聖礼典ハ……ワレワレニ対スル神ノ御意ノシルシオヨビ証シトナルヨウニ、マタ、コレヲ用イル者ノウチニ、信仰ヲ励マシススメコレヲ堅クシヨウトシテ、定メラレタノデアル(アウグスブルク信仰告白十三条)」、「聖礼典トハ、主ナル神ガ……ワレワレノ良心ニ、ワレワレニ対スルゴ自身ノイツクシミノ約束ヲ封印シタモウコトノ、外的ナシルシデアル(カルヴァン、キリスト教綱要……)」――これらの定義は、「言葉の特別な、狭い意味での聖礼典が意味されていると同時に、……(≪可視的・可聴的な、知覚的対象性としての≫)教会の客観的な側面が意味されている……」。カルヴァンは、この聖礼典の意味を、「具象的に述べようとした」――「聖礼典は神的な恵みのいわば証印、あるいは画像、あるいは鏡像であり、それは信仰を支える柱、あるいは神の言葉について確信するようになる習練である」。

 

 この後代の狭い意味での聖礼典の概念は、先の包括的な意味での聖礼典の概念に包摂された、それ故に「神的なしるしを与えるという一般的な概念の内部での、特別な何か」、すなわちそれは、前述した「外的ナ表象、要素(≪自然的な、洗礼における水、聖餐式におけるパンとぶどう酒≫)、目ニ見エルシルシ、聖ナル行為という概念が強調されている」、「洗礼と聖晩餐のことが指し示されている」。と同時に、それは、包括的な意味における「信仰の秘義そのもの」を、それゆえに秘義の奇跡・「神的しるし」を与えることが強調されている。「西方の聖礼典論にとってアウグスティヌス以来……決定的となったしるしという概念……目に見えるしるし」は、「狭い意味での聖礼典のことを意味している」。しかし、アウグスティヌスは、教会の宣教(説教と聖礼典)における説教、すなわち「語られた人間の言葉、あるいは書かれた人間の言葉を、しるしの中に数え入れている。言葉ハシルシ以外ノ何モノデモナイ」。ここでは、もっと包括的に「知覚」という概念において述べられている。「言葉はまた、人が耳でもって把握し、目でもって見ることができる外的な事物(ルター)」、客観的な対象物である。「しるしはその本性からして……われわれの世界に、われわれの観察と経験の領域に」、われわれの感覚と知識を内容とする経験的普遍の領域に属している。「目ニ見エルシルシとしての聖礼典」は、「外的な象徴」、すなわち啓示の客観的実在、啓示の客観的現実そのものであるイエス・キリストをのみ主・頭として、またその起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示に基づいて」、それ故にそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的・可聴的に存在しているイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯した「教会が一つである」ということの「しるし」である。