本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の2の1)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の2の1)」(104−119頁)

 

次回は、『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の2の2)」
『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「宗教の揚棄としての神の啓示(その3)」へと続く。なお、引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解できるかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください)

 

(2)「聖霊の注ぎ」によって、「神の啓示」(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)が「人間の身におよぶこと」、すなわち啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、啓示・和解、神の子・神の言葉)である<イエス・キリストにおける啓示の出来事>と神の第三の存在の仕方(「父なる神と子なる神の愛の霊」、すなわち愛に基づく「完全な共存的な関係」・「交わり」、神的共同性」)である<聖霊の注ぎによる信仰の出来事>に基づいて啓示認識・啓示信仰が授与される時、換言すれば三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を通して啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在が「可能となる」時、それとの同時性・同在性において、それゆえにその啓示に固有な証明能力に基づいて注がれる聖霊自らが、私たちに人間に対して、私たち人間は、その人間的自然は、徹頭徹尾、啓示認識・啓示信仰およびそれに依拠した人間の自己認識・自己理解・自己規定の「可能性をもって」いないという認識をも授与するのである。すなわち聖霊自らが、人間が本質的に持つ、神だけでなく人間もという、人間の、自主性・自己主張の欲求、すなわち無神性・真実の罪を、人間の「困窮」を、人間に対して自己認識させると同時にそういう考え方を「思いとどまらせ」・放棄させるのである。(104頁)
 言い換えれば、啓示に固有な証明能力に基づいて注がれる、「慰め主としての霊」と「真理の御霊」としてのイエス・キリストの霊――「聖霊」自らが、私たち人間に対して、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与することにおいて、そしてそれに依拠した信仰の類比・関係の類比を通して人間の自己認識・自己理解・自己規定を授与するとことにおいて、自然や人間、天然自然や人間的自然、人間的契機の直接性、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性、人間の実存、人間の自己感情・意志、人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観、神と人間との「混淆」・「共労」・「協働」・「共働」論、に依拠することを「思いとどまらせ」・放棄させるのである。したがって、「聖霊は、人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」のである。啓示認識・啓示信仰に不可欠な聖霊によって更新された人間の自己意識・理性・思惟も、聖霊そのものではないのである。このような訳であるから、私たち人間は、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性・不把握性、終末論的限界の下での啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間における啓示の主観的現実化(人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与)は、人間の自由事柄・決定事項では全くなくて、その都度の神の自由な決断による「聖霊の注ぎ」によってのみ可能となる、と言わなければならないのである。
 私たちは、このバルトの理性的な定式――彼の言葉・教説から、すぐに、彼が、人間に内在する神的本質としての、対自的で対他的な、他在であって自在の、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性を原理としたヘーゲル哲学を紙一重で超えていることを知ることができるのである。私たちは、ここでも、<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教の一切を、その原理およびその認識方法と概念構成それ自体において、揚棄し克服しようと尽力している、すなわち神学における思想の課題を認識し自覚し担っている、神学における思想家としてのバルトの貌を垣間見ることができるのである。それに対して、直にヘーゲル主義者である宗教学的神学者のエーバーハルト・ユンゲルは、神学にとっての思想の課題・知識にとっての思想の課題を認識し自覚し担うことをしないところの、ただ単なる形而上学抽象的一面的皮相的な即自的知識人に過ぎないし、そのユンゲルを称賛しているそのエピゴーネンの日本的神学者の大木英夫やその大木を称賛しているキリスト教的なメディア的著述家の佐藤優や商業主義によってただ本を売るためにのみその本を称賛しているメディア的情報は、知識や情報としてはただ単なる二流三流としての知識や情報に過ぎないのである。したがって、私たちは、彼らの本やメディア情報を読んだとしても――私はバルトとの関係で、必要に駆られて読んだのであるが――、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。

 

 バルトは、次のように述べている。

 

ア)「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、@私たちが、「一人の主」なる神をのみ、「主として持つ自由」を私たちに与えるがゆえにそのように告白することを要求する、A私たち人間の「中に」も・「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来」ないと告白することを要求する、B私たち人間の「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできない」と告白することを要求する、C私たち人間の究極的限界性・終末論的限界を告白することを要求する(『教会教義学 神の言葉』)。

 

イ)「『もちろん福音をわたくしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえに自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。このことに自覚的でない場合、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理およびその認識方法と概念構成それ自体において、その信・知・キリスト者(教)を、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)――信・知・キリスト者(教)にも内在しているそれ――に対して完全に開くことは出来ない。そのことに自覚的でない場合、例えば旧来訳聖書も共同訳聖書もそうであるが、「イエスの信仰」を目的格的属格として理解した寺園基喜のように、一方通行的な、形而上学的抽象的一面的皮相的な、信の自然的な上昇過程の場所しか持たないから、常に自分を信・知・キリスト者(教)の立場において思惟し発言することになる。したがって、例えば平和について発言する場合も、形而上学的抽象的一面的皮相的に、「どこか押しつけがましく」・「上から目線で」、諸民族をその希望である「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、「キリスト者とキリスト教会の責務がある」、と述べてしまうことになるのである。
 ほんとうは、究極的包括的総体的永遠的な課題として救済・平和について考えるのであれば、先ず以てなすべきことは、バルトのように、素直な、感謝の応答である、主格的属格としての「イエスの信仰」への信頼と固執、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二存在の仕方であるイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)への信頼と固執、その告白・証し・宣べ伝えにあるのである。そして、純粋に革命論の究極像・最高綱領の課題として語ろうとするのであれば、政治的国家の無化を伴う社会的現実的な人間の解放の構想にあるのである。

 

ウ)「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)』。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。なぜならば、啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定によれば、人間は「神に相対して不自由」であり、それゆえに「神に向かって……徹頭徹尾無力な人間、ただ単に病人であるというだけでなく死んだものである」からである。したがって、「神ご自身が、人間の救い主となるために、登場し給」わなければならない。すなわち、「厳格な意味で」、「世は失われ滅びに沈んでいた」から、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、啓示・和解)であるイエス・キリスト(神の言葉・神の子)が誕生し「登場し給」わなければならない。(104・105頁)

 

 確かに、人間は、「被造物が持っている可能性のうちの多くを持っている」。近代は、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性を発見した。その自己意識・理性・思惟が<宗教>としての「存在者レベルでの神」を生み出すことを発見した。したがって、哲学は神学の婢であるというような中世的思考に停滞したルドルフ・ボーレンやそのエピゴーネンである神学者の佐藤司郎や小泉健が主張する、人間の経験の尊重論や「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与える」というような「軽薄に書き上げられた」聖霊論的説教論は、まさしく状況論なき・現在論なき・思想なき・未来に生きる言葉なき時代錯誤も甚だしい恣意的独断的な余りに人間的な<宗教>としての<自然神学>的な聖霊論でしかないのである。

 

 いずれにしても、即自的な人間の自由は、「神と共に存在する可能性を持たない」のである。すなわち、即自的な人間自身のそれは、その本質において、必然的に、人間自身の対象化された自己意識・理性・思惟の類的本質としての「存在者レベルでの神」の「名において、神の呼びかけのもとに」、それゆえにその宗教的合理性の形態のもとに、それゆえにまたその支配の様式のもとに、様々な人間の「独断的な観念に基づく独断的に考え出された」人間が管理するプログラム・「救いの計画と救いの方法」を自画自賛するのである。丁度、阪神・淡路大震災の時、「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本にわざわざ電話をかけて、「じぶんがやったことを得々としゃべ」た牧師のようにである。近代以降の、神学における思想の課題を認識し自覚し担わないところの、ただ皮相的に神と人間との「共労」・「共働」・「協働」を目指す即自的な人間論的人間学的な信仰・神学・教会の宣教は、それが大学神学者のものであろうが牧師のものであろうがキリスト教的著述家のものであろうが誰のそれであろうが、すぐに、神学(教会の一つの機能としての教義学)としては何の役にも立たない非自立的で「非学問的」(バルト)な知識に過ぎないものになっていくし、人間学としては何の役にも立たない非自立的で中途半端な人間学の後追い知識に過ぎないものになっていくのである。
 自然も人間も、天然自然も人間的自然も、その本質において、「神に向かって自由」の可能性とはならないし、「神のための自由」も持っていないのである。したがって、「神と共にある」ことは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいてのみ、その「御霊」である神の第三の存在の仕方である聖霊の注ぎにおいてのみ、可能となるである。そして、このことは、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づく、「神の言葉の三形態」を通した、「神の言葉の聞き手および行為者として」、イエス・キリストを主・頭とする「教会の中で、起こることである」。このように、自然それ自体、人間それ自体は、その本質において、「神と共にあることを意味するものではない」。したがって、滝沢克己が、彼の自由な自己意識・理性・思惟において、「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実にわたしたちが堅く結びつけられていることそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」(『カール・バルト研究』)――この彼の言葉・言説は、彼自身の対象化された自己意識の類的本質・意味的世界そのもの・「存在者レベル神」そのものである。もっと具体的に言えば、滝沢の「根本的事実」・「インマヌエルの事実」の概念は、人類史におけるアジア的段階の<自然原理>の対象化されたそれである、天台本覚論の山川草木国土悉皆仏性論的なそれである――と述べた時、バルトのインマヌエル論との根本的包括的な差異性を表明しただけでなく、また新たなひとつの、<宗教>そのものとしての<自然神学>的な信仰・神学・哲学的神学・滝沢<教>をうちたてただけなのである。滝沢は、ブルトマンのように、人類史のアジア的段階におけるある哲学的原理の第一次化によって、啓示に固有な証明能力、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」、への信頼と固執と連帯を恣意的独断的に棄揚してしまった分、その哲学的神学は、滝沢自身の意味的世界の自己表明でしかなくなってしまったのである。

 

エ)啓示・和解、インマヌエルの出来事、福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ信頼し「固着」せよ、というその福音を内容とする福音の形式である律法がうち建てられる。なぜならば、この律法(神の要求)がなければ、私たち人間は、現実的にイエス・キリストにおける福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。このような訳で、律法は、人間が全くただの人間でしかない以上、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストを模倣することではないし、そのイエス・キリストが信じたように信じることでもないのである。なぜならば、主格的属格としての「イエスの信仰」によって、その福音の形式である律法は、人間に対して、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられるからであり、「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられるからである。したがって、私たち全人間・全世界・全人類は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけなのである。言い換えれば、その福音の形式である律法は、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、そのことに対する素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えにあるのである。したがって、それは、主格的属格としての「イエスの信仰」における神の義にのみ信頼し「固着」することであり、その神の義としての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し「固着」することであり、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ことであり、「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということなのである。これらの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである(『福音と律法』)。この事柄が、イエス・キリストに聞くことによって、具体的には聖書に聞くことによって、絶えずくり返し、教会は教会となることによって教会である、という聖書が教会に義務づけている教会の宣教の原理なのである。したがって、外在的な、建築物を擁した人間の制度的組織的な教会が教会ではないのである――「教会は、(≪啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事、インマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」・「(≪したがって、そうでない場合は、≫)どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。

 

オ)私たちは、啓示に固有な証明能力に基づく聖霊の注ぎにおいて「神の言葉が認識される時」、すなわち啓示認識・啓示信仰を授与される時、それと同時に、「人間は神に向かって不自由であること」・「神のための自由」を持っていないこと、神の聖性、神の隠蔽性・秘義性・不把握性、終末論的限界をも認識させられるのである。言わば、「神に向かっての自由」・「神のための自由」、啓示認識・啓示信仰が授与された場合、その神「に向かっての……事実的な自由は奇蹟」・啓示の秘義の徴であり、「神の言葉の自由に基づいている」ということであり、すなわちそのことは啓示の客観的な実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいているということである。すなわち、「われわれ自身の自由と可能性に基づいてはわれわれは永遠に神の言葉を認識しない」のである。したがって、「啓示がわれわれの身に及ぶということが可能となるために、啓示がわれわれの身に及ぶに際してわれわれ自身の自由と可能性は何もないということがわれわれの確信とならなければならない」のである。すなわち、啓示の客観的な実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、啓示の出来事とイエス・キリストの御霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」――イエス・キリストの啓示の出来事(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在そのもの)と、聖書の証言・証しおよび「神の言葉の認識の奇蹟」に基づて造り出された「場所」である教会の宣教の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)――への信頼と固執と連帯を通してのみ、「啓示がわれわれの身に及ぶということが可能となる」ということが、「われわれの確信とならなければならない」のである。したがってまた、それへの信頼と固執と連帯において、私たちは、個性と時代性を刻む、ということを確信しなければならないのである。(106・107頁)

 

カ)と同時に、私たち人間に対する、聖霊の注ぎによってのみ可能となる神とその神のみ言葉「に向かっての自由」・「神のための自由」の授与と、それゆえにその自由の授与は即自的な人間の「理性や力」によっては不可能であるという認識の授与は、聖霊の業に属しているのである。したがって、私たちは、形而上学抽象的に、一方通行的な、人間自身の業の直接性において、人間の「理性や力」の直接性において、人間論や人間学的な哲学的原理・認識論・世界観等の必然性において、神とその神のみ言葉「に向かっての自由」・「神のための自由」の不可能性を、それゆえに神に向かって「不自由」・神のための「不自由」を認識できると主張することは、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力を否定することになる、と言わなければならないのである。すなわち、私たちは、神とその神のみ言葉「に向かっての自由」・「神のための自由」の不可能性についても、徹頭徹尾、聖霊の業そのものの介在(聖霊の注ぎ)を必要とするということを言わなければならないのである。なぜならば、人間の側からする一方通行的な、「人間に固有な決断の誇り」――「『神はすべてであり、人間は無であり、汝は白痴である』といった式の主張の仕方、あるいは抗弁の仕方」は、「人間的誇りの一形態」でしかないからである。
 したがって、この事柄について肝要なことは、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力――単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与と、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与によってのみ認識できるそれである、ということである。すなわち、この、三位一体の神とその神の言葉「に向かっての自由」・その神「のための自由」は、すなわちその啓示認識・啓示信仰の授与と享受は、徹頭徹尾、神の自由な恵みによるそれであり、神自身の自由事項であり決定事項であり、と同時に、その授与された啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して初めて、私たち人間に対して、人間自身の「神に向かって」不自由・「神のための」不自由という人間の自己認識・自己理解・自己規定が授与されるのである、また神だけでなく人間もという人間の自主性・自己主張としてある人間の不信仰・無神性・真実の罪、という人間の自己認識・自己理解・自己規定を授与されるのである、さらにまた、人間はその真実の罪を自分自身で克服する力や能力を全く持っていない、という人間の自己認識・自己理解・自己規定を授与されるのである(『福音と律法』)。すなわち、神の聖性、神の秘義性・隠蔽性・不把握性、終末論的限界の認識を授与されることも、また神だけでなく人間もという人間の自主性・自己主張を「思いとどまらせる力も、ただまさに言葉そのもの(≪啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力≫)の力であり、そのように思いとどまることが事実われわれの身に起こる限り、それは聖霊の力」によるのである。(107−109頁)
 したがってまた、私たちは、信仰・神学・教会の宣教の語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項・自由事項なのであって、私たち人間の決定事項・自由事項ではない、と言わなければならないのである。したがってまた、教会の宣教・その一つの機能である教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」のである(『教義学要綱』)。

 

キ)「神が啓示されてある」こと、啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在、それを通しての三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)においては、私たちは、「人間を自分自身の自由という顕著な地位からひきずり下し、彼を神の子供の自由という品位ある地位に任命」されてあることを理解することが肝要である。「人間が神の永遠の恵みといつくしみを通して否定されること」、「ただ神の子供として、神と人間の間の契約にあずかるものとして」否定されることは、「神ご自身を通してのほかには遂行されえない」。すなわち、「(≪私たち人間自身が≫)常に……、われわれ自身の可能性を遂行し、……われわれ自身の可能性を信じ込む……囚われの状態……に対してこそ、勝利を収める」ことができるのは、神自身、「神の可能性」のみなのである。どうしようもなく自主性・自己主張を欲しそれを要求する「人間と交わりをもとうと欲せられ、この人間に対して彼の主としてすべてであろうと欲し給う」ところの、神自身においてのみ「実在であり真理」である神の自由の唯一無比性は、「ただ自分自身の自由だけをもっており、知っている」「閉じられた人間」の恣意的独断的な自由の「唯一無比性」を、「神の勝利」において、「立ちまさった仕方で」取り囲み、「決定的に相対化される」、拒絶し否定し克服される(110頁)。すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、神の第三の存在の仕方である聖霊の注ぎによって、私たち人間に対して、「神の言葉の三形態」を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである。したがって私たちは、その時、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。
 このような訳で、その神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の場所は、<宗教>としての<自然神学>的な信仰や神学や教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである(『ヨブ』)。したがって、その場所は、自然史の一部である人類史の自然史的過程における経済社会構成体の拡大・高次化、科学や技術の発達、その知識の増大、そのことによる生活の利便性の増大、情報科学や情報技術の発達に伴う人間の感覚の発達、ヒッグス粒子やiPS細胞の発見という研究成果、またそこから疎外・外化された観念諸形態、その自体的展開とその自己増殖過程、等々を、人間的自然として、人間的世俗的真理として、正直に受け取ることができる場所でもあるのである。
 「神の力としての……聖霊の力だけが、……(≪「キリストにあっての彼の存在とその富、高揚、生命」……≫)人間の救いとなる貧しさ、謙虚、死の可能性……である」(110頁)。このことは、人間存在の在り方に引き寄せて言えば、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」という啓示認識・啓示信仰の授与と享受ということであるだろう(『福音と律法』)。

 

ク)富んでいる者が天国に入るのは難しい、それよりはらくだが針の穴を通る方がもっと易しい(マタイ19・23以下)。「イエスのこの言葉の普遍的な意義に気づいた」弟子は、それでは「だれが救われることができるのだろう」と考えて尋ねた――イエスは、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」、と答えられた。ここにおいて、「命に通じる狭い門と細い道は理解されなければならない」。イエスの宣べ伝えとイエスの言葉を聞くということは、「人間に下された裁き」の言葉を「聞き」そして「受け入れる」こと・行うことである(マタイ7・24以下)。「しかし一体誰がここで『受け入れる』ことができるであろうか」――「〔父を〕あらわそうとして子が選び給うたもの(マタイ一一・二七)、天国の奥義を知ることが許されているあなたがた(マタイ一三・一一)である」。すなわち、「幼な子のようになること(マタイ一八・三)」が肝要である、「新しく生まれること(ヨハネ三・三)」が肝要である。しかし、「そのことを何人もなすこと」は「できない」。誰もその「可能性を持っていない」。「悔い改めて福音を信ぜよ(マルコ一・一五)。確かにその通りである」。しかし、「しかしまさにそのことを何人もなすこと」は「できない」のである。誰もその「可能性を持っていない」のである。その極限に想定される人間の死は、その可能性の「限界であり、放棄であり、除去」である。また、聖書においては、「すべての偉大な神秘家たち」が行った、「泰然自若の境地を通して最後的に自我」を「捨て」「消滅する」というその在り方も、その可能性の根拠ではない。(111−112頁)。ここでは、人類史(世界史)における西欧的段階とアジア的日本的段階という内部と外部の観点が必要である。フーコーの世界認識の方法は、内部と外部とから世界を眺め把握できる構造を持っていることについてはすでに述べたことがある。フーコーのキリスト教的神秘主義における「個別化」とアジア的日本的な禅的神秘主義における「非個別化」(全体化)という把握は、首肯できるものである。現在は横へと拡散し衰退しているとはいえ、アジア的日本的な特徴は、共同体至上意識がいつも個体性を超えていくところに想定できるからである。フーコーは、普遍性(哲学・思想・革命・人間・社会の概念)の誕生の場であった「西欧の危機」を念頭において、禅思想を、そのアジア的日本的な<内部>とアジアの<外部>としての西欧から禅においては、キリスト教的神秘主義とは違って、「精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する――個性を破る傾向がある」と把握しているのである。私たちは、このフーコーを首肯できる。しかし、臨済禅の僧は、<外部>の観点を持たないまま、その一面的皮相的な<内部>の観点からのみ、すなわちアジア的日本的な禅思想の直接的な言葉で、「からだと心とが一つになるという体験、自分とそとの世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なものですね。禅が国際性を持ち世界性を持つということは、その点からも十分わかるわけですね」、と述べてしまうのである。言い換えれば、その僧には、「精神と自然との直接的な統一の段階」というものは、人類史のアジア的段階においてのみ、世界普遍性を持ち得たという<外部>からの把握ができ得ていないのである。
 言い換えれば、聖書は、先の可能性の根拠は人間自身には存在しない、ということを述べているのである――すなわち、聖書は、「人間によってはいかにしても実行されえない出来事のことを言おうとしているのである」。先ず以て、私たちは、ここで、その可能性の根拠について、まず以って、神だけでなく人間もという人間の欲求・自主性・自己主張は、すなわち人間に本質的に存在している「無神性」・「真実の罪」は、そうした人間的存在の否定・終局としての「死」において、すなわちそうした人間的存在を否定的に媒介することによって、揚棄され「克服」されなければならないのである、そうした人間的存在を包括し揚棄することによって克服しなければならないのである。「聖書はそのまま人間の身に及ぶ死について語っている。われわれは、この死ぬことが、ローマ六・三以下、ピリピ三・一〇以下で、キリストの死およびわれわれに与えられたそのしるしとしての洗礼と最も密接に関連づけられているのを見る。ひとりのものがすべてのために死んだ、それ故に彼らは皆死んだのである(Uコリント五・一四)。キリストにあるものは新しく造られたものである。それ故に、彼らにとって古きは過ぎ去った(Uコリント五・一七)が妥当する」。「世は自分自身を罰することはできない。ヨハネ一六・八以下によれば、世を罰するであろう方、『裁きをなし火をもって焼きつくすであろう』(イザヤ四・四)方は慰め主なる聖霊である。人間に対して下される裁きは、人間自身がなす事柄ではなく、神がなし給う事柄である。まさにそれだからこそ聖書の中では裁きは決して義から……切り放されることはない」のである。啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた啓示認識・啓示信仰の授与における「まことの悔い改めこそ」が、「自分自身を、それであるから啓示の主観的可能性」を、「神的な可能性として理解する」。言い換えれば、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と神の第三の存在の仕方である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与、すなわち三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」への連帯に基づく、それゆえにイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの)と、具体的には聖書の証言・証しおよび教会の宣教の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への連帯を通して、「自分自身を、それであるから啓示の主観的可能性」を、「神的な可能性として理解する」ことができる、というように言うことができる。(113・114頁)

 

 そうでない場合、そのキリスト教の信仰・神学・教会の宣教は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(啓示・和解、啓示の客観的実在、そのもの)に信頼し固執しないところの、すなわち余りに人間的な誰々<教>・何々派<教>・何々主義<教>・何々党派<教>・党派的多元主義<教>・科学主義<教>・歴史主義<教>・文明主義<教>・天然自然主義<教>・民族主義<教>として<宗教>に転化するのである。そして<宗教>に転化したそれは、人間の対象化された自己意識の類的本質そのものである「存在者レベルでの神」の「名において」、その「神の呼びかけのもと」に、次のような「支配」的行為を行うのである――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼の対象化された自己意識の意味的世界・彼が管理するプログラムそのもの≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。

 

 私たちは、ここで、啓示認識・啓示信仰に基づいて展開された、『福音と律法』における次の言葉を思い起こすのである――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」。すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、啓示・和解、神のことば・神の子)である「イエス・キリストご自身」が、その「死と復活」において、人間の恣意的独断的な欲求・自主性・自己主張、すなわち人間に本質的に存在している「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」を、それゆえにその人間的存在の否定・終局としての「死」を、究極的包括的総体的永遠的に棄揚し「克服」された、ということである。言い換えれば、形而上学抽象的一面的固定的空論的にではなく、啓示それ自体が持つ啓示の弁証法において、「イエス・キリストご自身」が、人間存在の「真実の罪」――その否定・終局としての「死」を、すなわち「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」というその死を、先のような仕方において「引き受け給う」ことによって、究極的括的総体的永遠的に棄揚し「克服」された、ということである。この意味において、バルトは、『福音と律法』で次のように述べたのである――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、と。

 

 このように、啓示の真理によれば、人間は、自主性・無神性を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その「死を欲し給う」。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の自由な愛によって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストご自身」が、その神の要求(律法)に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する「神の答え」である「刑罰(死)」を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)ところにある。すなわち、このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、神は、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆(≪神だけでなく人間もという、人間の自主性・自己主張による共労・協働・共働≫)されぬように、(≪神の側の真実としてのみ≫)統一し給うた」ということを内容としている。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の形式としての律法は、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」とこと、「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れること、「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し「固着」すること、その感謝の応答として、その告白と証しと宣べ伝を遂行すること、にあるのである。この事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。しかし、自主性・無神性・真実の罪を本質とする人間は、この「神の要求」をも聞こうとはしないのである。すなわち、人間は、福音の形式である律法を聞く時、「律法を悪用する」「罪の法則」によって「善きものを反対物に変」えるという人間的な「巨大な欺瞞」を惹き起すのである。このようになる根拠は、人間が、義認の唯一の根拠である「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を、すなわちイエス・キリストが「律法の終わりとなられた方」であることを聞かず承認せず、イエス・キリストにおける神の側の真実だけでなく、人間の側の欲求・自主性・自己主張もという神との「混淆」・「共労」・「協働」・「共働」を求め続けるところにあるのである。近代以降の信仰・神学・教会の宣教は、これまで述べたことに自覚的でない場合、すなわち神学における思想の課題に自覚的でない場合、必然的に、非自立的で中途半端なそれとして、現存する人間の感覚と知識を内容とする経験の尊重の第一次化、人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観の第一次化、時代や時勢への迎合・同化、大衆迎合・大衆啓蒙、人間論や人間学の後追い知識、へと邁進して行くことになるのである。その場合、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「人間が管理するプログラム」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくりあげるのである。このような神に対する「熱心さの無知」は、恣意的独断的な人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認(無神性)に基づいており、「神の要求」を、人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えるのである。この時、人間のその存在・その思惟・その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さ・「不従順」・「虚偽」となる。なぜならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」・「神冒?」を生じさせるからである。それでは、なぜ、神は、福音の形式である律法を、「真実の罪人」の手に、「にもかかわらず」与えるのか? その「積極的な意味」は、「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めた」がゆえに、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」という点にある。すなわち、「罪が死によって支配するに至ったように、恵もまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」という点にある。言い換えれば、その「積極的な意味」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの死と復活の出来事において理解された、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的な赦罪・和解・救済・平和(史)にある、と言うことができる。この啓示認識・啓示信仰は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事とイエス・キリストの霊(「慰め主」としての霊と「真理の御霊」)である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ、可能となるのである。そして、バルトは、個と共同性の対立・逆立という近代的概念においてではなく、個と共同性との正立・平和という新約聖書的概念に基づいて(『バルトとの対話』)、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べたのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)。

 

ケ)バルトによれば、ルターは、「一五一五年から一六年にかけてなされたローマ書講解」で、「人がキリスト教的な悔い改めと謙遜へと導かれるならば、それもまた神のみ業であって、人間の業ではない」という主調音において、次のように述べている――@「ワレワレハ決シテ自ラ内省シテ虚言者・不義者トナルコトハデキナイ……」、A「信仰(≪啓示に固有な証明能力、単一性・神性・永遠性を本質とする、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と神の第三の存在の仕方である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰≫)ニヨッテ神ノ義ガワレワレノ中ニ生キルト同様ニ、ソノ同ジ信仰ニヨッテ罪モマタワレワレノ中ニ生キル、スナワチ信仰ニヨッテワレワレガ罪人デアルコトガモットモダトサトル」、B「モシモ神ガ先ズゴ自身ヨリ現ワレ出給イ、真実ナル方トシテワレワレノ中ニ立トウトシ給ウノデナケレバ、ワレワレハ決シテ自ラ内省シテ虚言者・不義者トナルコトハデキナイ……」、C「ソコデワレワレハコノ神ノ啓示、スナワチ神ノミ言葉ニ席ヲユズリ、信仰ヲオクリ、コレヲ義トシテ確認シ、コレニ帰依シ、ワレワレ自身ヲ、(コノ道以外ニハ認識サレナカッタデアロウワレワレ自身ヲ)罪人トシテ告白スベキデアル」、D「そのようなわけであの罪人トナルコトはただ聖霊ノ働キニヨッテ現実に起こることができるだけであるし、謙虚サはただ霊的ナコトとして実在となることができるだけである」、E「霊的ニシテ知恵アル人間ノシルシハ、自分が肉デアルコトヲ知リ、自己嫌悪ノ情をモツコトデアル」。(114・115頁)

 

コ)バルトによれば、カルヴァンは、「キリスト教綱要の有名な導入の章」で、「知恵の総内容」を、「神ヲ認識スルコトト、ワレワレ自身ヲ認識スルコト」として構造的・同在的に把握し、そこにおいて、「いずれが他に先立ち、いずれが他を基礎づけているか」ということを問う問い「から出発している」。私たち人間は、近代において、人間に内在する神的本質の概念を発見し、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性を認識し自覚したのであるが、一方で、全くといっていいほど発達しない情念の世界における愛憎の悲劇や惨劇、社会や国家の現状、等々を目の当たりにし、「われわれがいま」、そうした「人間の中に見出すところの不幸に満ちた世を目撃することによって、己が無知と、むなしさと、乏しさ、無力、ついには堕落と頽廃との感におそわれて、主ニオイテのほかはどこにも、知恵、力、善、義、真理がないことを認識する」ことができるし、「自分自身に対する不快感をいだきはじめてから……神を真剣に渇望すること」ができる、というように言うことはできる。そして、この人間の自己認識は、「神を尋ね求める契機」・「神を見い出すことへと導いてゆく」契機となる、と言うことはできる。しかし、それに対して、その神とはどのような位相・水準の神であるのか、フォイエルバッハ等が正当性をもって根本的に批判した、<宗教>そのものとしての人間の対象化された自己意識の類的本質・意味的世界としての「存在者レベルでの神」でしかないのではないのか、と言うこともできる。
 したがって、「一体どのようにして人は」、「実際」に、ほんとうの「自己認識にまでくる」のか、というように問わなければならない。「神の御顔をまず凝視し、ソノ次ニコレヲ直視スルコトカラ自分自身ヲ検討スルコトへとくだって来るのでなければ、決して自己認識に到達すること」はできない。「一旦、われわれが思いを神に向け、神の義と知恵と力のことを考えはじめるならば、われわれにとってわれわれの義は不正として、われわれの知恵は愚劣として、われわれの力は無力として明かになってくるし、したがって実際の自己認識にまで来るのである」。「われわれの(≪啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)はそれに対応する(≪啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した≫)自己認識(≪・自己理解・自己規定≫)によって条件づけられているとしても、この相互的に条件づけ合っている関連性の中で、まさに神認識(≪啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰≫)に対してこそ決定的に優先権が与えられなければならない」。したがって、私たちは、「自分自身の知恵と力はすべて断念しなければならない」。「それ故に悔い改めは厳格に信仰(≪啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与≫)」、すなわち「キリストへの参与(≪啓示に固有な証明能力、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与≫)から由来する」。「それ故にワレワレノ自己否定――そこにカルヴァンはキリスト教生活ノ総内容を見てとった……――は、ワレワレハワレワレ自身ノモノデハナク、主ノモニデアルという命題」から「導き出されている」。「それ故にまた(中略)義認を信じる信仰の謙遜サ」は、「控え目デアルという徳」論から導き出されてはいないのであって、「み言葉の中にあっての神ご自身に希望をおく以外のことが人間には残っていない」という命題から、「導き出されている」のである。(115・116頁)

 

サ)「われわれはここで各方面から持ち出されたいろいろな教説に対して、われわれの立場を限界づけなければならない」。この限界づけについての理性的な定式化が、今回の記事の最初に示した(2)のそれである。
 したがって、「人間に固有な可能性」――すなわち、「神の怒りおよび裁きを指し示す」私たち人間の「現実存在の否定的な規定」としての、「すべての世界観的な虚構……幻想」を「解消され、……持たなくされる可能性」・「すべてのわれわれのイデオロギーと企てが挫折する可能性、そのような挫折の認識の可能性」は、「神の啓示に向かっての」「世界内在的な人間論的な結びつき点」であるとする「教説」・立場を限界づけなけければならない。人間が「啓示を受けとることに対して何らかの積極的な可能性をもっているという考え方」・「教説」・立場を限界づけなけければならない。すなわち、「まさに決定的な個所で現われてくる不連続性(≪神と人間との無限の質的差異≫)ということから、人間と神、自然と恩寵、理性と啓示の間の連続性が、それとともに中立的な『アンテナ』、第三条の自然神学の対象が、成り立っている」とする「教説」・立場を限界づけなけければならない。そうした<宗教>化を目指す<自然神学>的な教説・立場を限界づけなければならない。
 「ほかならぬ病人こそが医者を必要(マルコ二・一七)」としている。「神の力は弱いものの中で力強い(Uコリント一二・九)」。イエス・キリストの「蘇えりと高揚」・「受難と死、最も深い屈辱」こそが、神の啓示と人間の究極的な困窮・究極的包括的総体的永遠的救済・平和の渇望との関連性の「基礎であり意味である」。すなわち、人間の究極的な困窮・究極的包括的総体的永遠的救済・平和の認識は、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与において成立するのである。したがって、即自的な人間の「愚かさ、低さ、弱さ、苦しみ、死」という「人間的現実存在の否定的な規定そのもの」は、神の啓示、と、神から遠ざかり遠ざかり続けている・罪を新たな罪を犯し続けている・神だけでなく人間の自主性・自己主張を求め続けている不信仰、無神性、真実の罪のただ中にある、私たち人間の究極的な困窮・救済の渇望との関連性の基礎や意味とはならないのである、イエス・キリストにおける「あの救いとなる発見と同一ではない」のである。「それらのものは世界内在的な人間論的可能性として、何らかの功績があるわけではないし、われわれの現実存在の積極的な規定のさまざまな可能性と比べて何かすぐれた点をもっているわけではない」のである。
 言い換えれば、「神が選ばれたものはこの世にあって愚かなもの、弱いもの、いやしいもの、軽蔑されているもの(Tコリント一・二六以下)」である――それは、「『どんな人間でも、神のみ前に誇ることがないため』に選ばれたのである」。「キリストと貧しい者、病気の者、取税人等の間のあの関連性を……強調しているその同じルカ福音書記者」は、「実に三度も(ルカ七・三六、一一・三七、一四・一)……パリサイ人の食卓への招待に、応じさせている」。パウロは、「コリントの人たち」が、「ただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるにいたったから、神のみこころに添うて悲しんだから、……喜んでいるのである(Uコリント七・九―一一)」。人間的なこの世の悲しみの即自性は、その極限においては、ある事件でもって・惨劇でもって・「自殺でもって反応することができる」。しかし、「神のみこころに添う悲しみ」は、「ただはっきりとさいわいなりとして祝福されることができるだけである」。なぜならば、その場合、その人間の人間的存在は、「われわれの人間的存在である」だけでなく、「それと同時に」、「ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいて」、その「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である」からである。
 「こころの貧しい人たちは、さいわいである(マタイ五・三)」という、この「こころの貧しさ」・「救いに役立つまことの絶望は、……それ自身信仰に属する聖霊の賜物として、イエス・キリストの業である」。したがって、それは、「もともと人間の性質の中にある」「結びつき点」に属してはいない。すなわち、「人間が自分自身から自分自身について知ることができることに属していない」。したがって、即自的な、人間的なこの世の悲しみは、神の啓示との「一般的な、必然的な、体系的な……関連性」を持っていない。したがって、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、「まず第一に、われわれに対してその罪をゆるし給う神のあわれみを認識」させられる(啓示認識・啓示信仰の授与)による、「人間の罪の認識」・人間の自己認識・自己理解・自己規定(の授与)――この「結びつき点」は、「神によって新しく措定された『結びつき点』」、「もともと人間の性質の中にあるのではない」神によって授与された「結びつき点」として、すなわち啓示に固有な証明能力に基づく聖霊の注ぎによる「結びつき点」として、<宗教>としての<自然神学>的な聖霊の神学の対象とはならないのである。このことが、バルトが「そのようなわけでそれらは、第三条の自然神学の対象ではない」、と述べたところの意味である(119頁)。

 

 したがって、「この貧しさは抽象的に……われわれ自身の貧しさの経験から成り立っているのではなく、むしろ具体的に、ゴルゴダの丘の上で出来事として起こったイエスの貧しさ……われわれの貧しさを徹底的に、決定的にあらわにすると共に、われわれの富の基であるイエスの貧しさ(Uコリント八・九)……から成り立っている。そのようなものとしてこの貧しさ」は、「原理的な、包括的な貧しさである」、「まことの貧しさである。なぜならば、それは実際に人を救う絶望であるからである」。したがってまた、この「神のみこころに添う悲しみ」は、人間的契機の直接性に依拠した、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠した、存在の類比に依拠した、「世界内在的に、人間論的に確認され、理解され得るものとなる人間の現実存在の規定ではない」のである。(116−119頁)

 

 バルトは、例えば『ナイン!――エミール・ブルンナーに対する答え』において、次のように述べている――ブルンナーの人間に固有な「結合点」は、啓示神学に対して、それをも規定し得る「独力で立」った「堅固な下部構造」である。カルヴァンは、ブルンナーと違って、「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め」、それらに独自性を与えて、「後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめる」ことをしていない。ブルンナーは、内容的には「神の像」は「全く失われてしまって、人間は徹底的に罪人であり、人間の中には罪で汚されてないものは何もない」と語るのであるが、「人間には啓示なくしても」、「人間自身が本来持っていて、そして啓示の中で言わば甦って来る」、人間に内在する「啓示能力」・「言語能力」・「言語受容能力」・「呼びかけられうる能力」があると言う。それは、「人間の持っている『神の像』」であると言う。すなわち、ブルンナーは、「啓示の中で初めて甦って来るところのものである」としても、「啓示に先立つ『啓示能力』」・「結合点」を主張する。この人間に固有な「結合点」は、罪人からも喪失してしまっていない「形式的な神の像」である、と言う。それは具体的には、人間の「人間性」・「理性や応答責任性や決断能力」のことであり、「神の啓示に対する客観的可能性」となるものである、と言う。この「形式的な神の像」は、その信仰・神学・教会の宣教の、そ原理およびの認識方法と概念構成において、神と人間との無限の質的差異を揚棄し、神と人間・神学と人間学との混淆・共労・共働・協働を目指すものであって、首肯することはできないものである。バルトは、ブルンナーの目指している神学的課題が、「理性的思惟の絶対化〔絶対主義〕」「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにある、と述べている。ブルンナーのその「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の半減された「近代的精神」、人間の自己意識・理性・思惟は、新たな神との「共労」・「共働」・「協働」関係の構築を目指すそれであって、首肯することはできないものなのである。

 

(3)『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の2の2)120−146頁」については、次回に展開したいと思います。