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2の3.『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性」

2の3.『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性」(120−146頁)

 

 「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、@私たちが、「一人の主」なる神をのみ、「主として持つ自由」を私たちに与えるがゆえにそのように告白することを要求する、A私たち人間の「中に」も・「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来」ないと告白することを要求する、B私たち人間の「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできない」と告白することを要求する、C私たち人間の究極的限界性、終末論的限界を告白することを要求する、という点にあった。
 したがって、「神の啓示が人間の身に及ぶということ」――すなわち、啓示の主観的現実性・啓示の主観的実在、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方――啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの――である<イエス・キリストにおける啓示の出来事>、と、神の第三の存在の仕方――「父なる神と子なる神の愛の霊」、愛に基づく「完全な共存的な関係」・「交わり」――である<聖霊の注ぎによる信仰の出来事>に基づいて、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)――啓示の客観的実在そのものと、また聖書の証言・証しおよび教会の宣教の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」――を通して、「可能となる」のである。このような訳で、啓示の主観的可能性――すなわち、私たちの「神に向かっての自由」・神の言葉「に向かっての自由」・「神の言葉のための自由」は、「聖霊の注ぎ」によって、前述した啓示に固有な証明能力に基づいて、「神の言葉が人間にとって避けることができない仕方で主人となる」というところで成立しているのである。
 したがって、次のように言うことができる――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、それゆえに聖霊の注ぎによって、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなく、その啓示に感謝を持って信頼し固執する啓示「認識」、すなわち啓示「信仰」である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。したがってまた、ただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)ではないのである。すなわち、神の言葉は、「人間の現実存在の内部」や人間の感覚と知識を内容とする経験普遍や感情や自己意識・理性・思惟や意志や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、恣意的独断的な自主性・自己主張の欲求を手離せない私たち人間は、不信仰・無神性・真実の罪の只中にある私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。したがって、神の言葉は、その啓示に固有な証明能力に基づいて、その都度の「神ご自身」の自由な決断において、またその隠蔽性と顕現性において、「われわれのところに来」るのである。
 このような訳であるから、「啓示の主観的な可能性、つまり神の言葉に対するわれわれの自由」・神の言葉のための「われわれの自由」は、ヘーゲル的な人間自身の対自的で対他的な・他在であって自在な――すなわち自由な自己意識・理性・思惟の無限性のことではなくて、聖霊の注ぎによって授与される「神の言葉に対するわれわれの自由」・神の言葉に向かっての「われわれの自由」・神の言葉のための「われわれの自由」のことなのである。したがって、「われわれは啓示の主観的な可能性、つまり神の言葉に対するわれわれの自由」・神の言葉のための「われわれの自由」は、啓示の客観的な実在そのものである「イエス・キリストの中に尋ね求めなければならない」のである。すなわち、前述したような仕方において、「尋ね求めなければならない」のである。したがって、私たちは、その事柄を、私たち人間自身・「われわれのところで、われわれの中で、尋ね求めてはならない」のである、「われわれの自然的な自由および力強さ」において「尋ね求めてはならない」のである。ヘーゲル的な人間の自由を全面化するために、イエス・キリストを後景に退けてしまって、人間に「注ぎこまれた恵みの素質」――それが良きものであれ、悪しきものであれ、不可避的なものであれ、自然史の一部である人類史の自然史的展開における人間的自然、そこから疎外・外化・展開された観念諸形態における人間的自然、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性という人間的素質等――から、人間の啓示に対する認識「能力と力について語」ってはならないのである。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方であり、神の第三の存在の仕方である、「啓示の客観的および主観的実在は、神の実在であるように、啓示の主観的可能性」もその「神の可能性」であるし、そう「ありつづける」からである。(119・120頁)

 

 バルトは、このような理性的定式の内容に基づいて、次のように詳論をしている。

 

ア)「事情がそうであるとすれば、この可能性(≪「神的可能性」≫)にあずかる人間の参与」は、すなわち「啓示の主観的な可能性、つまり神の言葉に対するわれわれの自由」・神の言葉のための「われわれの自由」は、それゆえに啓示に固有な証明能力に基づいた啓示認識・啓示信仰の授与と享受は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく、私たち人間が人間的に所有する人間のそれであるから、すなわち人間の、聖霊によって更新された理性によって認識されたそれであるから、「われわれがわれわれ自身であるというわれわれの自己同一性の除去を少しも意味」しないのである。したがって、その事柄は、「自然的人間」・人間的自然が、「啓示に対し力を持っている」ということでは全くないし、「超自然的な要因と力」の「魔術的」な「突入」のそれでは全くないし、また「恍惚とか忘我脱魂状態」のそれでも全くないのである。このような訳であるから、例えば、バルトと滝沢克己との間には、そのインマヌエル理解においても根本的包括的な差異性があったのであるが、その神学の原理およびその認識方法と概念構成においても根本的包括的な差異性があったのである。すなわち、滝沢は、バルトとは違って、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト――その啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に信頼し固執せずに、それゆえに教会の一つの機能である教義学としては「非学問的な」在り方において、すなわち人類史のアジア的段階におけるアジア的日本的な自然原理とブルトマンの近代的な原理的方法に依拠して哲学的神学への方向性を目指したのである。このように、両者のベクトルは、全く逆向きだったのである。

 

 この「神的可能性」にあずかる「人間の参与」は、「われわれがわれわれ自身であるというわれわれの自己同一性の除去を少しも意味」しないそれであるから、「われわれ自身の体験と行為、われわれがわれわれの人間的な現実存在と呼ぶわれわれの自己規定のあの行為――(≪啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識・啓示信仰の授与と享受に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与と享受≫)――の中で、遂行されるということ」を、「徹底的に理解することができるし、理解すべき」なのである。したがってまた、この「神的可能性」にあずかる「人間の参与」は、ある人にとっては「絶望の状態の形をとって遂行され」るかもしれないし、ある人にとっては「正常な生活感情の中で遂行されることもありうる」のである。このような訳であるから、この「神的可能性」にあずかる「人間の参与」は、「肉体的――精神的現実存在」そのものの「全人間……すべての彼の状態と態度――(≪「わたしがわたしの……自己性の中で聞く、あるいは聞かない、召される、あるいは召されない、選ばれる、あるいは拒否される、裁かれる、あるいは恵みを施される……」、「絶望の状態」にある、あるいは「正常な生活感情」にある、ある生活・感情・思想・意志を持っている等々≫)――の可能性の中にある人間が神と直面させられる出会い、の可能性である」。(120−124頁)

 

 さて、この「神的可能性」にあずかる「人間の参与」における「謎」は、「一体どの程度までこれこれの印象がわれわれの召命であり、これこれの発見がわれわれの霊的覚醒であり、これこれの決断がわれわれの回心であり、これこれの確信がわれわれの信仰であり、これこれの感情がわれわれの愛であり、これこれの待望がわれわれの希望であり、したがってわれわれのとる態度の中でこれこれのものが神のみ前でのわれわれの応答責任であり義認であるかを決して語ることができないという点」にある。この「謎」は、人間の側に根拠があるのではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の聖性、神の隠蔽性・秘義性・不把握性に、そこから規定された終末論的限界に、根拠を持っている。この「神との関係の中にある人間の困窮した姿」を知っているのは、啓示自体が持っている隠蔽性と顕現性という啓示の弁証法の認識を授与された、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて啓示認識・啓示信仰を授与された、「ただ神の子供だけ」である。この「ただ神の子供だけ」は、「自分たちが事実神のみ前に立っていること、しかしながら自分では到底神の前に立ち、立ち続けることができないことを知っている」のである。(124−125頁)

 

イ)イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力授与(ヨハネ一四・二六)」であり、「上から」の「よき賜物」であった。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることであるが、そのことは、私たち人間が、その存在・その思惟・その実践において、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、主格的属格としての「イエスの信仰」(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)に感謝を持って信頼し固執することを意味している。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせるのである。また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるのである。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。このことは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与であり、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与である。

 

 この「ただ神の子供だけ」は、私たちに与えられた神的可能性が、「神の啓示の実在」・啓示の客観的実在に基づいて、「彼ら自身の内部で、否定すべくもなく登場している啓示の主観的実在に直面」して、それを授与されたことが「自分にとって謎とならざるを得ないのである」――すなわち、その授与を、「謎」として認識するのである。なぜならば、「ただ神の子供だけ」が、神と人間との無限の質的差異において、私たち人間は、「聖霊の秘義の中をうかがい見ることができないばかりでなく、なかんずく、うかがい見ることがゆるされない」ということを、それゆえに、その「謎は解き明かすことができない」ということを、すなわち神の、聖性、隠蔽性・秘義性・不把握性、終末論的限界ということを知らされるからである――すなわち、そういう認識を授与されるからである。啓示の弁証法、矛盾――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)という、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与されている事実を、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通して人間の自己認識・自己理解・自己規定を授与されている事実を、知らされる、からである。

 

 このことは、神の「恵みの秘義、……人間のところに新しくきた神の言葉の秘義」――「イエス・キリストの秘義」である。「神が人間となられたことに基づいて、……人間が神を持つ」ということが、「イエス・キリストの秘義」・「神の言葉の秘義」である。和解主としてのイエス・キリストは、「神ご自身」として、単一性・神性・永遠性を本質としているから、イエス・キリストのその「存在の仕方」における「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者として、われわれに出会うところの人間」であることは、「啓示および和解として現実に有効」なのである。「新約聖書において聞く啓示、和解」――イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示の内容は、「インマルエル、神われらと共にいます」である。また、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き・業)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、単一性・神性・永遠性を本質とする神の「全能」さ・完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の全能さ・完全さ・自由さである。したがって、前述した啓示の弁証法、「矛盾」は、神の第二の存在の仕方である「イエス・キリスト、肉となった神の子」において、「上から、神から」、神の側からの真実において、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神において、「ひとつにまとめて保たれている」のである。したがってまた、その「矛盾は、イエス・キリストが神の言葉として」、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解、神の言葉、神の言葉、啓示の客観的実在そのもの)として、「われわれのところに来る時に、下に向かって、人間に向かっても、ひとつにまとめて保たれる」のである。このような訳であるから、「ここでは見かけだけの克服があるのではなく、まことの、現実の克服、死人からのキリストの甦えりの実在による克服、がある」のである・「矛盾の中で生きる生は、既に、和解の中での生である。よく理解せよ。矛盾と抗争はそこでは、霊と肉との間、新しい人間と古い人間の間、われわれの目の前にあることと神のみが見給うことの間、でなされ、起こっている」・「われわれの心と意識は抗争のさ中にあって、しかもすべての思いにまさる神の平安によって守られている」。まさに、イエス・キリストの「死と復活」の出来事において、インマヌエルのできごとにおいて、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみない」のである。(125−128頁)

 

ウ)「われわれは、神の啓示に対する人間的な自由を積極的に記述してゆこうとするこころみ」によって、「二つの概念に到達した」。すなわち、その神の「言葉を通し」た、神の「言葉のための自由」の二つの概念は、「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」――すなわち、@「神の言葉、イエス・キリスト、が人間にとって主人」・「教師、指導者、主」となるということ、A「しかも有無を言わさぬ仕方で主人」・「教師、指導者、主」となるということ、である。したがって、この自由は、「神の支配」の下に立つ自由ことであり、「キリストの奴隷」となることであり、それは、
@単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの)、と、神の第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「イエス・キリストご自身の霊」としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、およびこのことと同時的・同在的に、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己啓示の授与(啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在)、そして
A神の言葉の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)――その、第一の形態であるイエス・キリスト(啓示の実在そのもの、啓示の客観的実在そのもの)と、第二の形態である聖書の証言・証しおよび第三の形態である教会の宣教の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」への連帯を通した啓示の主観的可能性、という啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力を、その神の言葉に向かっての自由・神の言葉のための自由の「唯一の可能性」として、「理解されなければならない」ということを意味しているのである。啓示の主観的実在・「神的な啓示されてあることの奇蹟(≪啓示の秘義のしるし≫)、ひとりの人間の中でのキリストの甦えりの力は、実にこの出来事から成り立っている」のである。「この出来事の中で、人間が神のこの可能性にあずかるものとなるということ、神を通して神に向かって自由となるということが生起する」のである。

 

 このことは、言い換えれば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる時――啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起される時、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執する啓示認識・啓示信仰の授与のそれである、ということである。その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、私たち人間は、「義とされた罪人」――神に「敵対」し「耳を傾けず」「耳を閉じて」聞こうとしない真実の罪人であり、「人間的不真実の中で、神的真理」について語ることが「許された者」である、等々という人間の自己認識・自己理解・自己規定を授与される、ということである。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、ただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性としての啓示の「概念の実在」ではないのである。これだけのことからでも、私たちは、例えば『カール・バルトの生涯』の中での、バルトと、彼を訪問したけれでも彼の意見を聞き入れなかった後者の<宗教>としての<自然神学>的な原理的方法を採用したパウル・ティリッヒ等々との根本的包括的な差異性を知ることができるであろう。(128・129頁)

 

エ)「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、「人がもはや回避することのできない(≪不可避的な≫)向かい合って立つもの(≪イエス・キリストにおける啓示・和解、啓示の客観的実在、そのもの≫)を見い出したということである」。身体を座として、対自的で対他的な・他在であって自在な自己意識を持って、不可避的な個・対・共同性という人間の存在様式を生きる人間にとって、「人が繰り返し自分自身とだけいる孤独の中に引き下がることができるということ」は、「彼の最も深」い「源泉」であり、人間自身の自由の根拠であり、「救助手段」であり、自己解放であり自己慰安であり、「慰め」でもある。しかし、「聖霊の注ぎ」は、「われわれに対しいずれにしても神の言葉に関して」は、「この退却」を、「原理的に」「不可能とする」のである。すなわち、「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つ」時、私たちは、そのことが、「自分が欲しているところのものであるかもしれない」しそうでないかもしれない、またそのことを「喜んで持つかもしれないし」そうでないかもしれない、そしてまたそのことに「ふさわしいかもしれないし」そうでないかもしれいにしても、「いずれにせよその時われわれの生活の中に」、「われわれに語られた言葉のどのようにしても追い払うことができないともなる現臨が並行的に生起している」ことを認識させられるのである。言い換えれば、単一生・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、聖霊の注ぎによって、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識させられ承認させられ確認させられるのである。したがって、その時、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであること」を認識し承認し確認するのである。この場合、私たち人間は、「聖霊を受けること」によって決して「別人に」なるのではない、形而上学的抽象的一面的固定的空論的幻想の中に退却・逃亡するのではない。すなわち、この聖霊の注ぎによる啓示の場所において、私たち人間は、「現にあるがままのものとして」、私たち人間の、その個・現存性――類・歴史性の生誕から死までのすべてを見渡すことができるのである、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」のである。したがって、私たちは、事実として実際的には人間論や人間学の後追い知識でしかないにもかかわらず、哲学は神学の婢という中世的思考への退行・逆行に依拠して神学の人間学に対する優位性を説く聖霊論的説教論を、時代錯誤も甚だしい状況論なき思想なき形而上学的抽象的空論的空想的な恣意的独断的な出鱈目な戯言であると言うのである。したがってまた、私たちは、「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、私たちは、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない、と述べたバルトの『ヘーゲル』の言葉を理解もせず、「終末論的」な「将来的なものの力」としての「御霊」の概念によって、「特殊と普遍」・「救済史と普遍史」とを交叉させ、ヘーゲルの歴史哲学に模した神学的な三段階的進歩史観を構想したモルトマンの主張に対して、時代錯誤も甚だしい状況論なき思想なき形而上学的抽象的空論的空想的な恣意的独断的な出鱈目な戯言であると言うのである。

 

 「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つ」時、私たち、「すでに来たり給うた」、また「再臨し給う」イエス・キリスト自身、「イエス・キリストにおいて起こった和解」との対話、イエス・キリストにおけるインマヌエルとしての神の言葉との対話、具体的には、「彼にとって明らかとなった聖書的真理のひとつの要素との対話」、「あるいは〔その者の中で〕教会が彼に出会ったひとりの人間との対話、あるいはまた全くただ彼が洗礼を受けたという事実との対話」、彼に「相対して立ち、出会う神の言葉の……何らかのしるしとの対話、をなしつづけなければならない」のであるが、そのことは、「彼の意志や行為の遂行とは全く独立した、神の子供の新しい生、神の啓示を受け取るというその可能性を持った神の子供の新しい生」なのである。聖霊の注ぎによる、神の「言葉を通して」、神の言葉「に向かって自由」、神の「言葉のための自由」は、「イエス・キリストにとどまること(ヨハネ第一の手紙三・二四)」、「み言葉の中に、愛の中に、神の中に、われわれ自身が『とどまること』である」。「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、とおくからわが思いをわきまえられます。(中略)わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます(詩一三九・一−一〇)」――「このことをともに祈ることのできる人は、まさにそれでもって神を通し、神に向かって自由であるだろう」。これらのことが、「哲学的にではなく、具体的に神学的に、理解されなければならない神の遍在のこと」である。したがって、この三位一体論的――キリスト論的な「神の遍在」の概念は、滝沢克己のような、人類史のアジア的段階におけるアジア的日本的な自然原理に基づく「根本的事実」・「インマヌエルの事実」という形而上学的抽象的空論的な概念とは全く違う位相のものなのである。(129−131頁)

 

オ)「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、私たち、全人間・全世界・全人類、「世、歴史、社会」が、「回避することのできない」唯一無比の「支配」・「法廷」としての単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト――啓示・和解、人間の歴史的形態としては「人間ナザレのイエス」・「神の子あるいは神の言葉」、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの――を、「見出したということである」。この時、前述したように、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであること」を認識し承認し確認するのである。したがって、私たちは、その場所においてのみ、最も信頼が置ける、人間的にも思想的にも資質的に合う、最も好ましい、内部と外部の観点を持った、世界的な、現存するあるいは現存した、一握りの、一流の、知識人として、神学者・牧師・説教者として、思想家として、文芸批評家として、文学者として、著述家として、カール・バルトに、吉本隆明に、等々に、依拠するのである。ここに、私は、バルト<主義>者ではなく、バルト<者>であると言った所以があるのである。私が言うまでもなく、私たちは、彼らの言葉や言説に耳を傾けた方が、ほんとうに、実際的に、確実に、人間や社会や世界や歴史の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受できることは確実なことなのである。
 したがって、限られた時間や身銭の中での読書における肝要さは、先ず以ては、二流三流の著作の百冊よりも、一流の著作の一冊にあるのである、そしてその次に、必要に応じて関連する他の著作を読むことにあるのである。百冊のキリスト教入門書や<分厚い>キリスト教入門書よりもドストエフスキーの文庫本一冊・『罪と罰』におけるマルメラードフの告白(終末論的な信仰告白)にあるのである。様々な神学書への拡散よりもバルトの著作への集中にあるのである。様々なマルクス主義書への拡散よりも吉本やフーコーやマルクスの著作への集中にあるのである。なぜならば、二流・三流の著作は世間を騙すことはできても、一流の著作を騙すことはできないからである。このことは拙著でも述べたことであるが、大木英夫のエーバーハルト・ユンゲルの翻訳本に対する出鱈目な評価の言葉が二流・三流の神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家や世間を騙すことはできても、バルトの一流の著作を騙すことはできないのである、またイエス・キリストの「存在の本質」である単一性・神性・永遠性を揚棄するだけでなく、さらにイエス・キリストの存在の仕方(啓示・和解、神の子・神の言葉、啓示の客観的実在、そのもの)も揚棄してしまった八木の哲学的神学が二流・三流の神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家や世間を騙すことはできても、バルトの一流の著作を騙すことはできないし、純粋に人間論人間学の領域・帯域に属する一流の文芸批評家であり思想家でもある吉本を騙すことはできないのである。

 

 マルクスは、次のように述べた――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」、と。また、フーコーは、次のように述べた――マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜならば、自然史的過程における資本主義的生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。丁度、社会構成と支配構成において、幻想の共同性を本質とする政治的国家を頂きとした、自然史的過程に属する科学や技術の発達が、軍事技術や兵器の発達を伴うことは、個人の意志や倫理の問題ではなく、自然史的必然であるというようにである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである、と。私たちは、ここで、フーコーが、マルクスの言葉を解釈し、「別の言葉で同一のこと」を言っていることを知るのである。
 また、このフーコーは、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について、次のように述べた――「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域からひきだしました。(≪しかし、そのことは、≫)全く重大なことではないのです」、と。
 そして、吉本は、「神話乃至古代史の研究」について、次のように述べた――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」、と。
 そしてさらに、バルトは、キリストの復活の出来事について、次のように述べた――復活の出来事は、無空間的無時間的な神話としてでもなく、史実時空においてでもなく、歴史物語時空において起こっているのである。したがって、聖書の歴史・歴史物語あるいは古譚・「原歴史」・「史実以前の歴史」は、まさに一つの年代的および地誌的地域的時空の中で起こったことであるが、証明されることもされないこともあるのである。しかし、バルトは確信を持って、「<史実的に>確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく。<歴史家>たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、じっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得る」のであり、「そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠」をもっている、と。歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、啓示は、「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にあるのである。
 歴史的実証<主義>や科学的実証<主義>――人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や「視覚的錯覚」から、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を「信用」しない――を原理的方法とする、例えば近代主義的プロテスタント主義的な人間学の後追い知識に凝り固まった二・三流の神学者や牧師や著述家たちの信仰・神学・教会の宣教は、前述したバルトやフーコーや吉本のような観点を持たないのである。

 

 このような訳であるから、二・三流の著作の百冊よりも一流の著作の一冊なのである。なぜならば、実際的に、吉本がマルクスを介して述べていたように、どのような領域・帯域においてであれ、無知が役に立ったためしはない、からである。言い換えれば、一方で、自分を使徒やエリートだと恣意的独断的に自画自賛し自惚れがら、他方で、思想の往還において、ある社会構成と支配構成に生き生活する大衆像と大衆的課題を引き寄せ、その緊急的相対的過渡的課題と究極的総体的永続的課題とを認識し自覚し担うことをしないところの、形而上学的抽象的一面的固定的空論的な知識人の無知(知識)が役にたったためしはない、からである。ましてや、人類は、「文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」、からである。神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家が増産する「存在者レベルでの神」に対する「熱心さの無知」(「存在者レベルでの神」の名による呼びかけによる人間自身の自己主張、人間自身が「管理するプログラム」)は、神自身と大多数の被支配としての民衆の支配を目指すそれとして、役にたったためしはない、からである。

 

 私たち人間は、近代において発見された人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性において、確かに、人間の自主性・自己主張・不信仰・無神性・真実の罪自体に基づく諸「権威」と、また「存在者レベルでの神」の「名」と「呼びかけの下」に様々な「人間が管理するプログラム」を増産したし、様々な社会構成、支配構成、文化構成に対して、これを選択してあれは選択しない、という恣意的独断的相対的な「自由」を持つ。しかし、私たちが、「聖霊の注ぎ」によって、神の言葉「に向かっての自由」・神の言葉のための自由・「み言葉」のための自由を授与された場合、それは、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいたそれであるから、「人がみ言葉の下に立つ」ことをのみ、「み言葉」に感謝をもって信頼し固執することをのみ、その方向性を目指すことをのみ、意味しているのである。ここでも、人間自身が問題なのではなく、啓示に固有な証明能力における神の側からの人間への授与、そうした「関係の現実性が問題」なのである。したがって、「彼は聖霊を受けることによって」、恣意的独断的に「自分自身の中で他のものになったわけではなく」、すなわち「存在者レベルでの神」・「人間が管理するプログラム」を偶像崇拝するものになったのではなく、その啓示に固有な証明能力に基づく「関係の現実性」において、「全く別のものとなったのである」。すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(啓示・和解、啓示の客観的実在、そのもの)にのみ感謝を持って信頼し固執する自分(啓示認識・啓示信仰を持つ自分)を授与されたのである、それゆえにそういう自分を享受することを認識し自覚したのである。この啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づく「関係の現実性」の場所は、人間の「全くの……協力と協働なしに、……神に向かっての自由が、神の啓示を聞くという可能性が」、啓示の主観的実在の可能性が、惹き起こされる場所なのである。

 

 「人はここで(中略)旧約聖書および新約聖書の中に出てくる神と人間との基本的関係は、……神の優越性の確立を通して造り出されるということ」について、「よく考えなければならない……」。人間には「議論の余地のない仕方で」、「ヤハウェは人間を支配し給う」という、この「地盤の上で、それから啓示の出来事全体が生起する」のである。この基本的な関係において、「神の側から和解、恵み、救助、あるいはまた裁き、刑罰が、そして人間の側からは信仰と不信仰、従順あるいは不従順などということ……が起こる」のである。すなわち、この「優越と服従」という基本的な関係においては、「ただ単に神の現実存在だけでなく、また人間に対し高くぬきんでてい給う神の崇高さが、全く無問題的に(中略)つねに既に、……すべてのことの前提」とされているのである。この場所において、聖霊の注ぎによって、「預言者と使徒たちは啓示される神を見、聞き、また啓示される神の証人」となったのである。そして、この「彼らの証言を聞くこと、啓示を聞いて悟ること」、啓示に固有な証明能力に基づく「神の言葉の三形態」通して啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在を可能とする聖霊の注ぎは、「神の子供たちの新しい生」のはじまりなのである。このような「関係の中で、人間は、神によって自分に語られていることを聞くべき耳をもつのである」。(131−133頁)

 

カ)「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、「言い逃れや弁解の余地もない命令……のもとに立」たされることを意味する。私たちは、人間の様々な主張や言説に基づく命令に対して、自分の資質や体験や生活や感情や知識や思想や意志によって、「全面的にあるいは部分的に」聞いたり・聞かなかったり、従ったり・従わなかったり、肯定したり・否定したり、疑ったり・疑わなかったりすることができる。また、そのような命令を「聞いていなかった」とか「理解しなかった」とか主張することができる。すなわち、その「命令」に対して、否定的な「言い逃れや弁解の余地」を持っている。しかし、聖霊の注ぎによって惹き起こされる命令(神の人間に対する要求)は、「徹頭徹尾……彼ら自身が全面的に命じられている」から「言い逃れや弁解の余地もない」ということを意味している。
 このことは、『福音と律法』においては、次のように述べられていた――神の言葉(啓示・和解)、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「全面的に」、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ信頼し「固着」せよ、という福音の形式である律法(神の人間に対する要求、命令)が建てられる。なぜならば、この律法がなければ、私たち人間は、現実的にその福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである、と。
 したがって、私たち人間に向かって語られる神の言葉は、「徹頭徹尾、彼の存在(≪その存在・その思考・その実践≫)にかかわり、つき当たってくるのである。彼らの存在が神の言葉の前にあっての存在、神の言葉と共なる存在、神にかなったものであるということ、彼らが神をおそれ、愛すべきであるということ、そのことが神の言葉の命令の内容」である。ここでもう一度、『福音と律法』の言葉に耳を傾けてみよう――人間はただの人間でしかない以上、<神性>を本質とするイエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもない。すなわち、福音の形式である律法(神の人間に対する要求、命令)は、「福音の中核」である単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的実在、そのもの)が、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、そのイエス・キリストに対する素直な感謝の応答としての信頼と固執、その告白・証し・宣べ伝えにあるのである。したがって、それは、@主格的属格としての「イエスの信仰」による神の義にのみ信頼し固執すること、すなわちその神の義としての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固執すること、そしてその告白と証しと宣べ伝えにある。A「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということである。B「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということである。
 これらの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。

 

 この神の命令は、私たち人間に対して、私たち人間が、その「神の言葉の命令を決して成就することはないこと」・「つねに履行しない」ことをも認識させるし、「事実、全く成就することができない時に」、その命令が、私たち人間に対して、私たち人間の「罪の負い目をあらわにするもの」であることをも認識させるのである。すなわち、「彼に語られた言葉との関係の中に彼が現に立ち、その関係の中で現に進み行くこと」は、神に「拘束されること、束縛されること、支配されることから成り立っている」のである。言い換えれば、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを、認識し承認し確認するのである。したがって、神だけでなく人間もという、人間の自主性・自己主張の欲求、人間の神との共労・協働・共働の欲求は、「このみ言葉との関係の中では繰り返し不服従」・不信仰・無神性・真実の罪として示されるのである。しかし、ここで再度『福音と律法』に耳を傾けてみよう――啓示の客観的実在そのものであるイエス・キリストにおける福音の形式である律法は、@人間に対して、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたそれである。A「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたそれである。したがって、私たち全人間・全世界・全人類は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけなのである。さらに、私たち人間の不従順・不服従・「不信仰の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実(≪啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在≫)となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である、ということである。ここで、「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し「固着」させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊、律法の成就・「律法の完成」そのものであるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して、恣意的独断的な自己主張をして破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くように促す霊である。したがって、私たちは、この神の側の真実であるイエス・キリストにおいて、「不服従の中でのみ……服従へと召され、要請され、要求され」ているということを知らされるのである。そして、このことの可能性の根拠、源泉、原動力は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(啓示・和解、神の言葉、神の子)――この啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、にあるということを知らされるのである。すなわち、啓示に固有な証明能力に基づいて、@授与された「彼の人間的な自己規定」・自己認識・自己理解を「完全に保持しつつ、実証しつつ」、そのことと同時的・同在的に、A神の言葉「に向かっての自由」・神の言葉のための自由の授与によって、「彼は神に対して自由であり、神の啓示を聞く能力がある」という、その可能性を授与された、と言うことができるのである。

 

 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ(ローマ一・一)」の、その「神の御心」・「神の御旨」を「通した」(Tコリント一・一等)「服従関係」において、「すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと(ローマ一・五)」任命された「使徒職の行使」は、徹頭徹尾、不可避的な、「強制のもと」でのそれであり、「イエス・キリストによって捕えられている(ピリピ三・一二)」それであり、「イエス・キリストの囚人(ピレモン一、エペソ三・一、Uテモテ一・八)」としてのそれであり、「そうせざるを得ない」というそれである。そしてそれは、「わたしがすでにそれを得たとか言うのではなく」「捕らえようとして追い求めている(ピリピ三・一二)」、その途上にあるそれである。このような訳であるから、聖書が宣教を義務づけている教会の途上性は、イエス・キリストに、具体的には聖書に聞くことによって、絶えずくり返し、教会は教会となることによって教会であろうとするその途上性にあるそれなのである。したがって、ただ単なる外在的な建物を擁した制度的組織的な教会でしかない教会は、教会ではないのである。
 「もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである(Tコリント九・一六)」。このことは、言い換えれば、そして今までの論述の言葉で言えば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの)であるイエス・キリスト――啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、三位一体論の唯一の啓示の類比である神の言葉の実在の出来事としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯のことなのである。この不可避的な連帯において、私たちは、個性と時代性を刻むのである。この意味において、神学においても、人間学においても、オリジナルな思想というものはないのである。

 

 さて、「罪から解放」された・「和解された」人間の、「聖霊に対してもっている関係」が「神の子」として「導かれること」(ローマ八・一四)であるが、「罪から解放」された・「和解された」人間の、主格的属格としての「イエスの信仰」における神の義に対して持っている関係は、その義の「僕となること」・その義に信頼し固執して「仕えること」・「神の奴隷」となることである(ローマ六・一八、二二)。福音書におけるイエスの指示の主調音――すなわち「イエスとイエスに属するものの間の関係の類型」も、「直接的」・「命令調」的な「自明性」における「主人と奴隷の関係」にある。律法――すなわち神の人間に対する要求・誡命は、福音を内容とする福音の形式であることは先に述べた。すなわち、福音、神の恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ「固着」せよ、というその福音を内容とする福音の形式である律法が建てられるのである。なぜならば、この律法――すなわち神の人間に対する要求・命令・指示・誡命がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである。この意味において、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。したがって、バルトは、ここで、聖書に依拠して、「僕が命じられたことをしたからといって」それは当り前のことであるから、「神の子供たち」は、「命じられたことを皆してしまった時、『わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたにすぎません』と言いなさい(ルカ一七・七−一〇)」という「神の言葉を聞くのである」、と述べるのである、また「彼らが聞くということは実際にひとつの命令を聞くこと、それであるからそれ自体服従であり、それとして必然的に言葉を行うこと(ヤコブ一・二二)である」という「神の言葉を聞くのである」、と述べるのである。
 ここで、福音を内容とする福音の形式である律法は、「旧約聖書的」な特殊性におけるそれではなく、三位一体論的――キリスト論的に理解されたそれである。したがって、決して「ローマ人への手紙およびガラテヤ人への手紙の中で、パウロによって戦われたユダヤ人の律法と混同しないように、注意しなければならない」。「それに対してイスラエルの律法は、すべての命令の前に、第一の命令として、おそれられ、愛されるべき方としての命令者なる神を登場させている、『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である』(出エジプト二〇・二)。パウロが自分のことをイエス・キリストの僕、イエス・キリストによって捕えられ、拘束されているものとして理解し、その特徴を言い表した時、パウロはいま述べたこの律法のもとに立っていたのである。この、いのちの御霊の法則(ローマ八・二)のもとに、パウロはまた新しい契約の信者たちも立っているのも見た」のである。私たちは、「事実、神の啓示にあずかる人間的な参与の可能性全体」を、先ず以て、<律法→>と<→福音>という順序の下で「福音と律法」について理解した「宗教改革者的弁証法」(『福音と律法』におけバルトとルターの根本的包括的な「福音と律法」理解の差異性を参照されたし)においてではなく、<福音→>と<→律法>という順序の下で「福音と律法」について理解したバルトにおいて、それゆえに、律法を、福音を内容とする福音の形式であると理解したバルトにおいて――すなわち「正しく理解された神的律法という概念」において、「理解しなければならない」のである。すなわち、「正しく理解された神的律法という概念」における神の律法は、それが私たち人間に対して語られる時、「ただ単に裁きや威嚇であるばかりでは」なく、「それはまた慰め、希望、喜び、助けであり、そこで神が……われわれを救うために神がご自分をわれわれと結びつけ給う行為」によって、「神が恵みをもって現臨」・「遍在」「し給う」ということである。なぜならば、その律法は、イエス・キリストの「死と復活」の出来事としての・インマヌエルの出来事としての福音を内容とする福音の形式だからである。この福音の内容は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、その「死と復活」において、自主性・自己主張・不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある「神なき者がその状態から立ち返って生きるためにのみ」、神は「彼の死を欲し給う」、その神の要求(律法)に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」という律法の成就にあるのである。すなわち、このイエス・キリストにおける「死と復活」におけるインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということである。(133−137頁)

 

キ)「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、私たち人間が、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、「最後的な、最も深い責任のなさの中で存在すること」を認識させられ自覚させられる、ということを意味する。すなわち、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、私たち人間は、次のことを、自己認識させられ自己理解させられ自己規定させられるのである。@人間は、恣意的独断的な自分自身の自主性・自己主張の欲求を手離せない、すなわち不信仰・無神性・真実の罪を本質としている、また本質的に神の恩寵を嫌悪し回避する存在である、それゆえにA神だけでなく人間もという、神との「共労」・「共働」・「協働」を目指す、そしてB「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げてしまう、したがってC義認の唯一の根拠である「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」(主格的属格としての「イエスの信仰」、イエス・キリストにおける「律法の成就」、イエス・キリストは「律法の終わりとなられた方」)を聞かず承認しない、D神に「敵対」し「耳を傾けず」「耳を閉じて」聞こうとしない、E「義とされた罪人」である、F「人間的不真実の中で、神的真理」について語ることが許された者である、G敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(成就された時間、「新しい世のはじまり」)であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され揚棄・止揚され克服されて「そこにある」、そしてその勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」である、ということを自己認識させられ自己理解させられ自己規定させられるのである。
 「聖霊の注ぎを通して……言葉の下に、言葉の命令の下に、おかれたということ、そのことは」、「われわれが、現にあるところのものとして」、「神の言葉自身がなし給う業を通して担われ、守られるところの奉仕」へと向かわせるのであって、人間の対象化された自己意識の類的本質である意味的世界や「存在者レベルでの神」の「名」と「呼びかけのもとに行われる」、神と人間に対する支配でしかない、人間が管理するプログラムへとは向かわせはしないのである。すでに述べたことであるが、「正しく理解された神的律法という概念」における神の律法は、それが私たち人間に対して語られる時、「ただ単に裁きや威嚇であるばかりでは」なく、「それはまた慰め、希望、喜び、助けであり、そこで神が……われわれを救うために神がご自分をわれわれと結びつけ給う行為」によって、「われわれの不適正にもかかわらず」、「神が恵みをもって現臨」・「遍在」「し給う」ということである。なぜならば、律法は、福音を内容とする福音の形式だからである。
 これらのことを、「われわれは確かに……首尾よくやりおおせることはないであろう」。しかし、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいた、それらの啓示認識は、<宗教>としての<自然神学>的な人間自身によって恣意的独断的に対象化された「存在者レベルでの神」認識、宗教的合理性の形態としての「存在者レベルでの神」の名と呼びかけの下での「人間が管理するプログラム」の行使――すなわち「誤謬の必然」を回避する前提である。ここで、宗教的合理性の形態とは、次のようなものである――「彼岸の消尽点が画の中に移され、神自身が人間の霊魂的な、また歴史的な現実の構成要素となり、従ってもはや神ならぬもの、偶像となる。これが特に危険な反乱であり、神への『反逆』である。その危険なわけは、それが、ごうまんにも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神(≪様々な存在者レベルでの神≫)の名において、神(≪様々な存在者レベルでの神≫)の呼びかけのもとに行われるからである」(E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。

 

 したがって、私たちは、「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならない。その時だけ、「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され」・命じられていることを知る。教義学そのもの、また神についての教会の語りは、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、それゆえに教義学そのものが、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリスト(≪啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」への信頼と固執と連帯≫)の中で、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となる。その場合、その教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができる。しかし、その語りは、神の聖性、隠蔽性・秘義性・不把握、終末論的限界の下における語りであるから、その語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身」の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項では全くないのである。したがって、教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである。言い換えれば、そのことは、「われわれがそのことを……いつまでたっても首尾よくやりとおせることができないであろうところ」で、その都度の神の自由な決断において「ただみ言葉がそれをやりおおせる時に、その場に居合わせる」ということである。すなわち、神の側からする、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力の授与と介在が、神の言葉「に向かっての自由」・「神の言葉のための自由」の授与と介在が、必要なのである。したがって、私たちは、「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」、と言わなければならないのである (『教義学要綱』)。

 

 「心配事」、「思いわずらいによってまさに圧倒されそうになっている時にも、いや、まさにそのようなときにこそ」、「最後的な、決定的な問いにおいてこそ、彼は心配から全く自由」である。なぜならば、全人間・全世界・全人類の完了された根本的包括的総体的永遠的救済・平和(史)については、私の・私たち人間の「なすべき事柄ではない」しなすことができる事柄ではないからである。すなわち、その事柄は、神の側の真実としてのみある、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの)である「イエス・キリストご自身」の事柄であるからである。したがって、私は・私たち人間は、「あなたのみ心が行われますようにとの……祈り」を「祈ることができる」だけであり、またそのように「祈るべきである」、と言うことができるだけである。このことから、「わたしがわたし自身およびほかの者たち、教会と世のためになすことができるすべてが成り立っている」。「わたしおよびほかの者たちの罪の重荷は、……全面的に、イエス・キリスト、神の言葉、に負わされているが故に、私に負わされていないのである」。言い換えれば、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを認識し承認し確認するのである。啓示に固有な証明能力に基づいて、「イエス・キリストがあなた方のために配慮し給うということを、われわれが知っているし、語るし、確認するし、証しするし」、そこにおいて、私たちは、実際的な生活を「生きる」のである。「まさにこの自由、この、最後的な責任のなさの中で〔こそ〕、われわれはそれからまた自明的に、神の啓示を聞く自由を持つのである」。

 

 聖書的人間、啓示の受領者であり啓示の証人、の態度は、「福音それ自身が神の力であり、しかも救いを得させる神の力であるが故に」、私たち人間の「動力を徹頭徹尾必要としない故に」、私たち人間の「くびきは負いやすく、その荷は軽い(マタイ一一・三〇)」のである。このような訳であるから、「彼らは実際、神がなし給うことをなそうとは欲しないのである。彼らはただその場(≪神の現臨の場≫)に居合わせようと望んでいるだけである」。(137−140頁)

 

ク)「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、「ひとつの特定の教化と指導のもとに服従させられるようになるということを意味している」。なぜならば、「聖霊の注ぎ」によって「ひとつの特定の教化と指導のもとに服従させられる」時には、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を通した「教化と指導のもとに服従させられるようになる」からである。「ここで主人は肉をとった永遠の言葉である。ところがわれわれは永遠の言葉ではない」。「聖霊の注ぎとともに現実のこととなる、神の言葉を通しての人間の教化と指導」においては、人間は、「彼が現にあるところのものであるし、あくまでも」そのように「ありつづける」のである。すなわち、「人間にとって、その一般的および特別な仕方での彼自身の存在、思惟すること、意志すること、感じることが決して失われてしまうわけではない」のである。人間は人間であり続ける。しかし、それと同時的に同在的に、聖霊の注ぎによって、「まさに神の前にあって罪人としての彼自身の存在が、神の言葉に服従せしめられ、したがってこの言葉を通して教化形成され、導かれ」、「服従させられる」時には、「彼の教化と指導は完全なもの」となることが「実際に起こる」のである。例えば、バルトが、『福音と律法』において述べた、次のようなことが「実際に起こる」のである――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ」が「実際に起こるのである」。「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)(ガラテヤ二・一九以下)』。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」ということが、「実際に起こるのである」。

 

 このような訳で、聖霊の注ぎによって、「われわれは、……永遠の言葉、に服従したことによって、ただ単に肉であるだけでなく、肉の中で神の子供」、「あの長子」イエス・キリストの「兄弟である」。このことが、「われわれの存在が言葉の下に服しめられる服従」の出来事である。ここにおいて、私たちは、「霊から」、「新しい誕生から」、神の「言葉に向かう方向性」を持つのである、人間の恣意的独断的な頑なな自主性・自己主張のベクトルから、啓示に固有な証明能力に基づく、神の聖性、隠蔽性・秘義性・不把握性、終末論的限界、の下での神の言葉「に向かっての自由」・神の言葉のための自由へとベクトル変容させられるのである、そのように方向転換させられるのである。このことは、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づくことであるから、私たち人間の「何らの功績によらず」、また私たち人間の側からの「貢献や協働」・共労・共働「なしに」、それゆえに神の側から・神のその都度の自由な決断において、「必然的に、不断に、抵抗すべからざる仕方で、起こる」のである。したがって、このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストご自身の否定および拒否」においては、すなわち「イエス・キリストご自身」の霊である「聖霊の不在」においては、「否定され、妨害され、不活発にされ」「起こ」らないのである。なぜならば、人間論的人間学的な「視覚的錯覚」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・存在の類比に依拠する信仰・神学・教会の宣教においては、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しないことになるから、その場合、バルトが述べているように、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が<宗教>としての<自然神学>的な思弁でしかないものとなり、そのような原理および認識方法と概念構成においては、イエス・キリストは、「下からの半神」・「超人」・人間の「最深の本質」・「最高の理想」・キリスト教的実存の範型・社会的奉仕活動の範型・事実的な政治的実践の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまうからである。啓示に固有な証明能力に基づいて、イエス・キリストが聖霊の注ぎにおいて「現臨しつつ行動し給うところ、現臨しつつ行動し給う限り」、イエス・キリストは、「まだ〔依然として〕肉の中にあり、まだ罪人として歩んでいる人間を教化し、導き給う。……それは厳格に隠された教化形成であり、隠された指導である」。イエス・キリストの行動は、「人間の生活がキリストにかなったものになるということを目標としている」。しかし、この「キリストにかな」うということは、キリストが単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であり、私たちはあくまでもただの人間でしかない以上、「第二のキリストである人間」になるということではない。すなわち、「キリストにかなっているということ」は、私たち人間が、その人間性全体において、「キリストの故に、キリスト」において、「神の子供であり、それ故に」、徹頭徹尾全面的に、キリストに「方向づけられている人間であることを意味している」。このことは、『ローマ書新解』の言葉で言えば、「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」、というその生に感謝をもって信頼し固執して生きることを意味している。このことは「聖霊の業」であるが、私たちは、その聖霊の注ぎによって「そのように方向づけられ」ることにおいて、「神の啓示を聞き、受け取ることができる」のである。

 

 この「方向づけ」についての「決定的な新約聖書的概念」は、「自分勝手な」恣意的独断的な「模倣とは全く別な方向を指し示している」ところの、「イエスの招きによって条件づけられている」・「メシア的な賜物」であるところの、「イエスのあとに従うという概念」にある。そして、この「イエスのあとに従うという概念」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二存在の仕方であるイエス・キリスト、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を意味しているのである。したがって、この方向性は、神だけでなく人間もという人間の自主性・自己主張の欲求にはないのである。
 「主よ、あなたに従います。しかし、先ず家族にいとまごいに行かせてください」は、「神の国に適さないことを直ちに暴露してしまうのである(ルカ九・六一以下)」。イエス・キリストの「死と復活」に「あずかる」参与・「イエスのあとに従うという概念」における方向性は、人間の、神との「共労」・「共働」・「協働」への方向性を決して許さないのである。すなわち、聖霊の注ぎによって、イエス・キリストの「死と復活」に「あずかる」参与・「イエスのあとに従うという概念」における方向性においてはじめて、「彼は……弟子となるし、イエスによって教えられ、学ぶことができる」のである。言い換えれば、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与され、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて人間の自己認識・自己理解・自己規定を授与されるのである。
 私たちは、さまざまな「存在者レベルでの神」の「名」における、さまざまな宗教的な「呼びかけ」が氾濫していることを知っている。例えば、人間にとって部分でしかない科学を全体とする科学<主義>も、人間自身がつくり出した近代以降の<宗教>である。神と人間に対して善意(≪彼自身の対象化された自己意識の意味的世界・彼自身の管理するプログラム≫)をいだいていたドストエフスキーの書いた「大審問官」の奉仕は、人間自身がつくり出した<宗教>としての「存在者レベルでの神」に基づく、宗教的合理性の形態に基づく「最も洗練された支配行為に過ぎなかった」。こうした状況のただ中で、イエスが残された「模範」を「耐え忍んで走りぬくために」、私たちは、人間自身がつくり出した<宗教>としての「存在者レベルでの神」への方向性を「かなぐり捨てて」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的実在、そのもの)である、そして「信仰の導き手であり、またその完成者と呼ばれる(ヘブル一二・二)」、イエス・キリストにのみ信頼し固執していく方向性の道を歩む必要があるのである。したがって、ほんとうは、神学者、牧師、「洗礼から……理解された」教会の宣教は、「僕のかたち」において、「キリスト者が、不一致からキリスト・イエス」における「一致へと戻る(ピリピ二・一−一一)」方向性を、持ち指し示す必要があるのである。言い換えれば、神学者、牧師、「洗礼から……理解された」教会の宣教の、ほんとうの方向性は、人間の経験を尊重し人間学の後追い知識でしかないにもかかわらず神学の人間学に対する優位性を空想し「存在者レベルでの神」に基づいて構成した聖霊論的説教論等や、人間論や人間学との迎合、時流や時勢との迎合、即自的な大衆との迎合や外部注入的な大衆啓蒙等、には決してないのである。

 

 バルトは、『福音と律法』において、次のように述べた――人間の自主性・自己主張・自己弁護・自己義認の欲求(不信仰・無神性・真実の罪)に基づく「律法の悪用」という事態の中で、人間によって恣意的に曲解された神の律法と共に、神の福音の内容も「破壊」される。すなわち、ここにおいて、イエス・キリストは、「一種神話的な半身(付属物)」、「理念の人格化」、「偉大な貸方」となる。このようになるのは、人間が、義認の唯一の根拠である「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を、すなわちイエス・キリストが「律法の終わりとなられた方」であることを聞かず承認せず、神だけでなく人間も、という神との「共労」・「共働」・「協働」を求め続けるところにある。その場合、人間は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げる。このような「存在者レベルでの神」に対する「熱心さの無知」は、「神の要求」を、人間によって恣意的独断的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変える。この時、人間のその存在・その思考・その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さ・「不従順」・「虚偽」となる。なぜならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせるからである。「存在者レベルでの神」の名と呼びかけという宗教的合理性の形態に基づいて、ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する。「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」。
 このバルトの言葉は、倫理の言葉ではなく、神学における思想の言葉である、啓示の客観的実在――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)に信頼し固執した、思想の往還における還相過程からの還相の言葉である。バルトは、一面的部分的な緊急的相対的過渡的課題としての往相的な言葉だけでなく、究極的総体的永続的課題としての還相的な言葉との同時性・同在性・構造性において、言葉を発しているのである。この時、はじめて、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農業芸術概論綱要』)とか、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』とかの課題に対する唯一の解決の方途を提示することができるのである。このことは、信仰・神学・教会の宣教における思想の課題なのである。マタイ二六・六― 一三、マルコ一四・三― 九は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて神学における思想の言葉で言えば、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な一面的・部分的・相対的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、イエスは、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけているのである。(140−144頁)

 

ケ)「聖霊の注ぎ」によって、「イエス・キリストの中で有無をいわさぬ仕方で主人を持つということ」は、「最後に、総括」的には、人間が「自分自身の事柄を持たず」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的実在、そのもの)であるイエス・「キリストの事柄を自分自身の事柄として持つということ……を意味している」。すなわち、「神の言葉が聖霊の注ぎを通して主人であるところ」の「関心事と事柄」は、「神の言葉であり、われわれに対してなされた神の業である」、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格」もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」という神の「愛の業である」。このようなものとして、「神の言葉が……聞かれるところ、そこでは」私たち人間の「自己主張と自己救助の意志、われわれの自己保持、自己義認、自己表示のための心労は、確かにまだ依然としてそこに存在しており、働いているが、しかし原則的には打ち砕かれ、その生命力において粉砕されてしまったのである。そのような意志は、いずれにしても、神の言葉に相対してはもはや……原則的には……存在することはできない」のであり、徹底的に粉砕され相対化されてしまったのである。すなわち、<宗教>としての<自然神学的なもの>、「存在者レベル神」の一切は、「原則的には……存在することはできない」のである、粉砕されてしまったのである。<宗教>としての<自然神学>の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教は、「原則的には……存在することはできない」のである、粉砕されてしまったのである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけ」なのである。したがって、その「恵みの光の中で」は、<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せるのである。
 このことは、『説教の本質と実際』においては、次のように述べられている――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがって、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、救贖・完成)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている。すなわち、私たちは、啓示に固有な証明能力に基づいて、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯しなければならないのである。「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験や情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。すなわち、私たちは、絶えず繰り返し聖書に「聴従」するために、そのことによって教会が絶えず繰り返し教会となるために、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事における、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである。そこにおいて、説教は、「会衆」、「特定の場所と時における全く特定の現在の人間」の生活、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ること」である。

 

 神の啓示の主観的可能性について、「第四福音書によれば、洗礼者ヨハネが語ったいくつかの言葉」によって総括することができる――「人は天から与えられなければ、何も受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言っことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。花嫁をもつものは花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える。……そのあかしを受け入れる者は、神がまことであることを、確かに認めたのである。父はみ子を愛して、万物をその手にお与えになった。御子を信じる者は、永遠の生命をもつ(ヨハネ三・二七−二九、三三、三五以下)」。私たちは、この引用の言葉と、最初に述べたバルトの理性的定式との関連性を、すぐに見出すことができるであろう。バルトは、こうも述べている――@「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である。A具体的には、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である啓示の「概念の実在」に信頼し固執し連帯することにおいて、「聖書」「釈義と絶えず接触を保ちつつ、また」「教会」「の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」る、と。ここにおいて、個性と時代性を刻む、と(144−146頁)

 

 信仰・神学・教会の宣教における思想の課題としての、<宗教>の揚棄は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(啓示・和解、神の言葉、神の子、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの)に信対し固執した、具体的には、教会に宣教を義務づけている聖書に信頼し固執した、それゆえに不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である啓示の「概念の実在」に信頼し固執し連帯した、信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成、それ自体において、<宗教>そのものとしての、近代<主義>的な、<自然神学>的な、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」における信仰・神学・教会の宣教を、根本的包括的に揚棄・止揚し、それを克服して、そこから超出していくことなのである。