本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の1)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の1)」(77−104頁)

 

次回は、『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の2)」、それ以降は、
『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「宗教の揚棄としての神の啓示(その3)」へと続く。なお、引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解できるかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください)

 

 

 バルトは、先述したことにおいて、啓示の主観的実在について、次のように述べていた。その啓示の主観的実在は、啓示の客観的実在そのものが持つ啓示に固有な証明能力――すなわち、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性の認識」において聖霊はイエス・キリストの霊であるから、「キリスト(≪啓示の客観的実在そのもの≫)を通してあり」、それゆえに神の自由な決断による聖霊の注ぎを通してのみ可能であり、それゆえにその受領は神の聖性、神の秘義性・隠蔽性、神の不把握性と終末論的限界の下でのみ可能であり、また、聖書の証言・証しおよびそれが教会に義務づけている説教と聖礼典の構造・同時性・同在性としてある「教会の宣教(≪その客観的な信仰告白・教義≫)」においてあり、この場合、その神的証言、啓示認識・啓示信仰の受領者は、「神的証言の現実の受領者として神の子供である」ということを意味している。言い換えれば、「神の言葉の三形態」における第一次性・第一義性である神性を本質とするイエスキリストにおける啓示の出来事(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在そのもの)に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・神的証言を授与された「存在そのもの」、また「教会の宣教の原理」である聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に基づいて啓示認識・啓示信仰・神的証言を授与された「このわれわれの存在そのもの」、が、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(性質・行為・働き・業)である「聖霊の業である」。したがって、「聖霊こそが啓示の主観的実在である」(77頁)。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせるのである。また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができる。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。したがって、私たちが、「聖霊、啓示の主観的可能性」を問う場合、啓示に固有な証明能力に基づた啓示の主観的実在を通して「問うこと」を、そして「理解」することを、啓示の客観的実在そのものが、私たちに「欲し」要求しているのである(77・78頁)。したがってまた、この「啓示の〔後に〕従う」在り方に、「啓示に対する従順」はあるだろう。言い換えれば、「了解質問は事実質問に対して先行することはできない」ということ、それゆえに「神の啓示が人間の身に起こりうるのは、どのように人間の自由の中で可能であるのか」という「了解質問」は、「あらゆる事情のもとで事実質問のあとにつづいて……問われなければならない」のである(78頁)。言わば、バルトは、神学における思想の課題として、<宗教>としてのキリスト教を、<自然神学>的なキリスト教信仰・神学・教会の宣教の根本的包括的な揚棄・止揚のために、啓示の客観的実在そのものが持つ啓示に固有な証明能力の構造性を問題としているのである。

 

 したがって、次のように問われなければならない。人間に授与された啓示の主観的実在は、「父と子の聖霊を通して神に向かって自由」とされた「われわれの存在」、「神のための自由」を授与された「われわれの存在」、ということである。したがって、「われわれは事実質問から切り離した仕方で問う……のではな」く、啓示の客観的実在そのものが持つ啓示に固有な証明の能力に基づいた啓示の主観的実在において「認識され承認された啓示の」主観的可能性はどういうことから成り立っているのか」というように問うのである。すなわち、神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」において問うのである。神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的実在そのもの)と、また「教会の宣教の原理」であり教会に宣教を義務づけている「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)において問うのである。したがって、「聖霊の業こそ」が、啓示の主観的実在であるのか、とか、「人間が神に向かって自由」である根拠であるのか、とか、「神が人間に提供するものを受けとることに対しての十分な根拠であるのか」、とか、「聖霊は果たしてそのような可能性と力を持っているのか」、というようには問わないのである(78・79頁)。なぜならば、私たちに対して、イエス・キリストの霊である聖霊の注ぎがないならば、全く神から遠ざかり遠ざかり続けている罪と穢れに満ち満ちた私たち人間は、余りに人間的な欲求・自主性・自己主張を手離せない私たち人間は、「神に向かって自由ではない」からである、「神のための自由」を持ち得ないからである。すなわち、聖霊は、「原則的に」神に向かっての自由・神のための自由の「唯一の可能性」なのである。言い換えれば、聖霊の注ぎによって「神がご自身に向かってわれわれの目と耳を開き給う時」、私たちはそのことによって、「われわれは、自分自身からは神に向かって目と耳を開くことができないということ、われわれは自分自身からは盲目であり聾である」ことを「暴露」されるのである。このように、聖霊を受ける時、「自分の霊的な無力さが暴露される」、「聖霊を持っていないことに気づかせられる」という神学的命題、この「人間が神に向かって不自由である」・「原則的」に「無力」であるという神学的な命題、は、それゆえに「哲学的な理論とは何らかかわりがない」この神学的命題は、人間的自由の帯域・世俗的真理の領域における「哲学的な不可知論」において、「一般的に洞察できる命題」ではないのである。したがって、これらの事柄は、「護教論とは何のかかわりもない」ことである。すなわち、私たち人間に対して、前述したような「隔た」りを「造り出」し認識させ自覚させる聖霊が、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊が、その注ぎにおいて、「神と人間がひとつであるという単一性」を「造り出」し、人間を神へと架橋されないならば、また人間の神に向かっての自由・神のための自由を造り出されないならば、そしてまた「われわれの中に宿り」・「われわれを神の宮となし給」わないならば、啓示認識・啓示信仰・神的証言、また人間の神に向かっての自由・神のための自由、は存在しない、ということを意味している(80−82頁)。すなわち、これらの事柄は、「護教論」に関わる事柄ではなく、<宗教>としての<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に揚棄・止揚するという、神学における思想の課題に関わる事柄なのである。

 

 聖霊は、「われわれを神と和解させる言葉の教師として、(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた啓示認識・啓示信仰の授与と、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与という仕方で≫)、神についても、それからまたわれわれ自身についても、決定的なことをわれわれに語り、したがって神をわれあれの前に全能の主として、神の愛を、……徹底して〔人間の側での〕功績によらず」、また「徹頭徹尾われわれがそれを受けとる際の態度や努力」によらず、「無限の愛として示す」ところの、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(性質・行為・働き・業)である(82頁)。イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)」授与であり、「上から」の「よき賜物」である。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることである。それは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにのみ、感謝を持って信頼し固執することである。それは、そのイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)の、素直な「告白」・「証し」・「宣べ伝え」にある。救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。これが、教会の宣教の終末論的な究極像である、終末論的な究極的永遠的課題である。

 

 神は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する――このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。このことは、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神自身が聖霊の注ぎにおいて神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味している。なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神は、人間の「現実存在の内部」、人間の対象化された自由な自己意識・理性・思惟の類的本質(「最高存在」・「最モ完全ナ存在」・意味的世界・「存在者レベルでの神」・人間学的な哲学原理や認識論や世界観・人間の管理するプログラム)の中には、決して存在しないからである。

 

 このように、聖霊は、「われわれをまず第一に」、「主に対する反逆者として、主の善意を忘恩的に踏みにじる者として、主の招待を拒否する者として明かにする」。また、聖霊は、「われわれを、……ただ単にその有限性の中だけでなく、むしろあの方によって無から造られた塵芥としてあの方の前に存在しており、そのものの現実存在は全く台なしにされてしまい、もしもわれわれがあの方を望みつつ待つことがゆるされないならば、そのまま滅びてしまうであろう被造物として……明らかにする」。それだけでなく、聖霊は、その注ぎにおいて、私たちの人間存在について、次のような認識を授与する――すなわち、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」という啓示認識・啓示信仰を、それに依拠した信仰の類比を通して人間の自己認識・自己理解・自己規定を、授与する(『福音と律法』)。
 聖霊は、「神をわれわれの父と呼び、人間をこの父の子供と呼び」、「神に向かって全く役に立たないわれわれの目、耳、心の中に」「神を……受け入れられるようにし(≪啓示・和解の、主観的現実化、主観的実在、認識・信仰を授与し≫)」、「われわれを」、自然や人間の一切、天然自然や人間的自然の一切に全く左右されない、そして自由・主権は神自身においてのみ「実在であり真理」であるのであるが、神の側の真実としてのみあるその神の自由な恵みの「行為の実在の中へと(≪聖性、秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性と終末論的限界の下での、啓示・和解の、客観的現実性、客観的実在の中へと≫)取り上げるのである」(82・83頁)。このように、聖霊は、その注ぎにおいて、啓示の客観的実在そのものが持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与するのである。このような訳で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである。したがって、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。したがって、このイエス・キリストにおける啓示の場所は、福音が、<宗教>としての<自然神学的なもの>である「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれの管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした……十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>に過ぎない……神秘主義へと変って行く」ことが見渡せる場所なのである。したがってまた、その場所は、例えば自然史の一部である人類史の自然史的過程に属する自然史的必然としてのヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等を、人間的自然として・人間的世俗的真理として正直に受け取ることができる場所でもあるのである。

 

 このように、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、啓示認識・啓示信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的実在そのもの)と「聖霊の注出」においてのみ可能となるのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、イエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)の宣べ伝えを目指すことのない<宗教>としての<自然神学>的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。

 

 「ただ神の言葉とその聖霊の中でのみ遂行される総合(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事との総合、構造・同時性・同在性に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、この認識に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定の授与≫)以外の別な総合についての認識」は、「すべてただ、われわれが実際に神の子供であることを忘れれていることに基づ」いている。すなわち、その認識は、人間の対象化された自己意識・理性・思惟の意味的世界、「存在者レベルでの神」、<自然神学的なもの>として<宗教>に過ぎない。また、「人間について……啓示から……語られなければならない……すべてのことが」、「神は啓示されてあることができない」と語る場合、すなわち聖霊の働きにおける「神に固有な可能性」としての、聖霊の注ぎによる啓示の主観的実在を通した啓示の主観的可能性に「反対して語る」場合、すなわちまた、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に反対する場合、「われわれが実際に神の子供であることを忘れれていることに基づ」いている(83・84頁)。その場合の認識は、「ただ単なる知識」、「思弁」、「非学問的な教義学」、<自然神学的なもの>として<宗教>に過ぎないものなのである。

 

 「神は啓示されてあること(≪聖霊の注ぎによる啓示の主観的実在≫)ができる(≪聖霊の注ぎによる啓示の主観的実在を通した啓示の主観的可能性≫)」・「神の啓示が人間の身に起こることができるということが、どのように可能となるかという問いに対する根本的な答え」は、聖霊の注ぎにおいて可能となる、という点にある(85頁)。言い換えれば、啓示の主観的可能性は、聖霊の注ぎによる啓示の主観的実在を通して、具体的には、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」――すなわち、人間に向かって語られた神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)においてある「神の言葉の三形態」を通して、可能となる、という点にある。すなわち、この啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力は、徹頭徹尾、直接的無媒介的な、自然的契機や人間的契機、天然自然的契機や人間的自然の契機、<宗教>としての<自然神学的なもの>、を、一切排除しているのである。なぜならば、こうした信仰・神学・教会の宣教の原理・認識方法や概念構成でないならば、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの正当性のある根本的な宗教批判を、根本的包括的に止揚・揚棄することはできないからである。このように、バルトは、いつもそうであるが、状況論なき・現在論なき・未来に生きる言葉なき・思想なき、ほとんど全部といっていい、形而上学的抽象的空論的空想的な神学者や牧師やメディア的著述家たちとは違って、神学における思想の課題を認識し自覚し担っているのである。

 

 「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、@私たちが、「一人の主」なる神をのみ、「主として持つ自由」を私たちに与えるがゆえにそのように告白することを要求する。A私たち人間の「中に」も・「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来」ないと告白することを要求する。B私たち人間の「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできない」と告白することを要求する。C私たち人間における、聖性、秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、終末論的限界、を告白することを要求する。

 

 

(1)「人間の自由」において、「神の啓示(≪啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在≫)が人間の身に起こること(≪啓示認識・啓示信仰の授与、「啓示の客観的実在の主観」化としての啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在≫)が(≪「神の言葉の三形態」を通して≫)できる」・可能となるのは、徹頭徹尾、聖霊の注ぎにより「神の言葉が人間に聞かれるようになるからである」(85頁)。ここで、「できる」とは、徹頭徹尾、「三位一体の神のできること」・「三位一体の神の働き」である(86頁)。

 

ア)聖霊は、「父ト子ヨリ出ズル御霊」であり、また父は子として「自分を自分から区別」するし・そのように自己啓示する神として自分自身が根源であるから、「ご自分を……ただみ子の中でだけ、啓示し給う父の霊であることが、確かである限り、……イエス・キリストの霊である」。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊とその業は、「啓示の客観的実在の主観」化、啓示(和解)の主観的現実化、啓示(和解)の主観的実在、と言うことができる。したがってまた、「聖霊とその業についてもわれわれはただイエス・キリスト」における「啓示について聖書が証ししている証言……を注釈しつつ語ることができるだけである……。それ故に……受肉の唯一性に対応しつつ……イエス・キリストがかしらとして、彼に属する者たちの中にその兄弟をもち給うということの中で、啓示が主観的に実在となる唯一の場所」は、教会・教団である。「客観的な、サクラメント的な要素」の「強調」も、このことによっている。バルトは、「そしてただ最後に、それとの関連の中で、啓示の受領者としての人間について」、すなわち「キリストを通してキリストのためにかちとられたものたちについて、語らなければならなかった」、と述べている(85・86頁)。このバルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現(≪啓示・和解の主観的現実化、その主観的実在≫)は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)。このことは、バルトが個と教団との関係において、神学的な共同性価値論に立っていることを意味している。この場合、「私自身は、ヘーゲルが好きだという弱みを持っていますし、そしていつでも<ヘーゲル的に考える>のが好きです」と述べていたバルトにとって、神学における思想家として、その神学の原理・その認識方法および概念構成それ自体において、ヘーゲル哲学を紙一重で超えなければならないのである。したがって、バルトのその共同性価値論は、現実的な個や家族や社会から逆立的に疎外された観念の共同性である国家共同性価値論とは全く異なったものでなければならない。またそれは、ヘーゲルのような客観的精神の弁証法的展開の果てに想定される哲学的な国家的共同性価値論とは全く異なっていなければならない。したがって、バルトは、次のように言わなければならなかった―一切の近代主義・<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教と抗するために、まず「神の霊と人間の精神の全面的な区別」が強調されなければならない。そして、その「啓示の主体的現実」化(≪啓示・和解の主観的現実化、その主観的実在≫)を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解」しなければならない。その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、「神の教団」・「イエス・キリストの教団」・「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、その「イエス・キリストと個人的関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」・「キリスト者個人」のことではない、と。なぜならば、バルトにおいては、「個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない」し、「新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたもの」だからである(『バルトとの対話』)。バルトにとって、イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」によって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(神の言葉、神の子)における「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して<完全に>開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)。一言付言すれば、形而上学的抽象的一面的なエキュメニカル運動<主義>者たちとは全く違って、この場所こそが、バルトのエキュメニカル運動の根拠であり原理であり原動力なのである。

 

イ)「三位一体の神の働き」は、聖書によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする「その言葉の働き、み子の業である」。したがって、「啓示に関してのすべてのできること」は、「具体的には言葉のできること」、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストのできること」である。したがってまた、「できないものそのもの」は、先ず以て神の側の真実においてのみ「啓示を受けとらなければならず、……和解され」架橋されなければならない「われわれ自身」・「われわれの自身の働き」のことである。「できないものそのもの」は、「どのようにして人間は神の言葉を聞き、キリストを信じ、キリストのからだのひとつの肢体であり、キリストの兄弟として神の子供であることにまで来るのかという問いに」対して「把握できないものそのもの」のことである。人間は、自由な無限性を本質とする自己意識・理性・思惟においてであれ、人間的啓示のその直接性において、そのことを把握することはできないのである。聖霊によって更新された理性を必要とするのである。しかし、その理性も、聖霊そのものではないのである。徹頭徹尾、人間理性そのものでしかないのである――「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。したがって、「その把握できないものが人間にとって把握しうるものになることができるということは、すべて」、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいているのである。私たち人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性に属していないところの、神の「言葉が、われわれが言葉を聞くということを造り出す」。「イエス・キリストが、われわれがイエス・キリストを信じるということを創造する」。それ自体が神の愛に基づいているのであるが、その聖霊の注ぎによって、すなわち「われわれに与えられる聖霊」によって、「神の愛がわれわれの心の中に注がれる(ローマ五・五)」。神自身が、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた啓示認識・啓示信仰の授与において、神と人間とを架橋される、「交わりの実在」を可能とする。このように、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊こそが、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、「まさに言葉をわれわれに聞かせる」こと、イエス・キリストにおける啓示・和解の出来事(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)を認識させること、神との出会いである神性を本質とするイエス・キリストとの出会い、信仰の出来事、を可能とするのである。この聖霊は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの霊――すなわち、神の「言葉の霊であるが故に、神の霊である」。したがって、私たちは、聖霊の注ぎによって、「神に向かっての目と耳を与えられて持つことができる」。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊こそが、啓示の客観的実在を主観化させることができるのである。このように、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊こそが、啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在であり、具体的には、それ――すなわち「神の言葉の三形態」を通した、啓示の主観的可能性である。「換言すれば、(≪聖霊の業は、≫)キリストのからだの生きること、預言者――使徒的証言が働くこと、説教が聞かれること、聖礼典が指し示していることが見てとられること以外のものでないが故に」、「この生きること」・「働くこと」・「聞かれること」・「見てとられること」のゆえに、「イエス・キリストの出来事に対してわれわれの生活の中での出来事が実際に対応するということ」のゆえに、「啓示の主観的な可能性を意味している」。「復活日と聖霊降臨日」、「客観的であること」と「主観的となること」、「言葉と霊」、「神的な提供と人間的な受領」は、「二つのこと」である。これら後者の「第二のものの可能性を問う」場合、前者の「第一のものに基づいて」、「第二のものはその可能性を徹頭徹尾……第一のものの中に持っている」、と言うことができるだけである。例えば、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力基づいてのみ、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ、啓示認識・啓示信仰の授与と享受が可能である、というように、言うことができるだけである。このような訳であるから、「人は、聖霊とわれわれに対する聖霊の業を、……正しく理解したいと思う」場合、決して両者を「切り放して」形而上学的「抽象的」一面的に「理解しようとしてはならない」のである(86−88頁)。この言葉は、根本的包括的な、一切の<宗教>の全面的否定であり、一切の<自然神学的なもの>、一切の<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教の全面的否定を意味しているのである。言い換えれば、その言葉は、近代<主義>・科学<主義>・歴史<主義>・党派<主義>・党派的多元<主義>・天然自然<主義>等々の一切の<宗教的なもの>、一切の<宗教>、一切の<自然神学的なもの>、一切の<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教に対して、根本的包括的に抗することができる、そしてそれらを、根本的包括的に止揚・揚棄することができる、神学における思想的武器なのである。

 

 「人は聖霊の働きを、……それ自体独立した考察の対象とする時……、ひどく誤解し、自分自身と他の者にとって信頼できないものにしてしまう……」(89頁)。なぜならば、前述したように、啓示の客観的実在に根拠づけ得なくなってしまうからである。したがって、その場合、すぐに、そのベクトルは、人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性に、すなわち人間的な恣意性と独断性に変容・変質してしまうのである。私たちは、この<宗教>化そのものでしかない神と人間との・神学と人間学との混淆や共労や協働や共働を、シュライエルマッハーやブルトマンやユンゲルやモルトマンやボーレンやマクグラスや滝沢克己や大木英夫や北森嘉蔵やそれらに類する者たちやそれらのエピゴーネンたち等々によって、うんざりさせられるくらいに見せつけられてきた。バルトの夢――それは、「霊的に精神的(≪学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」による、<宗教>・<自然神学的なもの>を止揚・揚棄した「超自然な神学」の原理・認識方法と概念構成における最善最良の「第三項の神学」・聖霊の神学の構成にあった。したがって、バルトは、その聖霊の神学が、<宗教>そのものとしての<自然神学>的な原理・認識方法と概念構成のそれでないことを、また勘違いして恣意的に自分がそれだと思い込んだ誰かによって「軽薄に書きあげられた」聖霊の神学が市場に出回らないことを、衷心から切望したのである。しかし、その神学の動向は、バルトの衷心からの切望を容赦なく打ち砕き、神学における状況論なき現在論なき未来に生きる言葉なき思想なき、形而上学的抽象的空論的空想的なそれとして、全く場当たり的な惨憺たるものとなったし・惨憺たるものとなっている。
 「人が純粋に、正しく、啓示の主観的な可能性を問おうとし、したがって聖霊とその業を理解しようと欲する」ならば、時勢や時流への迎合、人間論や人間学との混淆・共労・協働・共働、大衆迎合・大衆啓蒙等々、を目指すのではなく、「聖霊を通しわれわれの心にそそがれた神の愛、われわれとキリストとの交わりの客観的な可能性、したがって(≪啓示・和解、啓示の客観的実在そのものである≫)キリストご自身、を見ることが大切」なのである(89頁)。啓示の主観的な可能性としてある、教会の宣教のほんとうの究極像・究極的永遠的課題については先述したが、そのほんとうの緊急的過渡的課題は、「絶えず繰り返し」啓示の客観的実在そのものであるイエス・キリストに聞くことによって、具体的には「絶えず繰り返し」聖書に聞くことによって、「絶えず繰り返し」教会は教会となることによって教会であろうとする、その途上の道を歩む点にあるだろう――「教会は、(≪啓示の客観的啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪主格的属格としての「イエスの信仰」の出来事、インマヌエルの出来事≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」。「(≪したがって、そうでない場合は≫)、どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」のである(『啓示・教会・神学』)。後者の場合は、ただ単に、人間的な余りに人間的な、制度としての教会組織が存在するだけである。その場合、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを頭・主とする、神的側面と人間的側面の構造・同時性・同在性としてある教会は存在しない。神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」を通した啓示の主観的可能性としての教会は存在しない。このような訳で、「わたしは聖霊を持っているいるかどうかという問い」に対しては、それはあくまでも「キリストによって……決定される」事項、キリスト自身の決定事項・自由事項であるから、その問うところの標準は、「神の言葉の三形態」への連帯に、具体的には聖書の証言・証しおよび教会の宣教(説教と聖礼典)の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への連帯にある、と言うことができる。この不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性への連帯について、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べている。言い換えれば、オリジナルな神学的教義、神学的思想というものはないのである。したがって、その不可避的な連帯において、バルトは、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだのである。(89・90頁)

 

)前述した事柄に依拠させられ、啓示の客観的実在そのものが持つ啓示に固有な証明能力に信頼し固執した「宣教あるいは説教」は、「自分はみ言葉の実際の聞き手および行為者であることができるのかという問いのもとに立っている聞き手」に対して、決して、人間の感覚や知識を内容とする経験、「説教者の……経験」、「ほかの人たちの経験を指し示さないで」、あくまでも、神の言葉・啓示の客観的な実在の出来事である「神の言葉の三形態」に、具体的には聖書の証言・証しおよび教会の宣教(説教と聖礼典)の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に連帯して、「そこで書かれていること」のみに、「彼のためにも死なれ、甦えり給うたキリストを信じる信仰」のみに、「あるいは彼の洗礼、あるいは聖なる晩餐の方に視線を向けさせる……」(90頁)。聖書によれば、「福音書の使信……使徒書の使信の中でも、黙示録の中でも、聖霊は……キリストから来……そして……教会を教会たらしめ、キリスト信者をキリスト信者たらしめる」、恵みは「それが罪を赦す恵み……聖化し、賜物を与える恵みとして理解されようと、……キリストの恵みであ」る、信仰は「キリストを信じる信仰であり、ただキリストを通して目覚ましめられ、仲介されてのみ、神の信仰である」、「教会の中での霊の賜物は徹頭徹尾教会の主としての彼に従属せしめられており、彼を標準にしてはかられるならば使徒は、彼の下僕であり、使徒の言葉は彼が委任し給うたものであり、内容的には常に新たな表現を用いて彼を指し示すことであり、ただ彼への指し示しのみであるということである」。この「ただ彼への指し示しのみであるということである」とは、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」ということである。解釈するとは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。
 ここで、私たちは、「人間の経験」の尊重を主張し、人間学の後追い知識として神学としても人間学としても非自立的で中途半端な人間学的神学を主張し、にもかかわらず臆面もなく「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する」と大見栄を切る形而上学的抽象的空論的空想的な「聖霊論的説教論」を主張し、さらにボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と直截的・断定的・恣意的・独断的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて語る、現在の職はどのようになっているのかは分らないが、ルドルフ・ボーレンのエピゴーネンである東北学院大学の神学者・佐藤司郎や東京神学大学の神学者・小泉健の出鱈目な発言と戯言を思い起こすのである。このような出鱈目な戯言を吹聴する神学者や牧師やキリスト教的著述家に対して、バルトは、『説教の本質と実際』において、説教者は説教として語る場合、聖霊や聖霊の言葉を説教者の自由事項や独占事項にする小泉のように、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」、「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、と述べたのである。また、バルトは、説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」であるイエス・キリストの「死と復活の出来事の啓示」、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である、したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」、このことが「終末論」である、したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」、ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である、「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、救贖・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある、説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解
であることの義務」を負っている、と述べたのである。ここで、一番問題であるのは、東京神学大学の場合、私たち一人一人のイエス・キリストに対する感謝の献金でもある教会賛助金によって成立している日本キリスト教団立の神学校であり、またまさに牧師養成のための神学校であるにもかかわらず、それゆえに未だしも根本的包括的に理解したバルト自身の信仰・神学・教会の宣教の、その原理および認識方法と概念構成を同時に教えるのであれば半分だけは容認出来るのであるが、そのことすらせずに、ただあのような出鱈目な戯言を教えている、という点にあるのである。このような訳であるから、神学生自身が、また牧師自身や信徒自身も、信仰においても神学おいても思想においても教会の宣教においても、神学者や牧師やメディア的キリスト教著述家たちの神学・知識・見解およびキリスト教メディア的情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしないで、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に信頼し固執して、「神の言葉の三形態」への連帯において、そうした半面教師を否定的に媒介して自立していくことが必要なのである(90・91頁)――「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)。「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神あるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)。

 

エ)西方の教会は、神の啓示における聖霊を、啓示の客観的実在であるイエス・キリストと「切り放せない仕方でただイエス・キリストの霊としてだけ認識」し信じた。したがって、西方の教会は、聖霊を、「ただ単に」、「いま、ここで、われわれのためにだけ父と子の霊」として現存するだけでなく、「永遠から」、三位一体的存在において「父と子の霊である」と認識し信仰し告白した。このように、聖霊は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方(性質・行為・働き・業)なのである。この聖霊は、永遠から「父と子の間の交わりであり」、それゆえに「父の霊であるだけでなく、……み子の霊でもあり給う」から、聖霊は、神の啓示において、父と、「父のみ子が、ご自分の兄弟とするために召されたものたち……の間の交わりであることができる」のである。(92頁)
 聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神なのである。したがってまた、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪啓示・和解、顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する。

 

オ)中世紀の西洋における「サクラメント概念」・「教会概念」における教皇たちの「客観主義」の「形成」は、前述したのと同じように認識しなければならない。すなわち、「(キリストのあとに従う生活と愛を強調し励ましすすめようとした)フランシスコ派の聖霊キリスト教は、明らかに、客観的啓示が主観的になるという関心事を代表しようと欲していた」。しかし、その聖霊キリスト教が、その知識の自然性と恣意性のもとに、「歴史的キリストを」、「時代おくれ」となってしまったとして「背後に」後景に「退かせることができると考え」、「その霊の担い手としてのキリストの弟子〔の方〕を」・その人間を前面化し前景化した時、聖霊は「宗教的人間の霊」として曲解され変質され、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性の認識」を解消してしまうことになってしまった。すなわち、この時、フランシスコ派の聖霊神学は、「人文主義的ルネッサンスの人間論へと通じる」ことになるのである。この意味においては、「高度な神学的正当性は、……(≪客観主義の≫)教皇たちの側にあったのである」。(92・93頁)

 

カ)16世紀において、「宗教改革者たちはルターを先頭に、さし当りまずこれと同じ戦いに従事している」。「聖ペテロは、(≪聖霊は、イエス・キリストの霊である、と≫)ナザレのイエスと呼ばれたこの方に……聖霊を注ぐという神的業を帰している。なぜならば、聖霊を注ぐということは、……ただ神のみがもち給う、大能であるからである」。聖霊は、「キリストの口を通して語られたすべてのことをあなたがたに思いださせ、あなたがを通してさらに先に語ってゆく」。「今後も彼ら、使徒たち、がキリストから聞いた(が、しかしまだ理解しなかった)ことが聖霊を通して教えられ思い出させられる」。イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ一四・二六)であり、「上から」の「よき賜物」である。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることである。
 さて、聖霊は、なぜ「『証人』と呼ばれているのか」――なぜならば、「聖霊はキリストについて証しするのであって、そのほか誰についても証しをしているわけではないからである」・「聖霊はキリストについて証しする以外のことをしない」からである・「キリストについて証しする聖霊のこの証しのほかには、確実な、永続的な慰めはない」からである・「慰め主と呼ばれ、証人および慰め主であり給う聖霊は、……キリスト教会の中で」、「ほかのものについて説教したり、証しするのではなく」、「ただキリストについて説教し、証しし給う」からである(ルター)。このルターの言葉は、「ただ単に彼の時代の熱狂主義に対してだけに向かられているのではなく、……教皇主義そのものに対しても向けられている」。なぜならば、その教皇主義は、「キリストなしに、キリストと並んで聖霊の現臨と働きを前提し、主張している」からである。すなわち、ルターは、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性の認識」を堅持したのである。したがって、「われわれのために働く聖霊の働きは、聖書、説教、聖礼典に結びつけられており、その働きにおいてそれらのものにてらしてはかられるべきであって」、すなわち神の言葉・啓示の客観的実在に根拠づけられた神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」への、具体的には聖書の証言・証しおよび教会の宣教(説教と聖礼典)の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への連帯においてはかられるべきであって、「決して絶対的に(≪直接的無媒介的な人間的契機≫)『主観的』な照明、霊の鼓舞、熱狂的感激として理解されてはならない」のである。「聖霊ハワタシガ言ッタコトヲスベテ示スデアロウ、アルイハ思イ出サセルデアロウ(ト彼ハ言イ給ウ)。ソコカラ、彼ハアラタナ啓示ヲ決シテウチ立テハシ給ワナイダロウ、ト結論スルコトガデキル。この言葉ダケデ、ワタシタチハ、サタンガハジメカラ現在マデ、聖霊ノ名ノモトニイツワッテ教会ニ導入シテキタアラユル発明品ヲ、スベテ大胆ニ否認スルコトガデキル。(中略)……福音ヲヨソニシテ、何ラカノ教義ヤ発明品ヲモチ出シテクル霊は、ナベテペテン師の霊デアリ、決シテ神ノ子ノ霊デハナイ。ソレトイウノモ、キリストハ、福音ノ教エニイワバ同調シナガラ、ソレヲ確証スル霊ヲ、約束シテイルカラデアル」(カルヴァン)。聖霊は、「われわれの間に、新シイ王国をうち立てるのではなく、ただ父によって子に与えられた栄光を確立する」のである。(93−95頁)

 

キ)宗教改革当時の「再洗礼派の者たちおよびリベルテンの中にその先祖を持つところの新プロテスタント主義」は、「聖霊から……知る認識と聖霊によって生きる生活を、キリストを信じる信仰の認識と生活に対して独立した主題として対置させること」によって、すなわち「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性の認識」を放棄してしまうことによって、新約聖書的教会から離れていった。すなわち、新プロテスタント主義は、「聖霊はイエス・キリストの霊以外のものではないという認識」を放棄し、「それとともに……生真面目さと敬虔さをもってアラユル夢想トマヤカシニタイシテ、すべての可能な異なる神々……を承認する……門戸を開いてしまった……」。このことの具体的な記念碑は、「福音主義の領域で歌われた」霊的な歌、「讃美歌を集めた教会讃美歌集である」。したがって、ここで、霊の意味が問題となる。

 

 ルターは、「一五二四年……『ワルター版合唱讃美歌』の序文の中で……『それによって神の言葉とキリスト教の教えがあらゆる仕方で促進され習練されるため……わたしは……いくつかの霊的な歌を集めた。それは今や神の恵みによって再び明らかになった福音がひろく一般の人々の間に伝わり、われわれも、ちょうどモーセが出エジプト一五章で彼の歌の中でなしているように、(≪啓示の客観的実在そのものである≫)キリストがわれわれの讃美であり歌であることを誇り、パウロがTコリント二章で語っているように、(≪啓示の客観的実在そのものである≫)われらの主、イエス・キリスト以外のものは何も歌ったり語ったりしないためである』」。このように、ルターの場合、啓示の主観的実在の要素としての霊の歌・讃美歌は、啓示の客観的実在の主観化という意味を持っていた。ルターの歌は、「四つの例外を除いて、自分の手で自由に創作しないで、聖書、あるいは古代と中世の教会で歌われていたものを改作して造られたものである」。なぜならば、ルターにとっては、「自分独自のものではなく、教会とその信仰が大切」であったからである。したがって、ルターの歌には、「内容的に決定的に」、「抒情詩的性格が全く欠けている」・「主観の動きを前面にうち出す強調がすべて欠けている」。すなわち、「聖書的な単純さをもって理解された」イエス・キリストへの集中、「神の子供たちの教会〔信仰共同体〕が語っている」語り、「崇拝、内容的な伝達、信仰告白、罪の赦し、宣教」を内容としている。このことに基づいて、「主観的な啓示実在の生活、愛、経験、現実が語」られてくる。(95−97頁)

 

 17世紀においては、「三位一体の神のみ業としての創造、和解、救済の活劇の代わりに、……別な、もうひとつの活劇」、すなわち<宗教>化という「問題性を含みもった心、魂、われ、われら」の活劇が、<自然神学的なもの>としての自己表現・自己告白の「活劇が演じられるようになる。人は今や魂がひとりごとを言いながら自分自身と語っているのを聞く。あるいは対話をなしつつ魂が神と、神が魂と、あるいはまたひとつの魂がほかの魂と語っているのを聞く」・「しかしその時一体人は何を、誰のことを、信じているのであろうか」。「まさにこの自己告白こそがそれから、さらに近代的な、より快活な、より自分を意識している時代の輝きの中で、一八世紀に移りゆくとともに、ますます豊かな、飽満な、動きのあるものとなって行く……」。その場合、「預言者、祭司、王という三つの任務を果たされるキリストの神人性」は、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性の認識」、「神の言葉の三形態」、に基づかない、人間的「主体の情熱、感謝、畏敬、讃めたたえ」によって、<宗教>としての<自然神学的なもの>へと、恣意的に曲解され変質させられていく。(98−100頁)

 

 「テルシュテーゲやゲレルトの中で成熟した新プロテスタント主義の教会讃美歌を念頭においてこそ、人はそこで起こったことが実際に何であったかを明らかにしなければならない」。なぜならば、「キリストを言い表す告白は確かになおそこにあるが、しかしそれは、……その最も深い根底においては余計なものとなってしまった」からである。聖霊が、「イエス・キリストに相対して独立的となってしまった」からである。前述したように、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、「キリストと霊がひとつであるという新約聖書的単一性の認識」、「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)への連帯が放棄されたからである。この場合、その聖霊は、「キリストの霊以外の霊であり、それは確かに神秘主義と道徳の霊である」と言えるが、「古代および宗教改革の教会がみ言葉(≪啓示の客観的実在そのものである神性を本質とするイエス・キリスト≫)を聞き信じたところの霊ではない」、すなわちイエス・キリストの霊ではない。(100−102頁)

 

 19世紀、「教会の告白は自分自身に対する告白」となり、「いよいよもって、キリスト教的心情の宗教的誠実さと道徳的真面目さは、……教会讃美歌が計られる……心音……標準」となった。「そのようにして客観的なもの自体を主観的なものへと解釈し曲げる」ようになった、恣意的に曲解するようになった。「その時事実、近代的――宗教的自己告白の摩擦音の中で、宗教改革的な神讃美は消失してしまう」ことになった。言い換えれば、その時、キリスト教は、<自然神学的なもの>として、<宗教>と化したのである。すなわち、まさしく、キリスト教は、その讃美歌は、その神学者・牧師・著述家たちは、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなく、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)……こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)、と言える自己告白、自分自身の「歴史」と「現在の解釈」、「自己表現としての宣教」、人間の対象化された自由な自己意識の意味的世界の表現としての宣教、その人間自身が対象化した人間的自然・「存在者レベルでの神」としての宣教、を企てたのである。(102・103頁)
 その原理は、ヘーゲルに依拠して言えば、次のように言うことができる――すなわち、その原理は、人間の自由な自己意識の無限性の原理、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理において、「彼の思惟が思惟したもの(≪対象≫)の中に彼の思惟が完全に現存」(対象的意識の段階として、意識された現実・現実の意識の段階)し、「彼の思惟の中に彼の思惟に思惟されたもの(≪内在化された対象≫)が完全に現存」(自己意識の段階として、思惟・理性によって対象化されたところの意識された現実・現実の意識の段階)するという原理である。したがって、自己意識の思惟と思惟されたもの――対象化されたそれは、自己還帰して等価となる。このように、思惟に思惟を、抽象に抽象を、重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」。これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」である。この「究極的同一性」において、「神の理性」のその属格理解における理性は、人間の理性が神を思惟する理性から、神の理性が思惟する理性に転化され、人間の理性の思惟は、神の理性の思惟と等価性を持つことになる。この事態は、人間の神化・神の人間化、神と人間との無限の質的差異の揚棄を意味するのである。したがって、バルトは、「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、神自身においてのみ「実在であり真理」である「神の自由を認識していないという事態」にある、と述べたのである。そして、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所――(≪ハイデッガーに「(≪その「特殊の主題」と人間学的な哲学原理を第一次化したその「原理的方法」に依拠したブルトマンやその学派における≫)いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではないだろうか」・「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と揶揄されたブルとマンや、モルトマン、ユンゲル、滝沢、八木、大木、北森、キリスト教的著述家等々≫)――でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」、と述べたのである(『ヘーゲル』)。このように、<宗教>としてのキリスト教の信仰・神学・教会の宣教を、ハイデッガーに根本的に揶揄され批判されたことを知らないとしても、私たちは、彼らの本を、また彼らに関連する本を少しだけでも読めば、すぐに、実感的に、彼らの人間論や人間学の後追い知識に過ぎない非自立的で中途半端な人間学的神学・神学的人間学の質の悪さと戯言を認識することができるのである。このような訳であるから、ほんとうは、彼らの本を読むよりは――私は、必要に駆られて読むだけであるが――、純粋な人間論や人間学の領域に属する吉本隆明や太宰治や宮沢賢治やドストエフスキーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスやフーコー等の本を読み、彼らの言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである。なぜならば、その方が、ほんとうに、実際的、確実に、人間や世界や歴史の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受できるからである。
 なお、前述した対象的意識の段階と自己意識の段階について、もう少し詳細に述べれば、次のように言うことができる――「(中略)けっして知覚作用自体が人間の存在にとってきわめて本質的なことであるということではありません。つまり、そこが現象学的な人間理解というものとわたしどものかんがえ方がまったく異なってくる最初の地点です」・「わたしたちが<知覚>作用に感情的な選択の衣を着せる訳にいかないのは、直観本質を人間の存在の本質的な仕方と考えないのとおなじである。わたしたちはけっして対象の知覚がいつも科学者の経験の仕方に似ているとはいわない。それが歓びや悲しみや選択をともなうことをしっている。しかし、このような感情作用は<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりないものである。感情作用は一般に対象の了解そのものを対象となしうるという<内観>的作用(≪内在化された対象の空間化≫)に属している」(吉本隆明『詩的乾坤』「メルロオ=ポンティの哲学について」国文社)。例えば、個体の知覚作用に基づいて、「自体的な識知」である「生理過程の<変容>」(≪空間化≫)と「対象的識知」によって<この対象は茶碗だ>と了解(≪時間化≫)されるのであるが、それに伴う「歓びや悲しみや選択をともなう」感情作用は、その内在化された対象の空間化・「<内観>的作用」に属している。したがって、「感情作用は<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりないもの」なのである。すなわち、対象了解された対象(内在化された対象)を抽象(時間化)する時には概念構成(≪内在化された対象の了解の抽象化度・時間化度≫)の問題として現われるのであるが、感情作用は対象了解された対象(内在化された対象)を再び<空間化>する過程において現われる、と。

 

 さて、福音主義教会は、「もともとその発端においては、『霊的な歌』」を、「神の言葉が宣べ伝えられ、聞かれるところの歌」として理解したのであるが、いずれにしても「教会讃美歌の歴史」は、その「内的世俗化」の歩みを示している。そして、その異端性は、教会讃美歌集において「聖霊はイエス・キリストの霊以外の別な霊」、すなわち「名目上は……神の霊、……キリスト教的霊であるが、実際は人間的な誠実さと真面目さの霊、神秘主義と道徳の霊でしかなく、そこで人間は神の啓示の中で実現された神との交わりを……もはや、もっていないで、すべての真面目さやすべての敬虔性にもかかわらず人間が自分ひとりで、自分自身とだけおり、この世の中で希望もなく神もない者(エペソ二・一二)である」という異端性にある。したがって、近代主義的新プロテスタント主義の「外的な世俗化」は、「ただこの、教会讃美歌の変遷の中で明らかとなった内的世俗化の徴候でしかない」のである。(103・104頁)
 シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間が自分を相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の対象化された自由な自己意識の意味的世界、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、<宗教>として、<自然神学>的な「自己表現としての宣教」を企てる。余りに人間的な<宗教>としてのシュライエルマッハー<教>を打ち立てようとする。近代以降は、誰においても、その信仰・神学・教会の宣教は、今まで述べてきたことに自覚的でない場合、必然的に、すぐに、<自然神学的なもの>として余りに人間的な<宗教>に転化していくことになるのである。