本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的実在(その1の2)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的実在(その1の2)」(40−76頁)

 

次回は、『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の1)」、それ以降は、『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「神のための人間の自由――聖霊、啓示の主観的可能性(その2の2)」
『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「宗教の揚棄としての神の啓示(その3)」へと続く。なお、引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解できるかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください)

 

 

(1)バルトは、次のように述べている――「われわれの第一の主張は……その主観的な実在の中での神の啓示は、啓示の客観的な実在の特定のしるし(≪「啓示の客観的なしるし」、啓示の客観的な秘義の奇蹟≫)……から成り立っているということである」。この啓示の客観的なしるしにおいて、その中で啓示が<客観的>な実在であるところの、「われわれの世界」・「われわれの自然と歴史の世界」の中で起こる「特定の出来事、関係、秩序のことが理解されなければならない」。すなわち、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の<実在の出来事>である「神の言葉の三形態」における、第一次的・第一義的な単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の客観的実在そのものと、その啓示に固有な証明能力に基づいた、聖書の証言・証しおよび教会(教会の宣教)の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)は、「啓示の客観的な実在からして、それであるから言葉の受肉からして、〔ある特別な〕存在と意味をもっている」ということが理解されなければならない。このことは、神の言葉が、「それらの出来事、関係、秩序を通して、この世界の中でさらにひき続いて語ってゆこうとしているということ、……この世界のさらに続いての空間〔場〕と時間の中で、知覚され聞かれることを欲しているということである」。すなわち、「それらの出来事、関係、秩序を通して、神の言葉はこの世界」において、「『広がってゆこう』としている」ということである。言い換えれば、「神の言葉の三形態」における啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な証明能力)は、「神の言葉が、人間によって聞かれ、同時に人間を義とし、聖化する言葉となることを欲している」「道具」、「それを通して神の言葉が、それの内容である神の恵み(≪和解≫)を、人間の身に対して執行しようと欲している」「道具」である。そして、その道具の「機能」は、啓示それ自体が持つ啓示の弁証法に規定されて、「啓示の客観的な実在を被造物的な実在の中」に「隠すこと」・隠蔽すること(「超越的な視野」、隠蔽性)、と、「あらわにすること」・顕現すること(「世界内在的な視野」、顕現性)、にある。このことは、「肉となった神の言葉そのもの」が、すなわち、啓示自体が、啓示の客観的実在そのものが、その啓示に固有な証明能力に基づいて、聖霊の注ぎによって「啓示を指し示」し・「啓示を証し」しなければ、不信にだけでなく信にも存在する自己主張の欲求・無神性・不信仰・真実の罪のただ中にある、それゆえに本来的に啓示に対して全く聞く耳も・見る目も持っていない人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を得ることは全く不可能である、ということを意味している。言い換えれば、このことは、啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在そのものである、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ初めて、聖性、単一性・神性・永遠性を本質とする神の不把握性および終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰は授与(客観的な、啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在)され、享受することができる、ということ、その啓示それ自体がこのような啓示に固有な証明能力を持っている、ということ、を指し示している。

 

 言い換えれば、神の不把握性と終末論的限界の下で、啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づかないところの、すなわちこのような信仰・神学・教会の宣教の原理・認識方法と概念構成を持たないところの、それゆえに、人間自身の恣意的独断的な、自主性や自己主張そのものとしての神認識・啓示認識、神学における直接的無媒介的形而上学的非学問的な「存在ノ類比」に基づく神認識・啓示認識、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に基づく神認識・啓示認識、の一切は、人間の対象化された自由な自己意識・理性・思惟等の「類的本質」・「存在者」・「存在者レベルの神」・意味的世界・「人間が管理するプログラム」として、それは、<自然神学的なもの>そのものであり、それゆえにそれは、ある大学神学者・ある牧師・ある神父・あるメディア的著述家としての人間自身がつくり上げた偶像・<宗教>そのものに過ぎない、ということである。なぜならば、存在的にも認識的にも、人間の対自的で対他的な自己意識、すなわち人間の自由な自己意識の無限性、その人間の対象化された理性・思惟・感情・意志・実存・言語・性・労働としての知識や家族や経済社会構成体や支配構成や社会構成や文明や文化や哲学的原理や認識論や世界観等の人間的自然は、「自己を覆い隠す」、隠蔽性・不把握性を本質とする神の「神律的側面」(倉松功は、ルターに依拠して「文明の体系は全体として、神律的側面」と「相対的に自律的な側面」を持っていると述べている)では決してないし・神の人間性では決してないからであり、それゆえに、それらを第一次化・第一義化・原理とした場合、その最初から<宗教>として<自然神学的なもの>そのものとなるからであり、「誤謬は必然」となるからである。したがって、私たちは、神の不把握性と終末論的限界の下で、啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力によってのみ初めて、啓示認識・啓示信仰は、人間の側に授与される、と言わなければならないのである。もちろん、その場合であっても、誤謬は可能性としてある、と言わなければならないのである。なぜならば、徹頭徹尾、信仰・神学・教会の宣教が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないからである。このことは、啓示それ自体が持っている、一切の<宗教>に対する<否定>であり<拒絶>であり、それゆえに、一切の<自然神学的なもの>に対する<否定>であり<拒絶>である。

 

 したがって、啓示の秘義の奇蹟・「しるしを受けとってそれを理解する能力」は、「神的意志の全能を通して、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする自在であって他在という神の自由な恵みの決断によるイエス・キリストにおける啓示・和解を通して、≫)(ご自分を世に向かって告げ知らせ、世界をご自分と和解させ給う神の意志の全能を通して)したがってそれ自身、啓示に対して能力をもたない人間の性質をキリストにあって取り上げ、ご自分を通して啓示に対して能力あるものになし給うたあの同じ恵み深い意志の全能を通して、そのようなものになるし、そのようなものであるところの神的な制定と任命……に基づいている」。したがってまた、「神はわれわれを神の啓示のしるしに結びつけ給うたが、しかし(≪存在的にも・認識的にも、神と人間との無限の質的差異における、聖性、単一性・神性・永遠性を本質とするその存在における、神は、≫)ご自身を啓示のしるしに結びつけ給いはしなかった。それらのしるしは、神的尊厳さと栄光の証言であるが、決して神的尊厳さと栄光の制限ではない」。このことは、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」が、すなわち神性を本質とする神の言葉の「受肉」・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」が、決して「神性の放棄」や神性の「減少」を意味していないことと同じである。

 

 このようなわけで、「神の言葉の道具はただ」、その「神の言葉に基づいて神の言葉を通してだけ」、神の言葉への感謝の「奉仕」においてだけあるものである。ここにおいて、教会・教会の宣教(説教と聖礼典)・教会の一つの機能である教会の<教義学>は、「啓示の客観的実在」であるイエス・キリストから、具体的には教会に宣教を義務付けている聖書から、「指示と約束を受けとることができる」。このことは、神の啓示の主観的実在の「一つの側面」である「客観的な側面」である。なぜならば、この場合にのみ、すなわち教会がその宣教における「原理」である、「先ず第一義的優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリストと共に、「聖書」を「原理」として、教会が絶えず繰り返し教会となるために、それに聞くときにのみ、教会は啓示・和解の告白・証し・宣べ伝えの「場所」として、可視的・可聴的な客観的対象として、客観的に存在するからである。(40−43頁)。

 

 この意味から言って、関田寛雄が『「断片」の神学』において、「後任牧師の選任」基準を、「外国留学」と「学位」においている教会があることを批判していたのであるが、その批判は正当性のある批判なのである。すなわち、そこには、バルトが述べているように、啓示の客観的な実在そのものである神性を本質とするイエス・キリストを主・頭とする「教会は存在しない」、と言えるであろう。また、私自身の疑問としてあることを、素直に、正直に、もっと実感的なところで言ってしまえば、「ひとりのキリスト」・「ひとつの霊と信仰」に基づいて成立すべきキリスト教会・教団であるべきであるにも関わらず、そうではなさそうな日本キリスト教団においては、市民社会の精神である私利・恣意に規定されて、私的利害に基づく党派性や党派的共同性や党派的多元主義が存在しおり、ある財政力のある教会はある大学の神学部が独占し、その教会への招聘権はある一部の有力者が独占し、ある一部の牧師だけがそこへの赴任を果たし、それゆえに教会間の富の分配も十分に行われず、それゆえにまた、教会間における牧師の所得格差も解消されず、大きな教会の財政力のある教会の牧師はその諸矛盾に対して疑問と課題を持たず自覚せず、大都会のある一部の財政力のある教会のある一部の牧師たちが高級官僚並の所得を平然と得ている、という人間的側面における制度としての教会の現状も、私たち信徒は直視する必要があるだろう。そこには、やはり、イエス・キリストを主・頭とする「教会は存在しない」、と言えるであろう。また、これは私自身が体験したことであるが、ある教会のある牧師宛ての問い合わせ用メールに聖書研究の有無と出席の可否について問い合わせたのであるが、何の回答もなく梨の礫に終わってしまった。そこには、やはり、イエス・キリストを主・頭とする「教会は存在しない」、と言えるであろう。さらにまた話は少しそれるのであるが、私はある神学関係の本を持っていなかったので、私の住んでいる国立系大学の附属図書館で借りようとしたのであるが、その時、その附属図書館は、その日に登録しその日に貸してくれたのであった。しかし、キリスト教系大学の附属図書館はその日からは借りられず、公立図書館を通すことになっていた。この時、国立系大学の方がキリスト教系大学の方よりも、キリスト者対して・大多数の<一般>に対して開かれていることを知ったのであった。バルトは、次のように述べている――「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう」、と(『キリスト者共同体と市民共同体』)。

 

 吉本隆明は、自らの戦争体験を自省することによって得られた知識人の敗北の在り方を、「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配(国家・政治的権力)に直通していく大衆の存在様式を把握できなかった点においた。したがって、この体験思想を介した吉本は、次のように述べた――@世界をトータルに把握できる「世界認識の方法」を持つことが必要である。A庶民が出征時に町内会の見送りを受けて「<家>からでてゆくとき、元気で御奉公してまいりま」と挨拶する「紋切型」の重たさの意味を把握できる往還思想の構成が必要である。そして、そのためには、「支配の制度」がある限り神学・知識のその原理・その認識方法と概念構成において、神学・知識の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準を、時代とともに変容する社会的存在の自然基底としての大衆原像に置くことが必要である。なぜならば、即時的往相的な神学・知識は、この価値としての大衆原像から知識的に上昇し逸脱していく神学・知識の自然過程に成立する概念だからである。したがって、神学・知識の自立は、その神学・知識の即時的・自然的な上昇過程から再び意識的・意志的に下降する還相過程において、価値としての大衆原像を、すなわち大衆の生活基盤である社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準を確定し、その時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題を、自らの神学・知識に繰り込み包括していくところに成立する。また、この時はじめて、一つの観念としての神学・知識は、そのリアリティを獲得することができるのであり、反体制的でもあり得るのである。したがって、この神学・知識における思想の往還は、大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙とは全く違う位相にあるものである。B自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていく在り方に、大衆の敗北の在り方を見た。したがって、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民は、神学者(牧師・メディア的著述家を含む)・知識人の神学・知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、自立した生活思想を構成していくことが必要である。C現在、高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまい、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けたが、現在でも社会的存在の自然規定であるその存在は、「支配の制度」がある限り、その知的大衆にとっても、その水準においてこの大衆と境界がなくなった知識人においても、そうである。なぜならば、「歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即時体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすること」にあるからである。

 

 したがって、人間が、諸矛盾や諸利害の対立のある現実的な市民社会の中でその社会の本質を観念的な法的政治的な幻想的共同性として疎外・外化したものに過ぎない、すなわち自己還帰させることができない逆立した疎遠な共同的幻想・法・制度によって現実的社会的な諸矛盾・諸利害の対立を止揚したものに過ぎない、「幻想的な共同的形態」に過ぎない――この場合、人間は社会的現実的に自由でなくても・解放されていなくても、国家は自由国家であり得る、しかしその場合、人間は恣意的に自由であり得るだけである、人間に社会的経済的不平等や格差があっても、法的には平等であり得る、このように、完成された政治的近代国家の場合、人間の思惟や現実生活において、天上の観念的日常性(政治的共同性)と地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられる――、<国家>共同性を媒介とした、知識人と呼ばれる者たちの政策(的言語)や法(的言語)を介した知識を、また政策(的言語)や法(的言語)を介したメディア情報を、誰であれ、誰もが、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしてはならないのである。なぜならば、最近の事例で言えば、知識人・メディアは、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・政府支配上層にあるにもかかわらず、その支配上層に対する徹底的な追及はしないで、その責任を政策(的言語)等を媒介として消費税増税必要論で一般大衆・一般市民に転嫁することに加担したからである。このように、法・国家(政治的権力)を媒介として、不可避的に、経済社会構成体を主導するある利益・利害集団の権益が最優先されのであり、支配の側の制度としての官僚(法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体)・政治家・資本家は、諸個人の現実的な家族や市民社会の生活過程を決して第一義とはしないのである。なぜならば、彼らは、市民社会内部の官僚制・個別的な職業的人間の職能団体・部分的共同意志を媒介とするからである。今回の選挙においても、無関心からではなく、相対的にいっても少しも良くない政党ばかりだということで、意識して投票行動を拒否した場合、それは、身体的行動と心的行動の構造としてある人間の行動概念から言って、一つの意志表示(行動)である。いずれにしても、マルクスや吉本が述べているように、人間学的には、革命の究極像・<最高>綱領は、それが人間自身によって・人間自身において可能かどうかは別として、政治的国家の無化を伴う、究極的総体的永続的な人間の社会的現実的な解放(人間自身の高度な精神性の成熟を要する)にある。また、その国家の過渡的形態は、国家を第一義・価値とする国家主義や<国家>社会主義にあるのではなく、狭い幻想的な国家とは異なるより広い現実的な社会を第一義・価値とする<社会>主義国家の構成にある。もちろん、ロシアも中国等々も、この意味での<社会>主義国家では全くなく、まさしく、国家を第一義・価値とする<国家>社会主義そのものなのである。また、もちろん、修正資本主義もそうであるし、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義も、<国家>を第一義・価値とする経済的自由至上主義であり、至上市場主義経済なのである。全然、よくないのである。知識人やメディアの知識や情報や、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。

 

 国家や社会における前述した在り方は、現状の教会においても言えることである。教会の現状を支えているのは、一方で私たち信徒自身だからである。私は、次のようなバルトの言葉を全面的に首肯する――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)。神学・教義学は、教会・教会の宣教の一つの機能である。A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神あるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)。B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 また、あの意味から言って、外部的観点からする吉本隆明の次のような批判は、根本的で正当性があるだろう――一方通行的で一面的な部分を全体とする、宗教化され倫理化された往相的な信仰・神学・知識・教会の宣教・「上から目線」は、必ずや次のような事態を惹き起すに違いないのである。それは、阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本にわざわざ電話をかけた事態である。その行為に対して吉本は、その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」、「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」、と述べている。この往相的観点しか持たない牧師の信仰・神学・知識・教会の宣教には、<還相的>観点がないのである。したがって、まさしく次のようなバルトの根本的批判が妥当するのである――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼の対象化された自己意識の意味的世界・彼の管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである」(『啓示・教会・神学』)。

 

 先述した40−43頁におけるバルトの理性的な定式化は、次のように言うことができるだろう――
ア)教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示、すなわち自己認識・自己理解・自己規定のことである。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との共労論・共働論・協働論という<宗教>としての<自然神学>的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないからである。聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の存在の仕方である「子なる神、キリストの神」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にある。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル、すなわち「神われらと共にいます」という神の第二の存在の仕方(啓示・和解の業)で、顕現・自己啓示した。このことは、「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」、単一性・神性・永遠性を本質とする神が、その第二の「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・神の第二の「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。したがってまた、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神自身が聖霊の注ぎにおいて神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味している。教会に宣教を義務づけている新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリストを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」、神との出会いであるイエスとの出会いである「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによるのである。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事であり、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことであり、啓示の主観的実在のことである。

 

イ)神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示・和解、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、啓示の実在そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会(教会の宣教)の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてある。したがって、信仰・神学・教会の宣教は、その不可避性に連帯することにおいてのみ、それに個性や時代性を刻むことができるのである。この意味で、オリジナルな信仰・神学・教会の宣教はあり得ない。

 

ウ)啓示の客観的実在であるイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する。したがってまた、その神の側の真実である神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の場所は、<宗教>としての<自然神学的>な信仰や神学や教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもある。すなわち、その場所は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りろ呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所でもある。

 

エ)アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造する」ことによって「時間」を持つ。しかし、彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である。それに対して、イエス・キリストの時間・「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である。ここに、「まことの現在」、まことの「過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある。
アウグスティヌスやハイデッガーには、イエス・キリストにおける啓示の時間・時間そのもの・実在の時間についての認識・概念が欠けていた。すなわち、「『神はご自身を啓示し給う』という命題」は、「『神はわれわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である。この啓示の時間は、神の側の真実としてあるから「啓示そのものによって教えられなければ」その一部分でさえ認識することはできないのである。したがって、私たちは、神性を本質とするイエス・キリストの出来事(啓示の客観的現実し、啓示の客観的実在)を聖霊の注ぎによって「神の啓示として理解」する時に初めて、イエス・キリストの現臨の出来事である啓示の時間は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時」に生起した「われわれのための神の時間」であることを認識し理解することができるのである。イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、「われわれのための神の時間」――それは、イエス・キリストの受難と死および復活(「成就された時間」・キリスト復活の40日)であり、「待望の旧約聖書的時間」、「想起の新約聖書的時間」、「この出来事についての証しの時間」である。すなわち、その「成就の待望」と「成就の想起」を持った「成就された時間、啓示の時間」、「啓示についての旧約聖書的および新約聖書的証言の時間」、それは「神ご自身の時間」、「実在の時間」である。「成就された時間」の以前とは、先ず「出来事として起こっている特定の歴史の時間」・「旧約聖書の時間」・「啓示の待望についての証言の時間」のことである。また「想起の時間」は、新約聖書における啓示証言の時間、新約聖書の時間、使徒の時間であり、「既に出来事として起こった啓示から……由来していた歴史」のことであり、「成就された時間」・キリストの復活と切り離せない仕方で結びついている時間のことである。すなわち、新約聖書における啓示証言の時間、新約聖書の時間、使徒の時間の後に続く時間は、「成就の時間」・キリストの復活に属した「新約聖書の信仰」におけ「想起の時間」・「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、「キリストの死」とともに終わる「まことの過去」は、「成就された時間」・キリストの復活を待望する形においてある。また、まことの「未来」は、キリストの復活とともに初まり、ただキリストの復活を想起する形においてのみある。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の四〇日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、神性を本質とする「既に来た方」であるイエス・キリストは、「またこれから来たり給う方」であることを語るのである。このように、「すべての以前と以後においても」単一性・神性・永遠性において「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することは過去(復活)を考えること・想起することであり、過去(復活)を考えること・想起することは未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前の過去を考えることでもあるのである。

 

オ)「罪におちた人間によって惹き起こされて生じた」私たち人間が人間的に所有する人間の知り持っている時間・「罪にそまった時間」・「われわれの時間」、と、「神によって造られた時間」とは同一ではなく、両者には無限の質的差異があるのである。したがって、両者を同一視したり混淆したり共働化・協働化・共労化したりすることは許されないのである。すなわち、「神によって造られた時間」・「イエス・キリストにおける啓示の時間」・「時間そのもの」・「実在の時間」・永遠・超歴史・救済史は、常に、「罪におちた人間によって惹き起こされて生じた」私たちが知り持っている時間・「罪にそまった時間」・「われわれの時間」・人間の時間・歴史の、彼岸・外に、にあるのであり・あり続けるのである。したがって、状況論も・神学における思想の課題も認識せず自覚せず持たずに、「終末論的」な「将来的なものの力」としての「御霊」という概念に依拠して、形而上学的抽象的空想的に、神と人間との、神学と「一般の学問」・人間学との、「救済史と普遍史」との共労・協働・共働論に基づいて神学的な三段階的進歩史観を展開したモルトマン神学は、まさしく彼自身の対象化された自己意識の恣意的独断的な自己主張、すなわち<宗教>としての<自然神学的なもの>に過ぎないのである。自然時空に死語化した神学に過ぎないのである。マルクスや吉本が述べていたように、状況論なき・神学における思想なき「無知が役に立ったためしはない」のである。

 

(2)旧・新約聖書によれば、神の啓示は、啓示に固有な証明能力に基づいて、その「語りと行動の主体であり続け給う限り」、神が「人間に向かって語り、人間に対して働くかけるために」、「間接的」には被造物的な「場と枠の中で」で、被造物的な道具・「仲介者および手段を用いられるとしても」、三位一体論的――キリスト論的に、「直接的」に、「人間のところに来る」。なぜならば、聖書によれば、「世界の中での神的なしるし」は、「偶有性、事実性をもっている」中で、すなわち他のものとの交換可能性を持っている中で、「特定のしるしがそれとして選ばれ、うち立てられている」からである。すなわち、「すべてのそのほかのしるしを包含しているイスラエルの民の選び」の「しるし」が、そうである。このイスラエルの民の選びは、「客観的な啓示、受肉、と同一ではない」が、それは、「包括的な仕方で、客観的啓示、受肉」・「イエス・キリストの出現」に対応している。なぜならば、客観的な啓示は、その啓示に固有な証明能力に基づいて「歴史的な場所」で生き生活する人間に啓示認識・啓示信仰(啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在)を授与する限り、その意味で、その「イスラエルの民の選びは客観的な啓示に属している」からである。すなわち、他の民との交換可能な「偶有性と事実性の中でのイスラエルの選びこそがまことのしるし」――「包括的」なしるしである。それは、「キリストの中で結ばれた、神と人間の間の契約の顕示」である。「イエス・キリストはアブラハムの約束されたすえであるというまさにこのしるしこそがイエス・キリストの出現を指し示している(中略)最後にイエス・キリストはまさにユダヤ人のメシヤとして来たり給うた」。「そのような神の子はご自分に属する者たちを世のただ中にあって、世のただ中から……選び、召し、義とし、聖化し給う」。

 

 他の民との交換可能な――なぜならば、「近東のほかの諸民族」も「割礼」という「同じ儀式を知っていた」から――「偶有性と事実性の中でのイスラエル」民は、「割礼のしるしによってほかの民から分けられ、区別され」た。この場合、問題は、その儀式にあるのではなく、その割礼のしるしが、イスラエルの民の下で、「この儀式という手段を通して、キリストにあって遂行されるべき裁き」と「キリストにあって来たるべきその恵みを、約束し給う契約の主の自由な決断によったものである」、という点にある。割礼は、「神的な命令および約束のしるし」として、それは、「まことのしるしである」。それは、「キリストの中で結ばれた、神と人間の間の契約の顕示」である。

 

 神自身のその都度の決断による、神に選ばれたイスラエルの民の中で、神に「特別に選ばれた神の人たち」の、その「民に向かって神からくる救いと災い、災いと救いを告げ知らせつつ神の言葉を語る」「預言者の現実存在と活動」もまた、「キリストの中で結ばれた、神と人間の間の契約の顕示」である「まことのしるし」である。このことは、「神の言葉そのものが、……人間の世界のただ中で、……人間的歴史的状況の中に語り入れられ」・「聞かれ」る時、すなわち「キリストにあっての神の言葉の受肉(≪啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、聖霊の注ぎによって啓示の客観的実在そのもの≫)を知る時に(≪啓示認識・啓示信仰を授与される時に≫)、語ることができる」ことである。したがって、神と人間との無限の質的差異性において、神の不把握性と終末論的限界において、徹頭徹尾、この可見的・可聴的な人間としての「彼らの存在と彼らの言葉」は、神の言葉の受肉における啓示の客観的実在そのものではない。すなわち、あくまでも、神のその都度の自由な決断によって、被造物としての「人間の口でもって語られる『主かく言い給う』が存在する」のである。「旧約聖書がわれわれに向かって預言者の現実存在と活動を神の啓示として証しするとき、旧約聖書は明らかに包括的にこう言っているのである」。したがって、「旧約聖書のもろもろの形態概念」(しるし)である「王、祭司、律法、犠牲、幕屋、神殿、聖なる国」もそうである。

 

 この「偶有性、事実性」、他のものとの交換可能性を持っている、「世界の中での神的なしるし」・旧約聖書における「しるしの世界全体は、キリストの出現――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫))へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就された時間は、『新しい世』のはじまりである――とともにいわば一撃のもとに消え失せてしまった」「『きたるべき良いことの影』(ヘブル10・7)として認識され」、「古いしるしの世界全体の代わりに」、「使徒、宣教、洗礼、聖餐をもった教会が登場してくる」。なぜならば、これが、教会の可視性についてのすべてのことだからである(47頁)。

 

 言い換えれば、聖書は、旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わっており、この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在そのものである神性を本質とするイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理であり、このイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に、宣教を義務づけている、ということであり、「聖書が教会を支配するのであって」、それゆえに聖書は「教会に集められた人々の自由処理」の対象ではないし、人間的側面としての制度としての神学者・牧師・メディア的著述家・「教会が聖書を支配してはならない」、ということである。神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の客観的実在に属している教会は、「神のみ手にある道具」である。このしるし・道具の現存は、「キリストにあって世と人間が神のみ手の中におちた」という「神の支配の樹立を意味いている」。したがって、このことは、「宗教的な人間支配の樹立」、すなわち<宗教>としての<自然神学>的な、人間そのものに過ぎない神学者や牧師やメディア的著述家の対象化された自己意識の意味的世界・信仰観・宗教観・世界観・彼らが管理するプログラム・人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」やその「神への信仰」、を全く意味していないのである。また、「ローマ・カトリック的教会概念」や「近代主義的――プロテスタント的教会概念」を意味していないのである(49頁)。

 

 「キリストの出現それ自身」、すなわち「この世界の中で人々の耳の前で鳴りひびいたイエスの言葉、……目の前で起こったイエスの行為、は受肉した言葉のことを語る言葉である」。「またキリストの出現以後の教会も、いうまでもなく世界の中にあるのであり、それとしてしるしを与えることを必要としつづけている人間から構成されている。教会はキリストではない。教会はキリストの全権、すなわち、永遠の言葉そのものの無比な全権をもっていない。教会はまたキリストの行為をなすようにとの全権を委任されていない。使徒行伝によれば、はじめなおしばらくの間、キリストの弟子たちの間でも力を発揮して働いていた預言と奇蹟の行為は、明らかにただ、キリストご自身の出現と反映」であって、それゆえに「間もなくやんでしまわなければならない反映でしかない」。「しかしやんでしまうことのないものは、十字架につけられ、甦えり給うた方によってなされた十二使徒の召命、委任、派遣であり、キリストについての彼らの証言に基づいてさらに先へと続けられてゆく」、すなわち「キリストについての説教。洗礼を施すこと、聖晩餐を祝うことによってキリストが宣べ伝えられること」――この教会の宣教・「教会の業」を通して「すべての国民から集められるところの民、である」。これが、「新約聖書の新しい、単純化され、集中されたしるしの世界である」。したがって、キリスト教会は、「それ自身の現実存在と歴史を持っている限りその歴史の中にある」のであるから、「新約聖書のこのしるしの世界に属している」。したがってまた、「常に繰り返しあの起源的な、十二使徒の召命、委任、派遣とともに与えられたしるしでもってはかられ、そのようなしるしの前で自分が正しいものであることを実証しなければならない」(47・48頁)。「啓示、和解」――すなわち神性を本質とするイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容である「インマヌエル、神われらと共にいます」という事柄が、<聖書>の証言・証しにおいて、また教会に宣教(説教と聖礼典)を義務づけている聖書に絶えず繰り返し聞くことによって成立する<教会>の客観的信仰告白・教義において、すなわち啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)――啓示の概念の客観的実在において、「世代から世代にわたって、繰り返し新しく認識され、理解され」、人間の恣意性独断性による「例証」ではなく、啓示自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて「解釈されなければならない」・反復されなければならないのである。不可避的な「神の言葉の三形態」に連帯しなければならないのである(49頁)。そのことによって初めて、その個性と時代性は刻まれるのである。啓示の主観的実在の場所である可視的可聴的な教会は、「厳格に」このような「客観的な側面を持っている」(51頁)。したがって、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」・「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と言うのである。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で、バルトを含めて私たちが全面的に首肯せざるを得ない「歴史とは個々の世代の(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継続にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪言語、性・夫婦・家族の概念と置き換え可能だろう≫)を利用(≪媒介、反復≫)する」ということを述べたが、このことは、バルトにおいては、不可避的な「神の言葉の三形態」に連帯する、ということなのである。

 

 これらのことを考えれば、ルドルフ・ボーレンやそのエピゴーネンであるバルト翻訳者の佐藤司郎や神学者・小泉健の「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得る」という、状況論なき・神学における思想なき・中世的思考に停滞した聖霊論的説教論が、またボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べている小泉の神学が、いかに恣意的独断的でいい加減な神学でしかないかを知ることができるであろう。純粋な人間学的領域において、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが、正当性のある根本的な仕方で、そのような信仰・神学・教会の宣教は、<宗教>そのものに過ぎないことを見抜き指摘したことに対して、彼らは平然と無視し、誰一人としてそのことに耳もかさず、それゆえに、その正当性のある根本的包括的な<宗教>批判を,自らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、根本的包括的に止揚して紙一重において超えていくべき神学における思想の課題を認識せず自覚せず持たず担わず、ただ形而上学抽象的空想的空論的な机上の論理を展開しているだけなのである。このことは、バルトやマルクスを根本的包括的に理解せず論じていた、また近代以降の<宗教>が科学<主義>にあることも理解しないで論じていた、英米の神学者マクグラスも同じである。例えば、バルトは、説教について、彼らとは違って、根本的包括的な一貫性をもって、「説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において」、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている・「説教者は、説教として語る」場合、聖霊や聖霊の言葉を説教者の自由事項や独占事項にする小泉のように、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」のであって、「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、と言うのである(『説教の本質と実際』)。

 

ア)サクラメントの概念は、「起源的には(例えばテルトゥリアヌスおよびキプリアヌスの用語法の中で特に……)……後代におけるよりももっと包括的な意味」を、すなわち、教会において、人間に対して授与された啓示の主観的現実化・啓示の主観的実在・啓示認識・啓示「信仰の秘義そのもの」を、それゆえに「われわれが(≪「人間に対して提供された」秘義の奇跡・≫)しるしを与える」という包括的な意味を、言い表していた。

 

 「サクラメントハ人間ヲ聖化スル聖ナル事柄ノシルシデアル(トマス)」・「聖礼典ハ……ワレワレニ対スル神ノ御意ノシルシオヨビ証シトナルヨウニ、マタ、コレヲ用イル者ノウチニ、信仰ヲ励マシススメコレヲ堅クシヨウトシテ、定メラレタノデアル(アウグスブルク信仰告白十三条)」・「聖礼典トハ、主ナル神ガ……ワレワレノ良心ニ、ワレワレニ対スルゴ自身ノイツクシミノ約束ヲ封印シタモウコトノ、外的ナシルシデアル(カルヴァン、キリスト教綱要……)」――これらの定義は、「言葉の特別な、狭い意味での聖礼典が意味されていると同時に、……(≪知覚的対象性としての≫)教会の客観的な側面が意味されている……」。カルヴァンは、この聖礼典の意味を、「具象的に述べようとした」――「聖礼典は神的な恵みのいわば証印、あるいは画像、あるいは鏡像であり、それは信仰を支える柱、あるいは神の言葉について確信するようになる習練である」(51・52頁)。

 

 この後代の狭い意味での聖礼典の概念は、先の包括的な意味での聖礼典の概念に包摂された、それゆえに「神的なしるしを与えるという一般的な概念の内部での、特別な何か」、すなわち、前述した「外的ナ表象、要素(≪自然的な、洗礼における水、聖餐式におけるパンとぶどう酒≫)、目ニ見エルシルシ、聖ナル行為という概念が強調されている」、いわば「洗礼と聖晩餐のことが指し示されている」。と同時に、包括的な意味における「信仰の秘義そのもの」を、それゆえに秘義の奇跡・「神的しるし」を与えることが強調されている。「西方の聖礼典論にとってアウグスティヌス以来……決定的となったしるしという概念……目に見えるしるし」は、「狭い意味での聖礼典のことを意味している」。しかし、アウグスティヌスは、教会の宣教における説教、すなわち「語られた人間の言葉、あるいは書かれた人間の言葉を、しるしの中に数え入れている。言葉ハシルシ以外ノ何モノデモナイ」。ここでは、感性的認識は、視覚や聴覚の概念においてではなく、もっと包括的に「知覚」という概念において述べられている。「言葉はまた、人が耳でもって把握し、目でもって見ることができる外的な事物(ルター)」・客観的な対象物である。聖霊の注ぎによる信仰の出来事において、「しるしはその本性からして……われわれの世界に、われわれの観察と経験の領域に」、「われわれの」の感覚と知識を内容とする経験的普遍に、属している。「目ニ見エルシルシとしての聖礼典」は、「外的な象徴」、すなわち啓示の客観的実在そのものである神性を本質とするイエス・キリストを主・頭とする、またその「啓示に基づいて」それゆえに啓示の弁証法における隠蔽性と顕現性において、「教会が一つである」ということの「しるし」である(52・53頁)。この意味から言って、市民社会の精神である私利・私意による利害対立や諸矛盾によってすぐに崩壊する、人間の寛容の精神や組織的制度的政治的再編等に基づく、一致の主張や党派的多元主義の主張は、全く問題外の戯言である。

 

 教会的な「行為」は、聖礼典だけでなく、教会的な「語り」――教会の宣教における中心的な部分である説教も、「行為」である。したがって、教会的な「行為」は、この両者の構造・同在性・同時性において存在する。この聖礼典は、啓示の弁証法における隠蔽性と顕現性において、キリストにおける神の恵みの「しるし」、すなわちキリストによって制定された「しるし」であり、その「目的は人間の聖化あるいは義認であり」、その「機能は……客観的に……特定の人々の奉仕を通して語り告げられてた和解が与えられること、証印サレルコトである」。すなわち、「神的しるしを与えることの意味での人間ノ義認あるいは聖化」は、「ひとつの理念に基づいているのではなく」、聖性、単一性・神性・永遠性を本質とする「われわれの歴史の中に……介入し給う」「創造主の行為(≪現臨・顕現の出来事≫)として示された」、神の第二の存在の仕方(啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリスト、神の子、神の言葉、啓示・和解)における行為・性質・働き・業に基づいている。このことが、説教に対して聖礼典の持っている「特質」・「事実所与」である(53・54頁)。

 

 聖性、秘義性、隠蔽性を本質とする「啓示」が「神的なしるしを与えること」で「われわれところに来る」こと・現臨すること・顕現すること全体は、「目ニ見エルシルシ、外的象徴」、すなわち、客観的対象としての、自然物そのものでありまたそうあり続ける水、人間によって対象化された、自然の人間化としての人為的自然、加工された自然、人間的自然でありまたそうあり続けるパン、ぶどう酒という「自然の領域」における、そして人間によって「遂行された行為」における、「しるし」である。「聖書的な意味でのすべてのしるしを与えること、すべての証人であること、の原型である洗礼者ヨハネ」が、「自分のことを水で洗礼を施す者と言い表している時、キリストとの区別およびキリストとの関係」における自分について「すべてのことを語っている」。「ヨハネ三・五、エペソ五・二十六以下、テトス三・五において、(≪不可視的な≫)聖霊の内的な働きに対し、単純に、直接的に、まさに(≪自然物を介した可視的な≫)『洗礼の洗い』が対置されている時」、また「ヨハネ六・五二―五八において、(≪不可視的な≫)「永遠の生命へといたる」「食し飲むことに対して」、(≪自然物を介した可視的な≫)「全く特定のからだ的な」「食し飲むことが対応しており、対応しなければならないことを知らされる時」――これらのことは、「全く」、隠蔽性と顕現性という「啓示」それ自体が持つ啓示の弁証法の「秩序にかなったことである」。(55−57頁)。

 

 この隠蔽性と顕現性が、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、の総体・構造である。言い換えれば、啓示は、「客観的な恵みの性格を……聖礼典の中で表示されているそういう仕方で、受け取られ、取り上げられることを欲している」のである。すなわち、「洗礼の水と聖晩餐のパンとぶどう酒が問題」なのではなく、「ヨハネ六・六三、『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない』」ということが問題であり、「考慮されなければならない」。したがって、「洗礼を受けることなしに、神の啓示をうけ、救われるものがいるだろうかなどという問いは、子供っぽい問いである」・「聖礼典の執行が絶対的な、機械的な意味で、救いにとって必要であり、啓示にとって必然である」ということは、「決して語ることができないし、またこれまで教会の中でそのようなことについて真剣に語られたことはなかった」。そうであるからとって、「洗礼の水および聖晩餐のパンとぶどう酒においては、具体的な、からだ的な、創造的――出来事的な神の支配のしるしをうち立て、認識することは大事である」。

 

 言い換えれば、「神の言葉の三形態」において、「預言者と使徒の権威は、そして彼らを通して与えられる神の受肉した言葉の恵みは」、「洗礼がわれわれに関して語れた客観的な証しとしてわれわれのキリスト教的生活のはじめのところに立っているような仕方」において、「キリスト教会のはじめのところに」、それゆえに「また神の子供としてわれわれの現実存在のはじめのところに立っている」。キリスト教会は、また神の子供としてわれわれの現実存在は、「預言者と使徒の言葉から」、すなわち「彼らの証言に基づく宣教から……さらにまた、この宣教を通して、神の恵みから……生きるのである」。「預言者と使徒の言葉によって媒介された」「み言葉を通して生きるこの生命の秩序と保持をしるしをもって表示すべく、われわれは洗礼および聖晩餐に拘束されている」。キリスト教会は、また神の子供としてわれわれの現実存在は、「それがわれわれの主、イエス・キリスト、の恵みから……の生である故に、われわれの主、イエス・キリスト、の恵みから……の生である限り、それはただこの生である」。また、それは、「聖礼典を通して表示されているような……この生である」。この意味で、聖礼典は、「欠かすことができない『恵みの手段』である」。人間が、「洗礼から……聖晩餐へと通じる道の上にいる……場所」・信仰に到るために「信仰ではじめるところの、信仰から信仰にいたらせる(ローマ一・一七)場所」・そこにおいて、「自分のことを啓示の受領者として正しく理解する」場所――この、キリスト教会、また神の子供としてわれわれの現実存在の場所において、「神学は自分の始まりと目標を尋ね求め、またこの場所の法則(≪――「啓示の認識原理」である三位一体論的――キリスト論的なそれ、啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力のそれ、不可避的な「神の言葉の三形態」のそれ、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在である神性を本質とするイエス・キリストと共に、教会の宣教の原理である「聖書」に信頼し固執するそれ――≫)にしたがって神学の方法は決められなければならない」のである。(56・57頁)。

 

 なぜならば、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となるからであり、それゆえに、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」であり、それゆえにまた、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、すなわちイエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない<宗教>としての<自然神学>的な「単なる知識」としての形而上学的抽象的空想的空論的な恣意的独断的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」だからである。

 

イ)前述した「第一の主張に対して第二の主張が立てられなければならない」。聖霊、啓示の主観的実在における神の啓示は、次のような人間の現実存在から成り立っている――すなわち、啓示の客観的実在は、人間的な「自分たちの存在を……自分自身から」自己認識・自己理解・自己規定することはできず、啓示の客観的実在が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて授与された、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、自分自身の自己認識・自己理解・自己規定をなすことができるところの人間の現実存在から成り立っている。このとき、「自分自身をただみ子の兄弟としてのみ、神の言葉の聞き手および行為者としてのみ」自己認識・自己理解・自己規定できるところの人間の現実存在から成り立っている(57頁)。

 

 このことは、『福音と律法』においては、次のように述べられている――「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」――このような啓示に固有な証明能力に基づいて授与された、啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した自己認識・自己理解・自己規定をなすところの人間の現実存在から成り立っている。

 

 このことは、次のようにも述べられている――@敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(成就された時間)であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」こと、また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であるということ、A神性を本質とするイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、すなわち「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ということ、それゆえに、「世、歴史、社会」は、「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であるということ、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということ――このような、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通した自己認識・自己理解・自己規定をなし得る人間の現実存在から成り立っている。

 

 このことが、バルトの言う「思惟上の飛躍」である。このことを神学的な「非合理主義」と非難する者たちは、神学における思想とは何か、思想的課題はどこにあるのかを知らない者たちの言い草、戯言に過ぎない。すなわち、紙一重を超える思想の厳しさを知らない者たちのそれに過ぎないのである。「ある抽象を以て始められある空論で終わるところの」「大学社会の神学」者たちに過ぎないのであり、それに類する牧師やメディア的著述家たちに過ぎないのである。そして、客観的な啓示の実在が「どのように……人間のところにまで来るのかという問いに対」する答えが、すなわち「思惟上の飛躍」を<架橋するもの>、啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在と啓示の主観的現実性・啓示の主観的実在とを<架橋するもの>、が、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊、「聖霊の位格」である、その行為・性質・働き・業としての、聖霊の注ぎである(58頁)。したがって、その聖霊の注ぎによって、人間に対して啓示認識・啓示信仰(聖霊の注ぎによる信仰の出来事)は授与されるのであるが、この、啓示の秘義性・隠蔽性・不把握性と終末論的限界の下での、啓示の客観的実在に根拠づけられた、この聖霊の注ぎによる信仰の出来事が、啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在、である。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執する啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではない。なぜならば、神の言葉は、天然自然や人間的自然、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、感情や理性や実存や意志、人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないからである。また、「啓示が生起し、神のペルソナが登場し、神の業が出来事として起こる世の領域……自身」は、「神の人格でもなければ神の業でもない」からである。(59−62頁)   

 

 しかし、神学者・倉松功は、自然史の一部である人類史における経済社会構成の自然史的過程について、またそこから疎外された観念諸形態のその自体的展開と自己増殖の過程について、その構造的な把握もせずに、形而上学的抽象的に、恣意的独断的に、ルターに依拠して「文明の体系は全体として、神律的側面」(「文明を担う諸力は神の恒常的な創造者としての活動であるという」側面)と「相対的に自立的な側面」(「神の創造者としての働きは人間理性によっては明かされる」という側面)を持っていると、人間の神との共働的行為を倫理化して、馬鹿な戯言を平然と述べ立てている。ほんとうは、神学者としてであれ、文明論を述べるならば、せめて、誰であっても首肯せざるを得ない、マルクスの「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないからである」(『資本論』)、という事柄を念頭に置いて、述べるべきなのである。
 バルトの、その信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成においては、こうした正当性のある根本的な人間学的真理を、「正直に受け取ることができる」のである(『ヨブ』)。このことだけでなく、バルトは、啓示の客観的実在の認識可能性についても、すなわち、その啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」――啓示の客観的実在そのものであるイエス・キリスト、その証言・証しである聖書および教会の宣教(説教と聖礼典)の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)――に基づいて授与される啓示認識についても、それは「神の自由な恵みのみがなし得ることとして、神の自由な恵みに対し留保されたままでありつづける」、と述べている。すなわち、人間は、神と人間との無限の質的差異の下におかれているのであり、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下におかれているのであり、終末論的限界の下におかれているのである。したがって、バルトは、その信仰・神学・教会の宣教が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない、と言うのである。したがってまた、私たちすべてが、全人間・全世界・全人類が「合点」がいくためには、神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、そのものである、イエス・キリストの再臨、すなわち終末・救贖・完成を必要とするのである。ドストエフスキーが、マルメラードフを通して述べているとおりなのである――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」、と。

 

 大多数の被支配としての一般大衆や一般市民が、制度としての官僚や政治家の財物を勝手に使えば犯罪を犯したことになるのであるが、制度としての官僚や政治家が、他人のお金である大多数の被支配としての一般大衆や一般市民のお金である血税とも言える税金を平然と勝手に無駄遣いして、大多数の被支配としての一般大衆や一般市民に対して犯罪的な行為を行っているにもかかわらず、なぜ、制度としての官僚や政治家は犯罪者とされないのか? それは、彼らが、法の支配の下での法による行政という政治的合理性の形態に基づいて犯罪的なことを行っているからである。また、なぜ、制度としての官僚や政治家が行うことは、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民に対して犯罪的なことを行ってしまうことになってしまうのか? それは、そうした政治的近代国家における制度としての職能団体である<官僚>は、また<政治家>は、法や政策を媒介として、経済社会構成体を主導するある利益・利害集団の権益を最優先せざるを得ないからである。このことは、先のマルクスの言葉に通じるものである。すなわち、倫理の問題ではなく、その制度・そのシステムの問題である。したがって、フーコーは、次のように述べた――マルクスは資本主義の分析の際、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の稀少のためだとか計画的搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明」を拒んだ。なぜならば、資本主義制度における生産は、制度的必然・システム的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるを得ない」ものだからである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することはできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである、と。

 

 一方で、御用的・即自的な知識人は、また御用的・即自的なメディアは、法的言語や政策的言語を介してその国家に加担していく。したがって、名古屋市長の河村たかしも述べていたのであるが、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家、政府支配上層にあるにもかからず、そうした御用的・即自的な知識人たちやメディアは、徹底的に根本的な批判を展開せず、消費税増税必要論を展開したのである。そして、現在もそうである。支配は被支配を<逆立>した鏡とするという支配の様式は何も変わらないまま、つい最近行われた旧態依然のままの日本における擬制民主主義の茶番劇(選挙報道のくだらなさに嫌気がさして、近くのビデオ屋でパーソン・オブ・インタレストという作品を借りてみていた。面白い作品だった)や、日本や世界における社会や国家の惨憺たる状況についての情報に接するとき、そしてマルクスや吉本の言うところの究極的総体的永続的な社会的現実的な人間の解放という革命の究極像の道程の遠さと、フーコーの方法の果てしのない辿り着けそうもない道のりを念頭に置くとき、私にとっては、マルメラードフの告白は実感を伴って現実味を帯びてくるのである。

 

ウ)「啓示されてあること」、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事、啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在は、「特定の人間の現実存在から成り立っている」のであるが、このことは、「人間から」という人間自身を起源・出自としているということを決して意味しているのではなくて、「啓示の中での神的行為の『人間に向かって』」、それゆえに、啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力による、不可避的な「神の言葉の三形態」を通した、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(行為・性質・働き・業)であるイエス・キリストにおける啓示の出来事と単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊の注ぎに基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与、ということを意味している。このようなわけで、啓示は、徹頭徹尾、「道徳的あるいは宗教的な企て」では決してないのである。また、人間の側からという考え方や、神との同労者・共働者・協働者としての人間という概念は決して成立しないのである。

 

 こうしたことに自覚的でない場合、<宗教>としての<自然神学的なもの>を生み出すだけである、そこで停滞と循環を繰り返すだけである、人間自身の自主性・自己主張の欲求に基づいて「神の名において、神の呼びかけのもとに」、「人間が管理するプログラム」を生み出すだけである、ハイデッガーによって「むしろ無視論という安っぽい非難を受け入れた方が良い」と揶揄された水準の「存在者レベルでの神への信仰」を生み出すだけである、神に対する「熱心さの無知」を生み出すだけである、「熱狂主義」の無知を生み出すだけである、ただ単なる、○○神学者<教>、○○牧師<教>、○○メディア的著述家<教>、○○民族主義<教>、○○世界観<教>、○○科学主義<教>、○○歴史主義<教>、○○エコロジー<教>あるいはその極限に想定される天然自然主義<教>、西欧主義<教>、アジア的日本主義<教>、国家主義<教>、靖国神社参拝主義<教>、○○主義<教>、等々を生み出すだけである。

 

 人間が、神性を本質とするイエス・キリストにおける「啓示の出来事」、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在の「中にとり入れられること」、すなわち、神の不把握性と終末論的限界の下での、信仰の出来事が授与されること、啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在、啓示認識・啓示信仰が授与されること――この授与は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である「聖霊の業」である。(62−67頁)

 

 聖霊の注ぎによる信仰の出来事、すなわち客観的現実性・客観的実在である啓示の、主観的現実化、主観的実在、の出来事は、人間によってではなくて、「神によって確信せしめられる出来事」、すなわち、神の不把握性と終末論的限界の下での――この限界性が、すなわちマルメラードフの告白における限界性が、「客観的啓示と主観的啓示の区別」の根拠である――、啓示認識・啓示信仰の授与の出来事である。啓示に固有な証明能力、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事は、このような構造性・同時性・同在性を持っている。したがって、「主観的啓示は客観的啓示にさらに第二の啓示が付け加わってくる」という第二の啓示では決してないのである。なぜならば、もしもそうだと主張するとすれば、その者たちは、その者たちのキリスト教は、まさしく正当性のある根本的な宗教批判をなしたフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーのその宗教批判の対象そのものに過ぎない、単なる「存在者レベルでの神への信仰」、<宗教>、<自然神学的なもの>に過ぎないものとなるからである。バルトだけが、この神学における思想の課題を認識し自覚し担ったのである。ブルトマンもその学派もエーバーハルト・ユンゲルもルドルフ・ボーレンもそのエポゴーネンもA・E・マクグラス等々も、そのことに全く気づいていない鈍感さと停滞と循環のただ中で、状況論も神学における思想の課題も認識せず・自覚せず・担わず、自然時空に死語化していくであろう単なる形而上学的抽象的皮相的な人間学の後追い知識に憑依しているだけなのである。このような悲惨な惨憺たる事態は、「教会と神学の歴史の中でいつも宿命的」な問題であったし、現在はさらにそうである。

 

 いずれにしても、彼らの信仰・神学・教会の宣教の、その原理、その認識方法と概念構成においては、それ自体において、<宗教>としてのキリスト教、<自然神学的なもの>としてのキリスト教を、根本的包括的に全く揚棄できないのである。その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して完全に開けないのである。それに対して、バルトは、その信仰・神学・教会の宣教の、三位一体論的――キリスト論的な、その原理、その認識方法と概念構成それ自体において、次のように述べたのである――神性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである、と(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』)。(68−70頁)

 

 信仰の出来事、啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊の業においてだけ、すなわち神はその自由な恵みにおいて、「『キリストにあってこの世をご自分と和解させた』ということを繰り返し語ることができるだけである」ところの聖霊の注ぎにおいてだけ、成立する。この単一性・神性・永遠性を本質とする聖霊は、「父ト子ヨリ出ズル」霊であり、それゆえに啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、であるイエス・キリスト、すなわち神の「言葉と並んでの霊ではなく、言葉以外の何ものでも」ない、その神の「言葉を……聞かしめる言葉そのものの霊である」。このように、啓示は、啓示それ自体に、啓示に固有な証明能力を持っているのである。このように、徹頭徹尾、全く、人間の共労・協働・共働を必要としないのである。したがって、啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在における主観的啓示は、「ただ客観的啓示がわれわれの中で繰り返され、刻印され、保証され」、「発見され、承認され」、証しされ、告白され、宣べ伝えられる、ということにおいてあるのである。したがってまた、バルトは、次のように述べるのである――神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる啓示の客観的実在そのものであるイエス・キリストと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)においてある、と。「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」・「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と。したがって、啓示に固有な証明能力、神の不把握性、終末論的限界、三位一体論的――キリスト論的な「神の言葉の三形態」から「独立した……主題」や方法によって得られた、すなわち例えば、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍によって得られた、また第一次化された人間論や第一次化された人間学的な哲学原理・認識論・世界観等に基づいて得られた、啓示の主観的実在、主観的啓示は、すなわち、前述した意味での「客観的啓示を宣べ伝える宣教から、(≪独立して恣意的独断的に≫)自分を切り放してしまおうとする倫理学、人生論、牧会的配慮は、直ちにそもそも啓示との原則的な断絶を意味する」のである。例えば、そうした牧会的配慮は、その人間<教>・その牧師<教>として、<宗教>そのものなのであり、<自然神学的なもの>そのものなのであり、フーコーの言う共同の無意識・無意識の共同性としての、一つの支配の様式、政治的合理性の形態、規律権力を重層化させた近代的な統治技法である国民諸個人――市民社会において、それぞれ異なった職業、身体、資質、感情、生活、思想、意志、行動を持つ私的な諸個人――に「生を与える権力」・「生――権力」・「司牧的権力」、司牧システムそのものなのである。ここで権力とは、実体ではなく、「個人間に存在する一つの個的なタイプ」である。すなわち、それは、ある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教えるもの」と「教えられるもの」、「正常なもの」と「異常なもの」、「支配するもの」と「支配されるもの」等へと関係を規定する政治的合理性の形態である。フーコーによれば、ギリシャ人にとって医者への「服従」は、病気を治すという目的を達成するための「手段」であったが、初期キリスト教では人間・牧者への「服従」は「目的」や「美徳」として把握された。すなわち、この時点で、人間・牧者と羊の関係は、羊が自己認識(自己了解)を放棄したところで人間・牧者・「他者の判断と命令に従って歩く」、従属・服従の関係へと変容した。そこにおいては、「羊」は人間の「牧人」に「四六時中、従わなければならないシステムになっていた」。(70・71頁)

 

 このような、信仰・神学・教会の宣教における、一切の近代<主義>、一切の<自然神学的なもの>と抗するためには、また時勢や時流への即時的迎合において、また人間学の後追い知識として、恣意的独断的に構成された<宗教>としての、人間学としても神学としても全く質が悪く非自立的で中途半端な人間学的神学に抗するためには、先ず、神と人間との無限の質的差異、「神の霊と人間の精神の全面的な区別」、が強調されなければならないのである。そして、その「啓示の主体的現実」化を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解」しなければならないのである。その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、啓示に固有な証明能力、「神の言葉の三形態」に規定された、「神の教団」・「イエス・キリストの教団」・「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、その「イエス・キリストと個人関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」・「キリスト者個人のことではない」。「まさに真理(≪啓示の客観的実在であるイエス・キリストにおける啓示の出来事、啓示・和解≫)そのものの中でわれわれは真理の中にあるわれわれの存在を尋ね求めなければならない」。それは、例えば次のようにである――「啓示の客観的実在としてのイエス・キリストの中で」、すなわち、神の不把握性と終末論的限界の下で、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在)に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、その授与された啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、「われわれは神の子供であり、……われわれ自身を神の子供として」自己認識・自己理解・自己規定することができる、というように。すなわち、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ8・一五、ガラテヤ四・五)」ことができるのであり、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、その授与者と受領者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。この「神を通して神にある」とは、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストの「死と復活」において、「和解せしめられた」、すなわち「永遠から……選ばれ、……召され、……義とされ、聖化されたわれわれの罪は……墓に葬られ、われわれの死は……克服され、われわれの生命は彼とともに神の中に隠され、……われわれは父の家で子供であるということである」。(71・72頁)

 

 信仰の出来事、啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在は、「キリスト教的主題となることはできない」。なぜならば、それは、その啓示それ自体が持つ啓示に固有な証明能力において、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在に包摂されてあるからである。「われわれはすべてのわれわれの心配をキリストに委ねなければならない」、「何故ならば彼はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから(Tペテロ五・七)」である。「われわれの目、耳、心を開く」聖霊、そのことによって「われわれを啓示の実在の中へと含み入れ」る聖霊、理性を更新する聖霊(この更新された理性は、聖霊ではない)、は、「キリストを通してキリストのある」のである。このようなわけで、「われわれは神の子の兄弟であり、神の言葉の聞き手であり、行為者」、「神の言葉の三形態」への連帯において、絶えず繰り返し、イエス・キリストの福音を告白し証しし宣べ伝える者である。「われわれ自身の中で神に啓示されあること」、聖霊の注ぎによる啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在、信仰の出来事、「キリストとともに神の中に隠された神の子供たちの生、恵みの中での存在、が生起する限り」、神と人間との無限の質的差異、神の不把握性と終末論的限界、の下で、「われわれ自身が啓示である」。ほんとうは、「この意味で、神によって確信せしめられた人間が、教会の実在の客観的側面」を形成しているのである。(72・73頁)

 

エ)「ドノヨウニキリストノ恵ミヲウケルカ(カルヴァン、キリスト綱要)」――単一性・神性・永遠性を本質とする「まことの神にしてまことの人間であるキリストについてわれわれに宣べ伝えられたことがわれわれのもとに届き、われわれを助け、われわれのものとなるという認識」・啓示認識・啓示信仰・信仰の出来事は、「秘義の中で遂行される」「隠レタ」「御霊ノ……働キニヨッテ起こる」(73頁)。聖霊の注ぎによる啓示・和解・「恵みの伝達とはキリストご自身の伝達のことである。ソレデアルカラ」、聖霊の注ぎによる「恵みの伝達」は、神と人間との無限の質的差異の下で、神の不把握性と終末論的限界の下で、であるが、キリストが「われわれをご自身と結びつけ、ご自身と一つにされた平和のきずなである」こと、「キリストとわれわれがもはや二つではなく、むしろ一つであること」、「かれのうちにつながれ(ローマ一一・一七)」て・「接木」されて一つであること、「われわれが彼ト一体トナル(≪啓示・和解の客観的な実在であるイエスキリストにおける啓示・和解の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、啓示の主観的現実化、啓示の主観的実在≫)ということから成り立っている」。「それはちょうど聖霊」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」であるところで、「父と子が結び合わされている平和ノキズナであり給う――(≪聖霊において、父と子は、愛に基づく完全な共存的関係・交わり・神的共同性においてあるから≫)――のと同様である」。したがって、このことは、「福音を信ずる信仰の中で起こる」。また、このことは『福音と律法』や『福音主義神学入門』に即して言えば、次のように言うことができる――「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)・「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」。このような認識が、「福音を信ずる信仰の中」で、惹き起こされるのである、授与されるのである。「御霊の隠れた働きを通してキリストとその恵みを享受スルコトへと、キリストとその恵みにあずかることへと、来るのである」(『福音主義神学入門』)。

 

 キリストが「水と血によって来給い」、「われわれと連帯責任的となり、われわれのために死に給うたのは(Tヨハネ五・六、なおヨハネ一九・三四参照、昔の教会がこれらの聖句を洗礼および聖餐と結びつけた時、彼らは確かに間違っていなかった)、御霊が(≪「われわれの心の中で」≫)かれについて証しをするためである」。(74・75頁)

 

オ)前述したことから、「御霊の業はまさにイエス・キリストの業以外の業ではない」。「イエス・キリストから出てイエス・キリストとひとつにする……イエス・キリストの霊としての御霊」は、「キリストの御霊」である。したがって、「キリストの業は御霊なしには決して起こらないのであり、御霊を通してのほかは決して起こらないのであり、聖霊の交わり(Uコリント一三・一三)の中でしかわれわれの主イエス・キリストの恵みはないし、神の愛は聖霊を通してのほかは、われわれの心の中に注がれる(ローマ五・五)ことがないのである」。

 

 聖霊は、「救済主」であるだけではない。聖霊は、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、神性を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」、神との出会いであるイエスとの出会いである「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによる。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事・啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。すなわち、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、全人間・全世界・全人類の救済が、神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)、啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、にのみあることを認識し信仰することができるのである。また、この場合、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。(75頁)

 

カ)聖書は、御霊について、「多種多様な言い方で語っている」。@聖書は、「神の独り子の中でわれわれに示された」「いつくしみをわれわれに証している限りにおいて」、聖霊を、「子トスル霊」と語っている。このことは、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができる、ということである。A聖書は、聖霊を、「希望〔嗣業〕の印、または担保」、「コノ世ニアッテ遍歴スルモノ、死者ニヒトシイモノであるわれわれに対して、繰り返し生命と信頼を与える希望〔嗣業〕の印、または担保」、と語っている(Uコリント一・二二)。このことは、主格的属格としての「イエスの信仰」、その「死と復活」――啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在そのものである神性を本質とするイエス・キリスト、その福音を内容とする福音の形式である律法は、「罪と死の法則」としての律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられた、そしてルターに「生の不安」を惹起させた「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられた、ということである(『福音と律法』)。B聖書は、聖霊を、「不毛の地をうるおす(イザヤ四四・三、五五・一)、あるいは渇いた人のかわきをとどめる(ヨハネ七・三七)、あるいは汚れを洗い清める(エゼキエル三六・二五)水と呼んでいる」。C「生命の力に回復する油(Tヨハネ二・二〇以下)、あるいは焼くつくす、しかし善き業をなす火(ルカ三・一六)と呼んでいる」。D根本的包括的にいえば、聖霊は、「ワレワレハモハヤワレワレ自身ニヨッテ働カズ、御霊ノ働キト感動トニヨッテ治メラレルヨウニナルノデアリ、モシワレワレノウチニ何ラカノ善キモノガアッタトスレバ、ソレハ御霊ノ恵ミノ実ニホカナラナイワケデ、モシ御霊ガナイナラバ、ワレワレノモツスグレタ点ハ精神ノ暗愚ト心ノ邪曲デシカナク、そういう生命を……われわれに伝達する」、という点にある。「エペソ五・三〇で奥義として記された婚姻の中でだけ」、それゆえに「ただわれわれ」は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの「肉の肉であり、彼の霊の霊であって、コウシテカレト一体トナリ、かしらとしての彼についている肢体であるということの中でだけ」、すなわち「タダ御霊ニヨッテノミカレハワレワレト一体ニナリタモウ」のであるからその「聖霊を通してだけ」、「キリストは救い主としてわれわれのところに来たり給う方である」。(75・76頁)

 

キ)このように私たちを「キリストとひとつ」とするところの、神性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊の業は、啓示に固有な証明能力に基づく、神の不把握性と終末論的限界の下での、その聖霊の注ぎによる、私たちにおける、「ひとり」の「内なる教師」、啓示の客観的実在そのものである神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示・和解・「真理の教師」の授与、信仰、信仰の出来事、啓示認識・啓示信仰の授与にある。言い換えれば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示と聖霊の注ぎを通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する啓示「認識」・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。「ただキリストだけが、全キ救イである。しかしまさに、キリストの中で完成された救いにわれわれを……あずからせるために、彼自ら聖霊でもって」、「われわれに洗礼を施さなければならない」・「われわれに福音を信じるようにと光を与えなければならない」・「われわれを新しい被造物、神の宮としなければならない」(76頁)。