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『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「宗教の揚棄としての神の啓示(その3−1)」

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「宗教の揚棄としての神の啓示(その3−1)」(147−179頁)

 

バルトは、「宗教の揚棄としての神の啓示」について、次のように、理性的な定式化を行っている。

 

「聖霊の注ぎの中で起こる神の啓示は、人間的宗教の世界の中で、神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ、現臨し給うことである。換言すれば、人間が自分勝手に考え出し、自らの力できざみ造った神の偶像の前で、自分を義とし聖化しようとする人間のこころみの領域の中で、神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ現臨し給うことである。教会は、恵みを通して恵みによって生きる限り、まことの宗教の場所である」(147頁)

 

 先ず以て、私たちは、すでに、
@聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する、ということ、したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である、ということ、したがってまた、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である、ということを聞いた。
A聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」・単一性・永遠性を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている、ということを聞いた。
B対自的であって対他的・他在であって自在――すなわち完全に自由なる神は、単一性・神性・永遠性を本質としているから、父は子として「自分を自分から区別」するし、自己啓示する神として自分自身が根源であり、それゆえにその区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、単一性・神性・永遠性を本質としているから、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示するのであるが、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある、ということを聞いた。また、それと同時的・同在的に、この自在としての神が、人間へと向かうその他在としての存在の仕方(性質・行為・働き・業)において、「創造主としての神」として、「和解主としての神」として、「救済主としての神」として、自己啓示する、ということを聞いた。
Cこの「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」としての神の三つの存在の仕方から、「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある、ということ――それゆえにイエス・キリストにおける「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではなく、その「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」であり、「神的な愛の力」・「和解の力」であって、イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」した、ということを聞いた。この神の第一と第二の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできないのであるが、父・子は共に単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、その「存在の仕方」の差異性を意味している、ということを聞いた。
Dこのような訳であるから、単一性・神性・永遠性を本質とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである、そして、「われわれに出会う神」である父、子、聖なる神は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」という神の三つの「存在の仕方」に対応している、この神は、「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する、ということを聞いた。
 ここで、「復活日」とは、「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」――すなわち、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」キリスト復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、「既に来た方」であるイエス・キリストは、「またこれから来たり給う方」・再臨する方であることを語るのである。「聖霊降臨日」以降の時間は、「想起の時間」――「甦えられたかた」・復活のキリストをおぼえる想起の時間として、必然的に「甦えられた方を待ち望む」・再臨を待ち望む、終末、救贖・完成を待ち望む時間であり、そのようにしてそれは、「成就された時間」・キリスト復活40日に参与する。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、救贖・完成)を考えること・待望することは過去(キリストの復活)を考えること・想起することであり、過去(キリストの復活)を考えること・想起することは未来(終末、救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去、「旧約聖書的な待望の時間」、「聖金曜日」を考えることでもあるのである。
Eバルトは、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という<自然神学>的な語り方に対して、根本的包括的な原理的な批判を加えている――すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。それは、ただ単なる、人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかない、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」でしかない、と。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」でしかない、と。なぜならば、そのような人間が支配し管理する神と人間・神学と人間学との混淆・共労・共働・協働に基づく人間の啓示認識・啓示信仰、それに依拠した存在の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定を目指す<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」からである。したがって、バルトは、次のように述べるのである――「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した信仰・神学・教会の宣教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」・終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と。すなわち、バルトは、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に信頼し、神の啓示の主観的可能性である、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への連帯を通した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、その認識・信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与、を目指したのである。この、アウグスティヌスとバルトとの根本的包括的な差異性は、前者においては「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語られた、その紙一重の差にあるのである。したがって、バルトは、神の「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である、と述べるのである。なぜならば、神の言葉は、徹頭徹尾、人間の自由事項・決定事項の対象とは決してならない、からである。

 

 さて、これらのことを念頭に置いて、バルトの理性的な定式を理解すれば、次のように言うことができる。
@啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に信頼し固執して、すなわち、
A単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方(啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的実在、そのもの)、すなわち「まことの神」にして「まことの人間」であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(イエス・キリストの死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、「神と人間がひとつであるという……完成された出来事の単一性」――「言葉の受肉」、「肉ヲトルコト」・ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」をとること・「イエスの名」を持つこと)とそのイエス・キリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、具体的には、
B啓示の主観的可能性である、「神の言葉の三形態」――第一形態である教会の宣教の第一次的・第一義的な原理としてのイエス・キリストにおける啓示の出来事・啓示の実在そのものと、また第二形態である教会に宣教を義務づけている第一形態と共に教会の宣教の原理である聖書の証言・証し・宣教・説教、および第三形態である教会の宣教の客観的な信仰告白・教義、としての啓示の「概念の実在」――に信頼し固執し連帯することを通して、
B授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の存在と、その認識・信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の存在、の事実性における「神の啓示は、人間的宗教の世界の中」で、「神」が、「裁きつつ、しかしまた和解させつつ、現臨し給う」ということである。
 この場所にのみ、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」やその「神」の名と呼びかけによる「信仰」・神学・教会の宣教や<自然神学>的な宗教では全くないところの、それゆえにそうした宗教を揚棄したところの、「まことの宗教」の根拠・源泉がある。

 

 このことは、次のように総括することができる――イエス・キリストが、私たち人間に対して、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するということ、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するということ、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界(≪究極的限界、終末論的限界≫)の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを認識し承認し確認するということ、したがってまた、その神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、人間的な<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるということ、である。もっと包括的に言えば、このイエス・キリストにおける啓示の場所は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である、ということである(この総括は、何度も必要となるので、便宜上<HQの事柄・総括>と名付けておきたい)
 したがって、このイエス・キリストにおける啓示の場所においてのみ、神学における神的な啓示と人間的な宗教との「混淆宗教学の流儀」とは全く違うところの、すなわち人間の限界概念を保持した、「ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけある」ということを認識し承認し確認したところの純粋な宗教学が成立できる、ということを意味している。したがってまた、このように言うことができる――「神の啓示」は、ヘーゲル的な「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、また「神の自由を認識していないという事態」における、人間に内在する神的本質としての人間の対自的で対他的な・他在であって自在な――すなわち自由な自己意識・理性・思惟の無限性、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、その神の名と呼びかけによるそして結局は人間が支配し管理する「プログラム」、人間論や人間学的な哲学的原理・認識論・世界観、人間にとって部分でしかない科学や経済や政治や国家や理性や人間的な愛の精神や人間的な寛容の精神を全体化・絶対化する<宗教>としての科学<主義>や経済決定論や政治<主義>や国家<主義>や理性<主義>や寛容の精神<主義>、党派性・党派的共同性・党派的多元主義、等々の「人間が自分勝手に考え出し、自らの力できざみ造った神の偶像の前で、自分を義とし聖化しようとする人間のこころみ」の「領域の中で」、「神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ現臨し給うこと」である、と。言い換えれば、「神の啓示」は、「福音の中核」であるイエス・キリストが「律法(≪神の人間に対する要求≫)を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」――すなわち、神の側の真実としてのみある、それゆえに一切の天然自然や人間的自然に左右されないところの、徹頭徹尾客観的な、主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事を聞かず受け入れないで、神の恩寵を嫌悪し回避するところの人間・社会・世界・歴史、人間の自主性や自己主張や自己義認や自己聖化の欲求、不信仰・無神性・真実の罪、の「領域の中で」、「神が裁きつつ、しかしまた和解させつつ現臨し給うこと」である、と。
 このような訳であるから、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに、具体的には聖書に、すなわち啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯することによって、イエス・キリストを主・頭とする教会は、絶えず繰り返し教会となる、ことによって教会であろうとしなければならないのである。このようにして、「教会は、恵みを通し恵みによって生きる限り、まことの宗教の場所」となるのである。したがって、そうでない場合は、その教会は、<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教において、牧師自身・説教者自身が・人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」、その「神への信仰」、その神の名と呼びかけによる宣教しか行わない、余りに人間的な、それゆえに単なる建物を擁した制度的組織的な教会に過ぎないものとなるのである。

 

 バルトによれば――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの「死と復活」の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、救贖・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。啓示・和解についての説教は、牧師や説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく――なぜならば、その場合、その説教における神・啓示・宣教内容は、牧師や説教者自身が恣意的独断的に対象化した余りに人間的な<宗教>としての「存在者レベルでの神」・啓示・宣教内容に過ぎないものとなってしまうからである――、啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯して行わなければならないのである。したがって、牧師や「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍・人間学的な哲学原理や認識論や世界観・様々な情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼」は、啓示の固有な証明能力、啓示の主観的な可能性である「神の言葉の三形態」、に信頼し固執し連帯しようとしていないのであって、「真に信仰によって生き」ようとしていないことになるのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならないのである。その聖書は、神のその都度の自由な決断において「神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。したがって、私たちは、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、具体的には「神の言葉の三形態」におけるその神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。牧師や説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである。したがって、「教会は、(≪啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、具体的には「神の言葉の三形態」への連帯において≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事、インマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」のである。すなわち、ここにおいて、教会は、たえず繰り返し、<宗教>としての<自然神学>的な「存在者レベルでの神」に依拠した信仰・神学・宣教を揚棄し超克していくことによって教会であろうとする「まことの宗教の場所」として存在するのである。したがってまた、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである。

 

(1)神学における宗教の問題
 ここで、神の啓示の出来事は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と神の第三の存在の仕方である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく、具体的には啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と連帯を通した、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与において存在している、そしてそれと同時的・同在的に、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与において存在している。このことは、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、そしてそれと同時的・同在的な、それに依拠した人間の自己認識・自己理解・自己規定、について、「聖書を通してイエス・キリストの教会に証しされている通りの仕方で、理解され、言い表されなければならない」、ということを意味している。このことは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、ということを意味している。なぜならば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からである。ここで「解釈」するとは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。
 したがって、「神のもとで啓示の実在を、しかし人間のもとで啓示に対する可能性を確認すること」を、「啓示の出来事を神に帰し、しかしその出来事を受けとる器官あるいは結びつき点を人間に帰すること」を、「神の恵みをこの事柄における特別なこととして、しかし人間的な適正と受容能力」を、「この事柄における一般的なこととして理解することは、われわれに禁じられてい」るのである。「神を内容として、人間を形式として、それであるから啓示の出来事を神と人間の間の、恵みと自然の間の、共同作業として解釈することはわれわれに禁じられてい」るのである。言い換えれば、啓示の客観的実在を神の側に所属させ、啓示の主観的実在と啓示の主観的可能性を人間の側に所属させる思惟や企て、人間の側からする神との「共労」・「協働」・「共働」は、原理的に禁じられているのである。なぜならば、前者の出来事は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに属する事柄であり、後者の出来事は単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方であるイエス・キリストの霊である聖霊に属する事柄であるからである。包括的に言えば、それらの事柄は、徹頭徹尾全面的に、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に属する事柄だからである。(147・148頁)

 

 したがって、原理的に、神だけでなく人間も、という人間の自主性・自己主張に基づく神との「混淆」・「共労」・「協働」・「共働」の欲求は禁じられているのである。それと同時的・同在的に、神学と人間学との「混淆」・「共労」・「協働」・「共働」の欲求は禁じられているのである。なぜならば、その場合、
@ハイデッガーが、「『今日まさにこのマールブルク(≪前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマン等の主題と原理的方法≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」という揶揄的表現により根本的包括的に原理的に批判したように、ブルトマン等の神・啓示・信仰は、まさしく<宗教>そのものとしての<自然神学>的な、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・その「神」の啓示・その「神への信仰」でしかないからである。このハイデッガーの揶揄は、<宗教>としての<自然神学>的なブルトマン神学等に対する原理的な根本的包括的な批判であるにもかかわらず、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」者でしかなかったブルトマンは、そうした神学における思想の課題を認識し自覚できなかったために、そのハイデッガーの原理的批判を、原理的に根本的包括的に止揚することができなかったのである。このことは、アジア的日本的な自然原理とブルトマンの原理的方法に基づいて哲学的神学を構成した滝沢克己も同じであった。したがって、その後を追うその亜流の神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家も、同じであった。さらにその亜流の亜流である、信仰・神学・教会の宣教における原理および認識方法と概念構成を持たないまま、恣意的独断的に、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学(≪知識≫)が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学(≪知識≫)が不可欠なのです。神学的な操作((≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」と臆面もなく平然と主張する佐藤優も、同じであった。高校の倫理レベルの知識で、それゆえにその最初から誤謬を犯したままバルトの自然神学論を知ったかぶりして述べていた冨岡幸一郎も、同じであった。また、哲学は神学の婢という中世的思考に後退し停滞したまま「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与える」という形而上学的抽象的空論を主張するルドルフ・ボーレンやその亜流の佐藤司郎や小泉健の聖霊論的説教論における聖霊も、まさしく<宗教>そのものとしての<自然神学>的な、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・聖霊論でしかないのである。したがって、ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、小泉健が聖霊や聖霊の言葉を人間の自由事項としてしまって実体化した、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」というその主張における聖霊や聖霊の言葉は、まさしく<宗教>そのものとしての<自然神学>的な、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・聖霊・聖霊の言葉でしかないのである。
Aまさに彼らのそれは、フォイエルバッハが根本的包括的に原理的に批判した、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、というその水準のものに過ぎないのである。すなわち、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、というその水準のものに過ぎないのである。このような訳であるから、バルトは、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも」、「ヘーゲルの哲学的手法」である「受け入れ難く耐え難い」「ヘーゲルの強力な痕跡」、すなわち「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」に遭遇する、と述べたのである。ここで、「シュライエルマッハー以外の他の人々」は、前述した人たちだけでなく、バルトの啓示認識の可能性の問いを誤解したままバルトを批判したトラウプであり、ヘーゲル主義者そのものであるエーバーハルト・ユンゲルでありその亜流である大木英夫であり、直線的な神学的三段階的進歩史観を提唱したモルトマンであり、日本的なナショナルなもの――すなわち滅私奉公的な人間の在り方とヘーゲル弁証法との折衷により土俗的神学を構成した北森嘉蔵であり、「キリストと同じ形になること」を目指す「形成倫理学」・「時代と現実との関連における神学」・「状況連関神学」を主張したクラッパートとその亜流である寺園喜基であり、信仰論と受肉説におけるルター(拙著127−130頁参照あるいは私のホームページを参照)であり、「キリスト証言は、言葉と行為とをもってする説教者と聴衆とを要求する」というところで、この世における、キリストの許しのもとでの、神との「共働者」論に基づいたキリストを範型とした「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現「行為」を目指したボンヘッファー等々である。

 

 このような訳であるから、彼らは、ハイデッガーの原理的批判を根本的包括的に原理的に止揚することができないために、また神学的における思想の往還を持たないために、ただ一方通行的皮相的一面的場当たり的となってしまうのである。したがって、彼らは、手っ取り早く、時勢や時流へ迎合するのである、人間論や人間学の後を追うのである、大衆迎合や大衆啓蒙に走るのである、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭するのである、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」のである、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行」うのである、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進するのである。それに対して、バルトや吉本やフーコーやマルクス等の神学者や哲学者や文芸批評家や思想家は、一貫性のある原理的方法と、認識方法と概念構成と、その原理自体やその認識方法と概念構成自体に自己相対化視座と、思想の往還を持っているのである。緊急的相対的過渡的最低綱領的な往相的課題だけでなく、それと同時的・同在的に、究極的包括的総体的永続的最高綱領的な還相的課題を持っているのである。このことの例示は簡単である。一方通行的一面的な往相的課題しか持たない佐藤優は、『はじめての宗教論』で、神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と根本的包括的な原理的な誤謬に、普遍性とメディア的な組織性の後光をかぶせて述べている。この語り方は、ほんとうは、逆に形而上学的抽象的一面的皮相的な空論でしかないものなのである。佐藤の駄作の一面的皮相的な戯言は、二流・三流の神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家や世間を騙すことはできても、宮沢賢治の一流の著作を騙すことはできないのである。すなわち、宮沢賢治の一流の小作品を騙すことはできないのである。あの佐藤の駄作の一面的皮相的な戯言に対して、宮沢賢治は、思想の往還において、『農業芸術概論綱要』で、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べるのである、『よだかの星』の主題として、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない、と述べるのである。マタイ26・6−13、マルコ14・3−9においてイエスは、彼に注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な緊急的・相対的・一面的・過渡的な救済の言葉に対して、それと同時的・同在的に、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけるのである。

 

ア)啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与が、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与が、やはり聖霊の業としての啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した、啓示の主観的現実化・啓示の主観的実在としての人間が人間的に所有する人間のそれである限り、それゆえに「人間的な状態、経験、活動の形態をもつ出来事である限り、われわれはここで、人間的な宗教の問題と出会う」のである。なぜならば、「聖霊を通しての神の啓示は、人間的な現実存在のひとつの規定として実在であり、可能性である」からである。すなわち、それは、「ひとつの人間的な、歴史的および心理学的に把握することできる現象」として、その「本質、構造、価値」を考察することができるところの、客観的な対象性を持つことになるのである。したがって、「ここでわれわれが取り組まなければならないのは、まさに宗教という(≪それは、まことの宗教であるのかそれともそれ以外の宗教であるのかという≫)問題領域」についてである。すなわち、「われわれは、啓示の実在と可能性を、またその主観的な側面からしても、……神的実在および神的可能性として言い表そう」としたが、それと同時的・同在的に、その問題領域において、「神と人間の間の出会いと交わりについて、教会と聖礼典について、神の前での人間の特定の存在と行動の仕方(≪「キリスト教あるいはキリスト教宗教」≫)について、語」るのである。この後者における人間的な客観的対象性としてのキリスト教は、様々な宗教の中の一つの種、すなわち「類の中での種」として、「ユダヤ教、イスラム教、仏教、神道、あらゆる種類のアニムズム的、トーテミズム的宗教、禁欲的、神秘主義的、預言的宗教」と類似性を持っている、と言うことができる。このことから、啓示は、「独特なもの」、神的な「独一無比なもの」であるが、人間的には「独一無比なものではない」と言うことできる。したがって、私たちは、この同時性・同在性・構造性を「認識し、承認」しなければならないのである。

 

 さて、「人は……神および神々を、具体的な礼拝形式の形で神性の像や表徴とかかわることにより、あるいは犠牲、なだめの行為、祈祷により、宗教的風習、活動、密儀を通して、信仰共同体や教会の形成をとおして、崇め敬うべき義務について知」っていた。また、「すべての宗教がもつ世界観的要素と問題、例えば世の始めと世の終り、人間の発生と本質……」の問題は、キリスト教と同じであると言うことができる。すなわち、キリスト教は、まさに宗教史の対象であると言うことができる。すなわち、キリスト教は、「人間的な実在および可能性としても、理解されることができる」のである。
 フォイエルバッハによれば、人間の外にある自然を対象とする自然についての意識は、自己意識と異なっている。しかし、自己意識の対象は、人間の中にある内在的対象である。したがって、その宗教的対象についての意識は自己意識と一致する。言い換えれば、自然は人間の基底であるから、人間が自然から対象的になり得ていない段階においては、神も自然神である。しかし、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性によって対象化された神は、結局は人間の対象化された自由な自己意識・理性・思惟の類的本質(無限者)として、「存在者レベルでの神」となる。また、人類史のアジア的段階にあった農耕を経済的基盤とした日本において、天皇を含めて非農耕民は神人と呼ばれていた――したがって、バルトは、神学における思想の言葉において、「神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言い表している」と述べたのである。さらにまた、フレイザーの『金枝篇』によれば、西欧にも、人類史のアフリカ的段階・縄文的段階・「原始的な段階」における「樹木崇拝の名残り」が遺制として残っている。なぜならば、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」からである――この市民社会の経済的カテゴリーである「材料、資本、生産力」の概念は言語、性(夫婦・家族)の概念に置き換え可能であって、人は、ある歴史的現存生の中に生誕し、その環境の中で生き生活し思惟し意志し喜怒哀楽し時代を刻み、人間の類(人類)の歴史の継起として死んでいくからである。マルクスにとって、人間は自然の一部である。この場合、自然は、自然としての自己身体であり、他者身体であり、外界としての自然(第一次的に天然自然・人間的自然)である。人間はこの場所で、身体と精神を介した、普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動を行う。ここに、肉体的身体的および精神的意識的な、人間の類的な活動や生活がある。それは、人間諸個人による全自然の対象化であり・人間化であり・非有機的身体化でありであり、それゆえに天然自然の減少・縮小を伴う人間的自然の拡大・高度化・高次化であり、人間的自然の空間的拡がりと時間的累積であり、そのことによってまた人間は、人間の自然化・人間的自然として有機的自然となる、というように言うことができる。このことは、日常性に引き寄せても言うことができる。自らがそのことに対して意識的自覚的意志的に抑制しようとしない限り、例えばいつも先生と呼ばれている小中学校の教師は、日常においても、退職しても、行住坐臥・日常の身のこなしが、自然と先生的になってしまうのである。根本的包括的に原理的に理解しないままバルトや天皇制論や南島論や宗教論や神学やキリスト教等々を論じながら、にもかかわらずそうした知識の所有をエリートの象徴だと(勘違いして)考えていると、自然と、「権威」としての天皇・天皇制の護持に基づく権威と権力の分離による国家(国体)、国家<主義>――これは、まさしく佐藤自身の自己意識が対象化した人間的な<宗教>そのものとしての「存在者レベルでの神」への信仰である――を標榜している佐藤優のように、その発言にある内なるスターリン主義――すなわち党派性、党派的思想・党派的共同性、党派的多元主義の問題点を、認識し自覚しない、知ったかぶりのエリート振りになるのである。また、根本的包括的に原理的にバルトを理解しないまま高校の倫理レベルでバルトの自然神学論を論じながら、にもかかわらずそれをバルト論を介した使徒の象徴だと(勘違いして)考えていると、自然と、ほんとうは戦争廃絶を目指すべく戦争責任の告白を行った日本キリスト教団や教会に所属していながら、そうした様々な誤謬にメディア的組織性の後光をかぶせ、得意になって、国家主義者として靖国神社参拝――これは、まさしく冨岡自身の自己意識が対象化した人間的な<宗教>そのものとしての「存在者レベルでの神」への信仰である――を行う馬鹿げた文芸評論家の冨岡幸一郎のように、天皇制や国家の<無化>の構想を認識し自覚し担わない、知ったかぶりの<似非>使徒振りになるのである。しかし、ここで最も問題なのは、そうした彼らを支えているところの、何ら根本的包括的な原理的な批判ができない、またそうしようとしない、見て見ぬふりをするところの、日本キリスト教団であり教会であり、神学者であり牧師であり、キリスト教的メディア的著述家であり、商業主義を第一義とするメディア的組織である。このような訳であるから、私たちは、そうした彼らの知識や情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。

 

 いずれにしても、せめて、「わたしは、個人がだれでも誤謬をもつものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするものをみると、憎悪を感じる。(中略)弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ」(『カール・マルクス』勁草書房)という、吉本の文芸批評家としての思想家としての質の良さを見習って欲しいものである。もっと言わせてもらえば、バルトを論じるのであれば、せめて、@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)、B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問い(≪時代状況に強いられた神学における思想の課題を認識し自覚し担い、「神の言葉の三形態」を通して、現在から未来に生きる言葉を探求すること≫)によって突き当てられ動かされる者たち」のことであるという、バルトの神学者としての牧師としての思想家としての質の良さを見習って欲しいものである。

 

 まさに、神は、その啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示の固有な証明能力、その「神的実在と神的可能性」それ自体において、前述したような「莫大な量の並行事象と類似現象」のただ中に、「入り込み給うた」のである。このように、神の啓示は、「人間的な宗教の世界の中での神の現臨であり、したがって人間的な宗教の世界の中での神の隠れである」。すなわち、「神の隠れ」は、それと同時的同在的に、「聖霊の注ぎ、……言葉の受肉」による「まさに人間に対する神の啓示」、顕現である、「まことの宗教」への召喚である。言い換えれば、私たち人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて可能となるということ、また人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与は、その認識・信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて可能となるということ、である。これが、「神的実在と神的可能性」の事柄である。ここに、終末論的限界の下で――すなわち途上性において、絶えずくり返し、堅く立とうとする教会は、「まことの宗教の場所」である。(149−153頁)

 

イ)私たちは、神の「啓示」を根拠とするキリスト教が、類における種として、一つの「宗教」であり、それゆえに「人間的な実在および可能性としても、理解されることができる」ということを認識し承認し確認する時、それと同時的・同在的に、神の啓示を、「信仰は信仰として」・「神学は神学として」・「教会は教会として」、「自分自身と自分の存在根拠を真剣に」、「受けとろうと」しているのか、「真剣に受けとることができる」のかという問い前に、すなわち「異常なほど切迫した機会」の前に、「誘惑に陥る契機」の前に、立たせられるのである。具体的に言えば、「自分自身と自分の存在根拠」の観点・方向性・ベクトルを、@神だけでなく人間もという神と人間あるいは神学と人間学との混淆・折衷・共労・共働・協働に置くのか、「すべての大学社会の神学(≪信仰・教会の宣教≫)、何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学(≪信仰・教会の宣教≫)」、またそれに類する信仰・神学・教会の宣教に置くのか、それとも、A啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事、啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」、に置くのかという、「異常なほど切迫した機会」の前に、「誘惑に陥る契機」の前に、立たせられるのである。そして、前者の場合におけるその信仰・神学・教会の宣教は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に関わる「自分の主題、自分の対象を、放棄してしまうように」、それゆえに結局は「空虚」な「自分自身の単なる影(≪人間である自分自身が対象化した「存在者レベル神」・啓示、その「神」の名と呼びかけによる信仰・神学・教会の宣教≫)となってしまうようにと、誘われている」のである。それに対して、バルトは、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事、啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」という「事柄にあくまでかたく踏み止まり、事柄を注視しつつ、いよいよもって事柄について確信するようになり、そのようにして、それが自分自身について公に宣言していることが真であることを確証し、強固な基礎の上に立つ機会を持」つ信仰・神学・教会の宣教に固執したのである。

 

 このような訳であるから、神の啓示は、神的な実在と神的な可能性に基づくところの、人間的な実在と人間的な可能性としての人間的な宗教であるという命題は、「われわれが宗教の本質および現象として知っていると考えることが、われわれにとって神の啓示をはかる際の標準および解釈原理」となるのか、「それとも逆にわれわれは宗教、キリスト教宗教とすべてのそのほかの宗教を、神の啓示がわれわれに向かって語ることから解釈しなければならないのか」という問いを惹き起こすのである。「教会は単なるひとつの宗教団体であるのか、それともそこではまた言葉の最も包括的な意味で宗教が『揚棄』される場所であるのか」という問いを惹き起こすのである。信仰を、「人間的な敬虔性のひとつの形態として理解するか、それとも神の裁きと恵みのひとつの形態として……理解するか」という問いを惹き起こすのである。宗教が神学の「本来的な」問題・「唯一の問題」であるのか、「それとも(≪宗教は≫)神学の中でのほかの諸問題と並んでのひとつの問題であるのか」という問いを惹き起こすのである。結論的に言えば、その問いに対するバルトの神学的思惟の方向性は、明確である――先ず以て、それは、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明の能力、単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示の出来事、と、神の第三の存在の仕方であるイエス・キリストの霊としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく、具体的にはこの事柄自体が聖霊の業によるものであるが啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に基づく、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与、という点にあった。したがって、バルトは、「われわれは宗教、キリスト教宗教とすべてのそのほかの宗教を、神の啓示がわれわれに向かって語ることから解釈しなければならない」と語るのである。そして、バルトがそう語る時、それは、最初のところで述べた<HQの事柄・総括>において解釈しなければならないということを意味しているのである。簡潔に言えば、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」というところで解釈しなければならないということを意味しているのである。

 

 例えば、人間にとって部分でしかない人間的な寛容の精神に基づくエキュメニカル運動<主義>者たちや寛容の精神に基づいて宗教の多元性を容認し合おうとする党派的多元<主義>者たちの主張は、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、信・知・キリスト者(教)を、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)に対して完全に開いていないから、すなわち主格的属格としての「イエスの信仰」に信頼し固執していないから、その最初から、神学における思想の課題としてのある社会構成や支配構成に生き生活する大多数の被支配としての大衆像と大衆的課題を認識し自覚し担えないし、現実的には市民社会の精神である私意・私利による諸矛盾や諸利害の対立が生じればすぐに破綻してしまうものでしかないし、場当たり的なものでしかないものである。なぜならば、彼らは、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」ところの明確な場所とその観点を持たないからである。すなわち、啓示の客観的実在、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方における、主格的属格としての「イエスの信仰」(『福音と律法』)に根拠づけられたイエス・キリストにおける啓示の場所とその観点を持たないからである。信仰・神学・教会の宣教における思想の課題としてある、信と不信、知と非知、キリスト者(教)と非キリスト者(教)の枠組みを取り除き、両者を架橋できる場所、すなわち信・知・キリスト者(教)を、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)に対して、徹頭徹尾、天然自然や人間的自然に全く左右されないところで、<客観的>に<完全>に、開くことができる場所は、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」(『福音と律法』)に根拠づけられたイエス・キリストにおける啓示の場所だけなのである。したがって、この場所において、それゆえにイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)の場所において、私たちは、人間学的な革命論の課題、人間の観念的部分的政治的解放という最低綱領的緊急的一面的相対的過渡的な課題を構想し、それと同時的・同在的に、人間の現実的全体的社会的解放という最高綱領的究極的包括的総体的永続的課題を構想し、扱うことができるのである。したがって、例えば、ボンヘッファーや「その友人たち」の革命は、革命後の「明瞭な積極的な立場」・過渡的究極的「ヴィジョン」が欠けていたから、「彼らは夢想家だった」と述べたバルトの評価には正当性があるのである(『バルトとの対話』)。この語り方は、「理論がかれを実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」ところの「完結した体系」を保持して――バルトの神学的実践の場合も、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪自然に、必然的に≫)実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にある――、「はっきりした基盤のうえにたたず労働者(≪牧師・神学者・キリスト教的メディア的著述家・信徒・求道者≫)を扇動することは、馬鹿げた使徒(≪牧師・神学者・キリスト教的メディア的著述家・信徒・求道者≫)と、それに聞き入る馬鹿げたロバ(≪牧師・神学者・キリスト教的メディア的著述家・信徒・求道者≫)をつくりだすだけだ」と述べたマルクスのそれと同じような語りと言えるであろう。したがってまた、この段落の最初で述べた彼らの主張は、空論・空想でしかない戯言なのである。

 

 バルトにとって、イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的実在、そのもの)における「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非キリスト者・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである。ここにのみ、宮沢賢治が追求した思想の課題――すなわち「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという課題、に対する唯一の解決の方途があるのである。バルトは、信仰・神学・教会の宣教の、その原理自体に、その認識方法と概念構成自体に、こうした宮沢賢治における課題に対する解決の方途を保持しているのである。なぜならば、賢治もそうであるが、バルトは、神学における思想の往還過程を持っているからである。したがって、思想の往還過程を持たず、思想の課題を認識せず、それゆえにその課題を持たず、神学研究の本質と教会の責務は「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」と平然と述べる佐藤の形而上学的抽象的一面的皮相的な語りは、全くの論外なのである。
 さて、吉本の親鸞論における親鸞の三願転入・選択本願による救いは、次のように理解することができるものであった――@その救済が確実かどうかは「総じてもて存知せざるなり」とか、その信仰を「面々の御計なり」と述べて、往相的な信の上昇過程へ向かう宗教の相対化をした。すなわち、信と不信の枠組みを取り除き、両者を架橋した。A多念仏ではなく一念仏でもよいという思想に辿り着いた。B宗教者・知識人・善人・誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るという究極的観点(還相的観点)において、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)から超出した。C往還思想を構成した。すなわち「称名をとなえ至心に信心」できず、「即座に救われ浄土へ往」けない、あるいはこの現世に多くの未練や執着があって速やかに浄土へ往きたいと思えないし思わない庶民的現実と庶民的課題とを自らの浄土教理・知識に繰り込んで、一念義によっても救済されるという思想を構成した。言い換えれば、還相的な課題は、偶然に出会った個別の衆生を助けるという往相的な緊急的相対的部分的過渡的救済にはないのであって、煩悩や生老病死等々で困窮し疲弊する「一切の衆生」の救済という還相的な究極的包括的総体的永続的救済にあるのである。このように、親鸞は、天災・飢餓・病気・餓死・煩悩等々で苦悩し疲弊する衆生の究極的包括的総体的永続的救済の課題に対して、宗教・知識の一方通行的に上昇していく自然過程における往相的な宗教的学問的知識的言葉ではなく、それと同時的同在的に、そこから意志的に下降する宗教・知識の意識過程における還相的な思想の言葉で答えていくことを眼目としたのである。したがって、親鸞は、「善」の自覚よりも「悪」の自覚の方が阿弥陀仏による救済に近づきやすいように、「知」よりも「愚」――すなわち「南無阿弥陀仏」の称名念仏の方が阿弥陀仏による衆生の究極的包括的総体的永続的救済に近づきやすい、と意識的自覚的還相的に思想したのである。この知識の在り方だけを見ても、私たちは、二流三流の知識人の百語よりも一流の知識人・文芸批評家・思想家の一語に耳を傾けた方がいい、ということを実感的に認識するのである。言い換えれば、ごまんといる知識人のごまんとある知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいい、ということを実感的に認識するのである。(153・154頁)

 

ウ)「十六世紀および十七世紀の根から発生し、十八世紀から二〇世紀にかけて」人間の自分自身を「表現してきた近代主義的プロテスタント主義」の思想の方向性は、「宗教を啓示から」見たり・説明したりしないで、「逆に啓示を宗教から」見たり・説明したりした、という点にあった。すなわち、このことが、近代主義的プロテスタント主義の「思惟の特徴」であった。その総括的標語は、次のような主張にある――「宗教という言葉は、ルター派、改革派、カトリック教会の中で力を奮う信仰という言葉に決定的に対立しつつ導入されている」・「それは……(普遍的に)キリスト教的啓示概念に対する理神論的批判を前提としている」、という主張にある。

 

 宗教とは何か? それは、フォイエルバッハによれば、人間の外にある自然を対象とする自然についての意識は、自己意識と異なっているが、自己意識の対象は人間の中にある内在的対象であるから、宗教的対象についての意識は自己意識と一致する。したがって、人間が自然から対象的になり得ていない段階では、神も自然神であるが、人間が自然から対象的になり得た場合、神は、人間の対象化された自己意識の類的本質(無限者)となる、というものであった。言い換えれば、人間自身の自由な自己意識の無限性が対象化した、「存在者レベルでの神」、「最高存在」・「最モ完全ナ存在」・「最高の実在」・「絶対的存在のようなもの」・「絶対に自由な力の精髄」・「一切事物を超越する存在の精髄」・「究極最深のもの」・「物自体」、というものである。この場合、第一義性・価値は、それを対象化したこちら側から、向こう側――すなわち対象化された類的本質(無限者)の側に移行する。これが宗教の秘密である。マルクスや吉本によれば、このような宗教的意識は、私意・私利を精神とする市民社会の自己意識が疎外したところの完成された政治的近代国家(自由主義国家)においては、その第一義性・価値が、それを疎外した市民社会の側・こちら側から、向こう側――法的・政治的近代国家の側へと移行する、という形で現われる。したがって、この完成された政治的近代国家の場合は、人間の思惟や現実的生活において、天上の観念的非日常性(政治的共同性)と地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられることになる。人間が諸矛盾や諸利害の対立のある現実的な市民社会の中でその社会の本質を観念的な法的政治的共同性として疎外する時、すなわち自己還帰しない逆立した疎遠な観念の共同性である法・制度によって現実的社会的諸矛盾・諸利害の対立を止揚する時、人間は社会的現実的にと政治的観念的にとの二重の生活を強いられる。言い換えれば、具体的に私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活と、一方であたかもそうした対立や争いのない法的政治的共同的観念によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活との二重の生活を強いられる。
 このような宗教的意識に引き寄せて言えば、人間にとって部分でしかない科学や経済を全体化・絶対化する科学<主義>や経済決定論は、<宗教>なのである。また、人間にとって部分でしかない天然自然を全体化・絶対化する天然自然<主義>も<宗教>でり、人間にとって部分でしかない政治や国家や理性等を全体化する政治<主義>や国家<主義>や理性<主義>や民族<主義>や自由<主義>やマルクス<主義>等々も<宗教>である。

 

 さて、カルヴァンが「人文主義者の文体でもって」使用した宗教概念は、「宗教が啓示の中で、揚棄(≪棄揚・止揚≫)されていて、決してその逆ではないところ」の「聖書から読み取られた標準概念」である。したがって、バルトは、この概念を媒介・反復して、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」、と述べたのである。したがってまた、その神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。言い換えれば、イエス・キリストにおける啓示の場所は、<宗教>を揚棄・棄揚・止揚できるところの、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力の支配する「まことの宗教」の場所なのである。「なぜならば、もともと虚偽者である生まれながらの人間は、認識という側面からしても、意志という側面からしても、まことの宗教に対する能力を持たないからである」。したがって、イエス・キリストにおける啓示の場所においては、その「まことの宗教」ではないところの「イツワリノ宗教」・「迷信」・「ソノホカノ宗教ハ存在シナイ」のである。なぜならば、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性」が、人間的な<宗教>そのものである<自然神学的なもの>としての「世俗性」があるだけだからである。

 

 「十七世紀初頭の……ポラーヌスと……ヴォレプ」における宗教概念は、「神学的な認識原理のもとで思想体系の先端」としてのそれではなく、「倫理」的なそれであった。しかし、「ワレウス」において、<自然神学>的な一般的な宗教的概念が登場してくる――それは、「人間自身ノ良心ガソノコトヲ教エテオリ、マタ自然ソノモノガ、マコトノ宗教ノ中デコレラノコトガ要求サレテイルコトヲ教エテイル」。ここでは、「聖霊の内的証示は、……付随的な役割しか演じていない」、というものである。すなわち、ワレウスは、「マコトノ神ニツイテノマコトノ認識」・「人間ガ神ト和解サレルマコトノ道」・「神ヲ礼拝スルマコトノ祭儀」について、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて授与されることについて論証しようとせず、良心および自然に基づいて論証ところの「完結した体系」を保持して、「良心および自然の声によって」・「良心および自然を通して」・「われわれに意識されている宗教の一般概念」に基づいて論証しようとしているのである。このことは、「聖書が注釈され、適用される際」に、信仰者や神学者や牧師が、教会が、「聖書を支配」していく方向性を意味している。すなわち、彼らは、ルドルフ・ボーレンたちのように、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚と知識を内容とする経験や情報が不足している≫)と考えるような」方向性を持っているのである。その信仰・神学・教会の宣教は、<宗教>としての<自然神学>的な方向性を持っているのである。それに対して、バルトは、啓示には固有な証明能力があるから、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うことである」、と述べたのである。言い換えれば、バルトは、宗教を根本的包括に原理的に止揚する「まことの宗教」の場所、<自然神学>的・近代<主義>的な信仰・神学・教会の宣教における<宗教>を根本的包括的に原理的に止揚する場所、「宗教の揚棄」の場所、すなわち啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力の場所――単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの啓示の出来事(<啓示の客観的実在>)と神の第三の存在の仕方である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与とそれに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与(<啓示の主観的実在>)、具体的にはこれも聖霊の業であるが<啓示の主観的可能性>としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」、への信頼と固執と連帯、を目指したのである。

 

 「アブラハム・ハイダンは……カルヴァンとデカルトを自分の中で結び合わせようとした」。その、神学的思惟におけるカルヴァン的発言は、「マコトノ宗教」「ガドノヨウナ性質ノモノデアルノカ、神自身ニヨッテワレワレニ開示サレ、啓示サレナイ限リハ、神自身ノホカハ何人モ知ラナイ」であり、「無神論者を意識した」人間学的思惟におけるデカルト的発言は、「個々ノ人間ニ生マレナガラ備ワッテイル神ニツイテノ自然的認識がある」・「コノ神ノ認識カラ宗教ハ由来スル」である。次に、「ブルマン」は、宗教概念を、「護教論的に合理化していく流儀」と「体系的に強調してゆく流儀」との「合体」において捉えようとした。前者的思惟にける発言は、「マコトノ宗教ハタダ神トソノ啓示カラ由来スル。マコトノ宗教はただキリスト教宗教だけである」であり、後者的思惟における発言は、「理性的被造物ニトッテハ神ハ……至高ト最高ノ徳ヲウヤマイ、礼拝スルヨリモモット適当ナコトハ何モナイノデアルカラ、ソレハ神ト人間ノ本質ソノモノカラ流レ出テクル。ソレ故ニ宗教ハ必然的デアリ、自然的理性ノ結果デアル。ソノヨウニシテ自然的宗教ハ存在スル。ソレ故宗教ハ必然的デアリ、生マレナガラノ理性ノ結果デアル。ソノヨウニシテ自然的ナ宗教ガ存在スル」である。ここで、私たちは、すぐに、フォイエルバッハの次のような言葉を思い起こすのである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……」・「(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」。

 

 「十八世紀初頭……『理性的正統主義』という近代的な思想方向」が登場する。改革派の神学者ヴァン・ティルの教義学は、「単線的に……自然神学の完璧な教義学」である――ヴァン・ティルは、「理性ノ原理ヲ信仰ノ原理ト同ジ次元ノモノト見ナサナイヨウニ」と「留保」をつけながらも、自然的宗教の原理は、「モッテ生マレタ共通ナ概念ヲ通シテ人間ノ精神ノ中デ明ラカトナル理性ノ光ソノモノデアル。ソレデアルカラ、……偏見カラ開放サレタモノハ誰モコノ理性ノ光ヲ無視スルコトガデキナイ」、と述べている。自然的宗教とは、「各人ガ自分ノ考エニ応ジテ、自分ニ適当ダト思エル仕方デ自分ノ能力ヲ、……確カナ光ノ瞑想ト崇敬ニ従事サセテイル人間の熱意……ノコトデアル」、と述べている。ルター派の神学者ブッデウスは、この自然的宗教に基づいて、「人間は、……最高存在(ワレワレガ神ト呼ブトコロノ最モ完全ナ存在)を知っている」とする。このような訳であるから、自然的宗教の原理は、啓示に固有な証明能力に信頼し固執せず、それゆえに啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」を通さずに、啓示の主観的可能性を、直に人間理性に置くという点にある。言い換えれば、自然的宗教の原理――<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教の原理は、神だけでなく人間も、という神と人間・神学と人間学との「混淆」・折衷・「共労」・「共働」・「協働」を目指すそれであって、「自然ノ光」との「調和」・調停・折衷を目指すそれである、という点にある。そして、この場合、その自然的宗教は、「宗教ノ基礎デアリ土台デアル概念……を含んでいる」から、その自然的宗教の原理に反するものは、「啓示ではないか、それとも誤解された啓示」となってしまうのである。したがって、この自然的宗教における「神学的思惟全体にとって中心的に重要なもの」は、「人間的な宗教、人間が啓示なし」に持つことができる「神関係」である。したがってまた、この「人間的な宗教、あるいは神関係」が、啓示理解のための「前提、標準」であるから、啓示は、人間が啓示なしにも、神について、自分自身について、「知ることができることを歴史的に確認するだけのもの」となってしまうのである。すなわち、「いかなる啓示も、もしもそれが自然の光にかなって」いないならば、また「自然の光を補充する」ものでないならば」、「まことの啓示」ではないものとなるのである。ここにもまた、「まことの宗教」でないところの、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが批判した、「まことの宗教」以外の人間的な<宗教>が、人間自身が対象化した「存在者レベルの神」における<宗教>が、その「神」の名と呼びかけによる人間が支配し管理する「プログラム」としての<宗教>が、ある。

 

 「十八世紀の後半」の「啓蒙思想の第二段階」における「理性は啓示によって補われる必要はないとし、啓示内容を理性的真理に限定した」「ネオロギーの信奉者たち」の企ては、「キリスト教教義」を、「聖書」を、「自然的ナ宗教概念に基づいて、徹底して批判にさらすことを正しいと考え」る点にあった。その後は、「自然的ナ宗教を自然的ナ倫理へと縮小し、啓示を……道徳的な理性能力の実現化としてだけ知り、受けとろうとしたカント的な合理主義……がつづいた」。カントは、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした。この場合、まさに<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教への方向性を持っていた。丁度、それは、「すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識」というアウグスティヌスの教説の方向性と同じであった。そして、シュライエルマッハーは、「逆に、感情として理解された宗教の中に、神学の一切を見出そうと欲したし、啓示を、特定の感情を、したがって特定の宗教を、生み出す特定の印象の中に見出そうとした」。ここで、また、私たちは、すぐに、フォイエルバッハの次の言葉を思い起こすのである――「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」 (『キリスト教の本質』)・「神とはまさに、人間の(≪自由な自己意識の無限性の≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『宗教の本質にかんする講演 下』)。そしてまた、「ヘーゲルおよびD・F・シュトラウスによれば、キリスト教は自然的宗教とともにただ、表象からから純化された哲学の絶対的知識の、(揚棄されるべき)前形式に過ぎないことになった」。すなわち、例えば、ヘーゲル的に言えば、キリスト教は、知の頂に想定される学・哲学へと至る知識の自然的過程――この知識の上昇過程は、知識にとって、ほんとうは、意識的意志的自覚的な過程ではなく、自然的な過程に過ぎない――の<一段階>・<一形式>に過ぎないものである。したがって、神学における思想の課題は、この近代<主義>の頂点の一つの象徴である、人間に内在する神的本質――すなわち人間の、対自的で対他的・他在であって自在・自由な自己意識・理性・思惟の無限性を原理としたヘーゲルを、根本的包括的に――すなわち原理的に、信仰・神学・教会の宣教の、その原理それ自体において、その認識方法と概念構成それ自体において、止揚し超克して、そこから超出していかなければならない、という点にあるのである、紙一重で超えていかなければならない、点にあるのである。例えば、バルトは、対自的であって対他的・他在であって自在な自由・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」であるという、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理それ自体において、その認識方法と概念構成それ自体において、ヘーゲルの哲学原理を紙一重で超えているのである。そして、この原理、この認識方法と概念構成において、バルトは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の三つの存在の仕方という三位一体論を構成しているのである。ここに、バルトの神学における思想家たる所以があるのである。純粋な人間学における思想家の吉本も、次のように述べている――「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を原理的に根本的包括的に「止揚しなければならないということが思想的な問題」である、と。事実的に、近代以降において、このことをなしたのは、全キリスト教の中でただ一人、カール・バルトだけだったのである。バルトは、次のように述べている――「(≪私たちは、啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的実在、そのものとしての、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派・教派・主義・思想傾向・時流や時勢・民俗・一部の社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。マルクス<主義>やマルクス<主義>者の主張とは違ってほんとうは経済決定論者でも唯物<主義>でもないマルクスは、例えば『資本論』において、「ヘーゲルにとっては、思惟過程が現実的なるものの造物主であって、現実的なるものは、思惟過程の外的現象を成すにほかならない……。しかも彼は、思惟過程を、理念という名称のもとに独立の主体に転化するのである。私においては、逆に、理念的なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない」と述べて、ヘーゲルを根本的包括的に原理的に止揚したのであるが、フォイエルバッハのようにヘーゲルの媒介性一般までも否定することはせずに、それを保存したのである。全キリスト教界に限定して言っても、このことが、世界中の二流三流の神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちには全く分らないのである。このことを、誰も認識し理解していないのである。したがって、身近なことにおいて、最悪なこと、悲惨なこと、惨憺たること、は、牧師養成所である日本キリスト教団立東京神学大学の神学者たちさえも、このことを、全く分かっていない、という点にあるのである。いずれにしても、このような訳であるから、カール・バルトこそが、現在から未来に生きる信仰・神学・教会の宣教の、全キリスト教の、最後の宗教改革者なのである。キリスト教の信仰・神学・教会の宣教に関わる人は、いつになったら、バルトの一流の著作の一冊を――すなわち、終末論的限界の下でではあるが、現在から未来に生きる、そしておそらくは終末・再臨、救贖・完成に至るまで生きるであろう、主格的属格としての「イエスの信仰」に根拠づけられた『福音と律法』の言葉を、根本的包括的に、それゆえに原理的に、理解するのだろうか……。

 

 さて、A・リッチュルは、キリスト教宗教は、「感覚的な自然として理解された世からの人間の解放が最も完全な形で実現されるが故に」、「人間的生の最高の価値」として「理解されるべきだと教えた」。また、E・トレルチは、様々な宗教世界を比較考量することを通して、キリスト教が「すべての時代にわたって、常に相対的に最善の宗教であるという結論……に到達するために、神学者は特に一般宗教史の現象を『仮説的に追感すべく』習練しなければならない、と教えた」。総括的に言えば、彼らの主題は、「宗教は啓示から理解されるべきではなく、啓示の方が宗教から理解されるべきである」、という点にあった。言い換えれば、新プロテスタント主義は、「保守的な傾向をもったもろもろの神学、十八世紀の超自然主義、十九世紀および二〇世紀の信条主義的、聖書主義的、『積極主義的』神学も、全体としてみれば」、「結局『宗教主義』」であった。すなわち、それらは、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した人間中心の、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・その「神への信仰」・その「神」についての神学と教会の宣教――すなわち、<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教そのものであった。
 こうした全キリスト教界のただ中にも、<ただ一人>、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成において、明確に確信を持って、そしてこのことは全キリスト教界において初めての出来事であったのであるが、前述した<主格的属格>としての「イエスの信仰」(ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等、主格的属格理解については拙著144−164頁あるいはホームページ参照)に根拠づけられた『福音と律法』の言葉をたずさえて信仰・神学・教会の宣教を目指した、信仰者、神学者、牧師、説教者、神学における思想家――すなわちカール・バルトが存在したということは、イエス・キリストにおける神の恵みのはからいに違いないのである。したがって、このことは、全キリスト教界の信仰・神学・教会の宣教の再生・更新の契機であるだろう。なぜならば、事実的に、実際的に、根本的包括的な――それゆえに原理的な、現在から未来に生きる、このカール・バルトの前述した<主格的属格>としての「イエスの信仰」に根拠づけられた、三位一体論的――キリスト論的な『福音と律法』の言葉を、信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成を、一つだけでも、全キリスト教界は持つことができたし持っているからである。したがって、徹頭徹尾全く非自立的で中途半端な、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した<宗教>としての信仰・神学・教会の宣教を目指す神学者や牧師や説教者やキリスト教的メディア的著述家たちの教説は、自然時空に死語化し消滅していくことは、自然必然と言えるだろう。したがってまた、なお依然として、根本的包括的に――それゆえに原理的に、啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事、具体的には啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、に信頼し固執し連帯することによって「まことの宗教」を認識し自覚し目指そうとすることをしないところの、徹頭徹尾全く非自立的で中途半端な、<宗教>としての<自然神学>的な近代<主義>的な、神だけでなく人間も、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」も、その「神」の名と呼びかけによる人間が支配し管理する「プログラム」も、人間の自主性や自己主張も、人間自身による人間の自己義認と自己聖化も、ということを目指す、それゆえに旧態依然な<目的格的属格>としての「イエスの信仰」に根拠づけられた信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成を目指す、日本語訳聖書で言えば旧来訳や新共同訳に関わった者たちも含めた神学者や牧師や説教者やキリスト教的メディア的著述家たちの教説は、自然時空に死語化し消滅していくことは、自然必然と言えるだろう。そして、このことは、最終的には「神ご自身の決定事項」であるが、歴史の時間もそのことを証明するであろう。(154−167頁)

 

エ)これら新プロテスタント主義の神学者たちにおけるこのような推移が、なぜ「結局は教会を破壊する異端」・「教会の生命活動を妨害するもの」、であるという「判決が下されなければならない」のか? 

 

 先ず以て、彼らの「自由な真理探究という原則に対しては、神学の領域においても、……何も反対して語られるべきものはない」。反対すべきではない。なぜならば、近代以降の神学における思想の課題の一つは、ヘーゲル哲学の原理を、対象的に扱うこと――すなわち彼の哲学原理を探求し認識し、その原理を、自覚的に、根本的包括的に原理的に止揚し超克して、そこから超出していくことにあるからである。言い換えれば、神学における思想の課題は、ヘーゲルから逃亡することや、ヘーゲルを無視することや、ヘーゲルに迎合することや、ヘーゲルに対して無関心になることや、にあるのではないからである。この近代<主義>の頂点の一つの象徴である、ヘーゲルの哲学原理を、自覚的に、根本的包括的に原理的に止揚していく――すなわち否定的に媒介していくという神学における思想の営為それ自体が、同時的同在的に、またヘーゲル的な原理的方法に基づいて構成された信仰・神学・教会の宣教の象徴であるシュライエルマッハーを根本的包括的に原理的に止揚していくことになるのである。したがって、ルターやシュライエルマッハーを念頭に置いたフォイエルバッハの宗教批判における<宗教>を、自覚的に、根本的包括的に原理的に止揚していく――すなわち否定的に媒介していくという神学における思想の営為それ自体が、新プロテスタント主義の神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家や彼らの信仰・神学・教会の宣教における様々な原理的な諸問題を、根本的包括的に原理的に止揚していくことになるのである。このような神学における思想的な在り方において、それゆえに簡潔的に言えば啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯することにおいて、人間の対自的で対他的な・他在であって自在な・自由な自己意識の無限性の「自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」において人間的な実在と人間的な可能性に偏向して<宗教>を中心に「啓示と宗教を……逆転させてしまう」ところの、すなわち人間自身の自己主張そのものでしかない「幻想」や虚偽に根ざした<宗教>としての、<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教に対して「抵抗し」、根本的包括的に原理的に、<宗教>を揚棄していくという、そうした「動機」に基づいて「まことの宗教」を目指していくことが、「自由な真理探究」の原則なのである。
 したがって、「十八世紀において、自然宗教の標準を用いつつ実際に起こった、教義および聖書的教えの荒廃……カント的道徳主義……フォイエルバッハの幻想主義……D・F・シュトラウスやF・C・バウル、ハルナック、あるいはブッセのようなものの聖書批判……宗教史学派の相対主義に対する恐れ等」が、「抵抗の動機であってはならない」のである。なぜならば、そこには、「自由な真理探究」がないからである。したがって、例えば、前期ハイデッガーの哲学原理によって「啓示と宗教を……逆転させて」しまったブルトマンの「方向転換に対して、抗議をさしはさむ術を知らないならば、……『ドイツ・キリスト者』に対しても防禦力を持」つことはできないのである。詳しく述べれば、ブルトマンは、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を前期ハイデッガーの哲学に見出し、第一次的な啓示の実在そのもの、また聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を恣意的独断的に棄揚してしまって、逆に前期ハイデッガーの哲学原理によって対象化された「存在者レベルでの神」・啓示を第一次的なものとし、この第一次的なものに従属させることにおいてのみ「イエス・キリストについてのケーリュグマ」・「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容・新約聖書の使信の内容・イエス・キリストの出来事を知らせた宣教や説教を第二次的なものとし、それゆえにイエス・キリストの十字架処刑も、イエス・キリストの死人からの甦り・復活も、「ケーリュグマと信仰の認識基礎命題ではなく」単なる「説明文」に過ぎないものとしてしまうという原理的方法を採用したのであるが、このブルトマンの原理的方法を根本的包括的に原理的に止揚しないならば、「『ドイツ・キリスト者』に対しても防禦力を持」つことはできない、ということである。それに対して、ボンヘッファーは、確かに、この世における、キリストの許しのもとでの、神との「共労」・「共働」・「協働」に基づいたキリストを範型とした「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現「行為」を目指し、そのイエスへの従順な服従行為として、事実的にはヒトラー暗殺計画へと向かう権力闘争・政治的実践を行ったのであるが、その神学的実存としての政治的実践は、革命の過渡的課題や究極的課題――すなわち過渡的・究極的ヴィジョンを持たないそれでしかなかったし、信仰的・神学的・教会(宣教)的にも、一方通行的な往相的一面的なものでしかなかった。したがって、その神学的実存は、負けない戦い方を構成することができものであったし、それゆえに敗北必至の戦い方としてのそれでしかなかった。
 それであるから、バルトは、「教会にとって真に役立ち、助けとなるものは、教会の中に入ってきた異端(≪人間的な実在と人間的な可能性に偏向した、人間中心的な啓示の主観的可能性・人間中心的に「啓示と宗教」を逆転させる志向性≫)」に対して、その「程度」を皮相的な「何らかの仕方で幾分和らげ」たり、「緩和」したりすることではなくて、「むしろ異端の正体をそれとして見抜き、異端そのものと戦い、異端そのものを除去してしまうこと」にある、すなわちその原理を、根本的包括的に原理的に止揚することにある、と述べるのである。それは、前の段落で書いたことである。そして、バルトは、「啓示と宗教」を逆転させない根拠は、「教会全体とともに」、「イエス・キリストこそ彼の主であり、それであるから彼は、人間は、イエス・キリスト自身のものであり、そのみ国において主のもとに生き、主に仕え、それ故自分のものではなく、イエス・キリストのものであるということの中で、生きるにも死ぬにも自分の唯一の慰めをもっているという認識と承認」にある、と述べるのである。このことは、最初のところで述べた<HQの事柄・総括>のことである。このような「認識と承認を新プロテスタント主義の神学者たちも言葉の上では語っていた」が、彼らは、その神学作業の過程において、「その信仰告白に対応しつつ思惟し」、「思惟しようと努め」なかったのである。彼らの思惟は、思想営為は、根本的包括的ではなかったのである、原理的ではなかったのである。したがって、私たちは、バルトが述べていたように、現在でも、なお依然として、シュライエルマッハーや「彼によって育成されたタイプの神学の主題と方法」を受け継いだブルトマンだけでなく、彼ら「以外の他の多くの人々の所でも……ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」のである。

 

 「十六世紀から十八世紀にかけての時代は、……(≪人間にとって≫)人間としての自分、自らの本質、諸可能性と能力、自分の人間性を発見しはじめた偉大な時代」であって、そこには神の啓示だけでなく人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・その神への「信仰」・「『宗教』の発見も含まれていた」。そのただ中に、神学もあった。そのただ中で、「宗教改革者たちの神学と原則的にはまた古プロテスタント主義全体の神学」の神学的思惟は、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯するという点において、「自由な真理探究」のそれとしてあった。カルヴァンは、その宗教の問題を――すなわち時代状況が強いる神学における思想の課題を見ない振りをしたり・聞かない振りをしたり・読まない振りをしたり・無視したりするのではなく、その宗教の原理を否定的に媒介する術を、すなわちその宗教の原理を根本的包括的に原理的に止揚していくことが神学における思想の課題であるということを、よく知っていたのである。したがって、バルトは、「その都度の現在の時代の心配と希望の傍らを知らぬが仏式に、あるいは心をかたくなにして、そのまま素通りしてしまうということは実際、神学から、教会のために、期待され、要求されるべきことではない」、と述べたのである。と同時に、バルトは、「神学が十七世紀においてなし始め、十八世紀になってからおおっぴらになしてしまった」、「ルターおよびハイデルベルク教理問答の……主要な命題を公理として……考慮に入れることをやめてしま」って、逆に「特定の時代の関心事をそのまま自分の関心事とし、その悪魔精神の支配に捕えられてしまうこと」は、「自由な真理探究」とはならない、と述べたのである。なぜならば、――神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないから、神の言葉は、その都度の神自身の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」る、この神の聖性、神の隠蔽性・秘儀性・不把握性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界(自己相対化)の前に立たされるということである、したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」である啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となるのである、すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である、したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示・和解――すなわちイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない<宗教>としての<自然神学>的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」、だからである。ここで、「悪魔精神」とは、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・その神への「信仰」・その「神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理する「プログラム」・人間にとって部分でしかないことを全体とする絶対主義、合理主義や科学主義や天然自然主義や歴史主義や経済決定論や政治主義や国家主義等々・人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」・人間実に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」・宗教そのもの、と言っていいものである。このような在り方の場合は、「人間に向かって語れた神の言葉と区別された人間の敬虔性が、神の言葉に優先」し、それが「特別な主題」となり、「支配的に」なってしまうのである。すなわち、そのような近代プロテスタント神学は、唯一無比な固有な特殊性をもった「対象、啓示、を、それとともに信仰のからし種(山をも、それであるから近代の人文主義的な文化の山をも、移すことができた信仰のからし種)を、失ってしま」うのである。
 それに対して、バルトは、神学における思想家として、「自由な真理探究」において、すなわち、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事(聖霊の注ぎによる)、具体的にはこれも聖霊の業であるが啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、への信頼と固執と連帯を通して、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向する<自然神学的なもの>としてある<宗教>を、根本的包括的に原理的に止揚し超克して、そこから超出していく道を歩んだのである。もっと時代を遡れば、カンタベリーのアンセルムスも、そうした道を歩んだ一人と言えるであろう――@アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを人は合理主義だと批判した。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義」を明確に否定している。すなわち、アンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、「啓示から得られた認識」・啓示の「概念の実在」としてのイエス・キリストの「実在から」啓示認識の可能性について考えたのである。エーバハルト・ブッシュが、啓示の「真理の客観的考察などというものはない」、その真理は「われわれが何かを考察するより先にわれわれを考察するところの客観性」であり、「考察する主観を設定する本源的な客観性である」、と述べたことは、この意味である、Aアウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった。したがって、「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰(≪簡略化して言えば、啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」、への信頼と連帯、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与≫)」を前提条件としていた。この紙一重を超える在り方に、アンセルムスの神学における思想性はあるのである、Bアンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠(≪啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力≫)」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができた。これは、信と不信、知と非知、キリスト者と非キリスト者の枠組みを取り除き、両者を架橋する神学における思想の言葉――すなわち、信・知・キリスト者の一方通行的な一面的な上昇的な往相過程から再び意識的自覚的意志的に下降する還相過程において発せられた還相の言葉である。(167−173頁)

 

オ)したがって、「人が……啓示と宗教を体系的に同類のものとして取り扱おうとする」こと、すなわち相互に比較考量して「相互に限界づけ……関連づけようと企てる」ことは、その最初から「決定的な誤解を意味している」。その最初から、「誤謬は必然」となるのである。その場合に、その企てが、「宗教から」それゆえに「人間から、思惟してゆき」、それゆえに「啓示を宗教に従属させ……最後的には宗教の中に消滅させてしまおうとする」企てであるのか、あるいは啓示に対して「特定の留保と担保」から「その優位性を、保証しようとする」企てであるのか、という「問いは、副次的な問い、……決定的でない問いである」。ここで、私たちは、すぐに、副次的な後者の問いの中から発生した神学が、ルドルフ・ボーレンやその亜流である佐藤司郎や小泉健の、非自立的で中途半端な人間学の後追い知識でしかないにもかかわらず、事実的には中世的思考に後退し停滞して「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与える」と主張する形而上学的抽象的空論的な「聖霊論的説教論」を、思い起こすのである。このような「聖霊論的説教論」の考え方と意図と企てに対して、バルトは、「人間的な宗教を、神的な啓示と同じ平面の上で」・「人間的な宗教を、……神的な啓示と並ぶ第二のものとして見」、人間的な宗教に対する啓示の「自主独立性な本質と権利」あるいは両者の間の「折り合い」・調停・折衷を問う問いや試みでしかないから、「そのこと自体」、「既に緒戦において完敗した戦い」であり、すでに敗北してしまっている「現実の事情の事実上の隠ぺいでしかない」、と述べたのである。「なぜならば、人がそもそも(≪神的な≫)啓示を(≪人間的な≫)宗教と比較したり調停したりしようと欲することができるところ、そこでは既に啓示を啓示として全く誤解している」ことに他ならないからである。「神学においては宗教の問題を問うに際しては、……二者択一……があるだけである」。この「二者択一」における「神的な啓示」は、再度述べるが、最初のところで述べた<HQの事柄・総括>のことなのである。そのイエス・キリストにおける啓示の場所において初めて、人間学的神学における神的な啓示と人間的な宗教との「混淆宗教学の流儀」とは全く違うところの、信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、人間の限界概念を保持した純粋な宗教学が成立できるのである。したがって、その宗教学は、「ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけある」という帯域・領域におけるそれである。そうした宗教学として、「自由な真理探究」の対象となる。したがってまた、「自由な真理探究」とならない「非学問的」な好ましくないものは、日本キリスト教団立東京神学大学の実践神学者の小泉健が、ボーレンの形而上学的抽象的空論的な「神律的相互関係」の概念に依拠して、「「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と、聖霊や聖霊の言葉を彼のあるいは牧師や説教者の自由事項として取り扱って、聖霊や聖霊の言葉を実体化させてしまう、そうした在り方・「流儀」にあるのである。
 「神学的に真剣に啓示について語る」者は、「彼にとっては主なるイエス・キリストが問題である」、「彼が主のもとに生き、主に仕え、彼が自分のものではなく、イエス・キリストのものであり、彼がそのような者であるということの中に生きるにも死ぬにも、唯一の慰めを持つということ……が問題である」。したがって、バルトは、『ルドルフ・ブルトマン』において、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」と語ったブルトマンに対して、次のように語ったのである――「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である。私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と。神の啓示は、もしそうでないならば、その啓示は神の啓示ではないから、神の啓示は、人間に対する「主権的な働きかけである」。この<主権的>という概念は、前述したように、人間的な宗教を排除してはおらず、その宗教を「世俗性」の一「形姿」・形態としてのみ受け取ることを求めている。なぜならば、人間にとって、自分にとって、イエス・キリストこそが主、であるからである。したがって、そうでないならば、「たとえ……言葉の上では後からどれほど真剣に、明瞭に、強調しつつ啓示について語ろうとしても」、神的な啓示について語ることにはならないから、それゆえにその信仰・神学・教会の宣教も非自立的で中途半端になってしまうから、その場合、結局は、人間的な宗教について語ることになるのである、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理する「プログラム」、自分の「愛、興味、熱心、信頼、慰め」、関心、欲求、自己主張を語ることになるのである。したがってまた、「本当に啓示について語りたいと思うならば」、「常にはじめから」、「啓示の光にてらされて」、すなわち啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」への信頼と固執と連帯において、啓示について「語っていなければならないのである」、徹頭徹尾その「啓示の光にてらされて」、人間の、限界づけられた世俗性としての人間的な宗教の、「現実存在、本質、価値について……記述されなければならない」のである。
 さて、オットー・ヴェーバーは、『和解論』第13章「神わららと共に」を、次のように論じている――@バルトにとって、イエス・キリストが「インマヌエルであり、『神われらと共に』であり給う」。また、バルトは、「実存哲学を用いることをしないで、客観・主観の分裂の克服は、イエス・キリストの名という現実の中に、すでにあらかじめ与えられていると考える」。このことは、私の理解によれば、バルトは、その啓示認識・啓示信仰において、確信を持って、神の側の真実としてのみある啓示の<客観的>実在・啓示の<客観的>現実性にのみ、それゆえに神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ――すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事にのみ、信頼し固執したことを意味しているのである。Aバルトは、「『客観的なもの』を重視あるいは絶対視し、ブルトマンは『主観的なもの』を重視あるいは絶対視するという風に、規定することは出来ない。その対立は、さらにいっそう深いところにある」(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)。これではやはり、橋爪大三郎に「一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」と書かれても仕方がないのである。その対立は、すでに述べたように、根本的包括的な――すなわち原理的な、それゆえにその信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成それ自体の差異性に基づいたそれなのである。具体的に言えば、バルトが「イエスの信仰」を<主格的>属格として――すなわち啓示の客観的実在あるいは啓示の客観的現実性として啓示認識・啓示信仰し理解したのに対して、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマンの主題と原理的方法は、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した<宗教>としての<自然神学的なもの>を目指すそれであったために、ブルトマンは、「イエスの信仰」を<目的格的>属格として理解したのである。言い換えれば、ブルトマン(その学派・党派)の主題と原理的方法は、もともと、自然必然的に、そして事実的に、ハイデッガーが「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と述べたように、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・その「神への信仰」・その「神」の名と呼びかけによる人間が支配し管理する自己表現としての「プログラム」を目指すものなのである。したがって、ブルトマンのそれは、もともと、自然必然的に、そうした陥穽に陥ってしまうものなのである。すなわち、その最初から「誤謬は必然」のものなのである。この、その最初から「誤謬は必然」である根拠は、最初のところで述べた<HQの事柄・総括>に基づかないで訳されたところの、日本語訳聖書で言えば、旧来訳聖書や共同訳聖書における、「イエスの信仰」の<目的格的>属格理解に基づく訳――すなわち「イエス・キリストを信ずる信仰」にあるのである。それに対して、バルトだけが初めて、不信や空しさや不安や不確かさが蔓延した現在から未来に生きる言葉を――すなわち神の側の真実としてのみある、徹頭徹尾<客観的>な主格的属格としての「イエスの信仰」の言葉を、聖書のローマ書3・22やガラテヤ書2・16やガラテヤ書2・19以下等に信頼し固執することにおいて、授与されたのである、発見したのである。ここまで論じてくると、エーバハルト・ブッシュがそうであったように、オットー・ヴェーバーも、やはり、バルトを、その根において、根本的包括的に――すなわち原理的に、理解してはいないのだな、ということを知ることができるのである。したがって、私たちは、神学者や牧師や説教者やキリスト教的メディア的著述家や総じて知識人の神学・知識やメディアの情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。

 

 神学の中で取り扱われるべき宗教の問題は、「神学的な問題提起を一瞬間といえども中断することなしに、(≪啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」を通した≫)啓示(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「まことの神」にして「まことの人間」であるイエス・キリストにおける啓示の出来事≫)から、信仰(≪聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)からみて、宗教として人間的実在の中での姿を現してくるものは何であるのかという問い」にある。この答えは、最初のところで述べた<HQの事柄・総括>のことなのである。ここで、「神学の中での宗教の問題」は、総括的に述べれば、「啓示と宗教という概念の秩序」について、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、すなわち三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(これも聖霊の業であるが、啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与、という事柄を介して、「まことの宗教」の根拠である「宗教の揚棄としての啓示について語る」点にある。したがって、ここで「まことの宗教」とは、神の聖性、秘義性・隠蔽性・不把握性、終末論的限界を認識させられた、神のその都度の自由な決断による啓示に固有な証明能力に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰と、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定における「形姿」・形態である、と言うことができる。したがってまた、私たちは、前述した事柄に依拠したその語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない、と告白するのである。また、私たちは、前述した事柄に依拠したその語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立している、と告白するのである。

 

 単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(神の言葉の「受肉」、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」ヲトルコト、「肉ヲトルコト」、「イエスの名」ヲトルコト)にあって、「神と人間がひとつである」という単一性が、「完成された出来事の単一性」であるが、「神的啓示と人間的宗教の単一性」は、やはり「神が主体であり給う」ところにおいて、「これから完成されるべきひとつの出来事の……単一性である」。
 さて、イエス・キリストにおける、「完成された出来事の単一性」としての「神と人間がひとつである」という単一性は、『神の人間性』においては、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べられている。また、『福音と律法』における、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」に根拠づけられた<キリスト論>の真理性と現実性の内容は、次の点にある――「神の啓示」、すなわちイエス・キリストの「死と復活」の出来事における福音・インマヌエルの内容は、イエス・キリストが人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)という点に、すなわち私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、神の側の真実としてのみ、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」という点に、ある。したがって、「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみ」なのである。(173−179頁)