24の3.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
24の3.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。この『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「U 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「二 神の存在を問う問い」
アンセルムスにおいて、「神の essentia本質を問う問い」の前に先行させるべき「信仰ノ知解、すなわち証明の対象に……なった」ところの「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)が、換言すれば『モノロギオン』における「existereあるいはsubsistere〔いずれも存在スルの意〕という意味でのesse〔存在〕という概念」が、「『プロスロギオン』においてはじめて」、自覚的に取り上げられることになった。何故ならば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)の中におけるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのために神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(起源的な第一の形態の神の言葉であり、「啓示ないし和解の実在」そのもの)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「ナザレのイエスという人間の歴史的形態(「イエス・キリストの名」)において、その「三位相互内在性」における内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示であるからである(『教会教義学 神の言葉』)。
「essentia〔本質〕は、対象の存在の力アルコト(Machtigkeit)を、esse〔存在スルコト〕は、対象の存在の実在性を言い表している」と「解釈することがゆるされる」が、「対象は、それがそこに存在する(da isut)限り、すなわち……ただ単に人間の考えにとって対象であるというだけでない限り、existens sive subsistens〔存在、存在シテイル〕と言われる」。「existensあるいはsubsistens〔存在、存在シテイル〕」という概念は、「一つの対象を、考えられていることの内的領域から(その対象は、そもそもそれについて語られる限り、またそこに身をおいているのであるが、その内的領域から)『外に出ている』として、すなわちその存在の力あること(Machtigkeit)、その存在の実在性とそのそこ存在(Da-Sein)についてのすべての思惟に相対して、『対自的に存在している』として、独立的に(もっともあの思惟することに対して閉ざされていないのであるが)存在するとして特徴づける」ことができるから、「その対象は、そこ存在(Da-Sein)を持っているのであり、その存在の力あること(Machtigkeit)と実在性(Wirklichkeit)については、おそらくほとんど、あるいは全く何も語られることができないとしても、それは、現実存在している(existiert)」のである。ちょうど、イエス・キリストにおける神の自己啓示が、その「啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、キリストの霊である聖霊の証しの力を持っており、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を持っており、キリストにあっての神は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)の中において、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)の中において「現実存在している(existiert)」というようにである。バルトは、『教会教義学 神論』において、イエス・キリストにおける「神の自己啓示によれば、神は、神とは異なる実在の内部で、神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」、「よく注意せよ。それは、神の現実存在」を、それ故に神とは異なる「実在全体」(具体的には、個体的自己としての全人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能全体)が対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」の存在では決してなく、徹頭徹尾「自ら証明する自由」における「存在者の存在」――すなわち「神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」と述べている。言い換えれば、自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神は、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性において、「神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」。
「『モノロギオン』と『プロスロギオン』五−二六章において論じられている神の本質についての教え」は、「神のessentiaとesseと取り組んでおり、その核心ニオイテ」、それら「二つのものは、神においては、……二つのものではなく、(≪「単一性と区別」において、区別を包括した単一性において≫)一つのものであるということを語っている」、ちょうど自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神は、われわれのための神としてのその「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方――すなわちイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・イエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において現実存在しているように、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性において現実存在しているように。「神は、その自足性のゆえに、すなわちその創造主としての栄光のゆえに、神は現にあるすべてのものである」。「神ご自身は、常にあるところのものであり給い、神が常にあるところのものそのものであり給う」、ここに「神のすべての力強さである」。この「神の力強さと神の実在性は同一である」――「アナタハイツ、アルイハドノヨウナ形デ、ドノヨウナモノデアルニシロ、全体トシテマタ常ニソノモノデスカラ、アナタハアナタデアルトコロノモノデス」、「最高真理ハ何モノニ対シテモ全ク負債ハナイ。マタ、ソレガ最高真理デアルノハ、ソレガソレデアルトイウ以外ノドノヨウナ理由ニヨルノデモナイ」、「善ト全能、ソレカラマ同様ニ、アナタニツイテ語ラレ、信ジラレテイルアレラスベテノコト以外ノ本質ガアナタニ属スルコトハアリマセン」。三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)の中において、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義の中において「語ラレ、信ジラレテイルアレラスベテノコト以外ノ本質ガアナタニ属スルコトハアリマセン」。われわれは、この神の「力強い実在性」、「あるいはまた実在の力の証明」は、「『モノロギオン』においては、神概念として、アラユルモノヨリ大キイモノの前提のもとで、……神の存在を問う問いを未解決のまま残しつつなされた」が、「『プロスロギオン』においては」、「どのように……あの神概念をソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノを通して置き換え、それ故に神の本質を、別な仕方で証明するに至ったかということを見た」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「神の存在を問う問い」を「神の本質を問う問い」の前に先行させたのである。われわれは、「明らかに同時に、それとの関連性の中で、……アンセルムスにとって……、あの未解決のまま残された問い」――すなわち、「神の存在に関する真理問題」については、その「問い」のベクトルが、「対象を考えることの『内的な』円を超えて、対象そのものを考えることの『外的な』円へと突き進み、それと共に、真理そのものに向かって突き進むような仕方で、真剣に受け取られるべきである」というように変容させられているのを見たのである(これが、「『プロスロギオン』二章の表題、神ガマコトニ存在スルコト、の最初の可能な解釈である)。「信仰が神の存在を肯定する際の確信に、……神が存在しないことを考えることができないという不可能性を見てとる洞察は対応しない」。したがって、「信仰の要求された知解」においては、「神として表示された対象は、ただ考えの中でだけ存在するとして考えられることができないということが示されなければならない」(下記の【注】を参照)。「このことを示すことが、『プロスロギオン』二−四章でなされている神の存在の証明の意図である」。ここに、「神の存在証明がアンセルムスに対して要求されている際の、特有な特徴的な切迫性」があるのであるが、そのことは、「これまで語られたことをもってしては、まだ明らかにされていない」。
【注】
アンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」――このことを、「人は合理主義だと批判した」が、彼は、「教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」としてのキリストの「啓示から得られた認識」、そのことを前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)における第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)から、啓示認識の可能性について考えたのである。詳しく言えば、イエス・キリスト自身を起源とする聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、イエス・キリスト自身を起源とする聖書に対する他律的服従とそのことに対する決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求めたのである。
「神の存在を問う問い」は、ある「対象の存在を問う一般的な問いの特別な事例として理解され、それに対応しつつ答えられなければならないかのように受け取る誤解」をした「父」は、「ガウニロである」。すなわち、ガウニロは、「神概念を、何かある一つの概念とみなしたように、また神の存在を何かある一つの存在とみなしたのである」。ガウニロは、「そのことでもって、ちょうどアンセルムスの第一の歩みを誤認したと同様に、第二の歩みをも誤認したのである」。言い換えれば、「一般的な存在の問題」である「あの島の証明」と「特別な問い」としての「神の存在の証明」を「均等化」したガウニロにとって、「神の存在を問う問いは、……はるかに僅かな切迫感しか」なかったということである。すなわち、アンセルムスが「神の存在を信じており」、それ故に「神の存在について考えなければならないが故に、神の存在を知解しようと欲する際の(≪彼における≫)情熱」は、「ガウニロには全く縁遠いもの」であったのである。ガウニロの「好奇心的な情熱」は、「神をただ思惟の中でだけ存在するとして考えることが全く可能であるという主張に向けられていた」のである。ガウニロは、人間の自由な内面の無限性に依拠して「存在者レベルでの神」を対象化し客体化することができる彼の「内的生活」に情熱を向けたのである――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」(『キリスト教の本質』)。この生来的な自然的な人間に備わっている自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して、「ガウニロは、熱心に、鋭く、誠実に思惟する」、恣意的に自由に自己主張する。したがって、ガウニロは、「神の存在について考えなければならないことはないのである」、また「神の存在を証明しようと欲しなければならないことはないのである」。ガウニロは、この「なければならない」という「二重の強制から」自己解放して思惟し自己主張し自己表現しているのである。すなわち、ガウニロは、その最初から、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯することを放棄してしまって、それ故に彼は、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」の措定へと向かうのである。したがってまた、ガウニロは、「最初のそのような神学者(≪すなわち、自然神学者≫)ではないし、また最後のそのような神学者(≪すなわち、自然神学者≫)でもないのである」。何故ならば、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々(≪その最初から世俗的牧師を名乗る者等は除外して、その人がヘーゲル主義者であろうとなかろうと、ハルナック、パネンベルク、ブルンナー、ニーバー、ティリッヒ、ボンヘッファー、ブルトマン、モルトマン、ユンゲル、クラッパート、ボーレン、マクグラス、滝沢克己、八木誠一、北森嘉蔵等々)の所でも、……(≪人間中心主義的に人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見した≫)ヘーゲルの強力な痕跡(≪総括的に言えば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を後景へと退けてしまって、キリストにあっての神としての神だけでなく、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を追い求める自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の痕跡≫)に遭遇する」からである(『ヘーゲル』)。
アンセルムスは、「モシ、実在トシテニシロ、思考ノウチダケニシロ、存在シテイルモノデ、私ノ論証ガ適用サレ得ルモノヲ、『ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノ』以外ニ誰カガ見ツケテクレタナラ」、ガウニロの「島の存在も断固として証明することができると宣言する」。しかし、そのことは、アンセルムスにとっては、「ただそのものの存在だけが証明されることができるものの存在の証明をなすことを意味している」、ちょうど神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト)が、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo、教会の<客観的>な信仰告白および教義におけるイエス・キリスト)が現存していると言うことができるように、それ故に「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるしである」と言うことができるように。アンセルムスにとっては、「それと共に与えられた切迫性をもって、神の存在証明は……要求なのである」――「存在シナイト理解サレ得ナイコトハ、神ニ固有ノコトデアル」。「なぜなら、『確カニ、始メアルイハ終リガアリ、アルイハ、部分カラ構成サレテイルモノ、マタ……ドコカアルイハイツカ全体トシテ存在シテイナイモノハ、スベテソシテソレラダケ存在シナイト考エラレ得ル』、『シカシ、始メナク、終リナク、部分カラ構成サレズ、マタドノヨウナ思考ニヨッテモ、常ニマタドコデモ全体トシテシカ見イダサレナイモノダケハ、存在シナイコトガ考エラレ得ナイ』からである」。「ガウニロに反対する四章において、アンセルムスにとっては、神の存在が問題なのではなく、神の存在は……アンセルムスによって意図された厳格な仕方でだけ、証明されることができるということの証明が問題である」ところの「わき役的な証明」であり、それは、「神の本質からしてなされる」とした「ボナヴェントゥラ」の考えは、アンセルムスの意図から外れた考えであり、それ故に「神の存在の証明として役立つことはできない」のである。