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1の1.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

1の1.『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(3-40頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U2 神の啓示 聖霊の注ぎ』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「十六節 神のための人間の自由――一 聖霊、啓示の主観的実在」(3-40頁)
 バルトは、次のような定式化を行っている。
神の啓示は、聖書にしたがえば、神の霊が、われわれを、神の言葉を認識するよう照らし出すことの中で、出来事として起こる。聖霊の注ぎは、神の啓示である。神の子供であり、神のその啓示の中で認識し、愛し、讃美するわれわれの自由は、この出来事の実在から成り立っている。

 

 このことは、聖書に従えば、キリストにあっての神の啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(「存在的な必然性」)と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による主観的な信仰の出来事に基づいて起こる、ということである。すなわち、「聖霊の注ぎは、神の啓示である」、客観的な「言葉を与える主は、同時に(≪主観的な≫)信仰を与える主である」。「聖霊は、み子の霊であり、それ故子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるし、「和解者が神の子であるが故に、……和解、啓示の受領者たち」は、受領者と授与者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「神の子供」なのである。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義に基づいた宣教を通して、イエス・キリストが、われわれ人間に対して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、われわれは、「神の支配のもとに入ることを承認し確認する」、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」のである。この時、イエス・キリストの啓示の場所は、われわれにとって、全く自由に、われわれ人間の、その個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であり、それ故にまた神としての神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神との「混淆」・「共労」・「共働」・「協働」論、「神人協力説」、「人間学の後追い知識」としての混合神学を志向し目指す自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもある。したがって、われわれは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯して、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(通俗的な意味での隣人愛ではなく、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行かなければならないのである――これらのことは、客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての主観的な信仰の出来事の実在から成り立っている。 

 

 「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、第一に、「われわれが、一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるが故に、そのように告白することを要求する」、第二に、「われわれ人間の中にも・中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」、第三に、生来的な自然的な「われわれ理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」、第四に「われわれ人間の究極的限界性を告白することを要求する」。イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束したもの」は、「慰め主としての霊」と「真理の御霊」である。この聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにするもの」であり、「キリストについて語ることができる能力」(ヨハネ14・26)であり、「上からのよき賜物」である。この「聖霊の注ぎ」により「聖霊を持つということ」は、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への方向転換におかれること」である。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、前段で述べたような仕方で、「キリストの奴隷となること」である。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせる。また、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ8・15、ガラテヤ4・5)ことができる。また、「和解者が神の子であるが故に、……和解、啓示の受領者たち」は、授与者と受領者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「神の子供」なのである。聖霊は、ご自身の中での神としての完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊」・「三位相互内在」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の起源・根源としての父と、父が自分を自分から区別した子との神的愛に基づく交わりであり、それからわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方として、すなわち啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者として、徹頭徹尾「人間精神と同一ではない」し、その聖霊によって更新された人間の理性性も聖霊と同一ではないのであるから、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」のである(『教義学要綱』)。また、バルトは、『教会教義学 和解論T/1』において、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではあるが、イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の連続性に連帯した第三の形態の神の言葉である教会≫)において、イエス・キリストの聖霊の業(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な信仰の出来事≫)として遂行される」と述べている。

 

 人間的主観に実現された客観的な啓示、すなわち神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識の出来事、啓示認識・啓示信仰の出来事は、徹頭徹尾「聖霊の注ぎ」によるのであるから、「聖霊、啓示の主観的実在」は、「啓示概念の内容」、すなわち「われわれに対して神が啓示されてあるという啓示の概念の実在を問う第三の問いの展開である」。言い換えれば、それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書(≪その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)の中で証しされた啓示を念頭に置いた」、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の客観的な信仰告白および教義を問う問いの展開である。また、「啓示の主体を問う」「第一の問いに対する答え」は、「自ら啓示者であり、自らその啓示の行為であり、同時にまた自らその啓示されてあることであり給うところの神」、すなわち「存在」上も「認識」上も、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の愛の行為の出来事全体として展開された。「その一つであることと三つであること、三つであることと一つであることの中での、父・子・聖霊についての教説の中で、展開された」。そして、「まさに三位一体論を念頭においてこそ第二の問い、神から……の啓示の実在を問う問いがさらにまた独立的に立てられ、答えられなければならなかった」。そして、続いて、あの「聖霊、啓示の主観的実在」という「第三の問いを……われわれの三位一体論的な考察とも、それからまたキリスト論的考察とも、できる限り厳密に関連させつつ」、「独立的に答える……務めをなさなければならない」。ここで、「啓示されてあること」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)のことである。

 

 聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)において三度別様に父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子――啓示・語り手の言葉・和解者、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体であって、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である(それ故に、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではない)。したがって、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする神の「完全さ」・「自由さ」は、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の「完全さ」・「自由さ」なのである。そのわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「われわれに出会い給う神」である父、子、聖霊の三つの存在の仕方は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪父――隠蔽≫)、あわれみ(≪子――顕現≫)、愛(≪聖霊――聖霊は、その神的愛に基づく「交わり」の中で、「父は子の父」、「言葉の語り手」であり、「子は父の子」、「語り手の言葉」であるところの「行為」・働き・業である。ここに、神は愛・愛は神であることの根拠があり、「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの存在の仕方に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、その啓示の弁証法において、また神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「人間に対して自己を伝達する」。

 

 第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義における神の啓示は、「旧約聖書におけるヤハウェ」、「新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のこと」である。その聖書の証言またその教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊であり、そのような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この聖書的啓示証言におけるキリストにあっての啓示が、教会の宣教における<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常に、この三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに「神性否定のキリスト論」、「半神・半人キリスト論」、「三神論」に依拠した神論、キリスト論、聖霊論の陥穽に陥っていく以外にないからである。

 

(1)先の「第三の問いの特別な意味を、特にあの第二の問いとの関係の中で、明らかにしようとする」時、「啓示」が――すなわち、「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事、客観的現実としての啓示が、「啓示されてあること」へと――すなわち、「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の中での主観的側面としてのキリストの霊である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいた第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性へと架橋されることを問う問いに対して、三位一体論的に、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「唯一のまことの神にして主なる方ご自身」が、その第三の存在の仕方である「聖霊の『位格』」において、「われわれにとって神が啓示されてある」という「答え以外の答えは存在し得ない」のである。その問いに対する「答えの源泉および標準としての」「聖書的な啓示証言」によれば、キリストにあっての「神ご自身の現臨としての啓示」は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」において、ご自身の中での神としての「神からの出来事であるだけでなく、同時に」、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方において、われわれ人間のために・われわれ人間へと向かう出来事である。言い換えれば、それは、キリストの霊である「聖霊の注ぎ」による、人間に対する啓示の「受容性」の授与、「神の啓示が人間に及ぶこと」、「啓示ないし和解の実在」、神の恵みの出来事の人間的主観への実現、「啓示の主観的実在」ということを意味している。

 

(ア)客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(「啓示の客観的可能性」としての客観的な「存在的な必然性」)の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示の主観的可能性」としての主観的な「認識的な必然性」)に基づいて、終末論的限界の下で「神の啓示が人間の身に及ぶ」時、「神に向かって自由にされた人間」、「神に向かっての」・「神のための自由を授与された人間」である。何故ならば、その問いに対する「答えの源泉および標準としての」「聖書的な啓示証言」によれば、「自由」は、存在的にも認識的にも「神ご自身においてのみ実在であり真理」であるからである。したがって、「もともと人間に固有である自由(≪具体的には、生来的な自然的な人間の自由な内面の無限性、生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能≫)を問う問い」は、「聖書によってあらかじめ与えられている答えとは決して対応しない」のである。「われわれがいま『啓示の主観的実在』について語る時、『主観的』という概念は、以上述べた意味で用いられている」。

 

(イ)前述したことから、「われわれは先ず第一に」、事実質問としての人間の「神に向かっての自由」・「神のための……自由の実在の根拠・源泉」とは何か? について問わなければならない。そして、「そのあとに続」いて、了解質問としての人間における「神に向かっての自由」・「神のための……自由の実在」について問わなければならない。われわれは、「先ず第一に」、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(「存在的な必然性」)と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「認識的な必然性」)を、事実質問としての人間の「神に向かっての自由」・「神のための……自由の実在の根拠・源泉」として承認し確認しなければならない。また、われわれは、「そのあとに続」いて、そのことを前提条件として、主観的な「認識的なラチオ性」――すなわち、聖霊とは同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性を、その主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を、了解質問としての人間における「神に向かっての自由」・「神のための……自由の実在の可能性」として、承認し確認しなければならない。したがって、事実質問としての「存在的な必然性」と「認識的な必然性」の前提条件なしに了解質問である「啓示の可能性を問う問い」を先行させる要求は、必然的に、「啓示の否定を意味する」のである。したがってまた、「こうした(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す≫)要求そのもの」は、「撤廃されなければならない」のである。バルトは、「神の啓示の可能性を問うすべての問いに際して」、事実質問としての「神の啓示の実在」が、「前もって考慮に入れられるべきである」と述べているのである。したがって、了解質問における「洗礼によって確認される恵み」(「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」の連続性に連帯して確認される恵み)について語ること」・「提示すること」は、人間の自由な内面の無限性、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使した「精神的――内在的な確実さ」について語ることではなく、「先ず第一に」、事実質問における「恵みと聖霊の真理(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による主観的な信仰の出来事に基づいた真理≫)について……語ること」・「提示すること」である。この信仰の出来事は、新約聖書において、客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」、すなわちキリストの霊である「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事のことである。救済をこの「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、「神の恵みの賜物である聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すれば人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。

 

 「そのようなわけで、われわれは、(≪前述したような仕方で、≫)第一に神が人間のために啓示されてあることの実在……からだけ出発しなければならない」。

 

(ウ)「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「神の言葉に対して信仰と服従を捧げる人間の現実存在」、すなわちそのイエス・キリストにおいて「神の言葉に対する信仰と服従が存在するという事実」は、「真剣な意味で、聖書的啓示証言の内容である」、ちょうど先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、それ故に神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」ということが、「真剣な意味で、聖書的啓示証言の内容である」ように。したがって、「人間は神の言葉の聞き手および行為者となるということ」、「恵みの遂行」によって、「イエス・キリスト、神の子は、多くの兄弟を得、それ故にその永遠の父は多くの子供をもつようになり給うということ」は、「聖書的な啓示証言の、啓示そのものの構成要素、主要な、直接的に、不可欠な仕方で事柄に属している構成要素である」。したがってまた、イエス・キリストにおいて「『神がわれわれと共に』いますということを語らしめなければならない」。このことは、啓示それ自体の中に、「神がわれわれのもとで、われわれの中で、啓示されてあるということも、……含まれている」ことを意味している。「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の起源・根源としての父は子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が起源・根源でり、その区別された子は父が起源・根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が起源・根源であるのだが、この神は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」から、起源的な第一の存在の仕方である「父だけが創造主なのではなく、子と(≪第三の存在の仕方である聖霊・≫)霊も創造主」であり、「父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。

 

 このような訳で、「聖書の中で語られている人間」は、神としての「神の相手および同労者(≪「協働者」・「共働者」≫)では決してない」し、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「自分で決断するのを常としている観点や原則を持ったわれわれ自身ではない」のである。すなわち、「神と聖書的人間は、(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、≫)主が僕に向かって相対して立つように、創造者が被造物に向かって、和解者が恵みをうけた罪人に向かって、救済者が自分の救済を待ち望んでいるものに向かって、相対して立つように、またちょうど聖霊が処女マリヤに相対して立つように、相対して立っている」のである。このようにして、「聖書はわれわれに対して事実単に神についてだけでなく、また人間についても……語る」のである。「人間に対して働きかけ給う」、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊の「業は啓示であり、そのような聖霊の業の認識は、啓示認識(≪・啓示信仰≫)であり、したがって(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的≫)啓示証言を認識することに基づいている」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(「存在的な必然性」と「認識的な必然性」)を前提条件とした「存在的なラチオ性」と「認識的なラチオ性」という総体的構造に基づいている。このような訳で、「われわれは、神が人間に対して、人間のもとで啓示されるようになることの実在に関して、聖書とは違う認識根拠から……何かを知るようになるであろうことを期待することはゆるされない」のである。したがってまた、「まさに、神のみ前にあっての人間に関してこそ、聖書でもって十分であると受け取るように聖書によって拘束されているのである」。第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教(すべての成員)の思惟と語りは、具体的には、「教会に宣教を義務づけている」、また教会の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者である、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書に拘束されているのである。

 

(エ)「聖霊の注ぎ」による、人間に対する啓示の「受容性」の授与、「神の啓示が人間に及ぶこと」、「啓示ないし和解の実在」、神の恵みの出来事の人間的主観への実現、「啓示の主観的実在」を、「最大の自明性をもってユダヤ会堂もキリスト教会も、正典結集に際して、(≪第二の形態の神の言葉である≫)啓示証言の、……(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)啓示そのものの、本質的な構成要素として考慮に入れた」。このことは、三位一体論的――キリスト論的な原則であるから、神としての神の「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」であるから、啓示の客観的要素(客観的な「存在的な必然性」)とその啓示の中での主観的側面としての主観的要素(主観的な「認識的な必然性」)を「従属説的に思惟し・語ることを原則とすること」はゆるされないということを意味している。したがって、バルトは、「ローマのミサの第一部において、使徒書よりも福音書の方を……強調していることは、従属説的な思惟の動きを思わせる疑わしい慣行である。また(十八世紀以来のプロテスタント神学を動かしてきた)『イエスとパウロ』をめぐっての論争……ましてや『イエスかパウロか』をめぐっての論争」も、「はっきりと苦痛なものであった」、それは「ほとんど悲劇的――喜劇的な何か」であった、と述べたのである。ルターは、神の第三の存在の仕方である「聖霊の(≪内在的本質である≫)神性」を前提として、罪人の義認論を、「啓示の秘義の宣教たらしめた」。また、カルヴァンは、罪人の聖化論を、「啓示の秘義の宣教たらしめた」。このように両者は、自然神学的な側面を持ってはいたが、「聖霊の神性」を前提としたため、ここで自然神学性を表面化させることはなかった。しかし、この意味では、宗教改革の教義を「主観的な教義と呼ぶ」ことはできる。すなわち、それらの「教義の特別な対象」が、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(客観的な「存在的な必然性」)よりも、「むしろまさに(≪主観的な「認識的な必然性」に関わる≫)聖霊の中で現実のものとなった」神と人間との「共労」・「協働」・「共働」という「神に向かっての人間の……自由であった」という意味で、そうであった。また、ブルトマン(ブルトマン学派)は、啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力を、詳しく言えば「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とした「存在的なラチオ性」に包括された「認識的なラチオ性」という総体的構造を承認し確認することができなかった。その時、そのキリスト論は、「秘義のないキリスト論」となったし、その極限には歴史主義(歴史的事実主義)に依拠した「史的イエス」があった。したがって、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出し、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型を前提とし」、「自分自身の歴史と現在の解釈を表現しよう」とし、「自己表現としての宣教を企てた」「実存的釈義家」ブルトマン(ブルトマン学派)に対するハイデッガーの根本的包括的な原理的な批判は、客観的な正当性と妥当性を持っていたのである(『教会教義学 神の言葉』および『ルドルフ・ブルトマン』)――「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ(≪神としての≫)神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)。

 

(オ)「啓示の客観的特殊性」に対して、「啓示の主観的特殊性」が対応している。「特定の、歴史的な場所に……立って」、「神の選びと召命を通して」、「神の言葉を聞くということを通して、聖霊の証言を通して」啓示を授与された人間は、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(「存在的な必然性」)とその出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事を前提条件とした「認識的なラチオ性」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、「理性を抑圧しない」し「理性の再生をもたらす」聖霊により更新された人間の理性性を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)の総体的構造に基づいて啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を授与された人間は、旧約聖書に従えば、神が「契約を結ばれたご自分の裁きと約束のもとにおき給うた神の民」、「イスラエルの民に所属している」し、新約聖書に従えば、その「頭として」の主・イエス・キリストが「現臨し給う教会に所属している」。

 

 しかし、この所属は、啓示の受領者であるということを保証しない。言い換えれば、神は、その所属性に決して拘束されないのであって、「ある特定の場所」において、「ただ神のみが彼らを、啓示の受領者とし給う」のである、ちょうど教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ように。したがって、旧約聖書においては、神の民に所属しながら、「神を誇る代わりに、(≪神の民、イスラエルの民、イスラエル的<民族>教団としての≫)所属性を誇りうるように思惟し実践するほんとうの啓示の受領者とならないものたちに対する裁き(≪限界づけ≫)のしるしとして、……神の語る言葉を聞き、神に聞き従った異邦人が出現しなければならないのである」。したがってまた、「旧約聖書的な矯正の継続」において、新約聖書においては、そのような「異邦人」が「イエスがメシヤであることの予期しなかった告白者として登場する」のである。すなわち、教会は、異邦人がつけ加わってくることによって、すべてのものが「身をかがめる方のからだとして、確認され、啓示されるのである」。したがって、旧約聖書と新約聖書との総括において、特殊<イスラエル的民族>教団を根本的包括的に原理的に包括し止揚し克服した「特定の場所」、すなわちイエス・キリストを主・頭とする普遍的な教会において、「神ご自身が、……人間をその啓示の受領者とし給う」、と言うことができるのである。すなわち、「イエス・キリストに相対してまず第一に信者がおり、それからこれらのものから形成されて教会が存在するのではなく、まず第一に教会があって、それから教会を通し、教会の中で、信者が存在するのである」。このことを、『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』で、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではある」が、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とした「存在的なラチオ性」と「認識的なラチオ性」の総体的構造の連続性に連帯した≫)教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」、と述べている。また、「確かに神は教会に対しても、ちょうどユダヤ会堂に対してそうであったように、全く拘束されてい給わない」。したがって、その神は、「神を誇る代わりに」、そうした「所属性を誇りうるように思惟し実践する者たち」に対して「裁き(≪限界づけ≫)」を置く。啓示は、われわれ「人間の言葉性に縛られることはない」のであって、逆にわれわれ「人間のその言葉性の方が神に縛られている」のである。もしもそうでないとしたら、その啓示は、神としての神の啓示ではないであろう。

 

(カ)教会的な「聖霊の注ぎ」による「啓示の主観的実在」の教説は、「聖書的な……キリスト教に共通な教説(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の連続性に連帯した教説≫)である」。旧約聖書において、ヤハウェが「契約の民に語られる」ように、福音書において、イエス・キリストは、特殊<イスラエル的民族>教団を根本的包括的に原理的に包括し止揚し克服した「特定の場所」(「民族教団の……成就された形態」である教会)、すなわちイエス・キリストをのみ主・頭とする「普遍的な教会」として、「み言葉を通して呼び出され、呼び集められるべき」「教団に属する肢体」として、「語りかけ給う」。この「イエスの招きの結果」は、「イスラエルの十二の部族が可視的になってくる」「十二人の群れにおいて存在している教会」、「岩(マタイ一六・一八)の現実存在である」。「彼らに対して主は、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるであろう(マタイ二八・二〇)」、「ふたりまたは三人」が、イエス・キリストの「名によって集まる所に……いるであろう(マタイ一八・二〇)」、と「主は彼らに約束し給う」。「彼らに対して、聖霊が約束される(使徒行伝一・四以下)、また(≪「みんな一緒に集まっていた」≫)彼らの上に……聖霊は、ペンテコステの日に実際に注がれる」。このように、また「決定的な一つの個所、すなわちガラテヤ一・一五以下に出てくる、パウロの回心」のように、「自明的にキリストにある存在」は、「教会における存在と事実的な単一性で見られ、理解されている」。ルターも、そのように見、理解した。(小教理問答書)「聖霊は福音によってわたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰のうちにわたしをきよめ、支えられる」――このことは、「聖霊が地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、きよめ、そして唯一のまことの信仰のうちに、すなわちイエス・キリストのみ手のうちに、保たれるのと同様である」、「そのキリスト教会において、聖霊はわたしとすべての信徒の日毎のあらゆる罪をことごとくゆるし、そして終わりの日に、わたしたちとすべての死人をよみがえらせ、またわたしとすべてのキリスト教徒に永遠の生命を与えられる」。(大教理問答書)「聖霊は、キリスト教会……によって」「わたしたちをきよめる」、何故ならば、「第一に聖霊がこの世において特別の交わりを持ち、この交わりが母体となって、神の言葉により、ひとりひとりのキリスト者を生み、ささえるからであり、そして聖霊はこの御言葉を啓示し、はたらかせ、人々の心を照らし、これに点火して、御言葉をとらえ、受け入れ、これにすがり、そのもとにとどまるようにさせ給うからである」。(説教)「汝はコノ教会ノ中ニいるのであり、聖霊ハ汝を福音ノ宣教ヲ通シテ導き入れ給う」、「それであるからキリストを見出したいと思うものは、誰でもまず教会を見い出さなければならない」。

 

 そこで言われている教会は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯した教会のことである。したがって、その教会は、生来的な自然的な恣意的独断的な人間の「善意」によって「神と人間に仕えよう」と「奉仕」する教会のことではない、すなわち「神と人についての(≪恣意的≫)独断的な観念に基づく(≪恣意的≫)独断的に考え出された救いの計画と方法が支配する」教会のことではない、それ故に「神と人についての(≪恣意的≫)独断的な観念に基づく(≪恣意的≫)独断的に考え出された」平和の「計画と方法が支配する」教会のことではない(『啓示・教会・神学』)。

 

(キ)もしも教会がそのような教会であるならば、その教会は、「教会でも何でもなく、むしろ罪の産物、教会の中での堕落の業である」。したがって、「教会があるところ、そこでは常に……もともと教会でないところの教会も、存在している」、また「常に」「罪と堕落……も起こっている」。「イエス・キリストが教会の主」・頭であるにもかかわらず、宗教法人法としてだけ・外在的にだけ教会であるところの建造物としての・制度としての「教会」を、「イエス・キリストの主人」としてしまう堕落も起こっている。「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性から言って、「教会は、言うまでもなくイエス・キリストに相対して、いかなる意味でも決して自主独立的な実在ではない」、人間の「理性、意志、感情の絶対主権性に基づいてキリストに向かって決心した」わけではない。このことを認識し自覚していない時、「キリストはただ賓辞に過ぎなくなってしまう」。イエス・キリスト「ご自身が決して主辞であり給わない教会であるところ――そこではその教会自身は、罪の教会、堕落の教会、異端的な教会」である。

 

(ク)「教会」は、「それを通してすべてのものが造られた」、「それを通して神が万物を担い給う」「肉となった言葉」(その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外に向かっての外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉)、「イエス・キリストのからだである」。その起源的な第一の形態の神の言葉は、それが「一度(ひとたび)語られた時には、そこで語られていることが生起するということが必ず後に続いて起こらなければならないところの言葉である」。イエス・キリストをのみ主・頭とする第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストの教会は、起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示ないし和解の実在」そのもの)であるイエス・キリスト自身を起源・出自としている。したがって、教会は、終末論的限界の下における途上の教会であるから、具体的にはそのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、「教会に宣教を義務づけている」聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、教会となることによって教会であろうとしなければならないのである。

 

 先に述べたように、「イエス・キリストの故に」、換言すればイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち「存在的な必然性」と「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「存在的なラチオ性」と「認識的なラチオ性」の総体的構造において、「神の子供たちの生が、教会の実在、啓示の主観的実在である。恵みの言葉の全能の故に、あの身に及ぶ出来事が、したがって神の子供たちのこの生が、存在するが故に、神の子供たちのこの生が存在する限り」、「教会ノ外ニ救イナシが妥当する」。何故ならば、キリストの復活と復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)との間の聖霊の時代において、その「出来事を通して言い表されている範囲の外には、啓示の実在は存在しない」からである。したがって、その総体的構造において、第一の形態の神の言葉(「啓示ないし和解の実在」そのもの)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯した教会の宣教においてのみ、イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体に向かっての運動」において、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非キリスト教、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)。その総体的構造において、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯した「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」が――すなわち、通俗的な意味での隣人愛ではなく、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、換言すれば主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されている)そのものであるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し「固着せよ」という神の命令・要求・要請が、またすべて人々が純粋な教えとしてのイエス・キリストの福音を現実的に所有することができるためにキリストの福音を告白し証しし宣べ伝えよという神の命令・要求・要請が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理」、「教会が、教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」(『福音と律法』)。