2の2.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』
2の2.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(104-119頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「十六節 神のための人間の自由――二 聖霊、啓示の主観的可能性」(104-119頁)
「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊は、「啓示への個人的な参与を保証する」。パウロにおいて、啓示の主観的実在としての「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊、知恵と啓示の霊による神の啓示への参与」、すなわち「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「人間の思惟、行為、語ることを、主観的に表示している概念である」。また、「キリストにあって」とは、啓示の客観的実在(客観的なイエス・キリストにおける「啓示ないし和解の出来事」)と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念である」。神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源・根源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、またその聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という<総体的構造>における「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて、「神の啓示」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示ないし和解の出来事」)が、「人間の身におよぶこと(≪人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)が可能となる時」、それと同時に、聖霊自らが、われわれに対して、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間は、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を持つ「可能性(≪啓示の主観的可能性≫)をもっていない」ということを認識させるのである。すなわち、聖霊自らが、われわれに対して、生来的な自然的な人間が本来的に持つ、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(それは、われわれ人間の不信仰・無神性・真実の罪である)もという「困窮」を認識させると同時に、そういう考え方を「思いとどまらせるのである」。
バルトは、「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」について、次のように述べている――すなわち、「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、第一に、われわれが、「一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるがゆえにそのように告白することを要求する」、第二に、われわれ人間の「中にも・中からも」、「純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」、第三に、われわれ人間の「理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」、第四にわれわれ人間の「究極的限界性を告白することを要求する」、と。
あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられた啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定によれば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間は、「神に相対して不自由」であり、それ故に「神に向かって……徹頭徹尾無力な人間、ただ単に病人であるというだけでなく死んだものである」。したがって、教会論的なキリスト教的人間であれ、神に「敵対」し「耳を傾けず」「耳を閉じて聞こうとしない真実の罪人」である、「義とされた罪人」である、「人間的不真実の中で、神的真理について語ることが許された者」である。このような訳で、「神ご自身が、人間の救い主となるために、登場し給わなければならない」。すなわち、「厳格な意味で」、「世は失われ滅びに沈んでいた」から、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的「失われない差異性」の中での三つに存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストが誕生し登場し給わなければならない」。
確かに、われわれ人間は、フォイエルバッハが述べているように人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を持っているし、マルクスが述べているように、個としての人間は身体と精神を介した、普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、人間化された自然としての人間的自然を含めた宇宙・天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動を行うことができる(それ故に、個々の世紀の個体的自己の成果の世代的総和の時間累積が歴史である)、「被造物が持っている可能性のうちの多くを持っている」。しかし、それら生来的な自然的なわれわれ人間の自由は、「神と共に存在する可能性を持たない」のである。したがって、それら生来的な自然的なわれわれ人間の自由は、「神に向かって自由」の可能性とはならないし、「神のための自由」も持たないのである。したがってまた、「神と共にある」ことは、あの総体的構造における、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における神の第二の存在の仕方である「イエス・キリスト」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)と、そのキリストの「御霊」である神の第三の存在の仕方である「聖霊の注ぎ」(その啓示の出来事の中での主観的側面としての「信仰の出来事」)においてのみ、可能となるのである。
第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会において、啓示ないし和解の出来事、インマヌエルの出来事、福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、「イエス・キリストにのみ固着」せよ、というキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法がうち建てられる。何故ならば、この律法(神の命令・要求・要請)がなければ、われわれ人間は、現実的にキリストの福音を所有することができないからである。この意味で、「律法の成就」・「律法の完成」そのものとしてのイエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立していないのであるから、律法は、本来的には「生命に導くもの」・「神の恩寵を証しするものという事実において、福音を内容とする福音の形式」なのである、換言すればイエス・キリストにおいて律法は、あの総体的構造に基づく「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関における「隣人愛」のことである、それ故にそれは、余りに人間的な通俗的な意味での隣人愛ではないのである、それ故にまたそれは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」(『福音と律法』)。
われわれは、あの総体的構造に基づいて「神の言葉が認識される時」、すなわち啓示認識・啓示信仰が授与される時、それと同時に、「人間は神に向かって不自由であること」・「神のための自由を持っていない」ことも認識させられるのである。言い換えれば、「神に向かっての……事実的な自由は、奇蹟(≪啓示の秘義の徴≫)であり、神の言葉の自由に基づいている」ということである。言い換えれば、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に、キリストの霊である聖霊の証しの力に、神のその都度の自由な恵みの決断に基づいているのである。したがって、「われわれ自身の自由と可能性に基づいてはわれわれは永遠に神の言葉を認識しない」のである。したがってまた、「啓示がわれわれの身に及ぶということが可能となるために、啓示がわれわれの身に及ぶに際してわれわれ自身の自由と可能性は何もないということがわれわれの確信とならなければならない」。すなわち、「啓示がわれわれの身に及ぶ」ことは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいているというが確信とならなければならないのである。したがって、徹頭徹尾あの総体的構造に基づかないところの、人間の自由な(恣意的独断的な)自己意識・理性・思惟の類的機能による「人間に固有な決断の誇り」――すなわち「『神はすべてであり、人間は無であり、汝は白痴である』といった式の主張の仕方、あるいは抗弁の仕方」は、「人間的誇りの一形態でしかない」のである。したがってまた、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(不信仰・無神性・真実の罪)を「思いとどまらせる力も、ただまさに言葉そのものの力であり、そのように思いとどまることが事実われわれの身に起こる限り、それは聖霊の力によるのである」。
われわれは、あの総体的構造の中での「神が啓示されてある」こと――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の連続性に連帯することにおいて、「人間を自分自身の自由という顕著な地位からひきずり下し、彼を神の子供の自由という品位ある地位に任命されてあることを理解する」。「人間が神の永遠の恵みといつくしみを通して否定されること」、「ただ神の子供として、神と人間の間の契約にあずかるものとして否定されること」は、キリストにあっての神としての「神ご自身を通してのほかには遂行されえない」。すなわち、われわれが、「常に……、われわれ自身の可能性を遂行し、……われわれ自身の可能性を信じ込む……囚われの状態……に対してこそ、勝利を収めることができる」のは、キリストにあっての神としての「神の可能性のみである」。キリストにあっての神は、その第二の存在の仕方であるイエス・キリストの死と復活の出来事における「神の勝利」としての「神の永遠の恵みといつくしを通して」、「それ自身の中で閉じられた人間」、「ただ自分自身の自由だけをもっており、知っている人間の唯一無比性」を、「神およびその自由(≪その中で「神は、この人間と交わりをもとうと欲せられ、この人間に対して彼の主としてすべてであろうと欲し給うその自由」≫)……の唯一無比性を通して立ちまさった仕方でめぐり囲まれ、決定的に相対化される」。「神の力としての……聖霊の力だけ」が、まさに「人間の救いとなる……キリストにあっての彼の存在とその富、高揚、生命をもたらす貧しさ、謙虚、死の可能性……である」――聖霊は、われわれに対して、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」という認識(信仰)を与えるであろう(『福音と律法』)。
「富んでいる者が天国に入るのは難しい、それよりはらくだが針の穴を通る方がもっと易しい(マタイ19・23以下)」――「イエスのこの言葉の普遍的な意義に気づいた弟子」は、それでは「だれが救われることができるのだろうと考えて尋ねた」。「イエスは、人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はないと答えられた」。ここにおいて、「命に通じる狭い門と細い道は理解されなければならない」。起源的な第一の形態の神の言葉である「イエスの宣べ伝えとイエスの言葉を聞くということ」は、「人間に下された裁きの言葉を聞き、そして受け入れることである(マタイ7・24以下)」。「しかし、一体誰がここで『受け入れる』ことができるであろうか」――「〔父を〕あらわそうとして子が選び給うたもの(マタイ一一・二七)、天国の奥義を知ることが許されているあなたがた(マタイ一三・一一)である」。すなわち、「幼な子のようになること(マタイ一八・三)である、新しく生まれること(ヨハネ三・三)である」。しかし、「そのことを何人もなすことはできない」。人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な人間は、誰もその「可能性を持っていない」。「悔い改めて福音を信ぜよ(マルコ一・一五)。確かにその通りである」。「しかし、まさにそのことを何人もなすことはできない」。誰もその「可能性を持っていない」のである。その極限に想定される「人間の死」は、「その可能性の限界であり、放棄であり、除去である」。また、聖書においては、「すべての偉大な神秘家たち」が行った「泰然自若の境地を通して最後的に自我を捨て消滅する」というその在り方も、その可能性の根拠ではない。「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」し、われわれ人間は誰であれ、生来的な自然的な『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』全く信じることができない」のである(『福音主義神学入門』)。
そのような訳で、聖書は、「人間によってはいかにしても実行されえない出来事のことを言おうとしているのである」。「聖書はそのまま人間の身に及ぶ死について語っている。われわれは、この死ぬことが、ローマ六・三以下、ピリピ三・一〇以下で、キリストの死およびわれわれに与えられたそのしるしとしての洗礼と最も密接に関連づけられているのを見る。ひとりのものがすべてのために死んだ、それ故に彼らは皆死んだのである(Uコリント五・一四)。キリストにあるものは新しく造られたものである。それ故に、彼らにとって古きは過ぎ去った(Uコリント五・一七)が妥当する」。「世は自分自身を罰することはできない。ヨハネ一六・八以下によれば、世を罰するであろう方、『裁きをなし火をもって焼きつくすであろう』(イザヤ四・四)方は慰め主なる聖霊である。人間に対して下される裁きは、人間自身がなす事柄ではなく、神がなし給う事柄である。まさにそれだからこそ、聖書の中では裁きは決して義から……切り放されることはない」のである、ちょうどその区別を包括した単一性において、キリストの十字架(旧約、「神の裁きの啓示」、律法)がキリストの復活(新約、「神の恵みの啓示」、福音)に包括されているように、また律法は、イエス・キリストにおいては二元論的に福音と対立しておらず、「律法の成就」・「律法の完成」(「神の義、神の子の義、神自身の義」)そのものであるキリストの福音を内容とする福音の形式であるように。両者は、区別を包括した単一性として理解されなければならない。あの総体的構造に基づいた「まことの悔い改めこそ」が、「自分自身を、それであるから啓示の主観的可能性」を、「神的な可能性として理解する」。
ルターは、「一五一五年から一六年にかけてなされたローマ書講解」で、「人がキリスト教的な悔い改めと謙遜へと導かれるならば、それもまた神のみ業であって、人間の業ではない」という主調音において、次のように述べている――第一に、「ワレワレハ決シテ自ラ内省シテ虚言者・不義者トナルコトハデキナイ……」、第二に、「信仰ニヨッテ神ノ義ガワレワレノ中ニ生キルト同様ニ、ソノ同ジ信仰ニヨッテ罪モマタワレワレノ中ニ生キル、スナワチ信仰ニヨッテワレワレガ罪人デアルコトガモットモダトサトル」、第三に、「モシモ神ガ先ズゴ自身ヨリ現ワレ出給イ、真実ナル方トシテワレワレノ中ニ立トウトシ給ウノデナケレバ、ワレワレハ決シテ自ラ内省シテ虚言者・不義者トナルコトハデキナイ……」、第四に、「ソコデワレワレハコノ神ノ啓示、スナワチ神ノミ言葉ニ席ヲユズリ、信仰ヲオクリ、コレヲ義トシテ確認シ、コレニ帰依シ、ワレワレ自身ヲ、(コノ道以外ニハ認識サレナカッタデアロウワレワレ自身ヲ)罪人トシテ告白スベキデアル」、第五に、「そのようなわけであの罪人トナルコトはただ聖霊ノ働キニヨッテ現実に起こることができるだけであるし、謙虚サはただ霊的ナコトとして実在となることができるだけである」、第六に、「霊的ニシテ知恵アル人間ノシルシハ、自分が肉デアルコトヲ知リ、自己嫌悪ノ情をモツコトデアル」。
また、カルヴァンは、「キリスト教綱要の有名な導入の章」で、「知恵の総内容」を、「神ヲ認識スルコトト、ワレワレ自身ヲ認識スルコト」において、「いずれが他に先立ち、いずれが他を基礎づけているかということを問う問いから出発している」。人は、存在の類比を通して、「人間の中に見出すところの不幸に満ちた世を目撃することによって、己が無知と、むなしさと、乏しさ、無力、ついには堕落と頽廃との感におそわれて、主ニオイテのほかはどこにも、知恵、力、善、義、真理がないことを認識することができる」し、「自分自身に対する不快感をいだきはじめてから……神を真剣に渇望することができる」し、「神を尋ね求める契機」・「神を見出すことへと導いてゆく契機」とすることができる。しかし、「一体どのようにして人は、実際に、自己認識(≪・自己理解・自己規定≫)にまでくるのか、というように問わなければならない」。「神の御顔をまず凝視し、ソノ次ニコレヲ直視スルコトカラ自分自身ヲ検討スルコトへとくだって来るのでなければ、決して自己認識に到達することはできない」。「一旦、われわれが思いを神に向け、神の義と知恵と力のことを考えはじめるならば、われわれにとってわれわれの義は不正として、われわれの知恵は愚劣として、われわれの力は無力として明かになってくるし」、それ故に「実際の自己認識にまで来るのである」。「われわれの神認識(≪啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)はそれに対応する自己認識(≪・自己理解・自己規定≫)によって条件づけられているとしても、この相互的に条件づけ合っている関連性の中で、まさに(≪あの総体的構造に基づいた、信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に対してこそ決定的に優先権が与えられなければならない」。したがって、われわれは、「自分自身の知恵と力」を、「すべて断念しなければならない」。言い換えれば、あの総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して人間の自己認識・自己理解・自己規定は可能であると言わなければならない、ちょうど「われわれが(≪あの総体的構造に基づいて≫)本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身を、またそのような人間の世を「認識」(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)することができる」ように、またちょうどあの総体的構造に基づいて、「神の選びをイエス・キリストの復活において認識(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)し、神の放棄をイエス・キリストの十字架において認識(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)することができる」ように。したがって、「悔い改めは厳格に信仰」、すなわちあの総体的構造に基づいた「キリストへの参与(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)から由来する」。したがってまた、「ワレワレノ自己否定――そこにカルヴァンはキリスト教生活ノ総内容を見てとった……――は、ワレワレハワレワレ自身ノモノデハナク、主ノモノデアルという命題から導き出されている」。したがってまた、「義認を信じる信仰の謙遜サ」は、「控え目デアルという徳」論から導き出されてはいないのであって、「み言葉の中にあっての神ご自身に希望をおく以外のことが人間には残っていないという命題から、導き出されている」のである。
「われわれはここで各方面から持ち出されたいろいろな教説に対して、われわれ人間の立場を限界づけなければならない」。われわれ「人間に固有な可能性」――すなわち、「神の怒りおよび裁きを指し示す」われわれ人間の「現実存在の否定的な規定」としての「すべての世界観的な虚構……幻想を解消され、……持たなくされる可能性」、「すべてのわれわれのイデオロギーと企てが挫折する可能性、そのような挫折の認識の可能性」は、「神の啓示に向かっての世界内在的な人間論的な結びつき点であるとする教説を限界づけなければならない」。すなわち、われわれ人間が「啓示を受けとることに対して何らかの積極的な可能性をもっているという考え方・教説を限界づけなければならない」。「まさに決定的な個所で現われてくる不連続性(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>≫)ということから、人間と神、自然と恩寵、理性と啓示の間の連続性が、それとともに中立的な『アンテナ』、第三条の自然神学の対象が成り立っているとする教説を限界づけなけければならない」。バルトは、『ナイン!――エミール・ブルンナーに対する答え』において、次のように述べている――ブルンナーの人間に固有な「結合点」は、啓示神学に対して、それをも規定し得る「独力で立った堅固な下部構造である」。カルヴァンは、ブルンナーと違って、「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め」、それらに独自性を与えて、「後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめる」ことをしていない。ブルンナーは、内容的には「神の像」は「全く失われてしまって、人間は徹底的に罪人であり、人間の中には罪で汚されてないものは何もない」と語るのであるが、「人間には啓示なくしても」、「人間自身が本来(≪生来的に自然的に≫)持っていて、そして啓示の中で言わば甦って来る」、人間に内在する「啓示能力」・「言語能力」・「言語受容能力」・「呼びかけられうる能力がある」、そしてそれは、「人間の持っている『神の像』である」と言う。すなわち、ブルンナーは、「啓示の中で初めて甦って来るところのものであるとしても、啓示に先立つ『啓示能力』」・「結合点」を主張する。この人間に固有な「結合点」は、罪人からも喪失してしまっていない「形式的な神の像」で、それは具体的には、人間の「人間性」・「理性や応答責任性や決断能力」のことであり、「神の啓示に対する客観的可能性となるものである」と言う。この「形式的な神の像」は、まさに「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を取り除くものであり、神と人間との「混淆」・「混合」・「共労」・「共働」・「協働」、「神人協力」を目指すものであって、首肯することはできないものである。バルトは、ブルンナーの目指している神学的課題が、「理性的思惟の絶対化〔絶対主義〕」「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにある、と述べている。ブルンナーのその「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の半減された「近代的精神」、人間の自由(恣意的独断的)な自己意識・理性・思惟の無限性は、新たな神と人間との「混淆」・「混合」・「共労」・「共働」・「協働」、「神人協力」を目指すものであって、首肯することはできないものである。このように、あの総体的構造に立脚したバルトは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞したままのブルンナーを客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判したのである。
「ほかならぬ病人こそが医者を必要(マルコ二・一七)」としている。「神の力は弱いものの中で力強い(Uコリント一二・九)」。イエス・キリストの「甦りと高揚」・「受難と死、最も深い屈辱こそ」が、「基礎であり意味である」。したがって、生来的な自然的なわれわれ人間の「愚かさ、低さ、弱さ、苦しみ、死という人間的現実存在の否定的な規定そのもの」は、基礎や意味とはならない。それらのものは、イエス・キリストにおける「あの救いとなる発見と同一ではない」のである。「それらのものは世界内在的な人間論的可能性として、何らかの功績があるわけではないし、われわれの現実存在の積極的な規定のさまざまな可能性と比べて何かすぐれた点をもっているわけではない」のである。「神が選ばれたものはこの世にあって愚かなもの、弱いもの、いやしいもの、軽蔑されているもの(Tコリント一・二六以下)」――それは、「『どんな人間でも、神のみ前に誇ることがないため』に選ばれたのである」。「キリストと貧しい者、病気の者、取税人等の間のあの関連性を……強調しているその同じルカ福音書記者」は、「実に三度も(ルカ七・三六、一一・三七、一四・一)……パリサイ人の食卓への招待に、応じさせている」。パウロは、「コリントの人たち」が、「ただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるにいたったから、神のみこころに添うて悲しんだから、……喜んでいるのである(Uコリント七・九―一一)」。人間的なこの世の悲しみの即自性は、その極限において、ある事件でもって・惨劇でもって・「自殺でもって反応することができる」。しかし、「神のみこころに添う悲しみ」は、「ただはっきりとさいわいなりとして祝福されることができるだけである」。何故ならば、その時には、その人間の現実的な人間的存在は、「われわれの人間的存在である」だけでなく、「それと同時に」、「ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいて」、その「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である」からである。イエス・キリストにおける啓示ないし和解の出来事(客観的な「存在的な必然性」)は、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であったこと」ということを、あの総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、「われわれ人間に自己認識させる」のである。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである(マタイ五・三)」という、この「こころの貧しさ」・「救いに役立つまことの絶望」は、「それ自身(≪あの総体的構造に基づいて与えられる≫)信仰に属する聖霊の賜物(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事≫)として、イエス・キリストの業(≪主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」、客観的なイエス・キリストにおける啓示ないし和解の出来事≫)である」。したがって、それは、「もともと(≪生来的な自然的な≫)人間の性質の中にある」「結びつき点」に属してはいない。すなわち、フォイエルバッハのキリスト教批判における「人間が自分自身から自分自身について知ることができることに属していない」。したがって、人間的なこの世の悲しみは、神の啓示との「一般的な、必然的な、体系的な……関連性を持っていない」。したがってまた、「まず第一に、われわれに対してその罪をゆるし給う神のあわれみを認識させられる」ところの、あの総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通した「人間の罪の認識」――この「結びつき点」は、「神によって新しく措定された『結びつき点』」、「もともと人間の性質の中にあるのではない」「結びつき点」である。「そのようなわけで、それらは、第三条の自然神学の対象ではない」のである。
そのような訳で、「この貧しさ」は、「抽象的に……われわれ自身の貧しさの経験から成り立っているのではなく、むしろ具体的に、ゴルゴダの丘の上で出来事として起こったイエスの貧しさ……われわれの貧しさを徹底的に、決定的にあらわにすると共に、われわれの富の基であるイエスの貧しさ(Uコリント八・九)……から成り立っている」。「そのようなものとしてこの貧しさ」は、「原理的な、包括的な貧しさである」、「まことの貧しさである」。何故ならば、「それは、実際に人を救う絶望であるからである」。したがって、この「神のみこころに添う悲しみ」は、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠した、存在の類比に依拠した、「世界内在的に、人間論的に確認され、理解され得るものとなる人間の現実存在の規定ではない」のである。